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    日知り事典      カ〜案山子 

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・・・・・五日、六日、と書いてイツカ、ムイカと読むように、昔の「カ」は「日」をも意味した。「日」即ち「か」から神(日
見)、雷、カモ、カムイにもなっている。他に「か」は「ヶ」と書いて個所、場所をも意味する。

▼蚊・・・・・・・人畜の肌を刺す憎っくき生き物(昆虫)。微かな羽音で近づいて来て勝手に接吻して生き血を吸うのはメ
スである。マラリアなどを媒介するので人には警戒される。薮蚊、赤イエカ、縞ダラカなどと種別されるが、何れも幼虫
をボウフラと言い、其の前をユスリカと言う。ユスリカは泥の中で有機物を食べて水の浄化に役立つ。

其の程度のエネルギー源で成長してすばしっこく飛び回るのですから人の考える乾電池も電算機も航空力学も到底彼
らの足元にも及ばない。

・・・・・・・鉾の事である。「弋」の多くは西日本各地の遺跡から出土するが、漢字の「弋」は「カ」と読む。此れ
を分解してみれば「一」は水平線であり、地面である。従って「弋」は、地面に突き立てた剣先の半分を円弧で描いた文
字によって一定の格式を持つ儀式を示した。剣はこの様に本来は武器ではなくて、星の天文観測で使う祭具でした。

其の様子をリアルに表した文字が「弋」なので、此処から剣や「弋」、或いは槍・鉾などを突き立てて行った儀式などを
弌弍式貮弑貳・・・・」などの文字で示した。平成8年10月に島根県の荒神谷から銅剣358本と銅鉾16本が銅鐸39
ヶと共に大量出土して世間を驚かせたが、この銅剣・銅鉾も無論「弋」の部類である。

また神社を昔は祠(ホコラ)と呼んだが、其れは「鉾を納めた小屋」を意味した。剣璽(ケンジ)や護符もまたこの「弋」の
形代(かたしろ)である。繰り返せば剣は武器ではなかった。キリスト教のシンボルとして「弋」と全く同じ槍先が「聖槍」と
して今もハプスブルグ家の宝となっているが、其れはイエスを処刑した際に使われた。

イエスの死を確認するためにロンギヌスと言う兵士(後に聖人の一人となった)が脇腹を刺したものだと言われている。
その「聖槍」の柄の部分には×印が付けられている。其れは荒神谷の銅剣の一部に見られた×印と似ている。「聖槍」
の場合は、此れを手にした者は何れも不思議な能力が備わり、世界の王として君臨すると言う伝説と信仰となった。

事実、歴代皇帝の手を経て現在はハプスブルグ家に伝わっている。またヴァチカン宝物館やその外にも「聖槍」と言わ
れる物が伝わっているので偽物もあるのだろう。何れにせよ「弋」は星の神を観測する神器であり、ひいては神のシン
ボルでした。其の神の力を借りて戦うようになったのは弥生時代以後、人類の精神の退化につれて始まった。

▲夏王朝・・・・・・・シナ神話時代の最古の王朝。約4000年前に大洪水を治める事に成功した禹(う)が建国し、紀元
前21〜16c、今の河南省や山西省付近を都とし、其の子孫が世襲した王朝。現在、新砦遺跡と二里頭遺跡とが其の
都跡と見られている。

◆ガ・・・・・・・伊賀・宇賀・恵我・男鹿・加賀・久賀・古河・嵯峨・志賀・菅・瀬賀・蘇我・多賀・高向(たくが・たこ)・栂・都
賀・長・芳賀・比嘉・日向・女鹿・・・・・など「が」が付く古い地名や苗字が結構あるものです。ただ何故此の字を付けたの
かが不明。文字だけ見る限りは「喜び」の意味を、貝(埴輪と思われる)に貢のものを載せた形で示したものか。

★カー・・・・・・・此処では「車」の意味ではなく、古代エジプトの「魂の本質」の事。当時、死とは、魂と「存在の本質」が
肉体から分断された状態と認識した。よって肉体の亡き後、其の形を彫像やミイラとして、魂が復活する時の為に残し
た。其れに対して日本では偶像ではなく、岩倉とか依り代に招いた。

其処を目安に日ごとに数えて再臨の日を待った(日待ちした)のです(「カ」、「カムロ木」、及び「御柱」を参照)。

■貝(字義)・・・・・海の貝殻と解釈されているが誤貝である(目、直、県を参照)。本来はハニワ(別項参照)を示した。
貝に横線を付けて具としたのは地平線にハニワを並べたからであり、貝を地平線に並べたからではないのよ。

ガイア仮説・・・・・・・科学は専門化が進むと難解になり、其れを人は「進歩した」と誤解する。其の点、東洋では昔か
ら自然を丸ごと捉えて簡単明瞭にカミとして認識していたが、英国の生物物理学者・ラブロック氏は、地球を一つの生
命体として捉えようとしたのがガイア仮説である。

彼の作った映画「ガイアシンフォニー」は有名であり、生物、水、空気、鉱物など全てがシステムの一環で、地球全体で
自己調節を行っていると言う仮説である。其れをガイアとしたのは、ギリシャ神話のガイア、つまり「大地の女神」からと
って詩的に表現したもの。

例えば、太陽光エネルギーは増大しているのに、地球では生物が暮らすのに必要な適温が保たれている事や、大気
中の酸素濃度も数億年間、約21%を維持して来た事実は、決して近代科学の力ではなくてガイアの働きである。英国
ではこうした視点が90年代に受け入れられ、米国では頑強な抵抗があり、日本では好意的に受け入れられた。

無論、中には此れを「反ダーウィン的だ」と批判する学者もいる。だが抽象的な神々を敬うよりは、地球そのものを敬う
方がより安全で間違いがない。地球が一つの生命体である事に気づけば、何を大切にし、何をやめるべきか、道徳的
な事も自ずと見えて来るでしょう(2003/11/16、サンケイ記事から)。「知生体」も参照。

海運・・・・・・・陸運に対して海運がある。両者とは別に今は空輸が主力になりつつある。陸運は馬車、汽車、自動車
があるが、海運は船しかない。船はスピードは出ないが、大量輸送に力を発揮して来た。日本は元々海洋国であり、古
くから海賊が活躍する国だったが日本史には全く登場しないのが不思議である。日露戦争でも海軍が活躍した。

世界一の海軍だった。戦後は世界一の造船王国となった。ただスピード時代になったので日本の造船・海運業界は低
迷した。今はまた中国の発展により海運業界が息を吹き返した。特に海賊の里の四国今治や松山、宇和島は笑いが
止まらないだろう。

海外旅行・・・・・・昔は船旅だったが、今はジェット旅客機で旅行する。今や新婚さんは当たり前だが、競争時代を生
きて来た団塊世代にとっては、友人知人に「行って来た」と触れ回るだけでステイタスになる。実際、国内旅行よりも安く
て気軽に行けるようになった。円高の恩恵である。だが行く人と行かない人とが明確に分かれる。

