http://hijiri.tamajiri.com       「日知り事典」  page228.html(未定稿)


   日知り事典       セミ・セン

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・・・・・・・セミの一生の殆どは地下生活である。7年ばかり地中で暮して最後に地上に出て羽化し、成虫になり、そ
の後生きているのは精々2週間である。だから彼らは精一杯鳴いて喜ぶ。セミの声は単調だが日本人の心に響く。四
季の内で決まって夏に現れる風物詩ですから俳句では夏の季語にもなっている。

06年は短夏。長雨の梅雨明け後にセミが一斉に鳴き出した。折角この世に出て来ても雨の日が続けば鳴けないまま
死んで行くしかなかったので、晴れたら一斉に鳴き出した。だが30℃を越えた所が一時鳴りを潜める。そして再び鳴き
出すと言うのであるが・・・日影に廻ってそうするのか。

其の点、外国ではセミが生息する地域も少なく、またセミの声を侘しさとか夏の風物詩として味わう人も少ない。外人に
はこうした豊かな文化も感性もないから無意味な雑音として切り捨てるか、殆どが雑音や騒音として片付ける。

セミには例えばエゾゼミ、赤エゾゼミ、子エゾゼミが何れもジー、ギーと鳴くだけだが周波数が各々45/s(5400Hz)、75/
s(4900Hz)、100/s(6200Hz)と異なる事を森林総合研究所の大谷研究員が明らかにした。

またアメリカ東部から南部には、大きさが2〜3cmと言う小型の周期ゼミがいて、13〜17年に一度だけ現れると言う
(05/8/22と8/28日の毎日新聞)。日本で一般的なのはニイニイゼミ、油蝉、クマゼミ、日暮、ツクツクボウシであるが、
温暖化のためか近畿ではニイニイゼミと油蝉がめっきり少なくなって、クマゼミばかりとなった。

06年の和歌山の立里では4/13にも雪が降り、6/21には昼間から日暮(蜩)がもう夏の終わりを告げるようにカナカナと
侘しく鳴いた。此処では南紀と言えど夏が短いらしい。人もカネカネカネ・・・と一生泣いて其の日ヒグラシとすればカネ
カネカネの響きも侘しく聞こえます。


は地獄耳・・・・・・・セミは幼虫の間、永く地中で暮らしている間に多くの事を学ぶのでしょう。そしてやっと地上に
出ます。脱皮してセミになっても地上の暮らしは実に短い。其れでも嬉しくて全身を震わせて元気一杯朝から日暮れま
で鳴き続ける。

夏になるとクマゼミがワッシワッシと煽る様に、また油蝉が油を炒めるように、そしてニイニイゼミやミンミンゼミがやや
高音でジージーミンミンと鳴くので、暑い夏を一層暑く感じさせる。しかし間もなく立秋には決まってヒグラシがカナカナと
鳴き出す。そしてツクツクボウシが夏の終わり(初秋)を告げます。

蝉の斉唱は決まって波があり、波がうねって進むように彼らの斉唱も移動して行きます。さて毎年夏になると鈴成りに
蝉がたかって近所に嵐のように大斉唱で鳴き声を響かせるセンダンの古木が有った。だが今年は何故かひっそりして
いる。実はその土地を売却すると言う計画があった。

でも其の事情を知っているのは当家の家人だけでした(セミは幼虫の間に地下で聞いていたのか)。

セミナリオ・・・・・・バチカンのイエズス会の神学校。信長は腐敗した仏教勢力に対抗するため伴天連を保護したの
で安土桃山時代には各地にセミナリオが出来た。所が秀吉の時代になると彼らが日本侵略を目的としている事が露見
し、このため秀吉は1587年に「伴天連追放令」を出したのでセミナリオは廃止された。

だが其の名残として今でも各地の大学が権威ある授業としてセミナー(ゼミナール・演習)の用語を使っている。

★セム・・・・・・
★攻める・・・・・・
★セモ・・・・・・

★セヤ・・・・・・
★セユ・・・・・・
★セヨ・・・・・・

★セラ・・・・・・
★せり・・・・・・
★セル・・・・・・

★セレ・・・・・・
★セロファン・・・・・・
★世話・・・・・・

★セヲ・・・・・・
★セン・・・・・・
★千・・・・・・
★善・・・・・・次項の「善悪」で述べる。

善悪・・・・・・物事の良し悪し。二極対立の概念。本来、自然界に善悪はないが、人間社会でのみ言う観念の1つ。
特に一神教では神が善であり、其れに逆らうものを悪・サタンと看做して排除しようとする。だが其のキリスト教でさえ、
旧約聖書に於いて、蛇が、「此の木の実を食べれば善悪を知るようになる」と唆かした。

よって、アダム・イブが禁断の実を食べてしまったと述べている。つまり善悪は神が決めるコトであって、人間が決める
物ではないと教えている。動物は本能に支配され、人間は好き嫌いに支配されるサガを持つ。此れは因縁によるから
であり、他人が決めて教育して分かる物ではない。

誰もが等しく高等教育を受けられる現代であるが、モラルの低下が止まらないのは、今の教育の無力の露呈を示して
いる。如何に教育が真善美を掲げても、前世からの因縁の解消を家庭でも教育でも出来ていないからである。此れは
古来、宗教・信仰心によって善導するものでした。

所が、戦後の政教分離政策による無節操な教育と、無信心の親と、自由主義の社会との合作でゼニカネ主義の上に
法律やマナーを押し付けた結果において今のモラル低下を招いたと言える。だから其の本質を避けて善悪を論うのは
無意味である。仏教でも善悪不二(次項)を説いている。

