http://hijiri.tamajiri.com       「日知り事典」 page254.html    (未定稿)


    日知り事典     日本の〜ヌルデ


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日本の理法・・・・・・・祭政一致の祭り事。太陽を中心とした先祖祭りを方位の方式によって形で示して継続した。文
字も尺度も建築物もこの一貫した理法に則って決まっていた。またヤタの原理によって公正・公平を道理とした。

日本の霊性・・・・・・・日本の原点にあったのは物ではなくて霊性である。資源や国土と言った物質的なものではなく
て精神性であるが、其れは単に仏教的な理解や認識で見てはならない。日本に広く染み付いた唐様の文化を和風と誤
解した今の常識ではない。先祖と一体感のある素朴で律義な暮し方である。

日本文化・・・・・・・日本文化は玉葱のようだ。殆どが外来文化で、其の変容が根付いている。そして第2には道の
文化であり、此れは技術としても伝わった(千里金襴大学・生方貴生教授)。と言う説もあるが、此処では別の解釈をし
て見たい。

仏教・儒教・漢字が渡来する以前の、本来の日本文化が古風・和風であり、そうした古学がいわゆる国学(別項参照)で
ある。ですから現代の日本と諸外国とを見比べて論じて見ても余り分からない。日本は既にほぼ洋風化してしまったか
らです。

昔に遡るほど彼我の違いがハッキリする点としては、例えばモノより心、大きさより縮尺の原理で素朴に暮らした。諸外
国の特に大陸文化は巨物崇拝の巨大な物質文明でした。スクラップ・アンド・ビルドで建設と壊滅とを繰り返して来たの
に対して、日本文化は精神文明であり、しかも継続性によって支えて来た所に彼我の本質的な違いがある。

一時だけ花のように流行して線香花火的に散るシナ大陸的箱物文明や西洋式戦術や技術(テクノロジー)ではなく、万
年の歴史の中で瑞々しい森や川や言葉を育て、或いは幾千年もの永きに亙って祭りを続け、各地点に地名や姓として
残し、しかも九九や万葉の言霊を今も理解できる姿で伝えた。

更に千年前の木造建築としての法隆寺五重塔を今に残している。何れも、ただ単に残ったものではなくて、死守して守
った人たちが居てくれたから残されたものである。所が日本の文化行政は文化とは芸能と限定的に認識しているから
困る。

其れ以外には有形無形や埋蔵文化財と言った見方のものもあるが、もっと大切な他の多くの存在を無視し見捨ててい
るから問題です(埋蔵文化財を参照)。

今の政教分離政策から、「宗教関連は先ず”文化”とは認めない」と言う力学が作用するからだろうが、発掘品、或いは
寺社の建造物や宝物、或いは民間工芸の中から有形無形のものを見つけ出してくれるのは良い。ただ「文化財」と言う
レッテルを貼って予算を付ければ其れで終わったと自己満足しているようでは矢張り困ります。

日本文化は和式文化であり、つまり作法も含むものだ。例えば死語となったものに「大和撫子(ナデシコ)」があるが、
此れは単に美人を言ったものではなくて、日本の女性全体が諸外国の女性とは言葉や物腰が全く違う点を褒めた美
称でした。

日本の女性に固有の立ち居振る舞いがあるが、其れは外人女性がヒステリックで荒々しいのに対して、大和撫子は物
静かでおしとやかだった。或いは日本人には優れた感性があり、言葉遣いも物腰も、今の学校教育とは全然違うもの
があった。昔の行儀作法は、素養と品性を磨いて慎みのある丁寧な言葉で対人関係の接し方を重視した。

特に作法は、美しいと同時に実は運動力学の観点から見ても実に合理的な、無駄や無理のない動き方だと言われる。
箱物や財物ではない、こうした物心両面の優れた精神文化が文化遺産である。其れは兎も角、兵庫県は07/4月から
「日本の文化」を県下の県立高校の新教科にすると06/2/20に発表した(同日の朝日新聞)。

動機や内容も今後の成り行きも不明だが、この姿勢だけは評価したい。



日本列島・・・・・・・「日本は世界の縮図である」とは大本教の先師・出口王仁三郎の残した言葉である。或は日本
の古典である竹之内文書でも同様の地図を示している。北海道はアメリカ大陸、本州はユーラシア、四国は豪州、九
州はアフリカに当たる。よって「日本に起こる事がやがて世界に波及する」と言う事になっている。

そうとすれば大阪はエルサレムだろうか。兎も角、此処では日本列島を擬人化して見よう。仮に北海道が頭、本州が四
股と内臓に当るとすれば東北や東京は肺、大阪は胃袋となり、四国と九州は足のようにも見えます。太陽が西に向か
うように日本列島が大陸に向かって座っている姿に見えませんか?