海外に憧れるのも仕事で行かされるのも因縁である。07年の正月に成田から75万人、関空から43万人が海外に行き
来した。此の為か旅行社は07年の海外旅行者が1790万人に達すると目論んでいる。ターゲットは虚栄と差別化を喜ぶ
団塊の世代である。

大多数が中国と韓国への正月帰省であり、或いはゴールデンウイークの帰省であるからステイタスではなくて渡来系の
因縁かなと思う。それに対して海外から日本への観光客は600万人である。でも多くは観光を装ったビジネスである。

▲階級・・・・・・・星族(別項を参照)は軍隊的な民族であり、其の軍隊は階級性であり、階級章として星の形や星の数
でランク付けします。短期間に地球の半分を武力で制覇したモンゴル帝国は遊牧の民であり、星族である(「元」を参
照)。

▲かいこ(蚕)・・・・・・・絹織物や三味線糸となる絹の、其のまた原料となる生糸を作る虫。カイコは桑の葉を食べてや
がて凡そ1kmの生糸を吐き出して繭(まゆ)となる。小正月に紅白の繭玉餅を木に飾って祝う(蚕に感謝する)地方は
この産地であった所だろう。

絹はシナの産物で、日本に渡来したと言われているが、記紀には天照大神の段に棚機姫の話があり、或いはシズリ
(倭文)神社もあり、衣笠の地名も残るので、日本の方が歴史が古いのではないか。蚕は桑の葉を食べて育ってサナ
ギとなる。其の建物は二階建ての倉庫でした。

北関東には其の名残を伝える農家の物置(倉庫)が今も見られる(絹を参照)。


外交・・・・・・昔は朝貢が外交だった。それが永く明国の鄭和の時代まで続いた。だが今は政府のする外交と民間
の経済交流や親善外交があるが、一般に言うのは政府の外交であり、外務省が行う。かつてスペインやポルトガルは
キリスト教の布教を口実に他国に近づいて行って、侵略して植民地にして結果として世界中に植民地を拡大した。

イギリスの外交は自由貿易を口実に官民一体で巧みに清朝や幕府に近づいて其の国を滅ぼすための革命を起こして
親英政権に作り変えた。此れが帝国主義・拡張主義の外交であり、帝国がなくなっても其の手法は継続している。例え
ば米国の外交はペリー来航以来、砲艦外交である。

相手にピストルや大砲を突きつけて置いて、自分の要求を通す。戦争の一部としての外交が「戦争か平和か」と迫る手
口である。戦争して勝てばキリスト教国に変えて教圏を拡大するのであるから外交官はキリスト教の先兵であり宣教師
でもある。要するに外国の外交官は宣教師か軍人である。

片手に聖書か大砲を抱えて来るのである。06/10/1の読売テレビでは端的に「外交は、武器を使わない戦争である」と
言ってくれた。此れが正解である。だが日本の外交官の場合は違う。英語の試験に合格すれば外交官になったと思っ
ている。彼等が片手に抱えていくのはODAなど持参金である。だから外国の外交官と違ってチヤホヤされる。

直ぐに女を抱かせられるが、其の現場を掴まれて脅されてより多くの資金援助と特権を要求されて来た。相手が侵略
と搾取と布教を目的に武力計略外交をする以上、日本も同じカードで勝負するのが当たり前だ。所が日本国民が平和
主義だから初めから腰砕けである。戦争反対、武力行使反対、政教分離のお題目を唱えて満足している。

中韓の代弁者のように、日本人自身が「東南アジアにお詫びしろ」と言う。此れはしかし、一億総商売人になったので、
仲良く貿易する為、「国を売れ」と大合唱するのと同じである。其れも国内で論議するのは結構だ。しかし外交カードに
「平和」の看板を使ったら、初めから白旗を揚げたのと同じであり、外交にならない。

ピストルを向けて脅して来る強盗のような相手に対して、それでも自衛隊を使いたくないなら米軍基地をドケロとか、外
貨準備金を散らつかせて交渉に臨むべきだ。北朝鮮などは国力が無いから巨象のような米国に向かって恫喝するよう
に核をチラつかせて巧みな外交を展開して来た。此の意味では見上げたものだ。

其れに対して日本に外務省はあっても「日本に外交はない」と言われる。欧米の国の外務官は優秀なスパイか宣教師
であるが、日本ではペーパーテストと語学で合格したら国民の上に立つ外務官になったと誤解する。でも其れでは初め
から太刀打ち出来ない。諸外国は目的の為には彼らに小遣いを渡すか女を宛がう。

そうしてスキャンダルを作り、其の弱みをネタにして揺す振りを掛けて目的に従わせる。幕末には伊藤博文などがキリ
スト教に入信して欧米の情報を掴んで目的を達した。明治の閣僚は殆ど同じ事をした。敗戦の時には皇族も天皇の側
近たちも同じ事をした。それで天皇家の頸を繋いだ。

だが核などの武力が無いから弱い外交しか出来ないと今の日本人は思っているだろう。だが其れ以上にODAバラマ
キをして来た。此れは外交ではなくて金力か屈辱である。其の金力の力によって相手になるため其れを屈辱とは思わ
ずに相手からチヤホヤされ、女を宛がわれて高級外務官として反り返って振舞って来た。

高給を食んではいるが毎度「子供の使い」である。国民や漁船がロシアや朝鮮に拿捕されたり拉致されても取り返すの
ではなくて、相手国の言い分を聞いて帰って来るだけの外交官である。日本に外交があるとすれば、此のように、国連
や米国の要求を呑む窓口であり、「平和」を口実に譲歩してお金を貢ぐだけの外交であった。

それも失敗したら外務大臣の代りに天皇陛下を使う。此れでは何処までも逆様である。こんな外務省は潰すべきでは
ないのか。エイズや外来種の害毒が増える一方である。ボロドル集めの貿易立国も海外派兵も反省の時期である。と
すれば外国との更なる貿易拡大も無用であり、外務省をカットして鎖国にして良いのである。

介護サービス・・・・・・・介護保険(別項参照)が出来て以来、政治や福祉関係の外に、市民生活の中にも「介護
サービス」と言う熟語が氾濫するようになった。

この種の業者も「雨後の竹の子」のように急増したが、何れも一律に細かく目一杯の料金を設定している以上、「サー
ビス」とは言えなかろうから、公正取引を言うなら矛盾するのではないか。

次にディサービスとかショートステイと言うカタカナ文字の実態が何のサービスを意味するのか分かり難い。一律の俄
か作りのメニューを一応揃えているものの、業務内容も低質で曖昧な施設が目立つ。介護のニーズや目的とは乖離し
ていて、メニューに合った客を引っ張って来て他愛ない仕事で金にすると言うシステムではないのか。

パートの為の手頃な職場にしているだけのように思えるが、新規システムも施設も人件費増を避ける為に、パートの雇
用にも殆ど貢献していない。しかも其の施設は、食堂なのか浴場なのか、リハビリなのか、話し相手か休憩所か、散歩
のお伴か、娯楽場なのか、其れとも短時間の要介護者の預かり所なのか宿泊所なのかハッキリしない。

