http://hijiri.tamajiri.com       「日知り事典」  page050050.html(未定稿)


    日知り事典   石・いつ

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医師・・・・・・昔は藪医者もいたろうが、「医は仁術」と心得る立派な方も多かった。医師はだから今でも世間的な評
価が高いしステータスです。だが今の医師を見る一般の人々の目も次第に厳しくなっている。第一、医師免許はペーパ
ーテストだけで合格する。しかも免許更新がない。よって医術のない駄目医者が算術で暮す(06/5/16のabcTV)。

医者と暴力団は最近、ゴルフ場からも締め出された。マナーも評判も良くないからです(某歯科医師の話)。医者は病
気の患者に毎日接しているので病気には詳しい。従って言わば病気博士である。彼らはやって来た人達に次々病名を
つけて立派な病人に仕立て上げるのが仕事である。名前を付ければ保険も付く。

しかし医者が健康な人と余り接する事はない。従って健康博士ではない。健康な人たちは病院に集まらずに健康な人
たちの中で毎日暮らしています。従って健康博士は病院の外にいる。其れを医者たちは「民間療法は迷信」と言うレッ
テルを貼るし、無論病人は其れを注入されて信じ込む。

こうして病院で大量の病人が作られて見事に一億半病人の日本が出来上がった。此のままでは保険制度も福祉も破
綻し、人々の健康も蝕まれてしまうので、至って健康な筆者が当たり前の健康法や本当の生理を此処「日知り事典」で
語る事になった。

ヒジリは日知りであると同時に霊知りであり、先ずは根本的な霊的な意味から健康の種である血液を語り、更に祓い
(浄化法)の意味を解説し、序に現代医学の間違いを質して行きます(各項を参照)。

医師(不足)・・・・・・医療制度改革によって全国の医師が不足して来た。原因は此の制度改革によって医学部出の
新人のインターン研修制度が医師不足に拍車を掛けた。此れによって在来の医師に皺寄せが来て過重労働となった
為に、田舎を嫌って都内勤務を求めたり日当10万円から年収3000万円の保証を望む医師が多くなった為である。

特に地方都市の公立病院が医師不足から診療停止に追い込まれている。田舎に引き篭もって過重労働に悩んだ医師
が転出しただけではなく、堺市も政令都市になった途端に医師不足を理由に夜間の小児科診療を停止した。其処で厚
労省が地方研修の義務化と報酬アップと言う打開策を打ち出した(06/10/13NHKTVより引用)。

しかし出産や育児は病気ではない。産婆さんで足りるのですから高度医療がなければ生まないと言う発想は如何なも
のか。老化も自然に進む物であって病気ではない。転んだら自分で起き上がるべきである。だが一寸したケガでも自
分では何もせずに、また一寸発熱しても倒れても救急車を呼ぶのが良いのかどうか。

風邪を引いても周りから「早く病院へ行け」と言われる。其れは決して親切なアドバイスではない。風邪くらいは自分で
治すと言うのが当たり前の常識であるべきです。しかし其の反省も無く惰性的に大勢が病院に殺到し、通院を仕事とし
て其処をサロンと化し、或は大病院で出産を望んだり24時間の救急診療を望んで来た。

此れで健康が維持されると誤解していては正常な感覚ではない。政府が「医療は国の基本」として掲げたり、選挙のた
びに候補者が其れを売りにした為にこうした結果とした面があろう。便利な医療=高度医療=福祉国家の欺瞞が吹き
出した以上、彼等が其の責任を取るべきであろう。此処まで巨額医療費になって保険制度も破綻しようとしている。

其の上更に高額負担をしても何がどうなると言うのだろう。救急車で運ばれてもアチコチで受け入れを拒否されて走り
回って死んでしまうと言うケースが近年目立つ(救急医療を参照)。拒否の理由の第一は医師不足である。ならば色ん
な規制を取っ払って、誰でも医師になれるようにすれば良い。

国民も高度医療の嘘に気づいて今までの固定観念や医学迷信・薬物信心から目覚める時だ。規制緩和については例
えば医師なんて幾らいてもどうせ病気を治せないのだから、1病院に1人いれば良いとする事だ。その代わりに看護婦
の責任と権限を強化する。医師よりも看護婦のほうが多いのだから、多数決でも看護婦が勝てる時期にある。

医師不足の解消には、看護婦の地位の向上とレベルアップが必要です。保険診療の規制も外して、湯治でも針灸でも
按摩でも薬草でも占いや祈祷でも、治ればOKとする能力主義や成果主義的度量を持つ事と、出来高払い(請負制)、
結果責任制度に変える事だ。

そうすれば、人気のある医者には行列ができるだろうから其処は倍額の料金でも算術でも良かろうし、逆に藪医者の
所は閑古鳥が鳴くので「医は仁術」で尽くせば良い。

石垣・・・・・・其の様式として腰巻、鉢巻があり、工法としては野面づら(排水性が良い)、乱積みとして「打ち込み(安
土城天主)、切り込み(江戸城天主)」法があり、また整層法としては、布積み(江戸城)、亀甲積み(松前城)、そして算
木積み(井桁積み)等と呼んだ(石積みを参照)。

重要なのは見た目よりも、重心を内部に置く構造であり、其の為の勾配の採り方だった。石垣の垂線に対する角度を
扇勾配と言う。次にノリ(法面)、即ち勾配の割り方である。其れは扇の角度のように、円の十二割、十割、八つ割の何
れかに決めた上で、経験則を加えた。其れが「下縄、弛み、跳ね出し、せり出し、戻り」等の計算である。

其の結果、熊本城天主台に見られるような、宮(扇)勾配(かわほり)と、寺勾配(雨落し)になっている(以上は、「戦国
乱世武将城郭百科」内藤 晶氏の特別研究論文・新人物往来社を参照した)。海外ではエジプトや中南米のピラミッド
も優れた石積み構築物です。

日本にも、同様の石造物があった筈ですが、幸か不幸か砂漠ではないので、地中から出る草木の根っこに押されて内
部から破壊されたり、度重なる火山の噴火や地殻変動で地下に埋没したり海底に沈んだろう。だが其の匠の技術は、
あの衆などに引き継がれて城の石垣として、今尚、現代人に見事な姿として、或いは優雅な風景を見せています。

ただ、今の建築基準法や宅造法では、石垣は許可されない。間知石積みか鉄筋入りのコンクリート擁壁でなければ駄
目とされる。だが間知石などは見た目が綺麗だがタイルと同じで基礎部分の工法としては何のツッパリにもならないも
のだ。だからこれ等は阪神大震災で脆くも崩壊したのである。

鉄筋コンクリートの高速道路も、短期間で下の架橋から錆びて内部から崩壊し、或いは表面が剥落して崩落事故多発
となっている。コンクリートは特に寒冷地では湿気が氷結して破壊を進める厄介なものです。其れに対して、城の石垣
は400年間、ビクともしないのです。

和式石工は、西洋式な直線的力学による数式構造計算で長期間かけてする大工事ではなく、或いは強度計算による
一律の固定観念で仕事をするのではなくて、曲尺とわら縄一本で短期間に造った。戦国乱世の慌しい中で、大急ぎで
造った俄か仕事でも400年間耐えています。

其れは法のり勾配などの曲線的な力学を駆使して、しかも、其の地の気候風土に元々有った材料で作り、更に「水はけ」
を重視したから長持ちした。其れにもまして、ゼニカネ主義による近代的な土木業ではなく、「万一、崩れたら切腹」す
る覚悟の仕事、つまり「職人気質」のような誇りと強い責任感故に、優れたものを残したのである。

石切・・・・・・墓石燈籠の石材として御影石(別項参照)があるが、関西で良質として定評のある安治石(別項参照)
の産地が四国高松である。此処に石材業者が150社ある。此の安治石の石切り場では先ず石の目を調べる。原石に
水を掛ける事で石の模様や傷が浮き上がるので、其の筋に沿って平行にタガネを入れる。

そしてタガネを叩いて次々と穴を空け、其処にセリ矢と言う楔を打ち込んで行く。次にセリ矢をセットと言う金槌で叩け
ば簡単に石が切れて割れる。其の隙間にバールを差し入れて動かします。次に割った面をまた同様に水を掛けて傷や
紋様を調べる。

こうした工程を何度も繰り返して傷の無い石を切り出して行く(0以上、07/1/15のNHK総合TVより引用)。

▲石切神社・・・・・・大阪・生駒にある神社で明治から戦前まで石炭業界からの参拝が多かったが、今はガン封じや縁
切りなどの祈願が多いと言われる。しかし此処はイーシー・キル(あの偉大な方)と言うアイヌ語に由来する神を祭る物
部氏系・穂積氏の祭る社であり地名である。よって少なくとも物理的な「石切作業」とは無関係と思われる。