▲善悪不二・・・・・・・善悪は二つで対立する概念ではなくて、仏法の一理に帰着するものである。

善因善果・・・・・・・・・良い事をすれば良い結果となり、悪い事をすれば悪い結果となると言う教え。此れを善因善果
と悪因悪果と言う。何れも因果関係の道理(真理)を説いた法則(因果律を参照)である。万物万事は過去現在未来に
わたって此れに支配される。

過去にした事が種となって今見る花を咲かせ、現在の行いが未来の種となって将来に諸現象を見せる事。だから此の
法則の下では、彼の世も此の世も進化論の立ち入る隙は全く無い。勉強すればやがて其の努力が実るのであって、誰
も努力しなくても何万年か先には自動的により進化が進むとする進化論は全くの幻想である。

★千手観音・・・・・・

全球凍結・・・・・・氷河は何故出来たのか。また其れが溶けて間氷期になり、再び氷河期に入る周期は果たして何
万年なのか。其れには定説がない。何分、古くても新しくても氷は溶けてしまって後に残らないからである。地質学的に
研究されているものの、氷河の原因や実態はハッキリしない(氷河を参照)。

ただ地球は6億年前に全体が氷に覆われていた。此れを全球凍結と言う。無論、赤道も凍った。海も凡そ1000mの厚
さで氷結し、地上は平均1000mの厚さの氷で覆われていた「死の世界」だった。地質学的には此の状態が凡そ数百万
年続いたと推定されている。当時は微生物しかいなかったが、今なら植物の光合成も無理である。

寄って食物連鎖が破壊されて生物は死滅する。現在もアイスランドには高さ1000mの氷河がある。だが例外的に温泉
が生命体の避難所となっている。さて地質的に見て全球凍結の直後に微生物が飛躍的に発達した事が分かって来
た。アフリカのナミビアには体長30cmの葉っぱに似た魚類のような生物が現れてプテリデニウム化石と呼ばれる。

またロシアからは丸い形の化石が発掘された。こうした生物たちを今はエディアカラ生物群と言う。地球上に初めて出
た大型生物でした(06/4/15のNHK総合TVより引用)。

選挙戦・・・・・・・選挙戦では「お願い」の連呼です。何か変ではないか。国民には選挙権と納税義務があります。だ
が国民は、現在の選挙法では納税に見合った権利と言うには値しない、と判断するようになり、其れが長く続く棄権者
の増加、つまり「投票率の半減化」である。

此れは国民の多くが今の選挙システムに胡散臭ささを感じて無関心になった事を示す。選挙では入れ替わり立代わり
毎度お願いの連呼が繰り返されて「皆様の代表として」とか、「人々の福祉向上」など、騒々しいキャッチフレーズを撒き
散らし、煩くガナリ立てる。

けれども、その実態は選挙民の事ではなくて彼らの党利党略で勢力争い(権力闘争)の繰り返しか「国とり合戦」の手
段としての「ドブ板選」である。そんな事で上手く立ち回り、勝ち残った凡人が幾ら増えても元々「どんぐりの背比べ」であ
るから、譬え当選しても何も出来ない「中身なし」の議員であり、多くがサラリーマンのように役所に通勤する。

やがて役所に旨く飼い慣らされて「役所の小使い」となってしまうので「住民の代表」では決してなくなる。お役所の言う
事には従うが、住民の声を聞きに来た事もない。だから選挙民の代表として「お願い」を連呼したものの、住民の意思
などは最初から皆無(無視)。要するに自分の意思だけで眠って任期を送るだけとなる。

例えばヒットラーや原爆を開発したルーズベルトも初めから独裁者ではなくてデモクラシーの選挙で選ばれた。要する
に神を外した祭り事では英知の有る政には決してならず、元々キャッチフレーズだけの政策(無策)なので、議会は蛮
勇の輩の「税金山分け、分捕り合戦」になるが、此れは利権がらみであるから毎度国民(選挙民)は裏切られて来た。

だから国民は、勝ち馬投票のような野次馬ゲームをするか、もしくは議席欲・バッチ欲の無能な亡者や輩のための選
挙に駆り出される人たち、或いは義務感でシブシブ投票するものの、毎回迷惑を蒙るだけでした。此れでは何度「天下
分け目の関ヶ原」と言っても、「民主化」とか、平和とか言うものからはまるで遠い。

だから選挙に多くが疑念を持ち始めて当然であり、従って「先進国」と言うのはおこがましい。大体、戦後60年間、政治
や選挙について国民は如何に巨大なエネルギーを消耗して来ただろう。その結果一体何が解決し何が良くなったの
か。問題を先送りしただけで何も改善せず、政治家と官僚たちを食わして700兆円もの赤字を積み上げたのだ。

だから国民は選挙や政治には最早うんざりし、何も期待しない事となった。

◆・・・・・・・


遷宮遷宮・朝賀の由来)・・・・・神を祭る場、即ち座を遷す事を遷座と言い、その場が宮であれば遷宮と言う。た
だ伊勢神宮その他の神社で20年に一度とか一定の期間で建替える場合に此れも「遷宮」と言うが、本来の意味から
言えば其れらは造替遷宮もしくは遷座であり、其れに伴って座を動かす事を動座と言う。

また、天皇の宮、即ち皇居を遷す場合、其れに伴って京域も新都にそっくり移し変える事を「遷都」と言う。日本の場合
は此れが歴史の節目を形成して来た。其れが歴代天皇の「一代一宮制」であり、其処から新しい年号に変わった。日
本の歴史はこうした度重なる遷宮によって変化し、改まった。