しかも介護と言う以上は24時間サービスであるべきだが、今のデイサービスなどはこの点で失格だ。時間制限を10〜
4時までに設定しているし、高血圧の人などは敬遠する。その程度の中途半端な業務が社会的にどれほど意味があ
り、どれだけ役に立っているのか疑わしい。

客(住民)が自分の足に合わせて靴を探すのではなくて、官製の自己満足の既製の靴(メニュー)に合わせて客を入れ
る官製業務方式であるなら此れもサービスとは言えない。要するに介護の名に便乗して形式的に色んな商品・メニュー
を揃えたものの商品価値も社会性も欠ける。

そもそも介護保険と言う制度を作った時点で俄か仕立てのメニューを作っただけに見える。住民の利便のためではなく
て利権の為に住民を利用するための制度を拵えたに過ぎない。利権の維持拡大を図る行政機関と医療機関とが結託
して、特定業者が各所で利権と縄張りを広げているだけであって、市民のニーズとは違うものを作った。

しかも此処を役人の天下り先とするのだろう。そのために建設業界や下請け業者としてのケア・マネージャーシステ
ム、などが各々の段階で儲けるシステムにした。無論、中には仕事や料金の枠を超えて、より親切できめ細かなサー
ビスに努めている人たちもあろうが、少なくとも行政と施設には其れがない。

具体例を言えば、高齢者を抱える子供が働きに出て所得を得れば、年間48万円の扶養控除を認めると言うのが親孝
行を褒賞するような従来からの税制だった。実際の親の世話には其の数倍の費用が掛かろうが、そうした社会の合意
の上に二世代、三世代同居が機能した。所が役所は此れにツベコベ言って近い内に此の控除を廃止する意向と言う。

其れなら介護保険をたんまり徴収している役所が、此の高齢者を世話すれば良い。だが、簡単にショートステイは受け
られない。先ずデイサービスを受けてから予約を受け付けると言う。では先ずデイサービスを受けようとしても、24時間
ではなくて10〜4時までとか、高血圧の人は駄目だと言う。其れなら詐欺商法と一緒である。

強制的に介護保険料を徴収している者は、次は入所希望者の全員を必ず受け入れる義務を負うのが当然である。其
れが難しいなら最初から介護保険などは民間に任せて、加入するかどうかは自由選択とすれば良かったのだ。

少なくとも子供が仕事に出て働くためには24時間、預かって当たり前であり、其れも出来ずに勝手な基準を作って病
人でもない高齢者を排除すると言うのでは、最初から強盗並みの制度と言われよう。このままでは子供が親孝行しよう
とすれば働きにも行けない事になる。

もし彼を働きに行かせて所得税収を上げさせようとするなら、国は年間48万円の税金と数万円の介護保険で、数百万
円の介護料を負担しなければならないだろう。お役人たちが其の程度の計算も出来ないとすれば底抜けの薄ら馬鹿
か、もしくは利権屋の手先としか言えない。

ともあれ今の介護サービスでは人気がないから顧客を求める事態になっているのではないか。とすれば此の種の施設
が幾ら増えても何の意味もなく、寧ろ弊害である。いやそうならないように国(介護保険の徴収者)は今の姿勢を改める
必要があり、また施設の改善を促す監視と指導監督を怠らない義務があろう。

河内長野市の介護給付と言う係りに06/2/12にその旨苦情を述べたが、何が何時どう変わるか注視したい。

介護士・・・・・・・介護保険が出来て介護サービスが急増して各地の介護施設は人手不足である。介護資格者も50
万人になったが、実際に就業しているのは20万人である。24時間サービスの場合、どうしても介護士に過重な負担が
かかる。だが介護保険の枠内の予算しかないため、彼らの月収が手取り17万円である。

此れでは生活が苦しくて結婚も出来ない。だから辞めてしまう。介護の重要性を知り、仕事に誇りを持っていても辞め
ざるを得ないと言う。其処で小泉総理とフィリピンのアロヨ大統領とが話し合って600人がフィリピンからやって来た(06/
10/19のNHK総合TVクローズアップより引用)。

介護認定・・・・・・・介護保険(別項参照)によるサービスには介護認定と言うランク付けがある。其れは本人や家族
ではなくて市の係員でもケアマネージャ(介護プランナー)でもなく此処でも医者が介入して決めるようになった。どうも
変だ。どうして医者に更なる特権を与えるのか。

こうなると介護保険自体も医業の存続のために設定されたような感じに見えて来る。介護保険に強制加入させられて
介護が受けられるシステムとは言うものの、いざ使おうとすれば戸惑う。病気でもないのに態々病院に通って、コチラの
事も知らない見ず知らずの医者に判定される。

そのため俄か患者となって医者のご機嫌を取らなければ認定が受けられない。しかし其れでは、これまた国民を欺く行
政と医師会の談合(協力関係)か、或いは広く患者獲得を図るために介護の分野にまで進出を企む医業と官製の保険
システムの癒着としか思えない(「終末医療」を参照)。

介護の因縁・・・・・・・一言で「世のため人のため」とか社会福祉やボランティアと言っても、「言うは易く行うは難し」
です。いざとなると青少年の非行を見ても中々手を出せないのが普通でしょうし、其の後のフォローも大変ですから、
中々「人助け」などは出来ません。誰かのために何かをするには会社を辞めるか家庭を捨てるかの覚悟も必要です。

何れにせよ現実に病身の親族や老親を介護する人が増えて来ました。此れは実に立派で貴い行為です。そう讃えた
いが人力・金力にも限界がありますから、中々長続きせず内輪揉めとなる事もあるでしょう。そうなるのは因縁であると
気づく事が解決の早道です。

何事も自力・人力で頑張ると言う無神論者がこうした因果に陥ちて悩み、人力の限界を見せられる事になったとも言え
る。とすれば其れを反省して先祖の力を借りれば何とかなるものです。別項の「霊主体従の理」から言えば、災害の被
災者となり、或いは災難を蒙るのも人智では予想もしなかった事から始まるものです。

不自由な体になるのは其の前に原因があり、原因は先祖無視で来た事による。先祖とは仏壇の位牌の数だけではなく
て無数にある(円系図を参照)ものです。彼らは24時間、子孫の心身を守っているのですが、見えないために其れを否
定して肉体主義や銭金主義で頑張っているので、別の問題を現出して見せられているのです。

つまり介護するのもされるのも何れも同じ原因があるからです。先祖供養をしなかったり、老親を看取らなかった因果
として、今の誰かを介護する事によって其れを償うと言う形を取ります。物事の生成消滅はモノカネ史観の進化論では
なくて因果律と言う真の法則によって起こります。

わが子よりも先祖や親の面倒を見て来た人は大難は小難に、小難は無難に治まる。介護が好きで職業として行うのは
自由であり、また介護は立派な行為とは言えども、人生の目的は長期間の介護ではない。