石釧・・・・・・・前期古墳から副葬品として車輪石などと共に大量に出土する硬玉製の丸い石器で考古学ではイシク
シロと呼ぶ。考古学的には普通は腕輪と解説して来た。装飾品、または用途不明の石造模造品と誤認している。だが
こんなものを腕に嵌めては邪魔になって自分の顔も洗えない。其処で今から正解を述べる。

此れは天文観測の場や古墳設計の時の定点に立てる見柱に使う玉でした。見柱は直径約5cmの先の尖った丸柱でし
た。この玉は其処に通すための言わば分度器でした。このため玉(石釧)は全て約5.5CMの穴が空けられている。

同心円状の定点(中心)にこの見柱を立てて玉(石釧)を通し、其処から四方八方に糸を張って、同心円と方形との整
合性を拡大して行った。此れが別項で述べる「玉串の祭り」であり、其れによって太陽観測をして暦日を確定し、或いは
天文測量をして条里制を敷く測地作業に使った(「鍬形石」も参照)。

(いしずえ)・・・・・・昔は建物を建てる前に土台として石を据えた。其処から物事の基本・基底となるものを礎と言う
ようになった。だが、「イシヅエ」は石杖(別項参照)とする意味もある。物事の基本や建物を建てる場合は杖を立てて
方位を見た上で、其の杖で長さを計って測量をしたからです。

其の杖が腐ったために、後に石を立てて目印として来た物の一つが今見られるストーンサークルであろう(「ノーモン」と
「御柱」「岩倉」を参照)。

石積み・・・・・・・・山間部に行けば棚田や猪垣が見られる。昔からの工法だから今もセメント(コンクリート)を使わ
ず、石の間から自然に水が抜ける構造として土圧で崩れる心配の少ない工夫である。今のコンクリート擁壁は鉄筋を
入れて頑丈に造るが、決められた通りの水抜きパイプを一定の間隔で入れなければ土圧(水圧)で崩れてしまう。

或は間知石と言う角錐形のブロックを貼り付ける間知石積みがあるが、此れは斜面にタイルを貼り付けたようなもので
す。擁壁や間知石積は確かにミテクレは良いが特に後者は崩れ易い。其れに対して在来の石積みはミテクレではなく
て質実である。先ず土台となる根石を設えて其の上に大きな石から順に積み上げる。

しかも其の重心を後ろに持って行って組み上げる。更に石垣の厚みと同じ幅で石積みの裏側に裏グリを詰め込む「裏
込め」をしながら積み上げる(06/12/12のNHK総合TVより大半を引用、「石垣」を参照)。

イジメ・・・・・・・・・イジメは直ぐに「弱い者いじめ」と言う熟語になる通り、本質が同じである。昔のガキ大将は弱い者
いじめはしなかった。集団生活に合わない者を叱って矯正して仲間に入れる側面があったり、或は「強きを挫く」など、
強い者に反発して弱いものを守るような義侠心のような所が有ったから後輩の人気を集めたのだが、今は違う。

弱いくせに弱い者イジメをする。周りも傍観するとか、暗黙の内に加担して、集団で一人をイジメるようなケースが後を
絶たず陰湿なイジメとして繰り返される。多数決が民主主義でなくて此処では寧ろイジメの暴力の正当化として現実に
機能してしまうのです。民主主義とか多数決と言うのは全くのインチキである。

例えば、役場の窓口には大勢の職員がいるのに、一人の訴えにも職員たちが無反応で盥回しをしているのが何時も
見られる当たり前の光景ですが、此れもイジメに等しい。其の事に気付かなくなったのが日本社会である。だがイジメ
る者は正常ではなくて寧ろ病人・病的である。

イジメられるほうが正常でありナイーブである。だからイジメを見たら傍観してはならない。だがテレビでは毎日芸人が
偉そうに大阪弁で相手を口汚く罵る。そうしたドラマしか放映しないし、其れに人気があると言うのが今の社会ですか
ら、子供も大人も彼らに感化される。また国民の為に出来た筈の政府が国民を困らせている。

役場には多くの職員がいるのに年寄り1人が窓口で盥回しされている。其れらに誰もが慢性化している通り、イジメの
模範を続けているのだから当分、子供たちのイジメもなくなりそうもない。従ってイジメに遭っている子供に対して、「頑
張れ」なんて言ったら可愛そうである。其れよりも、苛めている子供を懲らしめるのが先である。

其れをしないから被害者は悲観して自殺(別項参照)を考える。閉塞状況の先には「死をもって復讐して、其れを死後、
確かめたい」と言うような選択肢に進むのであろう。其れが今のスピリチュアル人気の一端に有るように見える。

★医者・・・・・・痛くもない腹を探って病名を付ける人。看板(鑑札)を持っていれば引っ張りだこの人。看板とは裏腹に
治すのが下手な特権人。責任を負わなくても許される公務員並みの人。時々人を殺すが、「手遅れ」と自分で診断すれ
ば罪にならない気楽な人。

医術・・・・・・医は方術でした。だがやがて「医は仁術」と言われるようになった。そして今は「医は算術」と言われる。
「高度医療」と銘打って高額医療費をせしめているが、治療効果は疑問である。確かに外科的医術は其れなりに役立
って来たものの、病気(疾病)に関しては殆ど無能であるからだ。此れは西洋医学に偏ったためである。

日本の医術は本来「方位学」でした。だが方位で治してしまっては儲からないから本草(薬草)などを与えたり鍼灸をも
って銭にして来た。其れが言わば方便式漢方でした。何れにせよ昔は病気を治す事が出来た。しかし幕末以後、日本
は蘭学を採り入れて西洋医学の独占する所となった。

西洋は戦乱が続いたが、其れは奴隷を戦わせたものであり、其の傷の手当てをして命を救ったのが軍医である。つま
り西洋医学の素性は軍医学や獣医である。従って弾丸の飛び交う中で急いで切ったり張ったりする外科的治療は処置
が早いが、じっくりと病気とか健康と言う命題を担うには殆ど無能でした。

無能ながら一神教的固定観念とソロバンにより、医師法以外で治せば処罰すると言う見事な独占体制を構築した。医
術は正に算術なり(医師を参照)。

異常気象・・・・・・近年はこの言葉が多用されるが、果たして異常気象がホントに増えたのかと言えば、筆者の
観測による限り何も異常ではない。異常になったのは寧ろ人間の想念と行為であり、そうした人たちから見れば機械的
に運ばない天候が異常に見えるのかも知れないが、其れは事実誤認と言うものです。

既に前書きの、「天人相関性」と言う定義で説明した事であるが、人類の想念や行為で穢れた分だけ災害も多くなるの
が当然の自然の摂理です。地球は生き物であり、新陳代謝をしています。そのため呼吸もするし振動もする。熱い血
液(マグマ)も流れています。ですから地震や噴火、晴れや風雨によって汚れた箇所から浄化に努めているのです。

外にも、銀河との関係で太陽系は冬から夏の軌道に入ったので、確かに温暖化に向かっています。所が気象庁は気
象学で無機的・機械的・数値的に気象を見るために、其の予測が凡そ外れる事が多く、予報も誤報続きとなる。そのた
誤報の責任を天気の側に転嫁して「異常気象」を連発した。

しかも公共工事は天災事変が起こるたびに人災を重ね、其の都度、「自分の責任でした」と詫びるのではなくて、殆ど
が「想定外の災害だった」と逃げるからです。人災を天災にスリ替え、天に責任転嫁するのでは「責任」とは言えませ
ん。同様に実行委員会と言う人達が毎度、天気予報の通りに催しをする。そうしなければ責任を問われるからです。

だから予報が外れて計画は失敗する。此の場合も天気を原因(犯人)として役員たちは責任を逃れる。或いは恰も異
常気象が頻発しているような危機感を煽る商売が増えた。そうした誤解を太鼓を叩いて日本国民全体に与える行政と
環境ファッショ(別項を参照)と言うのがいて、環境ビジネスとか環境税を画策している。

このように今の社会は天に感謝するより不平不満を言う人たちが支配する。しかし此れは何れ「天に唾する行為」とし
て精算を迫られよう。ただ異常気象となるのを心配して自らゴミを減らす工夫をしたり環境維持に努める事は貴い。そ
うした人の心が天に届いて五風十雨の恵みを下さっている。