例えば遷宮を含めた政治の拠点を近くは東京、江戸、京都、桃山、安土、室町、鎌倉と言う地域に移動した事が其の
時代特有の歴史文化を作った。無論、歴史は年号によっても変わって来たが、「人心の一新」は現実に宮古や幕府の
拠点を還る事で転換できたとも云える。ともあれ古の遷宮は伝統的な一定の法則性の基でなされて来た。

所が、史家や考古学者はこの遷宮と言うたった一つの意味について無知のためか明快な説明責任を果たして来なか
ったので、此処でその原理を明かせば、先帝の弔いと日迎えのために各世代に遷宮を繰り返した訳であり、其の具体
例については別紙の「神々の歳時記」で検証を重ね、多数の実証例として紹介した。

其れは故人の命日を方位で印すために墳墓(前方後円墳を参照)をその方位に設定し、またその逆方位に宮を造って
日迎えの祭りをする事です。つまり命日--墓地--遷宮の方式が、天文--人文---地理と言う方位の原理で一貫してい
た事です。其の道理の完結によって調和と義の弥栄が続いた。ただ例外もある。例えば

■正月元日(聖武天皇が月を求めた)遷宮・朝賀の由来・・・・・旧来の遷宮と違って聖武天皇は月を追った。当時の朔
(ツイタチ)とは月の無い新月の夜空であり、つまり「月発ち」を意味した。其処で彼は平城京から恭仁(くに)京に向って
天平13=741/1/1=U1/22に遷宮して朝賀とした。

また恭仁大宮が未完のまま3年で(大極殿はその後に近くの山城国分寺に施入)し、再び遷宮する事となる。恭仁京で
朝賀(天平15=743/1/1=U743/1/31)の後に恭仁宮から30km東北に離れた所に遷宮し、其の紫香楽宮(大極殿)
で天平15=743/1/3(U2/1)に百官朝賀して此処を新都と定めた。

ともあれ同15年7/3庚子(U7/28)には其の先の石原(日野町)に行幸し、同年10/19日に紫香楽宮に廬舎那佛の勅願
(大願奉造)。翌年16/11/13日には甲賀寺に廬舎那の佛骨の建造を始める。聖武天皇は仏教による祭政一致の祭り
事によって此の国を治めて理想の仏国土にしようとした。

此のため彼は月の節目である正月方位に幸を求めて遷宮すると言う方式を採った事になるものの、対象が月であった
し、群臣諸衆も此れを聖武天皇の奇行と受け取った。方位で見ても鬼門に向った訳でした。

■聖武天皇の廃朝(天平16=744/1/1=U1/20)して恭仁・難波の二京の便宜(閏1/1=U2/18)を諮り、次に同年2/26
=U4/13日に難波宮を皇都と定める。

■聖武天皇が新京を作り乍らこの日の祭りは廃朝(天平17=745/1/1=U2/6日)、同年5月に地震も相次ぎ5/10〜11
日、恭仁京と甲賀(紫香楽)宮が無人となり平城京に戻る。難波宮は維持。天平18=746/1/1=U1/26日は地震により
この日の朝賀を廃朝。

聖武天皇の天平19、20年=747〜8/1/1=U747/2/14日、748/2/4日も廃朝。続く天平勝宝元(749)年1/1=U1/23日
に廃朝。4/1(U4/21)、4/14(U5/4)、12/27(U750/1/9)、聖武天皇が東大寺大仏に行幸。・・・・・・以上の記事は「続
日本紀」よる(暦日のUはユリウス暦換算を示す)。

上記の一連の聖武の遷宮と正月元日の朝賀は、彼の舶来崇拝史観による唐風の春節祭事であった。辛くも正倉院に
は大量の御物を残したものの、こうした渡来式月祭りは相次ぐ地震・火事・怪異を呼び、しかも政変が絶えず天武系の
皇統もその後に女性で閉ざす事となった。

こうして月を祭り、其の正月を正す祭りが次の東大寺の「修正(二)会・お水取り」行事に引き継がれた。此の場合は何
れも正月遷宮と定義できる。しかし其れまでの伝統的な遷宮の方式は命日遷宮であった。先帝の崩御によって、皇子
たちは其の命日ラインの上に点在して、先帝の御魂を迎える宮を設営した。其れが遷宮でした。

中央集権ではなくて、地方への分散をした訳です。此れが実は天孫降臨の原理である。皇子の地方への派遣・地方へ
の分散と言う具体的な形で時代の変わり目を示す事によって人心の一新を促し、既得権益の返上も促進した。天皇が
代替わりする度に其のラインは変わるために、結果として放射状に都が旋る旋宮ともなった。

遷宮の具体的な効果については別紙の「神々の歳時記」の例えば1/1または11/7(景行天皇)を参照。

◆せんこう・・・・・・・

★戦国時代・・・・・・応仁の乱から大坂「夏の陣」までを言う。

◆センサー・・・・・・・

遷座・・・・・皇居を遷す事を遷宮と言い、神社の神倉の位置を動座する事を遷座と言う。墓地や墓石を移し(動座
る事)、或いは工事に着手する場合も遷座式を行う。墓石工事の前に「御魂抜き」の儀式となるが、この場合は先ず命
日など吉日を選んで移動するため、墓石の前に簡素な祭壇または祭具を作って酒・塩・洗い米・花などを供える。

そうして僧の読経と参列者の焼香で終わる。そしてこの御魂を抜いた場合の御魂の処置は、無論当の親族が自宅の
仏壇に仮に安置する心構えが必要である。このためには御魂の依り代として、予め、戒名札を作り、送り迎えするのが
望ましい。