頭を支えるために体があり、其のバックボーンとして岩手、宮城から和歌山に至る太平洋ベルト地帯がある。和歌山は
お尻を米国に向けている形です。岐阜が臍とすれば、秋田や山形は心臓部であり、東京や名古屋は胃袋だ。膀胱が
琵琶湖であり、椅子の様な四国に腰を下ろして、九州、沖縄の形で足を伸ばしている姿にも見えます。

そして逆に太平洋に向いた場合は、硫黄島と沖縄を両足にして雄々しく歩み出す形に見えます。其のようにも見えると
言うだけの話ですが・・・・・

ニーライホウ・・・・・・沖縄の久高島の民俗語で「魂の行き先」。
★にゅう・・・・・・「に、にゅう」は「丹」(水銀)を参照。

入道・・・・・・菩薩行など正道を求め、或いは故人の菩提を弔うために出家して寺に入る事。天皇の場合は院号を称
して門跡になったが、他の官職にある方々は在家のまま修行者となる事もあり、此れを入道と言った。特に三位以上
の貴族が在家のままで剃髪(坊主頭)・染衣して出家の相を採った方である。

難行苦行が一番大事な修行ではなくて、在家して娑婆で苦楽を味わいながら求道に努め寺社の為にも先祖の菩提を
守る事にも尽くす道があり、此れも同じくらい大切な人の道・仏の道であった。例えば平安時代、三善青海入道とか清
盛入道と言う方々がいた(求道を参照)。


ニューギニア戦・・・・・・日米開戦は経済制裁が生んだ「最初の石油戦略」だった。このためニューギニアの3000m
級の山脈に日本軍は兵を進めたが補給が付かず敗退し、以後は食料も武器も不足し、無数の河川で道のないジャン
グルの中で3年余りで14万人の将兵中、12万人の死者を出すと言う無謀な飢餓戦となった。

其れが白骨戦線と化した(「日米開戦とニューギニア戦」・旺史社より引用)。

人間(人間)・・・・・・普通、「人間らしく」と言う場合、其れは何を基準にしているかが問題です。多くが「自由勝手に」
と言うニュアンスを含むが、其れでは人間性や「人間らしく」ではなくて、寧ろ動物的な観念に過ぎない。とすれば何か勘
違いがあるのではないか。人間の一生は自由に生きた事よりも品性や徳性が問われる。

品格がなければ如何に長生きしても馬齢に等しい人生である。あこぎに稼いで銭を貯めたり泥棒をして溜め込んで仮
に豊かな人生と言っても意味がないだろうが、自分のためだけに生きて更に他人を利用する人間が多いのが今の世
間です。ただそんな中で、例外として他人に尽くして一生を全うする方も有ります。何れが人間らしいでしょうか。

また世間には天才と思われる人が居るものですが、其れは努力の差であって、繰り返しの継続性が優れた人を作りま
す。人は殆どが凡夫であり、各々勝手なものです。だから先人は、怠慢に流される者が多い世間に対して「小人閑居し
て不善をなす」と戒めた。或は「人間は一人では生きられない」とも言う。

其れでも中には、強い精神力があれば誰にも頼らずかつての小野田少尉のように困難辛苦の中でも生きて行く事も可
能(実験済み)です。人はどのような状況になっても知恵を惜しまず工夫し、努力する時に道が開けるようになっている
ようです。誰にも頼らず一人で生きる事も可能なのですが、人は人間社会で生きる使命があります。

人は事の良し悪しを問わず、人生の節目節目に多くの他人と接触して其れを様々に評価し、或は過去の因縁・因果を
交換し、其れなりに味わい解消するために生かされ、もしくは生きて、やがて命を全うする存在である。