其れは毎年75%の的中率のある別項の「天気カレンダー」を見れば分かるでしょう。其れに比べて気象庁の天気予報
は例えば05年末から「暖冬」と予報した。しかし実際の05年末から06年初には3ヶ月予報の「暖冬」ではなくて「酷寒・
豪雪」となり、多数の犠牲者が出た。

このため気象庁は「北極振動」と言う造語で言い訳したが、此の歳は太陽黒点の最小期であるから寒くなって当然でし
た。其れを気象庁が無視した以上、この失敗を認めて反省すべきである。所が此処は転んでも只では起きずに、此れ
までは、失敗をテコに、此れをチャンスとして更なる予算獲得をして来たのですから不思議な「異常」が尚も続くのです。

ですから私たちは科学や医学を過信せず、もっと自然を信じるべきです。自然は何も狂っていない。雨が降れば何処
へ行っても人は「天気が悪い」と言うが、悪いのは寧ろ何時だって人間です。人はまた例えば「頭が悪い」とか、「足が
悪いので歩けない」などと言うが、人間にも悪い所などはないのです(病気を参照)。

自然界は完全な因果のシステムで動いており、人類も其の一部ですから完全なる存在です。他人と違う処が有っても、
其れは過去に原因があり、其の原因を解消するため個別に現象化しているに過ぎない。

其れもまた完全性の一環として認識すれば、雨や嵐も人類の穢れを大掃除するための完全な仕組みによって生成消
滅している事が理解できる筈です。其れに無知な防災工事は、却って強烈な反撃を食らって人災を増やすのです。

医心方・・・・・・千年以上も前の日本最古の医学全書で三十巻に及び国宝になっている古典。此れは安倍の晴明
と同時代のお鍼博士・丹波康頼が著したもので、確か、亀岡市の鍬山神社がその縁りの地である。因みに其れ以前に
は大同三(808)年、平城天皇の勅命により阿倍真貞らによる「大同類聚方」(全百巻)が有った。

また従来から、大阪道修町では支那の「神農さん」が薬業の神として祭られて賑わっているが、其の祖は少彦名の神、
即ち大国主命と共に国づくりした神であり、同時に彼こそが医学つまり方位学と薬理の祖であった。古の日本の医学を
和方と言ったが、其の原理は方位でした。だから「医心方」と書いて「方」を付けている。

「医心方」と書いて「心」を「方」の上に置いたのは方位よりも心が大切であるからです。古来、「病は気から」と言います
が、其の病も、嬉しい事や楽しい事があると治るものです。其れが自己治癒力を強めた。心は他人が手を下して治す
よりも完治を早める力がある。

其れに対して、現代医学は手術を濫用しますが、古来日本では世界一優れた刃物が有りながら、野蛮に切る事を避け
て来ました。神事では「大祓い」があり、其れには輸血や切開を「ひはなち」と「生膚絶ち」とし、これらを天津罪・国津罪
として戒めて来た。

世界一優れた日本刀と言う刃物の技術があっても切って治せるとは信じない、優れた精神文化が日本にはあったから
です。

石山寺と保良宮・・・・・・石山寺は聖武天皇の勅願により天平19(747)年、続いて天平勝宝元(749)年、良弁僧
正によって開基された。東大寺からの円暦方位は保良宮(今ではその遺跡は不明だが国分から晴嵐として)が1/1、
石山寺が1/2である。

つまり東大寺の祭主・孝謙天皇がこの保良宮を造ったのは、正月を決める修正会の意味が有ったとも言える(歳時記
の1/1を参照)。

石山御堂・・・・・・石山本願寺は今の大阪城の所に蓮如が1496年に坊舎を造り、其れが大坂石山本願寺へと発
展した。

信長は「天下布武」を図り、其の前に立ちはだかった一向宗の勢力に手を焼いた結果、その根拠地としての石山本願
寺を10年にわたる合戦の結果1580年に陥落・滅ぼしてこの大阪を手に入れ、天下統一を早める事が出来た。この
地には次の秀吉が天下一の大阪城を築いたが、其の前身は此の寺だったし、それ以前は古墳であったろう。

古墳の霊を祝う、其れがイワイ(岩い)の「石山」であり、よって暦を読む場として御堂が作られた。今の大阪のシンボル
として「御堂筋」が有るが、其れは北と南に有った御堂を通る道筋に前の関市長の都市計画で作った新道である。

今の北御堂(津村別院)は本町に有り、また南御堂は大阪城から2.5キロも西に離れた難波の地になっているが、
「城」よりも信仰の地域が何れも繁華街となったのは道理とは言え皮肉である。因みに今の大阪城は秀吉時代のもの
ではない。1615年、大阪夏の陣で落城したので1629年に徳川秀忠が造り換えた。

其れも明治維新で焼失したので1931年に鉄筋コンクリートで再建したものである。

●いす・・・・・・・

伊豆・・・・・・・伊豆は当て字であり、イズの意味は「居付き、厳き」に通じる。

飯綱(いずな)・・・・・・・飯綱使い。管くだ狐を使って魔術を行うこと。信濃の人・伊藤忠綱が、天福元年、飯綱神社祭
神:三狐<ミケツ)で行を行って神通力を得て飯綱の法と称した。後に狐遣いの別称となった(広辞苑)。「狐」、及び「稲
荷」を参照。

但し三狐ではなくて「三弧」の神紋を持つ所ならば奈良の十津川の「三柱神社」(倉稲魂神ほか2神)がある。倉稲魂神
が「ミケツ」神であって狐ではない。つまり三狐ではなくて、もし三弧であるならば「三輪」に通じる。水戸市にも昔は飯綱
権現、今は飯綱神社がある。

 
イスタンブール・・・・・・・・オスマン帝国は中央アジアの遊牧騎馬民族が造った国。今でもジリットと言う試合を
する。此れは7人づつの騎馬戦である。ただ、敵を追い詰めても其れ以上は攻めない。負けを認めたら攻撃しないと言
う鉄則がある。断食月になると、彼らは日の出から日没まで食事をしない。

ゆっくりと夕暮れまで待って夕食を楽しむ。街も活気付くのが此のラマダーンです。オスマンが都を造って500年たった
今、イスタンブールの9割がイスラム教徒である。だがビザンツ帝国の高い文化を受け入れた。此の街には1000以上
のモスクがあるが、宗教宗派の対立はない。特にキリスト教会をマヤ・ソフィアと言う巨大寺院として残している。

日の出前に此の寺院の塔に上がれば、イエス・キリストのモザイク聖像には朝日が当って、聖像から光を放ち始める
仕組みになっている。此処はイスラム教の都市であるが、「良い物は良い」として残された。アジアとヨーロッパと言う東
西の接点にある寛大な都市イスタンブール。イスラム支配は大らかでした。

中でも多くのモスクが、有名な建築家のミヌル・シナンが建設した。彼は先の「マヤ・ソフィアを越えたい」と願い、150ヶ
所ものモスクを作り続けたという(以上、07/1/20のNHKTVより引用)。

次は宮殿についてトルコ共和国大使館 トルコ政府観光局HPから引用する。--- ボスポラス海峡、金角湾とマルマラ海
の出会うところに、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国の中心であったトプカプ宮殿があります。

トプカプ宮殿は様々な建物が迷路のようにつながっていて、豪奢を極めた宮殿の中で、スルタンと家来たちは生活し、
統治していました。宮殿の外側、第一庭園と呼ばれるところは、樹木の生い茂る見事な庭園です。第二庭園の右側、
糸杉とプラタナスの木陰になる場所はかつての宮廷の調理棟で、現在は帝国のクリスタル、銀、中国陶磁器のコレクシ
ョンの展示館となっています。

左側は、スルタンの多くの妻たち、そしてその子供たちが暮らした部屋が残るハーレムで、何世紀にも渡った密会の余
韻がいまも漂い、訪れる人を不思議な気分に落とし入れます。現在では、第三庭園には謁見の間、アフメット3世の図
書館、スルタンと家族の衣装の展示館、宝物館、極めて貴重な中世の手書きの細密画のコレクションがあります。

この聖域の一番奥中央には聖衣の間があり、オスマン帝国がイスラムのカリフ制度を確立させた時にイスタンブール
にもたらされた預言者モハメッドの遺蹟が祀られています。

スルタン・アブドゥルメジット1世によって19世紀中頃に建てられたドルマバフチェ宮殿は、ボスポラス海峡のヨーロッパ
側の岸に沿って、海峡側を正面にして建てられた全長600メートルの宮殿です。56本の円柱と、750個のキャンドルがつ
いた4.5トンの重さの巨大なクリスタルシャンデリアのある広大なレセプション・サロンに、訪れた人はきっと目を見張る
ことでしょう。