自然界ではウグイスが春一番の梅の咲く頃やって来て、「今鳴かなければ後がない」と思うのか、或いは「此処に生ま
れて嬉しくて仕方がない」と言う風に朝から日暮れまで鳴き続ける。あの小さな体で天にも届くような声を出してはしゃぎ
回るように鳴き続けるのですから不思議です。ヒバリでも同じです。生き生きとしています。

生きるとはこう言う事です。ウグイスやヒバリに気づいて其れを喜べる人にとっては、人に何の報酬も求めず美しい囀り
を響かせ聴かせてくれる彼らを天使のように思えるでしょう。しかし人は、彼らとは大いに違いますから彼らの事にも気
づかず自然界にも感謝できずに不満を高めて不自由になる。

そうして介護を他に求めるのも、介護するのも共に同じ因縁である(前項の介護サービスを参照)。

介護保険・・・・・・・上記も参照。年寄りばかりの過疎地や離島では病院も医者もなく介護ヘルパーもいない。つまり
介護できない状態にある。にも関わらず介護保険料は強制する。介護を受ける立場の一人暮らしの年寄りの僅かな年
金の中から年間数万円を徴収している(06/9/5のテレビ大阪)。

金をとるが介護はしないのでは世間の通念に反するし、国のする事とは思えない。ヤクザの世界だってこんな無理は
言わないに違いない。其の無理を無責任で押し切っているのがお役人達の論理であるのか。自分達は高見にいて放
漫・杜撰な業務をしていて弱い所にシワを寄せている。此の弱い者イジメとしたのは政治の責任である。

無責任は社会悪の根源ですから、国は年金・保険・介護・福祉から手を引くべきではないのか。所が政府は06年に介
護保険を改正した。以下06/9/7のNHK総合TVから引用すれば、利用者が当初予定より増えて400万人に達した為で
ある。例えば要支援と要介護の内、コストの少ない要支援を増やす傍ら、コストの掛かる要介護を減らした。

ケア・マネージャーが作るケアプランの申請書の作成手数料を8500円から4000に引き下げた。そうすると彼らは引き受
けを拒否するようになった。其のトバッチリによって要介護者自身が14枚もの申請書類を毎月役場に提出しなければ
介護が受けられなくなった。

専門用語を並べた申請書を要介護者が自分で書く困難さをお役人達の頭では想像さえ出来なかったのだろうか。兎も
角、ケア・マネージャーから拒否された要介護者たちが役場のセンターに集中して、今度はセンターがパニック状態と
なった。此れが介護とかサービスと言えるものなのか。

料金を取るだけ取って、介護もサービスもなし。此れでは何の為の介護保険や窓口や資格やシステムなのだろう。

改宗・・・・・家の宗旨や檀家寺を変える事。普通は新興宗教に入る行為を言う。此の場合、従来から決まっていた
自家の宗旨を他の宗派に変えるのは簡単だが実は後が大変です。神社は氏神や産土神が地域的に決まっていて、此
処は別に何処でもどうと言う事はないが、問題は葬式や年忌に拘わる寺である。

旧家は江戸時代の流れとして檀家寺があり、その辺の美風も旧弊もあるが、度重なる奉加帳や寄付の割り当てなど、
寺の勝手な押し付けがあり、其れが重なり目に余る場合はつくづく「改宗したい」と思うケースも有る。他に宗教は幾ら
でもある時代となれば改宗が目立って当然とも言える。

色んな新興宗教もあるので、何れかを選んで信徒となるが、例えば創価学会員は人口の一割に達した。ただ此処は大
石寺とのトラブルで戒名がなく、葬式が出来なくなったため、今は友人葬と言う形である。また、天理教は神式で葬式を
する。そうすると墓地などの問題で、信徒は色んな問題を抱える事になる。

その他、目だった問題がないと思う場合でも改宗は大変な問題がある。例えば、冠婚葬祭は、本来其の家の宗旨で行
うものですから、幾度もある人生儀礼の中で改宗後には親族間で仲間ハズレを覚悟する必要がある。しかも年忌・法
事の場合も、原則として生前、その故人が信仰していた宗教によるのが望ましい。

とすれば、今一代の個人の判断や好き嫌いで改宗すれば、仏壇を捨てたり、神棚を付け替えたり、先祖との縁が遠く
なったりする。このため古今東西、宗派や葬法はなるべく避けて保守的なままにして来た。所が幕末には廃仏毀釈、明
治維新では神仏分離で寺が神社になると言う事態になった。そして戦後は国と神社の分離である。

これらはもう国策とは言え、外圧の尻馬に乗った組織ぐるみの、愚かな改宗だった。

海賊・・・・・・・昔は水軍と言った。朝鮮と北九州や日本海沿岸の水軍は親戚のように交易で栄え、時には倭寇とし
て共に活躍した。いや源平の屋島や壇ノ浦の戦いでも陸兵の力ではなくて彼ら水軍で決着を付けたのです。元寇の時
も彼らは日本の海軍として戦って見事に勝利した。秀吉の朝鮮征伐でも彼等がいなければ一切実行できなかった。

だが信長が天下を取って以来、水軍は無用となり、大船は悉く処分された。彼らも陸に上がった河童となった。或いは
小規模な漁船で暮らした。今は海軍が出来たので水軍は要らない。だから海運業か漁業となった。漁船同士で密輸も
するようになった。譬え不漁でも魚は韓国や朝鮮の漁船から安く買える。関税の掛からない海上取引である。

そして今や暴力団と組んで覚せい剤の密輸で活躍する。「わだつみ」、「水軍」、「ペリー提督」、「麻薬」を参照。

海賊(海外)・・・・・・・バイキングがダントツである。彼らはノルマン人だったが9〜11cに欧州各国を侵略してイギリス
を奪った。イギリスは狩猟民族のアングロサクソンが多い。よって当時、海外進出が出遅れていた。其処でカリブ海の
海賊としてスペイン船を悉く襲った。スペインはハバナ(キューバ)に堅固な要塞を4つも造って対抗した。

しかし17cには7つの海をイギリスが制覇して世界各地に植民地を作り、大英帝国と成った。幕末に来航したペリーの父
親も海賊であり、また明治維新も当時のイギリスの商人・グラバーの力であった。日本の開国は言わば当時の海賊の
バックアップによって出来たのである。

外断熱工法・・・・・・・従来の建物の断熱方法は屋内に断熱材を貼り付ける工法だった。其の場合は室内が密封さ
れるために結露が出て建物を傷める事が多かった。このため今では外断熱工法の家やマンションに人気が傾いて来
た。

此れなら当初1〜2割高になるが、従来の建売が20年、マンションが30年と言う平均値(耐用年数)よりも結果的には
長持ちし、省エネ効果から温暖化防止も図れると期待されている。

戒名・1・・・・・・・以下、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2272097.html 教えてgoo「斎号と道号」より引用。---戒名とい
うのは本来は2字でした。現在一般に戒名といわれているのは、本来の戒名の他に、仏弟子としての位階や性別を表
わす「院号」「道号」「位号」を総称したものです。