人間関係・・・・・・・人が一生の間に出会う人間の数は案外少ない。此の為か昔は仏縁とか宿縁と見たり「袖触れ
合うも多少の縁」として一期一会を大切にしたし、厭な人と分かっても運命と思って辛抱した。昨日の友が今日は敵とな
る戦国時代であっても例えば秀吉は人間関係を重視した達人だった。金はまた戻って来るしモノはまた買える。

だが人を失えば取り返せないと思って大事にしたと言う。よって「人タラシ」と言われ天下様となったのです(「人命尊重」
を参照)。其の点では今の政治家も一応は「人間関係を重視」するが、其れは目先の利益、つまり得票に絡めて人を
見るので諸人から警戒される。凡そ現代人は人間関係の採り方が下手である。

先ず昔のような人生観が欠如して軽薄になっているから挨拶一つ出来ない。更にその場の感情的な好き嫌いやモノカ
ネ損得勘定で他人を踏みつけたり、僅かな信頼さえ切り捨てて裏切る。地球上の人類の増加、人口爆発が人間関係
を粗悪にしている面もある。競争社会となり、弱肉強食としたからとも見られる。

其処から犯罪増大とし、其の被害を避けるために学校では警戒して「人を見たら泥棒と思え」と教育する。家族関係も
近隣関係も悪化し、街中には監視カメラが増加した。でも此れで人間関係が良くなると言う訳ではなくて悪循環です。自
殺者が毎年3万人と言う状況が其れを示しています。

今の人間中心の生き方から寧ろ、神を中心に据えた生き方に転換するのが問題打開の道であろう。

人間関係の無理解が事故を招く・・・・・・・人付合いが上手な人は「人と逢うのが楽しい」と思うが、日本人は総じ
て「人付合い」が下手と言われ、この為一様に「人間関係は難しい」と感じている。ただ同じ一生を過ごすならば、赤いも
のは赤いと認め合い、他人と共鳴して会話出来る暮らしが幸福である。

所が日本は意外に歴史が古く、この為多種多様な多民族の同居する国である。決して従来言われて来たような単一民
族国家ではないのである。この為、日月星(「三族」を参照)の別を理解しなければ、国内でも国際関係でもミスマッチと
なる。此れは職場や近隣関係でも同じである。日本には日月性向の人が多く、彼らは「和」を尊ぶ。

けれども其れは、もし其れを乱すものが有れば正す誰かを必要とする。教室の先生とか、会社なら社長のような立場
の人が、常識や道理を質す環境があれば守られる。しかし町内会のような悪平等の社会では「右へならへ」と言う「日
和見主義」になるので、其処が「悪人」の支配するグループに振り回され牛耳られる。

しかし其れを誰もが見て見ぬ振りをして文句も言わない。つまり他力本願とか「和を貴し」として馴れ合いで悪を許す事
が多くなるため結局は住み難い町とします。官庁の中でも多勢が無勢を支配して腐敗させてしまう。でも中には星族
(別項参照)のような人が居て其れを「断罪する」役割をしてくれる。

此れは有り難いが、嫌な役割を彼が一時無欲無償でしてくれても、何れは誰かに疎まれ、憎まれ者になるケースがあ
ります。こうしてお互いが無難を尊んで遠ざかり、他人への無関心、無知、無理解が進めばこれも結局は住み難い町と
してギスギスした人間関係がストレス社会を作り、スピードを競い、ゆとりのない暮らしにします。

例えば電車の乗降とか、階段やエスカレーターでも関西ではマナーがないから「押すな、押すな」と言った状況が昔から
当たり前の風土である。人間性のエゴ、気性の荒さ、慎みのなさが強まれば如何に電化しようと如何にスピードアップし
ようと却って危険性も大きくなります。

例えば明石市の陸橋転落事故、そして05/4月のJR尼崎脱線事故でも関西のエゴと欲得社会が自ら事故を招いた
ように思える。犠牲者にはお気の毒だが赤字の国鉄から、安全第一よりも利益優先のJRにしたのが国民の総意でし
た。だからJRだけを槍玉に挙げても始まりません。