バード・パビリオンではかつて、宮殿に住む特権階級の人々を喜ばせるために、世界中から集めた鳥を飼っていまし
た。トルコ共和国の建国の父であるアタチュルクは、1938年11月10日にこのドルマバフチェ宮殿で亡くなりました。

19世紀、スルタン・アブドゥルアズィスは、ボスポラス海峡のアジア側に、木蓮をたくさん植えた庭を中央に配した白い大
理石造りの夢のように美しい宮殿、ベイレルベイ宮殿を建てました。ここはスルタンの夏の別荘に使われ、外国からの
賓客が訪れたときにも滞在先として使われました。

フランス皇后ユージェニーも、ここに滞在した一人です。ユルドゥズ宮殿のステート・パビリオンは、一連のパビリオンと
モスクを統合した建物です。アブドゥルハミット2世によって、19世紀の末に完成しました。建物の中で最も広く優雅なシ
ャレは、スルタンたちが暮らし、客をもてなした場所で、とても贅沢な作りです。

世界中のあらゆる場所から集められた花々と多くの樹の茂る広大な庭園の中にある宮殿の全景は、ボスポラス海峡
の中でも最も素晴らしい眺めの一つです。現在は修復中のため、シャレと庭園のみが一般に公開されています。

クチュクスとして知られるギョクス宮殿の名前は、その小さな宮殿の近くを流れてボスポラス海峡へと注いでいる川から
とられたものです。19世紀中頃、アブドゥルメジット1世によって建てられ、夏の住居として使われていました。アイナル・
カバク・サマー・パビリオン は、もとは18世紀に建てられたもので、その後多くのスルタンによって修復されました。

この名前は、1718年に取り付けられたポプラの鏡という、ヴェネチア人から贈られた有名な鏡からつけられました。金
角湾に面したこの宮殿は、伝統的なトルコ建築の最も素晴らしい一例です。19世紀に造られた ウフラムール・パビリオ
ン は、庭園にある菩提樹の木に因んでその名がつけられました。

建てられた頃は、ここは町を囲む田園地帯でしたが、今では大都市イスタンブールの中心になってしまいました。 メラ
シム・パビリオン は公式行事のために使われ、 マーイエット・パビリオン はスルタンの側近者や、ハーレムの女性たち
が宮殿外に出かけたときの宿泊先としてたびたび使われました。

緑濃い丘の上にある マスラク・パビリオン は、スルタン・アブドゥルアズィスが狩猟ロッジとして造ったものです。これ
は、19世紀後期のオスマン装飾様式の建物として特に注目すべきものです。フロリヤ・アタチュルク・シー・パビリオン
は、歴代の大統領のための夏の別荘です。

1935年に建てられたこの建てものは、マルマラ海に向かってT字型に突き出していて、そこでは20世紀初頭の見事な調
度品の数々を見ることができます。アタチュルクはここに住んだ最初の大統領です。次はモスクです。アヤ・ソフィア寺
と向かいあうように建っているのが、優雅な6つの尖塔を持つ スルタンアフメット・モスクです。

1609年〜1616年に建築家メフメットによって建てられたこのモスクは、内部の壁が美しい青と白のイズニックタイルで飾
られていることから、ブルーモスク という名で広く知られています。夏の夕べには、光と音のショーが繰り広げられま
す。巨大なドームと4つの鋭い尖塔を持つスレイマニエ・モスクは、金角湾の西岸にそびえ建ち、イスタンブールのモス
クの中でも最も美しいモスクと言われています。

1550〜1557年にオスマン帝国の黄金時代の有名な建築家シナンによって建てられたこのモスクは、丘の頂上にあっ
て、中庭の四隅にそびえる4つの尖塔がその大きさを際立たせ、どこからでも人目を引きます。内部のミフラブ(祈りの
ための壁のくぼみ)と説教壇はみごとな彫刻が施された白の大理石でできていて、美しいステンドガラスの窓から差し
込む光は鮮やかな色に染められます。

このモスクの敷地内に、シュレイマン、その妻ヒュッレム・スルタン(ロシア名ロクセラーナ)の霊廟があり、その近くには
シナンの霊廟もあります。また寺院内には、4つのメドレセ(イスラム神学校)、1つの医学校、キャラバンサライ(隊商
宿)、トルコ浴場、貧しい人々のための厨房とホスピスがあります。

建築家シナンのもう1つのすばらしい建築物、リュステム・パシャ・モスクは1561年にシュレイマン帝の娘婿の宰相リュス
テム・パシャの命によって建てられたものです。みごとなイズニックタイルが、こじんまりとして均整のとれた内部を飾っ
ています。

ファティーフ・モスクは1463〜1470年に建てられ、イスタンブールを征服したオスマントルコ帝国のファティーフ・スルタ
ン・メフメットにちなんで名前がつけられました。ここには彼の廟があります。イスタンブールの丘のもう一方の頂上にあ
り、巨大なモスクの他に宗教的な建物、神学校、ホスピス、浴場、病院、キャラバンサライ、図書館などがあり、一見の
価値ありです。

巨大なエユップ・モスクは金角湾の近くの城壁の外側にあります。預言者モハメッドに従って聖戦の旗手を務めたエユ
ップは、コンスタンチノープル陥落の聖戦の最中の670年にここで殉死したといわれています。オスマントルコ帝国がイ
スタンブールを征圧してから最初に建てられたこのモスクは非常に崇拝され、今も多くの巡礼者が訪れます。

1597〜1663年に建てられたイエニ・モスクは、エミノニュの港を見下ろし、歴史の古いこの都市にやって来るフェリーや
観光客を出迎えます。現在では優雅なドームやアーチはたくさんの鳩の住みかとなっています。

目を見張るようなイズニックタイルが寺院のバルコニーを飾っています(以上はhttp://home.turkey.or.jp/ja/destin/
istanbul/mosque_C.html トルコ共和国大使館 トルコ政府観光局からの引用)。

イスラ−ム暦・・・・・・・・太陰暦(別項参照)と太陽暦。以下、http://www.kotoito.net/log/item/398/catid/5「暦法の
哲学」から引用する。------暦には共同体重視というイスラームの特色が現れている。

イスラーム暦はヒジュラ暦(聖遷暦)ともい うように、ムハンマドがマッカ(メッカ)からヤスリブ(マディーナ=メディナ)に
移り、イスラーム共同体を開いた年を元年とする。

ムハンマドの生誕年でな いのは預言者はあくまで人であるという立場を示し、最初の啓示が下った年でもないのは、イ
スラームが個人の宗教であるだけでは不完全で、イスラーム共同体 の宗教であってはじめてイスラームであるというこ
とを示すのである。

イスラーム太陽暦は、かの「ルバーイヤー ト」のオマル・ハイヤームの手になるジャラーリー暦に起源をもち、暦法とし
てはわれわれの用いるグレゴリウス暦よりもの精緻である。一般のイスラーム暦は太陰暦であるが、イランの暦は一
般に言われるイスラーム暦 ではない。イランはイスラーム太陽暦(ヒジュラ太陽暦)という暦法を採用している。

これはイスラーム革命以前に シャーがイラン太陽暦(ペルシア帝国暦)を用いていたため、革命後、暦法改変の混乱
を避けたためともいわれる。

イスラエル・・・・・・・・600万人がホロコーストで犠牲になった。だから何をしても良いとする困った国。パレスチナに
囲まれている。特にヒズボラがあるのは油断出来ないとして敵視し、敵を作り其処から更に強迫観念を増幅させる悪循
環の国。

今回、ヒズボラから500発のロケット弾を打ち込まれた事で、より強迫観念に囚われている(06/12/30NHK総合TV)。

ユダヤ民族は元々パレスチナ人と同胞だった。所がイスラエルを建国した後は周辺のパレスチナ人を追い出し、殺戮
している。つまり今のイスラエルの支配者たちはユダヤでもパレスチナでもなく白人であり、乗っ取り屋に過ぎない事が
分かる。

以下、引用すれば、イスラエルの人口は約600万人で、其のうち100万人は旧ソ連が崩壊する時に脱出した人たちであ
る。ホロコーストでは約600万人が犠牲になったとされるが、イランの一部強硬派は「イスラエル建国を正当化するす
るため誇張されている」と主張して来た。

例えばイラン大統領は「欧州の一部の国は、ヒトラーが罪のないユダヤ人数百万人を殺したと主張し、疑う者を批難し
投獄している」と言った(05/12/10毎日記事)。

またロシア軍のバルエフスキー参謀総長は05/12/1、イスラエルは「核弾頭を保有」と述べた。イスラエルは既に長
期間100〜200ヶ保有していた。米国は北朝鮮やイランの核計画に厳しいが、イスラエルに対しては黙認である。とす
れば此れは二重基準の政策ではないか、と(ユダヤについては別項を参照)。

