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    日知り事典        息〜イザナギ

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・・・・・地球は銀河を巡る太陽の周りを廻り、月は其の地球の周りを1年掛けて廻っている。天体が丸く目まぐるし
く回る中で生き物も円運動で活動している。活動する生き物は息をする。息が止まれば死となり、単なる物体と化す。
つまり息が「生命」そのものと言える。

人は無意識に此れを繰り返しているが、この息の原則を忘れていると西洋医学の餌食になる。特に「息吹」は物質科
学では何も分からない。要するに近代医学やスポーツでは健康維持は無理なので、其れよりも腹式呼吸が大切です。

此れは妊婦が出産のときに習うし、動物としての体質に適っているが、男性は残念ながら苦手です。男性はスポーツで
体を鍛えて安心しているが、其れは肺呼吸を主とするので反射神経と筋力鍛錬でスピードを競う場合には役立つもの
の、内臓を酸欠状態にしてしまうため病気になり易くしているばかりか内臓を傷める。

其処で口を大きく開けて息を吸うように心掛ける事が肝要です。其れも肺よりハラ、つまり腹式呼吸で日々丹田を養
い、胆力を付ける事です。ポイントは先ず吐く事。完全に吐き出す事。腹の底から出し切る事。両足を伸ばして座ってそ
うすれば腹がぺちゃんこになるので両手が足の指まで届くようになる。

しかし肺呼吸でラジオ体操のように機械的・リズミカルに体を曲げようとしても無理をするだけで何にもならない。ハラ
(肚)は息吹戸主と言う祓戸の神の働きを借りて、この息吹、つまり複式呼吸をすれば体が柔らかくなると共に体内毒素
が排出できるので健康が維持できる。此の点を重視して常にハラを清浄に保つ事が元気の秘訣です(ヨガを参照)。

尚、丹田は「へそ下」ではなく、臍であり、此処が母と繋がる紐であり、肉体を司る要所であり、その逆に、心を司る要
点が額に存在する(「額」を参照)。

生き甲斐・・・・・・・・昔の子供の夢は立身出世だったが、今の若人は色恋、中年になると子供、年寄りはカネか長生
きの生き甲斐らしいがこれで良いのか。

生霊・・・・・・・・霊には生霊と死霊とがあるが、生霊は生きている人でも、其の思いが強い執着となった場合に其の
対象に向かって発し、ターゲットにとり憑いた場合は様々な現象を起こす事を言う(「憑依」を参照)。

ただ其の想念が例えば親子の愛情や友情の場合は穏やかな波動となって暖かく相手を包む。また恋愛中の、相思相
の恋人同士などの場合は、生霊が飛び交う事で実は互いに快い雰囲気にする効果もある。

こうして生霊が良い面で作用した場合には、結果として、相手を守護し救う場合も有るが、問題は其の逆の場合の、例
えば三角関係や仕事上の恨み、辛み、妬み、怒り、憎しみ等となった場合は相手にとって寒気を起こす。或いは不安
にさせたり仕事を失敗させたり障害を起こす外、事故事件を誘発する事もある。

人は「喜べば喜び事を誘う」ものです。でも気が枯れてケガレとなり、陰気な波動になれば陰気な霊が同調して来るの
で妖怪化し易い。そして見事に事件事故となった場合、生霊を発した事が現行法で罰せられる事もない代わり、「人を
呪えば穴二つ」と言われる通り、呪った人もまた苦しみ、障害を起こす。だから此れは使ってはならない。

かける相手によっては「呪い返し」もされるし、また当然の報いとして陰気な霊波動の同調・共鳴、或いは反射作用で自
滅する事が有るからです(「常陸帯」を参照)。

異教性・・・・・人間を教育し、洗脳して本来のアイデンティティーとは違う異質の文明などを注入して前文化を破壊し
て行くもの。例えばマッカーサーは軍服を着たカトリック教の宣教師として戦後の日本をカトリック教国にする目的で
様々な手を打ち、思想転換を進めた。