「院号」はもともと、寺院を寄進した貴族や皇族に授けられたものです。また「院号」に準ずるものとして、「寺号」、「軒
号」、「斎号」、「庵号」などがあります。「寺号」は、寺の建立者やこれに準ずるものに付けられます。「軒号」は、屋号、
雅号の類がよく付けられます。

「斎号」は、部屋、転じて書斎、居間の意味で、多くの医者、芸術家に与えられました。利休の斎号は<抛筌斎>でした。
その意味は、魚を捕る道具である筌(せん)をなげうつ、つまり、道具は中身を入れるものであり、その中身が大事なの
だということでしょうか。

武者小路千家歴代家元14代・不徹斎宗守(ふてつさいそうしゅ)・有隣斎徳翁宗守と料理研究家・千澄子との間に生ま
れ、昭和49年後嗣号「宗屋」を襲名し、平成元年10月「不徹斎」の斎号を大徳寺福富雪底管長より授与されました。同
年12月、先代有隣斎が病のため「宗守」を襲名し、現在に至ります。

「庵号」は、大寺に属した建物、草庵、茶室の意味です。この他にも、「房」「舎」「堂」「園」などがあり、いずれも場所、空
間、処を表わして院号に次ぐものと考えられてきました。
「位号」は現在は、「戒名」や「法名」の末尾に尊称として付けるのが一般的です。

昔は身分によって付けられていましたが、現在では、その人の信仰の深さや社会的貢献度によって選ばれています。
「位号」の表わす意味は、以下の通りです。

成人男子…大居士・居士・大禅定門・禅定門・清信士(善士)・信士(清浄土)など
成人女子…清大姉・大姉・大禅定尼・禅定尼・清信女(善女)・信女(清浄女)など
男の子供(十五歳くらいまで)…童子・大童子・禅童子など

女の子供(十五歳くらいまで)…童女・大童女・禅童女など
男の子供(四、五歳以下)…幼児・嬰児・孩児など
女の子供(四、五歳以下)…幼女・嬰女・孩女など---?http://www.e-butsudan.com/02_kaimyou.html?

戒名の格付け・・・・・・各宗派の特色 
臨済宗は庵号、斎号、軒号のほか、「禅定門」、「禅定尼」という位号---?http://sogi-iso.jp/jouhou/sougi18/18_1_4.
html?

道号とは、戒名の上につけられるもう一種類の名ですが、分かりやすく言えば、号とか字(あざな)にあたるものです。
歌人や俳人が別名を持っているようなもので、中国にこの道号が生まれ、日本に伝わってから戒名の上につけられる
ようになりました。

---?http://sogi-iso.jp/jouhou/sougi18/18_1_5.html? 例 ?http://sogi-iso.jp/jouhou/sougi18/18_1_7.html?(以上引
用)。

戒名・2・・・・・・・改名は名前を変える事であるのに対して、戒名は受戒によって与えられる名前である。僧が死者
に付ける法号で鬼号とも言い、それに対する生前の姓名を俗名と言う。他にも戒名の上に被せる院号と言うのが有る
が今は有名無実である。

また名号と言えば「阿弥陀如来」の尊号であり、其れを唱える事を称号と言うのに対して、「ミコト」号は神々の名であ
る。天理教では信徒に対してこのミコト号を与えているが、一般では戒名・法名だけしか与えていない。其処で一案とし
て当会が掲示板で提案した。

---------官位の贈呈  投稿者: ヒジリ ・・・・各宗派では戒名・法名を授与していますが、「鬼の会」としては生前没後
の戒名・追号は兎も角、先ず生前に宮号に相当する位階を贈与、または追号する予定です。

但し此れは金銭による売買ではなくて、地元の祭りについて、方位を調べて「神々の歳時記」に掲載した方の、言わば
卒論、または博士論文に当たる知性に対して送呈したい。この提案について、名刺に印刷して恥ずかしくない程度の形
で例えば、円宮・黄一位とするか、或いは正一位・・・・等々。ご意見またはご希望が有ればどしどし仰って下さい。

---------面白いですね!  投稿者: ヤマス・・・・・暦が届いてみて、やはり実証して確証したいという思いがあります
ので、地元のお祭りや、興味のある場所、人々の歳時記を検証していくとなると凄くやりがいあるし・・・博士論文に相当
するなんて!なんか気合もはいり嬉しいですよねっ。清明さまの時代も天文学の部署もあったようですし。

藤原定家さまもその暦の書庫に入りびたりですべて読破していらしたと聞きました。ぜひ挑戦したいと思います!!

---------投稿者: ヒジリ ・・・・「面白いですね」様、有り難う御座います。祭りの起源については優秀な方々や諸学問
が山積し、また政府も祭り事と言い、しかも文教政策を標榜しながら従来は検証までは成す術もなく、従って一切を怠
って来ました。

何れにせよ祭りの起源が明確になれば地元の「町おこし」に一役買う事になりますから、その功に応じて自治会や氏子
総代会・神社が「勲一等」を与えるのが一番望ましいのですが、今は何処も此れをしていない。お寺は檀家の希望者に
戒名を与えるものの、その戒名や院号には何ら意味はないにも拘わらず高額戒名料を取っている。

其処で鬼の会が希望者には生前に「○○ミコト」を贈呈して見ようかな、とも思うのです。こうしている間にも毎日赤ちゃ
んが生まれ、或いは惜しまれて亡くなる方が有るので事は急ぐ。

ただ其の都度バラバラ、尻切れトンボとなってはいけないので、歴史的にも繋がり、更に全国的にも一定の合意が得ら
れる定義の規格で継続性の得られるように取り決める必要性がある。と思いますので、皆様のご意見を期待します。

取り合えず鬼の会としては、謎解き出来た方には例えば「○○ミコト、○○彦」とか「春宮正一位」とか「南宮正三座」な
どの名号贈呈なら幾らでも出来ると思っています。


海洋民・・・・・・・地中海ではフェニキア人、アラビア海ではアラブ人、インド洋やタヒチなどではポリネシア人、日本海
ではワダツミが古来、海洋民として知られる。フェニキア人もワダツミも、タヒチ人などポリネシア人も古来何千キロも遠
洋航海して来た。


外来文化・・・・・・・其の弊害の多い事は評論「渡来文明」で論じた。

外来生物被害防止法・・・・・・・輸入されたブラバスなどの被害が目立つ。こうした輸入生物によって国内の自然
の生態系のサイクルが破壊される事を防止しようとする目的で05/4/1から施行される法律。

例えば北海道ではトマト栽培農家の70%が西洋働き蜂としてオオマル花蜂を輸入してハウスで受粉させているが、此
れがハウスから飛び出して野生化し、在来の蜂を席巻する勢いとなった。繁殖力が強いため蜂以外の生態系全体にも
悪影響すると懸念されている。