イスラエルは1967年の第3次中東戦争以来、毎度パレスチナを不当に攻撃して来たが、例えば06/7/12〜8/12にもイ
スラエル軍はレバノンを不当に空爆した。国連施設まで誤爆し、安保理による停戦合意後も卑劣にも侵略した。目的が
ハッキリしない此の戦いでイスラエルとベイルートは1000人余りの犠牲を出した。

他方、戦闘開始の7/12に、ダン・ハルーツ参謀総長は手早く自分の持ち株を売却した。彼の目的はハッキリしていた
のだろうが、軍内部は兵站も指令もハッキリせず混乱していて貯蔵庫は空っぽだった。だから参謀総長の辞任を求め
ると言う(イスラエルのハアレツ紙8/16)。

またロシアのプーチン大統領がオルメルト首相と会談した時にカツァブ大統領について「大統領によろしく。強い男だと
言う事が分かった。10人の女性を相手にしたとは!」「我々はみんな羨ましがっている」と発言した。女性職員への強姦
疑惑が持ち上がっているカツァブ大統領に対しての賛辞であった(06/10/21朝日記事より)。


イスラム・・・・・・アッラーを唯一の神とし、偶像崇拝は禁止。信徒は一日五回メッカに向って礼拝(信仰告白)
し、一生に一度はカーバ神殿に巡礼する。此処で篤い連帯感を得る。信徒は世界人口の1/5の13億人である。因みに
イスラームとは「神に従う」(神を信じ神に任せる)意味である。

またアッサラームとは「平安・平和」、ムスリムとは「教徒」の事。イスラム聖典はコーラン(クルアーン)で、此れは「詠ま
れるもの」を意味する。此処にはムハンマド(マホメットを参照)が神から受けた啓示(神の言葉)が書かれている。彼は
貿易商人だったが、人間は弱いものとして神によって作られたとし、神の教えに従って正しく生きる事を述べた。

誘惑にも弱いために禁酒とした。結婚は男女の契約であり、契約金の取り決めも有る。女性は異性に対して美しい所
を見せてはならない。このためベールを着ける。アッラーは商売を許したが、利子を取る事を禁じた。このため銀行は
利子を取らなかったが、今はトルコのEU加盟など欧米化により、其の辺りが揺れている。

イスラム教は日本に馴染みがないが、ガーゼやアルカリなど医学・化学の外来語はアラビア語から来ている。因みにア
ルコールもアラビア語であるが、イスラム教徒(ムスリム)は禁酒である。

最近はアフガンとイラク戦争の過程で、日本のテレビの画面からはカーバ神殿でムスリムたちが反時計回りに廻る映
像が屡報道されるようになった(イスラム教では信徒たちが神殿を廻るので昔は「回教」とも言った)。マホメットは孤児
として育ったためにウンマと言う共同体をメディナに作った。此れがやがて巨大化したのが今のイスラム社会である。

イスラム教徒は五行と六信とを行う。中でも五行とは信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼の義務である。一日五回の礼
拝、ラマダン(断食)月、豚肉を食べない、飲酒をしないなど、戒律の宗教である。起源はアダムやアブラハムであり、モ
ーゼ以後にユダヤ教、次にキリスト教、そしてマホメットからイスラム教が出た。

と言う経緯から三教は姉妹教とも言われ、近代に入るまではエルサレムを中心として仲良く共存していた。所がイギリ
スの二枚舌外交や列強がアラブを国割りした結果として、イスラエル建国前後から対立が激化した。

日本が元々血筋で神との関係を上座と下座にランク付けしたのに対して、三教の特長は凡そ一神教であり、また「神
の前で人は平等」とする矛盾を持つ。中東は東西文明の十字路であり、其処に起こったオスマン帝国がスパイスやチ
ューリップを西洋へ伝播すると共にイスラム教を広げた。コーヒーもシュガー(ソッカル)も中東が発祥の地でした。

天文学やルネッサンスの科学も、中東からスタートしたし、羅針盤や紙も、シナから西洋に伝えたものです。結局イスラ
ムが西洋の近代化の原動力だった事になる。イスラムの平等思考はビジネスに向いており、銀行の場合も利子をとら
ないので各地に拡大している。

銀行だけが企業から利子を取るのは不公平と解釈するからである。イスラム社会は家族的であり、家族的な連帯意識
が強く、ウンマ(イスラム共同体)を広げている外、旅行者にも親切な社会である。

現在、イスラエル国内にも100万人のアラブ人(ユダヤ教徒として)がおり、またニューヨークやインドネシア(キリスト教
から90%がイスラム教徒に変わった)にも、そしてアフリカの北半分から更に南部にもイスラム教が拡大しつつある。
今や13億人の信徒がある。

こうなったのは今の弱肉強食の西洋文明とは逆の、相互扶助を図るイスラム社会に多くの人々が共感し始めたからで
ある(大要は04/6/12NHKテレビ、及び05/8/24-06/5/22のNHK教育テレビから引用した)。さて、イスラム教の神、ア
ッラーが果たしてどんな神なのか、と言えば月神である。

月神は熱砂の砂漠を冷やしてくれるし、夜道を照らす神であり、東南アジアでは稲作の水を恵む神であるからだ。だが
月の光は其の明るさで多数の星を隠してしまうので星族から睨まれる。其処で東西の接点にあるこの諸国は星を食う
月として国旗に掲げる。即ち、イスラム教圏は白人や西欧と対抗し戦う宿命を持つ。

しかし宗教が戦争の原因ではなくて暦法から来るお互いの生活慣習が相容れないのである(「宗教戦争」を参照)。

イスラム教の国家・・・・・・イスラム教を国教とする国家。イスラムは一つがキーワードである。コーランも祈り方も一
つである。偶像は禁止と言う点でも国々を超えて一つになろうとしている。ただイスラム教徒が多いと言う国は多いが、
此れを国教として祭政一致で政治をしている国はイランとアフガニスタンである。

後者の場合、憲法とシャリア(イスラム法)で改宗を禁止しているのでキリスト教に改宗した者は死刑とする厳しさがあっ
た。因みにイランでは女性が外出する時に頭から被る布をスカーフではなくチャドルと言う。其れに対して例えば05年に
は自由を標榜して来たフランスがスカーフを禁止してイスラム教徒の不評を買った。

また飲酒についてイランでは禁酒、トルコではOKである。イスラムは一つだが、国々の憲法が違うので今の所は国に
よって祭政一致と祭政分離の政治的な温度差がある。宗派の違いもあって、シーア派はシーア・アリを慕っていた人々
を意味し、スンニ派はシーア派以外の人々、もしくは「スンナ=慣行」を意味する。

だが「神の法を人の作った憲法で変えてはいけない」と言う考え方もある(以上の一部は06/9/のNHK教育TVより引
用)。


イスラム復興・・・・・・上記の通りイスラム圏は永く繁栄してきたので今のヨーロッパ文明の軸足となっていた。所が
大航海時代を境にして西洋文明によって零落した。以後エジプトはじめ中東は戦後、ソ連の援助によって国家建設を
進めてきたが、米国の石油戦略によって米国に傾斜したイランではパーレビ国王がイラン革命で倒れた。

其の後、湾岸戦争では米国がイラクを武力で屈服させた。だからホメイニ師が出て欧米の物質文明に反発して信仰と
伝統を重んじる気風となった(「トルコ」を参照)。其れが「イスラムの挑戦」であり、9.11以来の「テロ」続発が「イスラ
ムの挑戦」ではない(05/7/21のNHK教育TVより引用)。

他方、04/12月にはインドネシア・アチェが大津波(別項を参照)で17万人、続く05/10/8にはパキスタンのイス
ラマバード付近の大地震で2.4〜4万人が死去した。何れも殆どの住民がイスラム教徒の地域であり、争いの坩堝に
なって貧困化していた。

今回の大地震後に被災地に支援物質を届けたトラックに住民がよじ登って奪い合うシーンがテレビニュースで報道され
た。確かに必要な物資が足らないのだろうけれども、物はなくても知恵は出るだろう。復興のためにも此れまでの争い
やこうした奪い合いは何とか止める知恵を出して貰いたい。

出雲大社・・・・・・・出雲大社を今でも「出雲のおおやしろ」と読む場合がある。今の社の高さは24mだが、昔は48
mも有ったと言われ、其の前はもっと高かったとも言われる。実際、近年に社前から13cの三本柱が出土した。ただ高
過ぎたので六回も倒壊している。また宮司伝承として、それ以前は32丈、即ち約100mの高さが有ったと言う。