寧ろ乗客マナーがない関西人が先を争って乗り込む状況が常態化した今の関西の気性・風土を自ら何とかすべきだろ
う。無論事故を起こしたJRの体質も問題であり、企業責任が追求されて当然である。例えばJRはマンションに衝突し
て迷惑を掛けたが、其の住民に謝るのが遅れた。

しかもその後、5/30には約束を破るように勝手に工事に掛かろうとして反発を買った。しかし担当者たちは「ご理解
を求める」と言う態度に終始した。迷惑を掛けたと分かったなら侘びて、後始末をするのが先である。しかし其れがない
のに次の計画を強行しようとしたのである。

他人を尊重する心がけも誠意もないのみならず、自社や自分の都合で仕事として処理しようとする間違いに気づかな
いのである。JRのみならず、「お役所」もまた全てこの種の一方通行の論理の住民への押し付けが多い。彼らは命令
下達方式を伝達するお粗末なロボットマンであるから人の心も世間の常識も解さない。

このように人間関係不在が人災による事故多発を招いている。或いは学校の生徒が被害者になった場合は、学校側
は犯人を悪としたり、生徒たちに「命の大切さ」を言って聞かせる。でも其れを言う校長先生たちの言葉は毎回空々し
い。彼らは世間知らずで何も良く分かっていないのである(「いのち」を参照)。

命が惜しいのは態々教えなくとも虫けらでさえ知っていよう。其れさえ認識できずに自分の責任も果たさず反省もせず
に、「今後は事故防止を徹底します」と言うだけで、責任を取って辞める訳でもなく、警戒だけを強めてそのまま安住し
ている。犯人探しをしても始まらないし、犯人を憎み、事故を嫌っても何も解決しない。

犯罪捜査や重科刑の設定をしたとしても何も良くならない。イライラの募るストレス社会では攻撃性が高まるが、其れを
助長するのがスポーツ振興(スポーツを参照)であり、特にサッカーなどは人には無用なほどの攻撃性を育成しました。
事故を起こした真因は自分の内面にあり、或いはスポーツ指導の間違いである。

そうと気づいて反省し、「何故こうなったのか」の内面を直さない限りは駄目である。事故を招いた教師や生徒の質の低
下を改めようとはせずに、住民を警戒し「人を見たら泥棒と思え」と教えていては駄目である。此れでは事件や事故は
なくなりもしないし人間関係を損なう事にしかならないだろう。

他人や近隣への無知や無理解のみならずエゴを通そうとして不和を作り、自ら事件・事故を誘引するのである。其れで
は如何に防疫・防火・防災・防犯(各項目を参照)をしてもコストが高くつくだけで問題解決にならない。如何に「公共性」
を強調しても、人間関係に配慮がなければ役に立たない。

人間性・・・・・人が高齢化すると、其れまで子供が可愛いかった筈なのに「孫の方が可愛い」と言うものです。でも其
れほど可愛がった孫が成人すれば、殆どが大事にしてくれた祖父母のフルネームさえ記憶していないのが実態であ
り、この意味では祖父母・先祖が哀れです。

また例えば、遺産を残せば問題を残すだけではなくて必ず其の祖父母を忘れます。この様に、人が成人しても道理も
恩も知らないのでは、譬え立派な学歴を付け与えたとしても、それで人間性が豊かになったとは何も言えない。そうした
のは実はベタベタとネコ可愛がりした結果であり、孫にネコ並みの精神性しか与えなかったからである。

肉体だけで心(人間性)の無い失敗品を作ったと諦めるしか有りません。

人相・・・・・人相とは主に面相・顔相である。仔猫や仔犬が可愛いように、人も子供のときは実に可愛いものです。
でも体が大きくなるに従って、だんだん憎たらしくなるから不思議です。近代科学では、「万物は進化する」と言っている
のに、此の現実を見ても進化論では矛盾があると分かります。其の点、因果律なら矛盾がない

イヌは「イヌ食い」、猫は「泥棒猫」とも形容されるように、畜生には浅ましい根性がある。この心性が何年も蓄積される
と表象として顔相に定着してしまうのです。人もまた同様に因果律の下で、日ごろの心掛けが40年も経てば顔面に定
着して来ます。こうした焼付けを表情・表象と言う。