其れがフィリピンと韓国では成功したが、日本では失敗したので次は共産主義の脅威を煽って自由の砦として、米軍基
地化を勧めた。日本は確かにカトリック教国にはなれなかったが、彼によって見事にバックボーンを抜かれ、大和魂も
抜かれて全国民が腑抜けになった(「イデオロギー」を参照)。

マッカーサーのイデオロギー戦略が実は見事に日本で成功した事は、英語教育とスポーツとクリスマスを見ても明白で
ある。


(字義)・・・・・・・漢の武帝の印字には漢字の「行」の古字と言われる字がある。


それは左上図の田の字の十字を抜き取った形である。但し「L」字を4つ、上下左右に配置して十字路(交差点)の形に
している。此の十字は「行く」の意味よりも日本では「結ぶ」の意味が強い。

ともあれ、「+」に動きのシンニュウを付けたのが漢字の「辻」、そして「一」を付けたのが「土」になる。

いくさ(戦)・・・・・・・・古代の人は人が主ではなくて神を主として生きた。従って何かにつけて神に祈った。戦いにな
る時も、実際に人が手を出す事ではなく、神に祈って神と神の戦いにすり替えた。例えば相撲や占いによって神々の裁
定を仰いだ。こうして人の犠牲を回避する知恵があった(西埜氏談)。

欧米の蛮族と違って日本は好戦的に構えたり、戦いを求めて戦う事をしなかった。大東亜戦争も蛮族列強に嵌められ
た戦争でした。蛮族のイクサは日本とは逆に罠を使うか外交の手段である。自分の要求を通すために、先ずピストル
や大砲を向けて外交で罠に嵌める(ペリー来航とイラクへの今の砲艦外交)。

しかし日本では戦うよりも戦わずに勝つのが上策でした。大東亜でも好戦的な列強に対して、日本だけが戦いを避けよ
うと努力した。ただどうしても体を張って戦う事態になった時は、古来「やあやあ吾こそは」と名乗りあい、代表戦で戦っ
て決着を付けた。この段階ではまだ被害を最少に出来た。

其れに対して近代戦は集団戦・徴兵制・国民総動員となり、日本人も「一億総玉砕」にまで追い込まれた。しかも当事
国同士の戦いではなくて、集団安全保障条約と言う連合組織をもってスピードを競って覆面行動で大量虐殺するように
なった。

此れでは地球規模の戦いとして人類も自然も全滅させる危険が大きく、全くの愚行であり、進歩や進化とは逆の事であ
る。そもそも「争い」と言う行為は敵味方何れもお互いが損をする仕組みになっており、如何なる聖戦も蛮行・愚行であ
る。人類の此のような蛮行は獣たちだって決してしない(戦法を参照)。

・・・・・・・自然に出来た池と人工池とが有る。後者は古墳時代に墳丘部の環濠として造ったものがその後に水田
への溜池として転用され、別の形に変容している例が多い。自然の池では火口湖などがあるが、其の他では例えば堺
市の深井地区。此処に馬飼田池※と牛飼田池があった。

行基の故郷であるが既に巨大な河内湖として存在した為か彼が手を加えた跡はない。其れが農家の減少と共に宅地
化されて狭まり、分筆を重ねて売却して公簿面積が更に小さく131.55uになった。1000年以上人々の役に立ち、或いは
1000人くらいは死んだ池であるから感謝や鎮魂があるべきだが、其れをせず埋め立てたので今は僅かになった。

所が平成になると急に分筆が重ねられて公簿面積が何と100倍に水増しされて13155uにされていた。不思議な話であ
るが其れを「地上げ」で転売するためである。ゼニカネに代えられない古代の遺物も多重に埋まっているのが池である
が、其れよりも目先を争うのが今の都会人たちである。他方、行基は摂津の昆陽(コヤ)池など多くの池を作った。

その後に弘法大師が讃岐に満濃池を造ったが何れも大切に今も守られている。池と言えば貯水池とイコールと見られ
がちだが全く違う。池は、平面ではなくて、大きなV字型になっていている。遥か遠くから自然に水が流れて来て、一番
低地の池に自然に集まるシステムになっている。先人達が苦労して造った遺産である。