所で亀岡市には元出雲があり、出雲大神宮と言う神社がある。今の島根県に出雲大社が出来る前は、亀岡市にあっ
たのです。出雲大社はまた杵築(きつき)大社とも呼び、文字としては杵築ではなく、「木寸」と書いた例もある。九州に
は杵築市、奈良には杵築の地名が残るし、島根には木次町があるのは、何れも同根である事を暗示する。

つまり杵築(きづき)とは大きな柱を立てて祭りをする事でした。「木寸」とは高木を祭り、その主柱が次々と動く日影とな
って動くのを刻々と追って計り、方位に対する時刻を決め、更に暦まで作った所と分かります。

大王と書いてオオキミと呼んだが、オオキミとは太陽の柱(宮柱=大きな木ではない)を見た方であり、或いは「ミカド」と
は日影の角度を見た方である(「御柱」、「玉串」を参照)。

●出雲・・・・・・・記紀や風土記に出雲が出てくる。この当時は島根県にあった。ただ何処から何処までかとハッキリ境
界を画定するのは難しい。昔から日本では万里の長城の様な城壁を設けなかった。自然の地形である山の稜線や川
を境界としたからです。特に祭り事では高台がポイントとなり、其処で太陽を観測して暦を決めて祭りをした。

其の祭りを認めるかどうか、参加するかどうかで小国に分かれていた。記紀・風土記時代は島根。其れ以前は丹後や
播磨。其れ以前は亀岡。其の前は山城、其の前は大和の三輪と奥州、其の前は筑紫から四国を含めた西日本一帯
に広がっていた。播磨の国の風土記には伊和大神が宍粟郡を治めたとの記述がある。

此の神は今では謎となっているが、記紀のニニギノミコトである。彼は高千穂ではなくて此の宍粟郡に最初に天下りし
ていたのである。つまり播磨が出雲の国の一部だった。

●出雲の国・・・・・・・記紀にある古の出雲の国に関しては諸論が有るものの、「今の島根県の事ではなくて奈良県の
事」、と見るのが本書の立場であるが、其れに関して細部は各項目で述べる(「葛城王朝」、「銅鐸」を参照)。ただ此処
では一点だけ述べて置く。鳥取県・青谷遺跡からH12/6/9に弥生人の脳が発見された。

此処は1800年前の遺跡で、大量の渡来式土器と共に朱で渦巻き紋を描いた木製盾や90体を越える弥生人の骨が見
つかっている。脳が見つかったのは三体で、身長が男は162、女が158?cmだった。中には結核に罹っているのもあっ
た。他に木製の4弦琴やガラス玉も出土した(06/6/9の読売テレビ「今日は何の日」より引用)。

つまり此の辺りは、日本の神代からの出雲の国ではなくて、弥生時代の幕開けとなった所と判明しよう。

●出雲路・・・・・・・京都市の下鴨神社の西に「出雲路」の地名があるが、河内長野市の神ヶ丘にもかつて「出雲路」と
言う旧街道があった。また紀州の潮岬や茨城県の岩間地方にも確か、出雲の地名があり、其の他、宝塚市にも小浜
御坊(出雲寺山・毫摂寺)が有る。

伊勢神宮・・・・・・日本人は古来太陽を神として伊勢に「天照大神」を祭るなど、伊勢には特に「日本神道」が息
づき、其のメッカとして栄えて来た事や、今も、式年遷宮を繰り返している事は誰もが知っている。とは言うもののそうし
た常識はどうも怪しい。

此の神宮は元々、天皇だけが独占的に祭主となる場だったので庶民が立ち入る事は一切出来ない聖域(禁足地)でし
た。しかも、此処には太陽を祭る仕組みが殆どなくなっている。その原因として、日本では長く神仏習合時代が続いて
此処でさえも神宮寺が有ったからと言う理由よりも、斎宮で星の暦を作っていた可能性からです。

伊勢も斎宮も天皇の直祭・直轄地であり、他者は出入り禁止としたにも拘わらず歴代天皇は誰一人祭りに来てはいな
いので、その気が全くなかったと見る外はない。日本の支配は武力ではなく、暦法争奪によって行われた事は、幕末ま
でこの神宮から発行された「神宮暦」が専売されていた事実を見ても分かる。

天下の祭り事を司る天皇としては天文暦法の管理運営が国の大事だったのです。このため垂仁時に倭姫が大和から
離れたこの地に神宮を遷して天文観測を続けて暦を編纂する所としたものと推定する。

天皇交代の都度、代々67人の斎王(御杖代)が斎宮に来て居ついて、2キロに及ぶ広い場所で数百人が国府以上の
規模を持って一体何をしていたのか謎とされている。斎王は年に二回ほど神宮祭祀に与ったものの、「お飾り」に過ぎ
なかったのですから天皇も斎王も祭りをする気が初めからなかったと見る外はない。

つまり暦法維持のための天文台のような役割だったと見て良い。だが太陽と言うより月と星に関心があった。
さて其の斎宮の由来と思われる記録が文武天皇2年に「多気大神宮を度会に遷す」(歳時記の2/4を参照)とした点で
ある。

因みに伊勢南部の両宮一帯を含む広い地域が渡会の地域であった所に、多気郡と言う郡名が既に孝徳(在位645〜
654年)に初めて創設された。其処で皇大神宮は孝徳時に御厨(みくりや)と改称し、神郡、屯倉(みやけ)を置いたが、
斎王は後醍醐天皇以後廃絶となった。

此処から祭主は藤波家の世襲となり、明治以後は祭主が皇宮家になっている。其れまでの大神宮が実は滝原にあり、
其れを明和町に遷して斎宮としたのであろう。今も滝原には神社があるが、此処では観測点としてやや問題があるとし
て鬼門の方位に節分の日に遷した筈であり、このため斎宮から海岸に向かえば今も「御厨野」の地名が残っている。

夜見の星座の観測のためには、山あいの滝原よりも東北の海岸に面した現在地の方が水平線上から観測出来るの
で適していた。現在地ならば斎宮は北に水平線、東には明星地区があるが、此処から明けの明星と冬至の日の出
が観測できる位置でした。

次は傍証であるが、また滝原から明和町の間には両大神御魂を祭る相鹿上(おおかがみ)神社がある。此処は近くの津
田神社と共に社伝に古来、斎宮の祈年祭・新嘗祭に与る宮とあり、今も節分の日が春祭りである。この頃は歳末に日
食が続き、大陸の暦法と不一致が有れば信を失うのみならず、国内でも天皇の大権を疑われるからである。

前年には大宝律令を発布したが、この後に初めて日本国成立を唐や新羅に宣告して710年に平城京へ遷宮する事に
なる。さて神宮の仕組みについては、斎宮(跡)の外に内宮と外宮があるが、内宮は垂仁時に倭姫(御杖代)によって
天照大神とヤタの鏡が祭られて皇大神宮となった。

また外宮は雄略天皇の時代に豊受大神を丹後から迎えて祭った宮で豊受大神宮(渡会宮)と言う。垂仁時に渡会氏が
越の賊を討ち、伊勢国造となって大神主を兼ねて以来、幕末まで外宮に奉仕した。其れに対して内宮の神主は皇大神
宮が伊勢に祭られた垂仁時から中臣氏系の荒木田氏が奉仕して幕末まで続いた一族である。

伊勢は度会(わたらひ)と言う地名が示す通り、海賊の活躍した所ですから渡来の二世が住み着き、その後は伊勢平氏と
言う熟語となった様に、この地は平家発祥の地でもあった。平家は水軍をバックに活躍したのですが、其れは伊勢が
元々海神(わだつみ)の拠点であったからです。

海神族は星の観測をしながら巧みに船を操って安全な航路を航海した。つまり稲作民よりも天文観測に秀でていたの
です(歳時記の2/4、4/1、11/21を参照)。

さて神宮は天武天皇時代から二十年に一度の大事業として式年遷宮を続けているが、其れを支えたのは実は尼僧※
でしたが、単なる建て替えの遷座を式年遷宮と言うのは正しくない。

※神宮寺再興「良仁上人」、勧進聖の僧・乗賢や観阿弥・守悦尼、取り分け熊野の清順尼はその功績により勅許で「慶
光院」の称号が与えられたが、続く「周養尼」も綸旨を得て信長や秀吉からの寄進を受けた。外にも西行法師や一遍も
この国中勧進に努めた(この注記部分についてはサンケイ記事2003/12/9日、所 功氏の論説より一部引用した)。