食物が肉体を作るのではなくて、心が肉体を作るのです(「霊主体従」を参照)。

だから、「40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」と、かのリンカーンもおっしゃった。実際、ご当人のリンカーン自身
もそうであるが、政治家やスポーツマンは自分の力ではなく、サルのエネルギーを借りて成り上がった人が大勢おられ
ますため、人間ではなくて、サル同士の争いの場を国会や競技場で展開する。

この点で各種の議員は殆ど犯罪者の仲間です(国会議員の犯罪を参照)。其れに刑事は犯人探しの目が「板に付
き」、盗人は人目を避ける人相になる。とすれば、これも職業病と言えるでしょう。でもご本人たちは自分の顔の変化に
気づいても其の原因には気づこうとしない。だから多少不満があっても大体は「年のせいだ」として諦めています。

そんな訳で日本人全体が昔の日本人から比べるとかなり険悪になっています。其れは全体が犯罪社会になっている事
を意味する。皆が同類・同レベルだから気づかなくて当たり前。自分にも他人にもイライラしながら他人にビクビクし、人
を見たら泥棒と思って他人を見たら誰彼なしに睨み付ける習慣が身に着いたのが現代人の特に都会人である。

いや肉食(別項参照)による因果とも言える。と言う事で、特に「美人」を目指すお方は化粧の時間よりも普段の心掛け
にご注意を。

妊娠・・・・・・・・・孕(ハラミ)み。身ごもり。受胎。懐妊。此れを「出来ちゃった」とも言うが、何れにせよ男をドッキリさ
せる殺し文句。恋愛中の場合は此れでハッキリ明暗に分かれる。「出来ちゃった婚」にゴールインするカップルとなる
か、「逃げられた女」になるかのどちらかです。

とすれば妊娠は男女共にドッキリ語かも知れないが、特に男にとっては始終ドキドキするので不妊で悩むケースなどは
贅沢に思えてしまいます。だが結婚して直ぐ妊娠するとは限らないので、妊娠は一応目出度い。さて妊娠とは人が人の
子を宿して出産するまでのプロセスを言う。

ツワリ(悪阻)や腎炎など「産みの苦しみ」を伴うが、性行為をした結果の状態であり、更に出産と言う感動を味わう事に
なる。但し此れは肉の塊を生産する性行為の一端ではなくて先祖の心を引き継ぐ子供を作るプロセスとも言える。

其のプロセス通りに無事受胎・出産となる場合は問題はないが、不妊の場合は其の辺りに心の問題が欠如しているよ
うに思う。例えば、検索では「不妊」をテーマとしたページが何万件も表示されるけれども、医者や薬のページばかり
だ。

と言う事は、「不妊ならば肉体の問題であり、其れなら医学に頼れ」と言うのが今の日本人の平均的な意識であると分
かろう。しかし其れではモノカネ主義・肉体主義が遂に此処まで来たと言う感じであり、何の進歩でもない。所で性行為
と言うのは原則として両性の合意に基づき行われる(セックスを参照)。加えて先祖の合意(暗黙の了解)である。

何れも心の問題が肉体より重い。性行為はドロドロした行為であり、他人に見せるようなものではない。人間的なものと
言うよりも、動物的で汚らわしい行為ではあるものの、子宮が受精する瞬間には微かな光を発すると言われるように、
先祖とか心とか愛と言うものが幾分入れば其の行為はケガレではなくて神聖な儀式のように変わる。

肉体的な性衝動はご両人たちの動機であっても妊娠の主役ではない。妊娠の主は心であり、心は愛とか先祖の縁など
によるものであり、肉体として見える現象はご本人の動きと子種くらいのものです。心の問題の外に月のプロセスもあ
る。十月十日と言う産み月までの期間です。此れは受胎から正確に数字的な310日後と言うものではなくて、目安です。

西暦ではなくて月齢で追うべき日数かも知れないが、今は産婦人科の都合でウィークデーにされる。何れにせよ先祖
の了解の下で出産を迎えるが、其れは先祖たちが先刻ご承知の事ですから、両親となる男女の何れかの肩に先祖の
分霊が待っていて、出産の瞬間に入って新児としての産声を上げます。