だから平面にコンクリートで囲っただけの用水池・貯水池とは全然違うのである。しかし現代の都市計画は其処だけを
埋め立てて住宅地にした。だから洪水のたび浸水被害を出し続ける。よって巨額なコストを掛けて排水と下水道設備や
電気仕掛けのポンプアップの工事を繰り返す。愚かである。

さて06/8/2のNHK総合TVでは京都の深泥ヶ池を取り上げた。水生の三つ葉カシワや狸藻が此処にだけ群生してい
る。その他、各種のトンボなど様々な生物が共生している。

だが近年は外来種のブルーギル(北米)を投げ入れられて魚の90%とヤゴ(トンボの幼虫)を食べ尽くしてしまった。水
辺にはセイタカアワダチ草が茂って埋まって来た。其処で地元のボランティアたちがトンボの「黄昏飛翔」の再現を目差
して努力している。

※隣の大阪狭山市では狭山池を改修して出た遺物を集めて狭山池博物館を作ったが、堺市では既に縄文弥生の遺
跡である「四つ池」遺跡を壊してしまった。それでも今は、歴史都市「堺」を表明しているが、此の「まごた池」まで埋め立
てた。これでは歴史都市として恥ずべきです。単に歴史遺産抹殺のゼニカネ都市と言う事になる。

いけにえ(生贄)・・・・・・・生きたままのニエ(贄)・供物として神前に捧げる犠牲の生き物。言わば労働奉仕である
が、やがて「命を捧げるもの」と理解されるようになった。其の目的は人が祈願成就のための代償である。つまり人の
誠意を神に見せるためであって、神が其れを欲しがっている訳ではない。

神は人間から生贄を捧げて貰わなくても立派に生きて自立している(人身御供を参照)。

寧ろこんな事をしてまで神に要求して願望を遂げようとする人間の勝手な心や欲望が問題である。人は多数の生き物
を毎日食べて生きている以上、諸生物の犠牲の上に人としての命を繋いでいる事になり、彼らの悲しみに対して感謝
で応えるべきです。神の場合は前述のように生身の人間のような食物は無用ですし人の命も求めない。

人からは「生きた心」を受け取る。其れが生きたニエ(感謝)である。しかし、神を忘れるに従って人々は別のカンガエを
持ち始める。感謝を表すのは空虚な言葉よりも具体的な形で表わしたほうが良いとか、ご当人が最も大切なものを差
し出すのが効果的とされた。要するに税金や献金と言う形にすり替える。

或いはその効果をもって神と取り引きしようと薦める行為が「犠牲」である。此れは何れも良くない。日本の神はこうした
行為を嫌うが、天下に於いては日本でも、神の名に於いてニエ(税金)を取った上、白羽の矢を撃って人身御供を求め
た勢力が支配するようになった。

日本神話にはヤマタノオロチが白羽の矢を射掛けて娘を要求した勢力がスサノオノミコトに退治された話がある。外国
では例えばモーゼがわが子を生贄として捧げようとした。先のヤマタノオロチやシナの殷のチュウ(紂)王が酒池肉林
の暮らしをして周の武王に滅ぼされた話などは生贄と言うよりも岩見重太郎のヒヒ退治と同様の「人身御供」である。

よって成敗された。またヤマトタケルが相模灘で遭難しそうになった時に弟橘媛が自ら進んで海中に身を投じて海神の
怒りを鎮めて此れを救った古事(木更津の語源)もあるので昔から生贄も犠牲も有った。或いはヤマトタケルの三代前
の垂仁天皇の頃まで墳墓に殉死として多数の関係者と人民を生き埋めにした事実も有った。

インカ帝国でも国が滅びる直前まで盛んに生贄の儀式が行われたが、此れらは神の名に於いて人民を恐怖政治で支
配した事を意味する。此れを「野蛮な行為」と見下すのが今風の進化論的イデオロギーであるが、近代思想の生みの
親である西洋に於いてもキリスト教圏では「魔女狩り」としてインカと同様の事をして来た前科を持つ。

更に現代社会でも多数がよって集って少数派を苛める青少年たちの卑劣な集団イジメや、「多数決」を正義とした「数
の論理」の横暴な「民主化」と言う米式政治的イデオロギーや弾圧、或いは虐殺が何処にでも見られる。例えばナチス
によるユダヤ人のホロコースト(大量虐殺)は人類の歴史的汚点である。