例えば希少品種となった桜草の場合、和種のミツバチでしか受粉できないので絶滅するだろう。此れに対して関係農
家は反省もなく猛反対してエゴを主張しているが、生態ネットワークが破壊されれば一番困るのは農家自身である筈だ
が、和種としてクロマル花蜂もいる。

ただ此れは寒冷地に弱く、繁殖力も弱いので人工的に改造して使おうと言う商社も現れた。これもしかし問題ではない
か(NHK総合テレビ、05/1/24より引用)。

海流・・・・・・・平らな筈の海にどうして海流があるのか。いや実は平らではない。偏西風が海水を南に押している。
何故南なのかと言えば、地球の自転の影響で、コリオリと言うが働くために海水を右に曲げる。他方、赤道から貿
易風と言う東風が吹いていて、海水を北に押す。このため海水は北太平洋の真ん中に集まり、海面を盛り上げる。

盛り上がった海水は流れ出そうとするが、此処でまたコリオリによって右回りの渦になり、海流となる。高い所から低
い所へ流れるのではなく、盛り上がった所の周囲を右に曲がるのです。此れは台風の渦と同じです。一般的に暖流の
場合は盛り上がりが大きく右回り、寒流の場合は左回りとなる。

例えば黒潮の場合は幅100〜200km、フィリピンから北上して本州南岸を秒速1〜2mで東に流れて米国西岸に達
する。其処で南下して赤道北側を通ってフィリピン沖に達する(以上、05/11/9の毎日新聞から引用)


改暦・・・・・・・暦法は人類の試行錯誤の経験則であり文化遺産ですが、其れを変える事を改暦と言い、年が改まる
事を回暦と言い、年号が変わる事を改元と言う。しかし歴史的に多くの改暦の跡を見れば、其れは天文科学的な進歩
によるよりも何らかの政治的な変革や思惑による改革に伴って「改正」としてなされた。

しかし字の示すものとは裏腹に、実態は逆の場合が多かった。シナでは数十回、日本では有史以来10回目の暦法が
今の西暦である。西暦は特に矛盾が目立つ。さて度量衡法や暦法とは極めて保守的な所に意味があるので、其れを
時代の流行や権力者の都合による道具として、朝令暮改で改悪すれば時代を超えて多数の人民を混乱させる。

総じて見れば、改暦の歴史は進歩や社会進化の証拠ではなく、寧ろ退化を示すバロメーターとも言える(下記の「鏡」
参照)。

カイロ・・・・・・・エジプトのカイロは石造りのモスク・千塔が林立する世界遺産の町。イスラム教徒は世界に今13億人
いるが、カイロの人口の90%がイスラム教徒である。カイロには7cにイスラムが入り、フスタート遺跡を残した。此処か
らシナの陶磁器が出土している。

此処は昔から地中海と紅海を結ぶ位置にあり、西洋と東洋の交易の要衝にあったので世界中から人と物資が集散し
た。カイロに繁栄を齎したのは実は奴隷たちだった。12cのシタデル要塞がある。此処はイスラムの英雄・サラディンが
強大な十字軍から守るためにマムルーク(奴隷)を使って強大な軍に仕立てた。

マムルークは遊牧民だったがイスラム教徒ではなかったため其れまでは奴隷として売買されていた。其れを傭兵にし
たのである。要塞の石は石灰石のツーラ採石場から切り出したが、足りない分は小さなピラミッドを壊して其の石を利
用した。1183年にシタデルが完成し、十字軍を撃破した。

1250年、マムルークが王朝を建て、次々とミナレットを建てた。其れは奴隷のマムルークが新たな支配者となって、軍
政ではなく信仰で支配したのである。よって以後260年続く。其の信仰の証しとして次々とミナレットを高く上げて信仰を
示した。その結果、カイロには千の塔が林立する世界遺産の都となった。

カイロは14cにはイスラム教の中心都市となった。ユダヤ教徒とイスラム教徒が契約を交わしたゲンザ文書も残されて
いる。小切手もイスラム商人の発明である。1789年、ナポレオンがやって来た。彼はカイロに憧れて詳しく調査し、一時
はイスラムに改宗しようとしたと言われる。カイロでは年に一度、メッカ大巡礼を祝う犠牲祭がある。

イスラム教徒は独特の踊りをする。回って踊り続ける事で神との合一を目差すと言う。そして1年の無事を感謝して祭り
の4日間に羊を捧げる。肉の1/3は家に残し、1/3は親しい友人に、そして残った1/3は貧しい人に分け与えるサダカと
言う慣わしをしている。また魔除けの為に羊の血を額に塗ります。

其の他、カイロには14cに建ったスルタン・ハサン・モスクがある。此処は祈りの場として、更に人々の暮らしを支える場
として、更に無料の教室や病院として存在して来た。此処に限らず公共施設の運営は全てサダカで賄われる。交易で
稼いだ資金を商人たちは自発的にサダカに寄進した。商人たちが土地や作物を寄進して村を助けて来ました。

カイロで活躍したこうした商人たちの話が童話にもなっている。空飛ぶ絨毯の(a)アラビアンナイト(千夜一夜物語)、シ
ンドバッドの冒険(b)、アラジンと魔法のランプ(c)などが此の町から生まれた。(a)は明治の日本の絵本では「暴夜物
語」と書かれた。暴はアバレヤと読み、アラビアンナイトと理解した。

(b)は交易商人の物語、(c)はシナ人の主人公がやがて国王になる話です。カイロは今も夕暮れには牛が鳴くような声
が各々のモスクのミナレット(尖塔)から響き渡る。アザーンと言う祈りが始まる合図です。

さてカイロの人口の残りの10%がコプト教徒であり、カイロにイスラム教が入る前からいた古いキリスト教である。此の
キリスト生誕祭にはイスラム教徒たちがコプト教会に祝福にやって来る。民族や宗教の違いを越えて、同じ町に共存す
る仲間として温かく付き合う。

最後にカイロの名物料理は「混ぜ物」を意味するコシャリと言う「お袋の味」である。中国の米とアフリカの豆、其れにア
ジアやアフリカの香辛料を混ぜたもので、交易中心都市・カイロらしい料理です(以上、06/4/29NHK総合TV「世界遺
産」より引用)。

▲返す・・・・・・・元に返す。借金を返す。色男を返して元の鞘に納める。天気を反す・・・・など「返す」には色々有るよう
です。因みにこの言霊の言挙げの外には、着物を裏返しに着れば天気をカエスとか死人を呼び戻す事に繋がったよう
です。

▲カエル・・・・・・・蛙は両性類の中でも最も人類の、特に稲作民たちに親しまれて来た。水田では幼生のオタマジャク
シとして育つ代わりに成虫となれば益虫として働いて来たし、水府流の蛙泳や今の平泳ぎの先生であった。カエルの種
類も多く、山にもいるが特に日本では様々な熟語や諺、語呂合わせにカエルが使われる。

例えば死者の「生き返る」事や、家出人が「無事帰る」事、其れに人の厭な性格を良い性格に「カエル」事を、或いは雨
乞いを祈って水神様にはカエルが狛犬の代わりとして、或いは御手洗の所の龍神の代わりに置かれる(「アマガエル」
「狛犬」を参照)。