その後、工事があり、十日くらい後には墓石が整うので、また僧に来て貰って、石材業者立会いの上、「御魂入れ」
読経による法事をする。供物は山・海・野の三界の幸と酒・塩・洗い米・花などを供え、奉水・焼香で終わる。其処から
墓地・墓石としての意味・機能が発生する。

また神社の建物の修理や30〜40年に一度、桧皮葺の屋根の葺き替えなどでも遷座が行われる。この時の遷御の儀
深夜、松明の火の元、神社関係者だけで行われる。

◆先史・・・・・・・
◆先師・・・・・・・

◆戦士・・・・・・・
◆戦死・・・・・・・

千手観音・・・・・千手観音や千手千眼観音は多数の手を孔雀のように広げています。外に奈良の興福寺・北円堂
の本尊の不空羂ケン索観音とか孔雀明王と言う尊像も一杯手を広げたり、或いは多数の糸を引く形を見せています。此
れは神仏に対して絹や麻で神衣を織り上げた方々の様子を象ったものである。

或いは命日を確認するために太陽観測をした方々の姿と様子を仏像に仮託して後の世に伝えたものであり、インドの
諸仏ではなくて日本に実在した方たちの菩提を弔うために生前の彼や彼女の日常の暮らしを生き写しに象ったもので
あったろう。

また後背として後光のように象られている造形も、こうした諸尊にも無数の先祖が実在した事を黙示し説いているもの
と見なければならない(「円系図」と「玉串の祭り」を参照)。

▲染色体の働き・・・・・此処では産み分けの事だけ述べる。男はXY(またはXXY)、女はXXである。Xがなければ人間
にはならないし、Yがあると男になる(05/8/19のNHKラジオ深夜便で中村正子氏)。

◆扇子・・・・・・・
◆先生・・・・・・・
◆宣誓・・・・・・・

◆善政・・・・・・・
◆前世・・・・・・・

前世占い・・・・・・・退行催眠などによって前世(過去世)を占う事。今抱える悩みや不安は前世に起因する事があ
る。人間の持つ宿命的な因果が分かれば感謝が生まれ、或は今問題が有れば何らかの改善策を講じる事も出来る。
其れを信じるかどうかは別として、先ずテレビ放映分から実例(実話)を引用する。

天明三年7/7七夕の日。人柱になった娘が今は一人の主婦(理紗さん)として何も知らずに暮らしていたが、この退行
催眠によって正確な年月日と場所を述べた。上州は四月から暑くなった。浅間山の噴火を前に我妻川に雷神様と龍神
様が下って来て、水が溜まって危ないと言われて彼女が人柱になったと言う。

此の娘は天涯孤独の孤児(みなしご)で13歳。妙(たえ)と言った。桑の葉を摘む少女だったが、皆から言い含められて
健気(けなげ)にも犠牲になったのだろう。其れでも皆から喜ばれて死んで満足であり「嬉しい」と言った。後で此の地に
ついて調べた所、渋川村上郷、今の渋川市と分かった。当時50km先の浅間山が噴火して火砕流が押し寄せた。

今も其のときの巨石が残っている。龍神とは川であり、雷神とは噴火に伴う雷と推定出来る。此の時の「泥押し」で土石
が2m〜5m埋まる大災害となった。関係記録によれば1151人が死んでいた。だが渋川村では「一人流された」と記録さ
れていた。此れが人柱だった。彼女が流された代りに渋川村全体が救われた事になる。

娘が流された所には昔は関所があり、橋が掛かっていた。其処に彼女が括り付けられて橋諸共流された。今も其処に
は橋がない。だがビデオを見た彼女は其れに気づいて気を失いかけた。水がどんどん増えて来ると感じた。
次の話は「公園に行きたくない女性」である。

彼女は今で言う小学低学年の年頃に森の中で母に捨てられて迷った。何とか30歳になって子供が生まれたが家から
出ようとしなかった。50歳の時に夫が病気になり、寂しいから一緒に死にたいと思った。此の前世を知ってから彼女は
積極的に外出する様に変わった。

双子の場合も前世の係わりによる。例えば一卵性双生児の場合は好き嫌いも一緒。生まれ変わってまた同じ仲間と暮
す事をソウルメイトと言う。前世でも今世でも強い絆で関係を続ける。家族の絆などはこうしたケースが多い(06/10/12
の関西テレビ「アンビリバボー」より引用)。


◆せんそ・・・・・・・

先祖・・・・・先祖を知り、其れを祭ると言う行為は、実に人間的な貴い行為であり、人と動物とを区別する指標にな
ります。そうした貴い行為を物質科学文明とか一神教とか、自由主義イデオロギーなどは、色んな理屈を付けて嫌い、
否定する。しかし其れは要するに人間性を自ら否定する事である。人の目は確かなようで実は不確かだ。

表面的な物理現象を見て、其れを僅かな知識で判断する。だから予測は大抵外れる。人間の考えなんかは、「木を見
て森を見ず」、森を見ても木の根っこまで見る事はない。地下の根っこが其の先で何処とどう別のものと繋がっている
のかは到底分からない筈です。

其の程度の人が目だけで見て判断するような危ないものであり、人間の考えなどは普通、其の程度のものである。其
の上、因果律と言う時空を見る目を持つ人は今のスピード社会では更に少ない。ですから人の考えとか自由意志など
の正体は要するに思い込みか動物的な生き方であって、道理でも学理でもない。

動物は自由に見えるが、彼らに自由があると思うのは誤解である。イヌや家畜は奴隷以下の自由しかないし、野に放
たれても固有の適温の元でなければ生きられない。サルの場合を考えても餌場や水場の縄張り、仲間内の序列や掟
に縛られる。其の上、必ず天敵が存在するので自由に暮らせる環境ではなく、厳しい暮らししかない。