いや、寧ろドイツ国民はヒットラー一人を槍玉に挙げて自分たちは被害者側に立とうとした。つまりヒットラーを「死人に
くちなし」の生贄としたのかも知れない。他方、ソ連が戦後60万人の日本人を抑留して奴隷として使役し、多数を見殺
しにした。

神の名を借りて「人身御供」を広げたり、或いは一握りの勢力の価値観である神を騙り、或は正義(共産主義や民主
化)を標榜して多数の人を弾圧・支配した。米国も人類史上最初の原爆を日本に落として10万人以上の非戦闘員を犠
牲にした。戦争を口実に科学実験の生贄の場としたのです。

何れも神に背く行為であって、何も進化ではなくて却って野蛮で悪魔的になっているとも言える。戦争などは欲望による
人災の最たるものであるから生贄ですらない。だがそうした人と人との争いを神と神との争いにすり換えて、神に祈願し
て最小限の人柱(生贄)を捧げる行為は寧ろ次善の策かも知れない。

知れないけれども生贄は神を一番困らせる行為であるが、実際、最近までは橋の工事が難渋した場合に、誰かが「人
柱」となって完成させた事例も決して少なくはない。或いは天変地異の場合には今でも多くの犠牲者が出ます。殆どが
「人災」であるが、責任者たちは逃げて来た。

彼らは税金を完全に取り、完全に使いながら仕事は不完全にして来た。しかし責任は決まって「不可抗力」と自分で決
めて逃げて来た。こうした地震や台風で犠牲者が出ても神は困るので、其の上更に神に対して人が生贄を捧げる必要
は殆どないと見て良い。

人は如何わしい神やいい加減な政府にイケニエや税を捧げるよりも、万物に感謝の心を持ち、其の生きた心を捧げた
いものです。


生け花・・・・・・・・京都・六角堂は紫雲山・頂法寺と言う聖徳太子に縁りの寺である。太子がこの池の傍らの木に、
大きさ5.5cmの如意輪観世音菩薩を置いて沐浴した所、観音様が動かなくなったので、此処に六角堂を建ててお祀
りしたと言われる。

小さな観音様(小さな仏像は念持佛だった)なのでお厨子の中に祀られており、今堂内に見える仏様は其の「御前立
ち」である。因みに次の住職が小野妹子でした。彼は遣唐使となって中国の風習を倣い、花道の元を作った。唐では、
伝統的に仏の前に朝夕花を供していた。「生ける」とは野に咲く花でも其の花を生かす事だと言う教えである。

池の傍のお堂なのでやがてこの寺が「池の坊」と言われた(05/2/20日のサンテレビ、ICTVより引用)。

此れが今の社会の通念と言うものですが、敢えて一言すれば「生け花」と茶の湯とは光陰逆の立場で対照的です。供
花は本来、円暦の祭りの時期に神の顕現する(降る)方位、つまり神気の詰まる吉方で採取した花を迎えて、逆の所に
位置する神前に供えたものであり、従って「生気」を供える事を意味した。

そうした事から、「池坊」が今の大阪の神社庁の一角にある通り、生け花や華道の家元が神社関係先として派生発展
した。其れに対して、茶道は緑葉を干乾びさせ、或いは葉に湯をかけて殺したものである。言わば侘び寂の意味で仏
前に供えたのが献茶であり、従って死の側に位置する文化・作法でした。

だから、静寂な浄土に捧げる意味・役割の立場に有ったろう。茶道は言わば禅宗渡来によって伝来した歴史の浅い文
化であり以後、茶坊主が宗家となった。所が今の華道は本来の神の道から遠くなり、従って芸術以外の道を説く事が
出来ない。よって死んだ花を飾って形を造る技術や花器を芸術として説く集金組織となっているのではないか。

或いは茶道と同様、此れを「花嫁修業」とする歪んだ形に転身し、作法など多種多様な形に手を変え品を変えて飯にす
る流行商売に安住しているとすれば日本文化を代表するものとは言えない。