▲蛙股・・・・・・・古建築の一つで、神社の正面の軒に装飾的に設えられる物。

科学・・・・・・・科学には自然科学とか社会科学が有る。何れもアナログの対象を観察し分析して体系的に認識しよ
うとする学問であるから、機械やデジタル式手法で理解しようとしても無理が有る。所が一般の認識で科学とは機械を
使ったものだけと思い込んでいるので、此処でも矛盾が生まれる。

科学は要するに哲学や論理であるが、今は特にサイエンスとも言う。科学は其の字の通り解釈すれば分野・分類学で
ある。研究対象は例えば精神と物質とがあるが、一般に認識されている科学とは物質科学の事である。此れにも自然
科学と社会科学、或いは文化科学などの概念が有るが、其の基本は観察から始まる。

そうして、分別・分類し、適当な名前を付けて適当に定義し、体系的な知識をたくさん増やして来た。科学とはつまり、真
実の法則や正しい論理を導き出す方法論であり、他の分野との脈絡が繋がる論理である。この一定の方法・方式によ
って臨床的に分析して事物間に存在する現象を説明しようとした。

其処から一般的・客観的通則を求める方法、或いは其の方法・方式によって処理する行為であるから機械や電気の利
用とは直接関係がないのである。

▲雅楽・・・・・・・ウタ、和楽器を参照。

科学技術・・・・・・・・・凡そ科学と言う場合は自然科学を指しているが、前述の通り、今の自然科学は自然界を分
断したり分類する存在であるから自然とは馴染まない。特に自然界は精神と物質が融合したものである。其れを唯物
史観で切り刻んで見ても何ら正解は得られない。

特に西洋物質科学文明は自然界が幾百年もかけて造り上げた森を切り取り、其処から収奪の限りを尽くす打算の力
学であり、そのための学理や技術だった。つまり自然科学と言いながら実は反自然の科学となっている。

人類の文明は過去何度も戦争で自然破壊をして自ら壊滅し、砂漠化して次の所でまた繰り返す所業を続けて来たが、
今また科学技術や経済と言う名の下、爆薬やブルで切り崩して砂漠化するのは簡単である。しかし今の科学技術の総
力を挙げても、其処に森を再生するのは無理なのです。

人工的に自然に似せた箱庭的公園を作る事は出来るとしても、毎年多額の予算を掛けて、化学肥料と水道配管と電
気とを設備して、専門職を配置しなければ維持さえ出来ないのだ。とすれば、近代科学の発展の側面だけを見て現代
人が物質文明を謳歌し、「科学万能」を信じているのは幻覚に過ぎない。

と言うように今の自然科学は自然の営みに無知でした。自然の極く部分的な事しか把握していなかった。だから今、環
境破壊さえ止められない。メーカーはこれまで「ものづくり」を至上命題として来たけれども、例えば最先端の学問や技
術が、原発で出した核廃棄物と言うゴミでさえいまだに再処理出来ない。

ただゴミとして地下深くに埋めている。これが先端科学の実態である。とすればその他大勢の学問や技術の底の浅さ
も見えてしまう。かつて1万年、綺麗だったこの地球を21世紀にはゴミの山にした大半の責任は近代物質科学と言う
幼稚な学理を振り回して来た彼らと、政府や企業の論理・技術である。

ともあれ科学技術は傲慢さのゆえに今、巨大な壁に直面している事をもっと直視し、自然に回帰して初めから学び直す
時であろう。

科学技術立国・・・・・・・日本は資源少国であるとして、輸入加工貿易と科学技術立国を目指して高度成長した。
此れはかつての鎖国時代とは180度の転回である。其の特徴の第一は精神とか方位を無視して唯物主義になった事
です。第二としては数字主義とスピード時代にした事だ。

そしてビジネスも教育も過当競争となったが、子供たちの「理科離れ」と青少年の学力低下が著しくなった。物は豊かに
なったが「買いたい物がなくなった」と言うのが実感である。「モノづくり」に励んだ結果がゴミの山となり、「物離れ」を進
めた訳です。ゴミを出す今の科学に欠落していたのは心の有り方と物を生かす工夫でした。

此れらが欠けていたため、リサイクル出来ず大量消費・大量破壊・大量廃棄物としたのです。其の点、交易に頼らなく
てもリサイクルで100%自給自足してスローライフで永く平和を続けて来た鎖国時代に学ぶべきだ。特に戦後の日本
政府は巨大土木工事と福祉を名目に膨大な借金を作ったが、その外にも「無駄遣い」が多い。

例えば科学技術立国を目指してこの10年間に約40兆円の税金を投じて100億円規模の国際宇宙ステーション、核
燃料サイクル、国際熱核融合実験炉などを作って来た。ロケットなどは毎回100億円規模の線香花火で失敗続きであ
る。医学も毎年32兆円の浪費事業であって、治療科学とか福祉からも程遠い存在としている。

原水爆は言うまでもなく、プラスチック・ゴミ問題や環境破壊と言った暗い社会を演出している科学の実態を見れば、多
くの子供たちが科学に失望し、夢や希望を失って当然です。其の上、経済産業省のように科学立国を推し進める立場
の官庁の例えば特許庁はどうなのかと言えば此処もお粗末である。

国策とは矛盾する立場で、パテント申請を悉く叩き潰すのを仕事と心得違いしている。こんな科学離れの社会の中で例
外的に科学に夢を持ち、研究努力した成果を高額料金を掛けて申請する者がある。だが担当者は機械的な作業でフ
ルイに掛けて不備な点を見つけてはどしどし拒絶する。

よって日本は海外の企業から毎年巨額のパテント料をせしめられている。馬鹿(官僚)に付ける薬はないと言う事か。

科学的・・・・・・・「科学的」と言う言葉が屡使われるが、必ずしも科学的とは言えないケースが多い。単に機械や電
気を使えば科学的に見えるだけである。例えば気功師が古代の医学理論を科学的にデータ処理して臨床実験を積ん
だ上で患者の体に直接触れずに気功で治したとしたら科学的とは言われず怪しまれるだけだろう。

それに対して医学的知識のない偽医者が機器によって各種の検査したりCTスキャンなどを使って見せれば初めて安
心されるのではないか。このようにハイテクMEなどを使って診断すれば科学的と思われているし、其れで病気が治せ
なくてもゼニを取れる。

或いは発掘現場で考古学者がスコープを使えば「科学の目で分かった」と高く評価されるに違いない。けれども陳腐な
理論で結論を出す医学やニセ医者では多分病気は治せないし、費用を掛けた発掘で考古学者が被葬者を殆どが特
定出来なかった事を見れば、何れも「科学的」ではなかった事になろう。

医者に行けば無数の患者に適当な病名を付けるので患者はそれで安心する。でも其れでは何も解決した訳ではない。
医者は分別・分類し、適当な名前を付けて体系的な知識を増やして来た。科学とはしかし名前をつけて分類する仕事
の事ではない。