其の点、大陸では人と動物との暮らしが長く続いたので動物本能で生きる生き方が主流となり、戦いの歴史が続く。
それに対して日本人は戦争を繰り返す諸外国の蛮族とは別の、祭り事をする事で戦乱の世とする愚を避けて来た。此
れは今様の軽薄な学理とは違って一万年の伝統、つまり実績ある貴い生き方であり、日本の文化遺産でした。

従って其れを否定すれば因果関係により幸福とは別の「病・貧・争」の人生を自ら選ぶ事となる。本人は自由が良いか
も知れないが、結果として周りに迷惑を撒き散らし、其の尻拭いも出来ずに一生を終えて多くに負担をかける。其の負
担は当然、ご本人のコピーである子孫にも及ぼします。

子孫が其の種(たね)を持つコピーである以上、同じ苦労を舐め、同じ結果を繰り返す。其れを悪因縁と言う。本人の
自由意志のしわ寄せとして借金踏み倒し、生活保護、保険や医療、親の介護も社会福祉制度に頼る。此れでは幾ら保
険や税金を吊り上げて整備しても世の中を良くはしない。人生、長いようで短い。

人も年配者になれば其の短い時間をお互い大切にしたい、と思うようになる。それに対して動物的な今のような競争社
会では、「人の不幸は蜜の味」としてほくそ笑み、或いは欲得で動く世間とする。厭な事は他人に押し付けて済むならば
ヅル賢い人間を助け、動物的人間を甘やかす事にしかならない。

其れでは「皆の苦労が水の泡」か、「ドブに銭を捨てる」結果にしかならず、そうした例が多数存在する事を年長者なら
誰もが経験則として気付く筈であり、其れを他人に言うか言わないかの違いだけである。ただ例外的に、先祖祭りをし
ないのに一見、幸福な生活を送っているような人もある。ただ此の場合は身内の誰かが殆どしてくれているからです。

先祖は誰なのか、自分は誰なのかについては「円系図」を参照。また方位との関係では「家」を参照。

先祖供養・・・・・・・墓参や年忌に務める事。実に大切な事であるが学校では教えないのでお年寄りに教えて貰
うしか有りません。此れは宗教団体でも余り教えない。寧ろ、「平凡な先祖よりも、もっと偉大な当団体の教祖のほうを
拝め」と指導するからである。また学歴を持つ人や成功体験を持つ人は、「祈るとか拝む」行為を拒否するものである。

彼らは「神仏に頼るなどはしたくない」と言うだろうが其れは誤解である。本来の先祖祭りや祈る行為は今の「願掛け」
とは違う。本来の祈りは我利我欲を達成しようとする勝手な祈りではなくて、先祖や神仏に対する「帰命頂礼」であり、
「どうぞ神仏のお役に私をお役立て下さい」と念じる清らかな思いである。

さて先祖供養の具体礼としては第一に仏壇・神棚へ日々のお供えとか墓参、或いは日々の感謝である。願い事があっ
ても、其れは程々にしたい。願をかければ先祖供養には成りません。ご先祖たちは、此方の状態を「百も承知」だから
聞きたくもない。つまり無用なのです。

第二は実家や本家への中元・歳暮と法事参加、第三は寺社との付き合いや墓地や墓石である。此れは格別難しい事
を要求するものではなくて、極く自然に昔から続いて来た日本の慣習に従う事と隣近所の付き合いである。

例えば、命日には近い先祖に労いと弔い、盆正月やお彼岸には遠祖にお供えをして供養するなど、四季に応じて余所
と同じような行事をしていれば良い訳です。僧都に読経を頼むのも良いが、自分の家の宗旨のお経くらいは自分で唱
えて良いのです。

ただ先祖は多岐にあり、百人百様の時代と各々の宗派で生きたので、子孫が一つの宗派に決めて供養するのは無理
が有ります。ですから各教・各宗派が経典とする架空の論理や経典などを先祖に押し付けては失礼であり、供養になら
ない場合も有ります。例えばキリスト教徒の先祖にはキリスト教の弔い方が最適になる。

つまり先祖は元々、個々別々の宗派である上に、浮世の俗人の考え以上の事を既に知っており、悟っているもので
す。しかもあの世は物質世界とは逆の想念世界ですから目新しい事よりも昔通りの伝統的で古い保守的なやり方の方
が供養になる(13仏、年忌を参照)。

ただ、死んで間もない先祖は、肉体や供物にまだ未練と執念があるため、供物や墓石などを希望する。其れだって50
年、或いは数代先には薄れて行くので、「先祖代々」として五輪塔などに纏めても可とする訳です。墓参と共に盆正月
の事前には家と墓地とのお掃除です。

墓地や仏壇だけではなく、日本人は昔から盆・正月までに必ずツケや借金を精算し、綺麗ににして先祖や正月様を迎
えるのが美風でした。先祖を綺麗な墓地から綺麗な家へ迎えたら、生きている時と同じように労わり、ねぎらい、馳走し
待遇する。命日や彼岸、其れに盆と正月にこのように送迎すれば一番の供養になるでしょう。

無論、立派な戒名や墓石を喜ぶ先祖も有るでしょうが、其れより大切なのは年忌です。特に遺産を相続した者は欠か
さず年忌を務める立場に有り、義務が有ります。其れが近隣や親族との関係を良くし、同時に家族の無事安泰を維持
する秘訣と成ります。特に子供にとっては何よりの教育となり、「情けは人のためならず」を諭すものとなる。