しかし近くには別の霊体もいて邪魔したり先に入ってしまう事もある(西埜先生の話)。だから出産と言う行為は厳粛な
場であり神聖であるべきです(日立帯、不妊を参照)。其れを昔は「血を見るからケガレだ」と忌み嫌った。此れは多分
間違いでした。

認知症・・・・・所謂「ボケ」とか痴呆症を言い換えた新語・造語である。精神薄弱とか知的障害者、或いはアルツハ
イマーなども含めて今は認知症と言う。何れも言葉弄りばかりで予算を取って来た面が見られるが、肝心の対処法とし
ての治療法やケア対策が「ない」に等しかったのはお粗末である。

原因は脳の血管性とアルツハイマー型との二種があり、前者は50〜60歳からの男性が罹る例が多く、後者は65歳
以上の女性が多いとされる。抑うつなどから睡眠障害となったり、同じ事を繰り返して言うとか物忘れ、無関心となり、
判断力が減退する。重症化したケースでは興奮して叫んだり徘徊をしたり不衛生な事をする場合もある。

無論、医学的に治療法はないので漢方薬の処方が試みられている。桂枝茯ブクリョウ(みみなぐさ)などを長期服用した
ケースでは血流改善効果が見られた。だが其れよりも其れまでの日々の暮し方を改善するとか、適度な運動が大切と
言う。

所で今、米国の圧力で政府は米国牛肉の「全頭検査」の特にプリオン検出検査の義務付けをなし崩しにしようとしてい
るが、プリオンは調理によって死滅しない厄介な病原体と言われる。潜伏期間は20年。米国ではアルツハイマー病患
者が過去20年で倍増し、500万人に達する見込み。内13%がヤコブ病と言う指摘もある。

そうした点から日本も近い将来に認知症患者が250万人に増えると予測している。このため介護保険を見直して、こ
のケースにも重点を置く事となった。其の特徴は「地域密着、小規模多機能サービス」となる。具体的には自宅で暮ら
す高齢者がデイサービス等の外に、小規模施設への入居や外泊も可能とする柔軟な対応を図る。

また環境の変化に其の都度対応できる体制とする。但し、此れは多角経営を目指すものではなくて、多種のケアに応
じるシステムにしようとするものである(05/5/14のNHKラジオ深夜便、及び8/24のNHK教育TVより一部引用)。

其処で一言すれば、認知症は苦しみを忘れるものではないか。今は戦前・戦中に苦しんだ方々の多くが認知症になっ
て大量発生となっている。其れは人類未曾有の「戦乱の20世紀」を味わった世代であるからです。嬉しい事よりも、辛
い事のほうが多かった。苦しくて譬え死にたくても、老親や子供たちの為に死ぬ事さえ出来なかった世代です。

思い出よりも、忘れたい事のほうが多かった人生でした。或いは生涯苦しみ続けて疲れて分からなくなり、考える事を
止めてしまったのかも知れない。とすれば家族はけ嫌いせず労わって上げたい。次の原因は、其れまで守護していた
先祖霊が去ってしまったものではないか。

此の為ご本人が戦災時の空襲などで我を忘れて右往左往した体験の印象などが取り残され、或は本人の幼年期の体
験が今に移写しているケースがあると思われる。もう一つの理由は、我が子がなるべき病気や事故を身代わりに引き
受けて肩代わりしてくれているのかも知れません。子供の為に生きているような親が沢山おられる。

やがて子供が働き盛りとなり、親に代わって一家を支えるようになれば、今まで頑張って来た年寄りが無用の存在にな
る。そう見えても親と言うのは有り難いものです。子供が罹るべき患いを我が身に替えて背負い込むような優しい心が
認知症になるのかも知れません。

なので、家族は其れを嫌ったり怒ったりせずに寧ろ感謝して労わって上げたい。ボケの強さも時として波があり、調子
が良い時と不調な日が交互にやって来るなど、医学療法で治すには無理がある。また食べ過ぎも良くないので、家族
があまり「食べろ食べろ」と言わないように気を配るべきだ。食べ過ぎは体力を消耗する。

其の消化のために高血圧にする。血圧のせいでフラフラになるのがボケの始まりである。其の対症療法と言うか、予
防とするには小食に務め、酢を飲む事です。酢は血管を軟らかくしますので、血圧(別項を参照)を下げる効果がある。
無論、蓬茶なども良い。また不思議な事に、高血圧でもリウマチの人は認知症にならないと言われる。