●いた・・・・・・

▲イタドリ・・・・・・春の野に生えるスカンポ。酸っぱ味が有る春の味。不思議な話であるが海の雲丹の大好物と言う
(「雑草ノオト」より引用)。丹比氏の家紋。

イタリア・・・・・・かつて日独伊三国同盟を結んだ仲の国。ムッソリーニ政権だった。最後の国王ウンベルト2世の息
子で旧サボイア王家のビットリオ・エマヌエレ氏が売春絡みの組織に関与した疑いで逮捕された(06/6/18朝日新聞)。

●いち・・・・・・


・・・・・・・・市、即ち市場(マーケット)と解釈しては誤解となる。「亠」と書いて「鍋蓋」と言うが、この呼び方も古事・
祭事に無頓着な俗学によるものである。何故なら其れでは先ず「亠」を付けた漢字の「亡亢亦亥交京高亶」などについ
てどれ一つとっても的を射た説明が出来ないからです。

其処で異説を述べれば、「亠」は地平線(一)に縦棒(|、つまり見柱)を立てた形で、物事の原点を示したものだ。「亠」
は、実は太陽観測の定点(「玉串」を参照)でした。

だから「一」(地平線)から上下、そして丁止正の文字となったし、従って「亠」の付いた先の六、市、亡亢亦亥交京高
亶・・・は定点の手前で行われた何かを示したものです(「京」、「亢」を参照)。

さて「市」の字は「亠」(鍋蓋)に「巾」を付けて「シ」と読む会意形声文字とされているが疑問である。「市」は定点の四方
八方に幡(旗)を立てて、祭りがある事と其の地点とを明示した字である。

因みに須佐之男命の神女(みこ)に市杵島姫命があり、彼女は弁天様とも言われているが、決して水神や芸能神や商
売女ではなくて厳島、即ち「天を弁えて」斎き祭りした聖女でした。

ですから「市」とは「鍋蓋に巾を持たせる所」ではなく、鍋フタに布切れをぶら下げた形で鍋やフタや布切れを売買する
所を図示した文字でもなかった。

ではなかったが、やがて祭りや縁日の前後に人が集まる言わば門前町となったのは事実であり、其処から祭り事を標
榜する自治体まで今では「○×市」と中身のないイベント町にも「市」の字を被せる悪弊が横行している。

(いちい)・・・・・・櫟樫。アララギとも言う。木の国・飛騨の位山は神武天皇に皇位を授けた神の山と言う伝承があ
る(記憶が定かではないが)。次に聖武天皇の時に、このアララギで笏(シャク)を作って献上した所、この木で作った笏
は狂いがない。其処から「一位」の名で呼ばれるようになったと言われる。

この木は狂わない。赤身と白身があり、皮のほうを白太と言い、芯の方を赤太と言う。しかもこの木には油分があるの
で次第に艶が出て美しくなる。このため着色・彩色を施さずに能面や根付けが作られて来た。位山は今もアララギの原
生林がある。

此処から高山はイチイの一刀彫の名産地となり、昭和の末には伝統的工芸品に指定された(06/5/10の読売TV「今日
は何の日」より引用)。

一願・・・・・1つの願い事。御利益を授ける寺社は何処にでも有るものですが、問題は欲の深い注文です。本来は一
願不動とか言って願い事は1つの方が良い。でなければ願ったご本人も忘れてしまう。人の場合でも他人から一杯要
求されるのは困るでしょう。次に祈願するには日取りと方位がポイントかと思う。厄年なら其の年齢かどうか。

普通は恵方へ参ります。因みに07年の恵方は壬、即ち南南東。現在地(勤務先)などから見ます。宣伝していて賑わっ
ている大社寺が必ずしもご利益が有る訳ではない。

一期一会・・・・・・イチゴイチエ。現代の日本では「人は平等だ」と言って対等に扱おうとする。同じ肉体の塊として
一律平等に扱おうとするが中々旨く行かない。人は同じではなくて元々個性が違い千差万別であるから一律に扱えば
旨く行かなくて当然です。人は誕生日も因縁も違う。だから決して同じではない。

譬え誕生日が同じであっても年代や生まれた時期が違えば意思も運命も違う。譬えメーカーである親(血筋やDNA)が
同じであっても、誕生日、性格、年齢、兄弟、友人、学歴、職歴、環境・・・・によって別々の意識と運命を辿ります。です
から他人と比べたり競争しても余り意味がないと言える。

其の他、同じ肉体をしていても能力、職場環境、職種、地位、収入、財産、持病、障害、家族環境・・・・・なども違う。
ならば生き方も違っています。従って一律平等はない。自由もなくて制約ばかりです。それらが如何にも有るかのように
思うのはマヤカシか幻想である。

そうした違いや時間的な制約の中で、人と人とが何らかの縁を持ってある時に出会い、共に過ごす相手となるのは実
に奇縁です。其の巡り会わせを日本人は「一期一会」として大切にした。

▲「一億総懺悔」・・・・・・・戦中には鬼畜米英を言ったキリスト教が戦後一転して此の「一億総懺悔」をスローガンとし
て始めた。

▲「一億総白痴化」・・・・・・・の予言的中。かつて評論家の大宅壮一氏(1900-1970)が、テレビが急激に普及し出した
60年代前半、「一億総白痴化」という表現をして日本人の思考パターンに与えるテレビ文化に懸念を表明したことがあ
る。それから40年近い歳月が過ぎ、奇しくもこの大宅氏の先見の明が当たった事になる。

▲一億総ボケ時代・・・・・・・人間は成長して肉の塊になって団塊の世代に達するのではない。肉体だけ大きくなれば
完成品となる訳ではない。或いは美人か不美人かと言う肉体主義で価値判断すべき存在でもなくて、精神性のある存
在です。精神性とは見えない存在を捉えて認め、或いは思考すると言う精神的な働きの知性を言う。

人間と動物の違いは道具や言葉を使うかどうかではなくて実にこの点にある。肉を食らったりスポーツで反射神経を訓
練する行為は、動物と同じになろうとする事であって何ら人間的とは言えないのです。知性や精神性とは例えば神を認
めるかどうかです。今の社会では知識を積む傍ら無宗教を自慢する軽薄な日本人が増えました。

其れにつれて無神論が高まり、自分の先祖も嫌って動物化して来ましたので、人間と同居する事が煩わしくなってペッ
トと暮して安住し、或いは愛するために飼うのではなくて自分の寂しさを紛らわすためにペットを飼うと言う人たちが増え
ました。同時にテレビなら分かるが、新聞を広げても理解できない人たちが多くなった。

想像性や思考力が欠けて来たから「見えるもの」しか分からなくなって来たのです。写真や映像なら分かるが、本や新
聞の活字を見ても、其処から先の思考が出来ない。毎日繰り返してやっている仕事の面では理解できるが、新たな局
面や他の分野の事になると理解も判断も出来ない。思考の幅も奥行きも急速に狭まってしまって認知症の状態です。

自分の心も分からないような状態ですから、他人の心を思いやるなんて到底無理な事です。学歴は高くなったが、そん
な心の貧しい日本人が多数を占めるようになった。心を失ったら人間の終わりです。特に公務員にはこんなのが増え
た。人間の皮を被ってはいるが、ケモノの化身なのです。だから今何をしているのか。

その結果がどう言う影響を及ぼすのか理解しようともしない。大所高所から先を読み、体系的(総合的・大局的)に判断
をすべき所として役所や役人が期待されて来たが、今は良く分からないまま指示命令にただ反射的にロボットとして動
いている。だから税金浪費のボケ役所ばかりとなった。

従って一般庶民はもっと混沌としてただ感情的・主観的に好き嫌いだけで衝動的にせわしなく動き回っている。よって
一億総ボケ社会を現出した。万事休すである。此処から脱するにはゼニカネでも今風の知識教育でもない。先祖を思
い出す事である。


●一代一宮の制・・・・・古の天皇の皇居、即ち京の宮は、天皇の即位、即ち一代毎に別の所を都として造るため遷宮
を繰り返すのが慣わしだった。つまり「代替わり」毎に新都を定め、また新元号を定め、斎宮も交替した(下記を参照)。
但し平安時代は例外。

●一代一元の制・・・・・天皇の即位に伴い、元号を変えて人心一新を図るのが古来、慣わしであり、その改元に伴
い、改暦も行われる場合があったが、何れも、天皇だけに制定権・決定権があり、絶対的な専管事項であった。但し時
代により此れが院政の上皇や幕府、そして今は閣議に握られている。

●一卵性双生児・・・・・同じ親(祖先)、つまり同じ遺伝子を持つ兄弟の中でも特に一卵性双生児は、子供のときから
共鳴現象を起こす。兄弟が三人であっても心は同じであり、生涯同じパターンの人生を辿ると言われる。三人が別々に
育つような別の環境でも同じパターンを辿る。