先祖供養は目立つ行為ではないので義務を怠っても別にどうと言う事はないように思ってしまいます。先祖がたちどこ
ろに幽霊となって化けて出る訳でもないからです。ですがその様にして永く先祖を忘れていますと、幽霊よりももっと怖
い形で表象する。

色んな形で先祖から信号が有り、其れに気づかなければ戒告となり、それでも改まらない時には病気・貧困・争い・事
故が打ち続くようになり、ニッチモサッチモ行かなくなるのです。

先祖と子孫の関係式・・・・・先祖を別項の「円系図」にして見れば、過去は完全な存在であった事が判明する。数式
の得意な読者の為に筆者にとっては実に苦手な数式・グラフで説明しよう。yを縦軸・時間軸とし、xを横軸で人数とすれ
ば、y=x2乗の曲線になる。y軸に関して曲線は対称になるが、過去であるから「−」側で放物線になる筈である。

所で現在と未来の子孫は不確定ですから何とも言えませんが、夫婦の出生率が例えば04-05年の1.29とか1.25とな
った現在、世代数に対する子孫人口の形は、まるで伏せた丼の尻に尖った盃が乗っかったような双曲線となり、歴史
時間が長くても、人口数は極細と言う形である。 

先祖祭り・・・・・先祖祭りは鎮魂と日迎えの別があり、其れらは寺と神社で一年の間に交互に行った。命日には墓地
または寺で弔い(忌み籠り)、対する逆の時期には逆方向の宮(神社)で神の降臨を待つと言う形で祝い祭った。其の
形の典型が日本の盆と正月と言う、一見違った形の風習です。

古来、寺で祀る先祖(菩提)の数を何柱で数えるのは墓石の数に由来するからであり、また神社で祭るご祭神の数を
何座と呼ぶのは祠に納めたご神体の数に由来する(13仏、年忌を参照)。

戦争・・・・・・・戦争は直接侵略と間接侵略があり、前者を具体的には戦法、戦略、戦術に分類する。また其の形態
により熱戦(直接戦闘、空爆など)、経済戦、冷戦、心理戦、などに分類する。熱戦と言うのは直接戦闘を意味する。ま
た場所により海戦、野外戦、市街戦などにも分ける。

或いは使用する兵器によって、野戦砲、艦砲射撃、対戦車戦、地雷、化学(毒ガス)戦、生物兵器、もしくは劣化ウラン
弾等を爆弾に使う電子空爆・ミサイル戦。外にも例えば大東亜戦争では日本の精神主義がABC包囲網と言う経済戦
に嵌められて米国の物量戦・情報戦に完敗し、更に原爆と言う実験戦に使われた。

そして今の日本はセックス、スポーツ、映像と言うシオンの3S政策(間接侵略)によって金玉を抜かれ、しかも北朝鮮な
ど各国スパイのやりたい放題(諜報戦)の平和ボケの国にした。此れが心理諜報戦である。またかつての伴天連のよう
にイデオロギーによって間接侵略する行為も効果的である。

其れにかつてのベトナム戦争や今のアフガンやイラクは大国・米国が電子・空爆戦と言う卑劣な戦法でやりたい放題で
あるのに対抗してゲリラ戦で弱小国が勝つ戦法である(「合戦」及び「戦乱の20世紀」を参照)。

戦争責任・・・・・・・戦争実行者がどう責任を取るかと言う事。国際的には当事国であるが、戦勝国と敗戦国で大差
が有る。戦勝国側は当然の様に敗戦国に全面的に責任を押し付けるが、一方的な原因で戦争になる事はないので東
京裁判のような茶番で誤魔化しても駄目である。米国は大統領が二期で終わるのが不文律だった。

所が「戦争中」と言う理由で唯一、3期12年間いたのがルーズベルトである。彼は戦争実行の張本人であった。其の身
代わりとして日本に罪を着せ、軍事裁判をしたとも言える。軍人はたまたま終戦時に其の地位にあっただけであって、
開戦から終戦まで中心的な役割をした訳ではなかった。其の責にあったのは天皇である。

だから敗戦国としては天皇が責任を負うべきだった。其れが天皇制や元首制である。将兵は「お国のため」に戦い、最
後は「天皇陛下万歳」と死んで行った。或いは靖国に祭られると信じて散って往った。とすれば矢張り天皇は先ず靖国
に参拝しなければならない。

所が昭和天皇は一度も靖国参拝をしなかったし、平成の今もしていない。此れでは英霊が浮かばれない。GHQや国
民の反対があったとか、朝鮮や中国が批判するから出来ないとか言うのは筋が違うのです。東京裁判では戦争責任
が問われ、連合国側の一方的な裁判で軍関係者だけが戦犯として不当に処分された。

第二次世界大戦では数千万人が死去し、その内、15年間に及ぶ太平洋(大東亜)戦争では犠牲者数が将兵310万
人、アジアを含めた一般人も含めれば1800万人とも推計されている。人の命を経済援助で肩代わりする前に、責任者
が先ず懺悔する事である。其れがなければどんな道理も通らない。

何らかの理由で戦争をする場合は米国なら先ず東京大空襲や広島・長崎への原爆を投下した事によって民間人を無
差別に大量虐殺した罪を精算しなければならない。其れをせずに次はベトナムやイラクを侵略した。だから何時までも
責任を問われながら悪循環である(放射能、プルトニウムを参照)

戦後の日本政府も、日支事変以後のシナなど、外国に与えた加害行為の責任があれば問われるし、同時に国内の国
民に対する責任が問われる。ロシアは条約違反と抑留者についての責任が問われる。