また今は三世代同居などが増えつつあり、其れなりに好ましい面もあるが、寧ろこうした家庭にボケ老人が出て、逆に
一人暮らしの独居老人にはボケが少ないのは皮肉です。此処から言える事は、他人に頼るようになると失敗する事も
有り、其れを叱られると益々家事から遠ざかる事になり、そうすると何事にも無関心になる。

そのような悪循環が問題ではないか。牛肉のBSE対策を別とすれば肉体よりも心の問題であるのだから治すには先
ず先祖を祭り、或いはご当人のする事に一々周りが腹を立てずに寧ろ感謝し、何事も褒めてやる寛容さが良いのでは
ないか。その様な対処があれば本人にとって生き甲斐が維持できる。

そして多少のボケは周りが許容して行くべきである。本人に取っては、其の状態が寧ろ天国のように幸せな状態であ
り、何も問題ではないからです。こうなると暑さ寒さも余り感じなくなるため風邪を引く場合も有るので家族が健康管理
に一層気を配る必要は有るが、譬え癌になっても痛みを感じないとか不安に感じないとも言われる。

とすれば人間の終末・最後にとって、ボケるのがより望ましい形かも知れない。ただ働き盛りの男性がピック病(別項参
照)に罹れば深刻である。此れも前頭葉に起因するので医学では無理だが、先祖供養(円系図を参照)すれば罹らな
いでしょう。そして昔に倣って律儀に年忌をする事で其の都度快方に向かう。序に少し憶測を述べる。

其れは先祖の神上がりです。此れまで子供たちを支える為に親も其の上の親(先祖)たちも手を組んで頑張って来た。
そしてもう一人前に育てたのでメーカー責任は果たした。だから先祖たちは一段レベルアップする。つまり霊界の次の
段階に入る為に肉体から徐々に離れます。目出度い事ですがご本人の頭のほうも弱くなる。

目も歯も弱り、手足も弱って行って当然です。其の分を医者や看護施設に任せるのではなくて、育てて貰った子供がカ
バーし、世話するのが順繰り順送りの人の道であり、其の点を履き違えると家の中も社会も暗くします。少なくとも「明
日は我が身」かも知れない。とすれば其れを厭がって施設に放り込んだり医学に頼っても薬石では無意味と分かる。

なので目の前の問題から逃げずに感謝で対処すべきではないか。中には真面目にそうして不幸な結果としたケースも
有ります。けれども人間として立派であり尊敬できる。邪魔にせず感謝で大切に労わって上げて下さい。


人名・・・・・・「じんめい」ではなく、此処では「にんみょう」の事。此れは大名でも人民でもなく、その埒外で独特の自治
権を持った集団の事で、例えば瀬戸内海の岡山と丸亀の間に塩飽(しわく)島があるが、此処に村上水軍と並ぶ存在と
して塩飽水軍が有った。

彼らは大名(藩)の支配を受けずに明との交易やご朱印船による海上輸送(廻船)とか海上防備に当たった。因みに最
初の遠洋航海で米国に渡った咸臨丸の七割が塩飽島のカコ(乗組員)だったと言われる。



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●ぬ・・・・・・・「ぬ」は「濡」、「主」のぬ、「塗り」、「奴婢」、「沼」のぬ、である。
・・・・・・・ぬさ。シデ。御幣。  

▲ぬま・・・・・・要害。

・・・・・・ビオトープ。昔からある自然の湿地帯。または人工的な溜池(農業用水)。今は一般的に水深5mまでの池
を言う。今はコンクリートで固めた所が多くなったが、自然の土と草木の生えた湖畔の水辺は、人にとっては憩いの場
であり、昆虫や渡り鳥にとっては命にかかわるオアシスである(「渡り鳥」を参照)。

ヌルデ・・・・・・護摩木に使う木。今は多くが桧を使うが、昔は主にヌルデの木を使い、時と場合によっては他の木を
選んだ。呪法によって適材適所が決まっていたのです。組み方や並べ方も多種存在した。其れが家紋にも色々伝わ
る。


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