ただ、同じ家で育つ内に思春期となり、お互いを意識し、反発しあえば対抗意識から別の個性に変化して行く。だが加
齢し、中年になると再び同じ特性を持つようになる。先祖回帰である。そして死期も無論別々である。

●いつ・・・・・・何時、一、五、厳・・・・。
●いつき・・・・・・五木=居着き=斎・・・・・→→→→厳島
●いつく・・・・・・上に同じ。

一神教・・・・・・・唯一絶対の神を信奉する教え。例えばユダヤ教はヤーウェ(ヤベ、エホバ)、キリスト教はキリス
ト、イスラム教はアッラーの神を信奉するので其れ以外の神の存在を認めない。

但し、宇宙が三つもない中で、同じ神(唯一絶対の神)を別々の名で呼称している可能性もあるが、そうでなければ三
つもの一神が同時に並存すると言う矛盾がある。

其処から相互に争う宿命を持った。しかも一神教は抽象的な概念・架空の観念で神を規定するために捉え所、決め手
がない。其れに対して多神教は具体的な多数の神仏を信仰する。其れを一神教では偶像崇拝とかアニミズムと批判し
蔑視して来た。

キリスト教でも歴史的に見ればマリア像とか天使像を崇め、今でもイコン(聖像)、十字架、聖槍、聖骨を信奉するケー
スも多い(「星族」を参照)。だが彼らは自分たちの信奉する神こそ唯一絶対の創造神であると権威主義的・教条主義
的に教え、信じさせようとします。

一神教としてはユダヤ教、キリスト教、イスラム教が有名だが、外にも多いので更に矛盾は止まらない。

中でもユダヤ教は、万物の創造神としてヤーウェ(ヤーべ、エホバ)のみを信奉する。でも此れは其れまでのバアル(太
陽)神を隠して抽象化させた人工的な神格である。こうした事実を隠蔽した上で、聖書では神の血統を厳しく記録して来
た。其の末裔がイエス・キリストでした。従って彼はユダヤの王と認められたのである。

しかしユダヤ民族としては彼を神とかキリスト(救世主)と認める事は出来なかった(「ユダヤ」を参照)。よってユダが最後
に裏切って処刑場に送ったとされて来た(異論もある)。それに対してキリスト教はその後に出来てナザレのイエスを神
とした。でもヨハネなどは神の部類には入れない。其れほど神の定義に厳格でした。

其の点、宣教師たちは「東洋は多神教圏であり、特に日本は八百万の神々の国」と知ってはいただろう。けれども現実
に来日して驚いた。全国の無数の神社には多くの神々が祭られ、しかも祭り事を牛耳る所を「お上」(幕府)とし、その外
にも領主がいて、相模守とか武蔵守と言うお殿様が各地にいたからです。

日本には外にも各家庭には「山ノ神」とか「お上さん」までいる訳です。ですから「石を投げれば神に当たる」と言う「神だ
らけ」状態の国が日本でした。ある程度の多神教を予想していたとしても、現実に此れを見た時に西洋人はビックリし
た。実際、五大明王や仏像を見た時は悪魔としか見えなかったに違いない。

彼ら一神教の宣教師にとって悪魔はサタンであり、サタンは滅ぼさなければならない。其れが正義であり、正義の名の
下ならば海賊行為でも聖戦となった。例えばカリブ海で海賊が盛んに活動する中で、1618〜48年にかけて30年
戦争が行われたが、原因はドイツの旧教徒と新教徒との対立だった。

此れによってヨーロッパの新教国の多くがドイツ新教徒を支援して神聖ローマ皇帝と戦う状況に至り、更に旧教国であ
るフランスが新教側に加担した結果、ハプスブルク家の君主に支配されたスペインとオーストリアの衰退が始まった。
其処でヨーロッパはイギリス、フランス、オランダが主導権を握った。

様々な勢力が寄ってたかって神聖ローマ皇帝を袋叩きにしたような戦いだった(以下は「世界史に消えた海賊」より引
用)。否、一神教同士の叩きあいだった。また例えば、エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教と言う三つの一
神教の聖地になっている。けれども其処は仲良く共存したのは昔の一時期事であって、殆ど戦乱の坩堝でした。

其処には熱狂的な信仰があると同時に、戦いの場であり、平和はないから矛盾である(「エルサレム」を参照)。つまり
「一神教」とは、唯一絶対の神が一人の筈なのに、事実上は多数が対立して存在すると言う矛盾、つまり致命的な欠陥
が有る。要するに此処こそアニミズム(多神教)世界なのだ。

何千年も祭りで平和に暮して来た日本は彼らから喩えアニミズムと蔑まれ様とも神の国である。其の日本から見れば
一神教は悪魔である。如何に正しい神や宗教であっても、三大宗教が聖地とするエルサレムが銃声の絶えない都市で
ある以上、神でも宗教でもない。

一神教が世界の弊害となっているのは、信仰心が強い余り異教を征服し統一しようとする力となり、このため聖戦と言
悪しき戦いを挑んでしまう点に有る。他の意見を一切認めないと言う排他的な面と、いったん敵視した相手には手段
を選ばず抹殺しようとする激しい「正義」感によって、イスラエルのような卑劣な手段を採る問題である(「三族」に続く)。

ただ日本の場合も一神教が有って、例えば鎌倉時代以後の日蓮宗や信長と戦った一向宗がある。近代以後の新興宗
教にも此の種の一神教的なものが多い。また西洋文明に倣った今の日本にはこの種のイデオロギーが支配している。
例えば医師会である。

彼らは病気を治せないにも拘わらず、医師会でなければ病気を治してはならないとする勝手なシステムを作った。日本
には江戸時代までは加持祈祷や湯治や鍼灸治療で病気を治して来た実績があります。難病奇病でも気功や先祖供養
で簡単に治す事も出来る。

この様に色んな病気があって、色んな治し方があるにも拘わらず、今は西洋医学しか認めない。彼らは医師法と薬事
法しか認めない独占体制を確立して利権にした。其れを許したのは日本人にも此の過激な一神教的な独善的・独裁的
観念が染み込んでいるからだろう。


●いつし・・・・・・
●いつす・・・・・・
●一寸・・・・・・

一寸法師・・・・・・針とかコケシとか、日本人は小さな物を大切にして来ました。一寸法師の話も不思議な話です。
彼は小さな櫂にお椀の船で旅立った。▲大阪の松原市の民話には一寸法師の伝説がある。住吉様に子宝を祈った夫
婦に授かったのが一寸法師でした。だがチットモ大きくならないので両親は悲観して捨てようとした。

其処で彼はお箸と椀を貰って旅立った。淀川を遡って、やがて京の都の一番大きなお屋敷に入った所、お姫様に見つ
けられ、大事にされてやがて一緒に清水寺に参った。其の泉の水を飲んだ所、彼が見る見る大きくなって二人は結ば
れた。ただ桃太郎は家に帰ったのに対して、息子を見捨て追い出した元の家に彼は帰らなかったと言う。

此の話は子供は育て方次第との教訓でもある(▲以下06/12/10NHKラジオ深夜便より引用)。さて住吉様と清水寺の
外にも関係先がある。京都には天王山・寶積寺(ほうしゃくじ)京都府乙訓郡大山崎町大山崎銭原1通称:宝寺(たから
でら) が有る。

Tel 075-956-0047 URL http://www.h4.dion.ne.jp/~utide/ 此の寺は、聖武天皇の勅願で行基が開山した真言宗智山
派の古寺。多くの塔頭寺院を有したこの地方随一の寺で、仁王門、本堂、閻魔堂など伽藍が並ぶ。なかでも豊臣秀吉
が建立した朱塗りの三重塔は、桃山様式が色濃く残る。

本尊の十一面観世音菩薩や閻魔大王坐像など、国の重要文化財も多数所有。また小槌宮にある聖武天皇奉納の打
出と小槌から別名「宝寺」と呼ばれるが、一寸法師伝説はこれに由来。金運に御利益があり、大黒天は京都六大黒の
ひとつ。天王山登山口にある奈良時代創建の古寺。大黒天の御利益大で平安時代から宝寺と呼ばれる。

大黒天神祈祷では福財布を授与される。また此の大黒天(大国主命)に協力して国土開発を助けた少彦名命も小さな
神でした。 
 

●いつせ・・・・・・
●いつそ・・・・・・
●いつた・・・・・・

●いつな・・・・・・
●いつは・・・・・・
●イツマ・・・・・・

●イツモ・・・・・・
●イツヤ・・・・・・
●イツラ・・・・・・








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