其の点で例外的に中国(中華民国=台湾政府)は日本からの戦後賠償を求めなかったが、米国は日本に落とした原
爆やベトナムに落とした枯葉剤について損害賠償義務があろうし、また其れを強く求めるのが安易な戦争を防止する
パワー(抑止力)ともなろう。ともあれ、戦後政府は何の責任を果たしているか。

確かに昭和天皇は昭和20/9/27日に敗戦国日本の最高責任者として自ら戦勝国である米国大使館のマッカーサーを
訪ねて行って、「全責任は私にある。よって連合国の採決に委ねる」と言う意味の事を話している。此れは責任者として
立派?(当然)であったが、其れは外国に対してであって、国民にはどうだったのか。

天皇は例外としてマッカーサーから許されたが、国民の中には天皇を許していない人もあろう。其れは従って天皇に代
わって戦後政府が行うべきだった。マッカーサーは天皇を許したが、戦前の窮乏に続いて国民は戦後も重税に耐えな
がら戦後賠償の重圧を受けて来た。

敗戦で犠牲から解放されたのではなくて今なお賠償とは違った名目で次々と海外援助を続けている。金額だけ見ても
寧ろ増大しているだけであって国内向けには殆ど開放されていない。無論傷痍軍人や軍人恩給制度で一部の補償は
あった。

だが例えば、海外戦没者、約240万人中、124万柱の遺骨が帰って、其の多くを東京・千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に
納めた。残る116万の遺骨の内、海没30万、中国など相手国の事情で回収困難なもの26万、埋葬情報が少ないも
の60万も有る(▲から▲までは厚生労働省の纏め2004/1/28毎日より)。だが日本政府は遺骨収集に消極的だ。

だから収集を「国の責任」と明記する事が必要だ、との意見もあるが、此れは「法令」以前の政府の自覚の問題であ
り、既に数十年も放置している以上、どんな言い訳も国民、特に英霊や遺族には通らないだろう。つまり、現政府は戦
前の政府とは別としても、戦争責任を取れない無能力者である。

例えばミンダナオ島に2人の元日本兵がいると分かって一応現地に向ったが、政府は05/5/30日には中止と決めた。
苦しい中、武器や食料の支援もなく戦い続ける将兵に対して8/15日に終戦になった事も政府は知らせなかった。その
後に調査も何もして来なかった。

以後60年間戦い続ける地獄に兵士たちを落として置いて、例外的に生き残っていたと知っても熱心に救援しようともし
ない政府は失格であろう(「国連」、「戦乱の20世紀」、及び「いくさ」を参照)。其れに対して安倍総理はやや期待でき
る。

他の面ではまだ未知数であるが、例えば06/10/6の国会で民主の岡田氏が「A級戦犯は犯罪人」と追及したのに対し
て、首相は「国内法的には違う」と答弁した。「A級戦犯を犯罪人」としたのは戦勝国側であって、日本国民や国内法で
は罪人としていないからである。

まとめとして最大の責任者は米国であり、またキリスト教圏の戦勝国である。彼らは直接に大量虐殺した外にも放射能
汚染を撒き散らした。此れは今は未知数であるものの人類絶滅を齎す危険性がある。此の半減期は気が遠くなるよう
な年月である。

キリスト教は原罪意識を持っているが、其の上に少なくとも2.4万年間、此の原爆重罪を懺悔しなければ神の許しはな
かろう。

戦争への道・・・・・・・人々の多数が平和を望んでいるのに何故戦争になるのだろう。イソップ物語では「戦争は後か
らやって来る」と書いていた。彼の「戦争と傲慢」には、神々が結婚式を挙げて各々の伴侶が決まった時に戦争(ポレモ
ス)が皆に遅れて到着した。そして一人しか残っていなかった傲慢(ヒュブリス)を娶った。

戦争が傲慢を恋い慕う事一通りではなく、此の女神の行く所何処へでもついて行った(06/11/10の朝日「天声人語」)。
さて、ユダヤと米国は先ず戦争を仕向ける外交で成功して来たが、其れは「世界の警察官」と言う自覚ではなくて情報
操作で世論を動かし、戦争を正当化する戦争主義経済のためである。

例えばNY同時多発テロを演出したブッシュは、アフガンとイラクを侵略して石油利権を手にして世界を支配した。だが
06年には世論が反戦に傾いて歴代大統領の中で「ブッシュが一番嫌い」との答えが43%に達した。今は欧州諸国でも
「世界最大の脅威は米国」と言う。

06/11/7中間選挙で共和党が惨敗し、ブッシュは慌ててラムズフェルド国防長官を更迭した。あと2年の任期を維持する
為にアフガンとイラクの失敗を彼に着せたのだろうが、米国の犯した他国での殺戮は元に戻らない(「アメリカは戦争経
済」を参照)。戦争への道を踏み出したら最早引き返す道は無くなり、負けるまで戦い続ける外はないのです。

戦争防止・・・・・・・日本に原爆が投下されて以来、多くの人が「もう戦争は出来なくなった」と思った。こんなに大
量に虐殺されては人類も諸生物も地球も滅びると思った。直ぐに国連が出来た。だから「もう戦争する時代ではない」と
思って日本の場合はひたすら食料集めと戦後復興に励んだ。

憲法の前文と九条のお陰なのか、日本では流石に戦争は無かったが、しかし原爆や国連が出来てもやがて朝鮮戦争
が始まった。日本、スイス、アイスランド以外は1945-戦争に参加した。例えば1945年から朝鮮、次はベトナム。1990年
からコンゴイラクで戦争となった。でも多くが此れは例外だと思った。