▲遺骨収拾・・・・・・・・国民皆兵(国民の兵役義務)として召集した軍人を海外派兵して、もし戦没者となった場合、其
の遺骨を収拾して手厚く葬るのが国家としての義務である。所が戦後の政府は税金を集めながら政教分離の原則を
盾にこの基本を怠って来た。此の基本は政教分離の論理以前の国家としての基本的責任・義務である。

だが先の様に政府が道理の欠落した逆理から政策を進めた結果として全ての社会問題を発生させている。日本軍は
例えばタイからビルマに転戦し、苦難のインパール作戦を行った結果、補給支援の不備から戦闘よりも飢餓で七万人
の貴い命をジャングルに散らした。

其の飢餓にしたのも国家の責任であるが、其れも殆ど無視し放棄して戦後の遺骨収集まで怠慢のまま放置している。
南方は外国であり遠いから無理と言う訳ではない。日本の硫黄島でさえ大半を放置している。仕事と責任は不完全の
まま、税金は完全に取って其の上、赤字にした。其れが今のインチキ政府である。

■イザイホー・・・・・・・・沖縄の「神の島」と言われる久高島で、女性たちだけで守られ行われて来た神職になる儀式。
琉球王朝以前から行われて来た古い祭祀であるため、男性は誰も立会いできなかったが、此れを写真家の比嘉康男
氏(H12/5/13亡)がモノクロ写真で記録していた。

今は人数不足のため行われなくなり、写真でしか見る事が出来ない。外にも、神々しいウィアガン、豊年祈願のコーク
イ、大漁祈願のヒータチ、麦の収穫祭マッテイ、などがある。

いさぎよさ・・・・・・・日本は年中地震(ちゆるぎ)や火山の噴火が起こる外、海岸は連日、波に洗われ続けています
し、陸地にも梅雨や台風や大雪がやって来る。そして年に八回、四季の節目(四至・四立)に土用がある国です。其れだ
け天からも四方からも洗い清められ、地からも揺らされる結果、日本人は否応なしに清まってしまう。

其の上、年末の煤払いと年二回、神社では大祓いをして来ました。だから無病息災で医者要らずでした(「霊主体従」を
参照)。こうして度々「禊」で清まる過程で、日本人には潔さが培われた。かつて平家が源氏に壇ノ浦であっさりと負けを
認め、或いは徳川武士が薩長土肥の田舎者に対してあっさりと江戸城の無血開城をしました。

その結果に於いて明治維新を成し遂げた事も世界の驚異であり立派な引き際と言えようし、特に戦時下での若鷲たち
の働きは立派でした。また戦後の農地解放は、GHQだけの力ではなくて、旧地主の潔さによって実現した。また例えば
シナでは柳が好まれるが日本人は柳の様な木よりも桜を好む。桜花から散り際の鮮やかさを見せられる訳だ。

こうして日本人の清潔さは世界一誇りに出来る美風となっていた。とすれば日本人がこの美風を見失ったら何も残らな
いばかりか、今の様な日本にする訳です。日本人の心が穢れたために、引き際を逃す人が役職にしがみつき、水も空
気も食品も汚染され、街は汚く、病気と事故多発と犯罪増大と言う現象を見せられている。

此れは心が「霊主、ではなく体主(モノカネ)」となってしまったための当然の現象である。

いざなぎ流・・・・・・土佐の物部村に残る呪術集団で「いざなぎ流」神道と言う。「いざなぎ」とは云っても、記紀神話の
イザ那岐尊とは無関係の陰陽師集団であり、平家の落人が伝えた陰陽道プラス唐風呪術と見られる。此処では俗世
間の邪悪な思いを「すそ神」として祭り、独特の御幣や祭文によって、穢れを「清め祓う」儀式を伝えた。

江戸時代には彼ら陰陽師たちは土御門家の支配に属さず、神主を「太夫」とし、または「博士」を名乗って来たため、明
治政府の廃仏毀釈の嵐から除外されて生き残り、よって古式呪術・祭儀を今に伝える事となった。



石垣 ・・・ ・・・ 以下、次ページへ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●■▲◆★
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