それに対して占い師が機械や電気を使わず無手勝流で診断して結果を明かした場合はこの方が実際的な科学と言え
る。つまり科学的とは、真実の法則や正しい論理を導き出す方法論であり、この一定の方法・方式によって事物間に存
在する現象を説明し、其処から一般的・客観的通則を求める方法であれば良い。

或いは其の方法・方式によって処理する行為であるから機械や電気の利用とは直接関係がないのである。科学的とは
先ず客観性がある事。次に再現性・実証性がある事。そして其の論理の他の分野との関連性・整合性がある事であ
る。

主観的でない事を証明するためには客観的な手法が必要であるが、近代科学は数値主義や物証主義を採っている。
確かに目に見える形で証明する方が効果覿面であるが、交通事故にしても真因は物因ではなくて心因であり、物証が
出たのは結果に過ぎない。原因を偶然として一件落着するのは何にも科学的とは言えない。

或いは自然災害では多くの人災を出す。でも人災の原因を究明せず、毎回「想定外の規模だった」と天に責任転嫁す
るのが科学的と言うのだろうか。更に数値主義もまた問題ばかりである。数値を出せば科学的と見なされるが科学と
は別物である。数字は其の裏付けがなくとも如何様にも料理し利用できる曲者であって科学的ではないのである。

科学万能信仰・・・・・・・人類は近代科学の力で大きな発展を遂げた。其処で迷信が生まれた。最早、科学で分ら
ない事はなくなったと言う誤解である。よって「科学的に証明できないものは存在出来ない社会にしました。其れが迷信
とは思わない社会が今の日本です。このように現代は科学迷信が常識化されている。

だが其れは物質科学の側面からの観念であるにも拘わらず此れを自然科学と言っている点でも傲慢である。其れは、
自然界にも殆ど通用しないし、人文や精神科学には一切通用しない代物である。

例えば自然界を見ても、四季に応じて草花が入れ替わり、薮蚊やトンボが僅かなエネルギーで飛び交い、しかも彼らは
多産であるし一万回もの振動数で羽ばたいて苦もなくトンボ返りして見せる。

また小さなセミやカエルが天にも届けとばかり大きな声で鳴いて人の声をかき消してしまう。此れに人間が何かを感じ
たり驚く感性がなければ人類の進歩も科学の進歩もない。人工的な科学の力だけを結集しても蚊や蝉を模造する事さ
え無理なのですから。彼らの血の一滴さえ作れないのであるから、もっと謙虚に自然から学ぶべきだ。

薮蚊一匹にさえ劣る今の偽の自然・物質・近代科学などを其れでも信仰するのは個人なら自由だが、教育の場や一般
人にそのような狭い「迷信的幼稚な常識」を押し付けるのは是非止めなければならないだろう(「万能信仰」を参照)。

化学物質・・・・・・・物を燃やせばCO2が出ます。其れが「地球温暖化の犯人」として問題視されて来たが、此れは
海の中の珊瑚などが吸収している。温暖化は、寧ろ太陽活動の周期性で起こっているのである。また、火力発電など
では石炭や石油の燃焼させるが、このとき放出される酸化物質よりも、問題は塩素である。

前者は「脱硫」によって環境破壊物質の放出が低下しているが、塩素は姿を変えて遍満しつつある。人類が工業的に
作った化学物質は10万種以上に達した。中でも、農薬のDDTや変圧器に使われたPCB(ポリ塩化ビフェニールなど、
有機塩素系化合物は毒性が強く、分解しにくい厄介者である。

イルカや鯨など、海の生態系の頂点にいる生物が、これらを高濃度で蓄積してしまった。其れに、オゾンホールを破壊
するのも排ガス(NOX=窒素酸化物)とされて来たが、真犯人は寧ろ塩素であろう。

科学文明・・・・・・・神はこの世を作ったが、長い時間をかけて大自然の中にも完全な循環システムを作った。其れ
は例えば種や卵を作り、内部から成体に育て上げる作り方を今尚続けている点だ。此れはゴミも公害も生まない完全
な自然循環システムである。つまり本来の自然科学は精神面と物質面とを一体化した哲理でした。

其れに対して人類の近代科学文明の中の特に近代科学は精神を排除して唯物主義としました。つまり物質科学です
が、此れは卵に似せて卵形を作り、鳥に似せて鳥形を作った。だが「仏造って魂入れず」の科学技術では電池を入れ
ないと動かない。スピードとか便利さとか、儲かるか否かと言った目先の利益に合わせて作る科学である。

最大多数の最大幸福を齎すのが神や自然界の恵みとすれば、人類の科学は自然から収奪する科学を拡大させた。よ
り早く目の前の敵を殺す道具を作るか、より多くの殺傷力を持つ兵器を作った。欲望の追求が進歩であるのか。法隆
寺の五重塔が1000年も耐える建築物であるのは、千年前に打算で作ったからではない。

このような優れた科学遺産は神仏への心が成し遂げたものである。其れに比べて今の科学は欲望と打算の産物です
から10〜20年で駄目になる。此れでは科学ではなくてゴミをゼニに変える魔法ではないか。此れを自然科学と言って
も実態は反自然の科学であり、精神にも無知であるから何処まで行っても半人前の科学である。

しかも其れは人形や箱物技術であり、無機的な偽物・外形文明に過ぎなかったし、T型フォード車のコンベアシステム
の商品化以来、米国流の大量生産と大量消費によりゴミと公害で環境破壊し、戦争や核兵器でも人類や生物を大量
に殺戮し、大自然をバラバラに解体し破壊しようとするものです。

こうした科学文明では神の英知を一切受け付けない。だから中身から膨らますような事が何も出来ずに、何時までもゴ
ミのようなものを作り続ける。其れは市場経済主義による打算の科学であり、コストに見合わない事は考えもしないと
言うエゴの商品科学になっているからです。此れでは「人類や科学の進歩」が何もないではないか。

自然界は打算で働かないが科学文明の動機は殆どが打算である。売れるもの、便利なものを沢山造った。ゴミ処理ま
でソロバンに入れる事は少ない。だから自然がまた其の尻拭いをしている。このような今の西洋物質科学でも自然界
は多くの恩恵を与えて耐えて来た。

科学がなくても自然は何にも困らないが、自然がなくては科学は存在出来ない事をこれからの科学者たちはハッキリ
弁えるべきだ。自然がなくては何者も存在出来ない事を。

案山子(かかし)・・・・・・・山田の中の一本足の案山子。人形や御幣を杭の先に立てたもの。蓑笠を被せ、弓矢を持
たせて鳥獣の害から田畑の作物を守るために立てたもの。中にはカラスの死骸をぶら下げてカラスに見せしめとしたも
のもあり、或いは悪臭を放つものを置いて「カガシ」としたものも有る。

だが本来は田の神であり、地方により一定の時期に「田の神祭り」をして迎える。更に言えば実は一本柱の御柱だった
(「見柱」「玉串」「三分法」「田」を参照)。


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