東西冷戦の代理戦争であり、局地戦であるから直ぐに終わると思ったが、次々と連鎖して行った。確かに経済的に貧し
い国などが鉱山の支配権で内戦をしたケースも有る。例えばアフリカは資源大国です。中でも今人気のタンタルは白金
に似た希少金属であり、電算機や携帯電話に使われている。

此れを米国が石油と共に次の利権とするため内戦を起こして武器を売りつけた。米国は世界の軍隊の半分を占める
存在(因みに日本は第5位とされている)となり、アジア最大が日本と沖縄の米軍基地である。今や「世界の警察官」と
言われながら「やられたらやり返せ」と言う警察官になった。

特に2001/9/11NY同時多発テロ以来、アフガンとイラクなど他国で戦争を起こし、攻撃した。こうして20世紀は戦争で1
億人以上が死んだ。世界中で平和デモが繰り広げられたが戦争の火は消えない(大半を06/8/24のNHK教育TVより
引用)。


「先代舊事本紀」の由来 ・・・・・・・以下、先代舊事本紀研究会http://www.shonanfujisawa.com/~kujiki/
story.htmlより引用。<その壱>厩戸皇子は、孔子、孟子、の儒教、釈迦の仏典に勝る理念は、わが国日本には無い
ものかと、古代の文献の探求に着手し、神代文字を廃止して、漢字を音と訓に分けて国字として制定しました。

父君、用命天皇が病死、崇峻天皇が蘇我馬子に弑逆され、即位した推古天皇の懇望で皇太子となり、摂政の宮とし
て、日本最初の憲法である、「和をもって尊しとし、忤らうことなきをむねとせよ」に始まる十七条五憲法を作り、国史の
必要を痛感、夢殿を建ててそこに籠もり、「先代舊事本紀」の編纂に着手されました。

「先代舊事本紀」の出来たのは、推古二十八年、その年の十一月、聖徳太子は推古天皇に対し「折角の此れが書、遠
からず亡失のおそれあり。」と語られ、翌年二十九年二月五日、后の膳の大郎女(かしわでのおういらつめ)と共に枕を
並べて急逝されました。

既に自らの陵(みささぎ)を土師(はじ)氏に命じて作らせてあり、覚悟の崩御と雖も、お二人が一緒とは唯のご逝去で
はありません。推古天皇は何者かの策動によるものと感じたのか、「舊事本紀」の編纂奉行は蘇我馬子(そがのうま
こ)と、中臣御食子(なかとみのみけこ)の二人だったが、御食子のみ呼び寄せ、「書の亡失のせざらん事の為の方策
を図らねばならぬ。」と仰せられたのは、皇太子ご崩御の影に、馬子ありと悟っておられたのではなかろうか。

中臣御食子は神武天皇が御東遷の際、熊野に於いて高倉師である天隠山命(あめのかぐやまのみこと)が認めた神
代の秘録を平岡神社、阿波神社に秘蔵した故事にのっとって、神社への秘納を言上しました。天皇は御食子を伊勢に
遣わし神示の窺いをさせました。

伊勢に鎮座されます天孫大神(あめみまのおほかみ)は、「神祠(かみやしろ)に秘さば失せざることは無かりき。」と宣
いました。このようにして、聖徳太子が生涯を賭けて編録した神書、「先代舊事本紀」は千年の後までも失せることなく、
遺し得たのです。

湿気と暖気に虫食いに、ぼろぼろになった神書の書写は、大変な作業であったであろう、又神書の内容は聲なき聲を
発しつつ、神官たちの魂を揺さぶった事であろうと・・・・・・・。 
<<その弐>>

推古天皇は太子の言葉を思い出し、「先代舊事本紀」の編纂奉行の一人、中臣御食子を呼び、「折角のこれが書、如
何なる手段によれば、失う事のなきや」と相談され、御食子を伊勢に遣わし神慮をお伺いしました。

天孫大神(ににぎのみことのおおかみ)が神巫(みこ)に憑り申された神示に従い、中臣御食子をして、五十鈴宮(いす
ずのみや)、大三輪宮(おおみわのみや)、四天王寺の三祠にこれを秘匿され、「先代舊事本紀」はこの世から姿を消し
ました。

それから、七十年、八十年の後に、「古事記」を書かしめた元明天皇にしても、「日本書紀」を記さしめた元正天皇にし
ても、「先代舊事本紀」がこの世に存在している事を知りませんでした。然し、天意、神意による秘宝、そのままこの世
の中から消え去る事はなかったのです。

千年後、湿気と暖気、虫食いに侵された秘宝は神官や住職によって発見され、書写されて巷間に出回ったのです。然
し、この難解な書物は二、三の人達に読まれただけで、これを神恵みの古代編纂の大録である事を知る由もありませ
んでした。

時は徳川五代将軍綱吉の時代、漢学においては、幕府の御用学者である林羅山の右に出る人はおりませんでした。
所は上州、館林の禅僧、潮音道海なる僧が、将軍の生母である桂昌院の力入れで、伊勢の別宮、伊雑宮(いざわの
みや)の神庫の奥深くに秘蔵されていた古書、聖徳太子撰「先代舊事本紀」(七十二巻)を神官の許しを得て書写し、勉
強し、清書した上に、刊行を試みました。

桂昌院から、「まずは大学督(だいがくのかみ)に見せなさい」と言われた潮音は、林羅山に見てもらいました。漢学者
として並ぶ人の無い林羅山は、その文章を読むに読み難く、大いに怒ったという事です。

「何だ、これは!・・・潮音づれが聖徳太子の名を騙りおって不届き千番、こんな偽書が読めるか!」と一喝 ・・・、 実
は「舊事紀」の文章が大和読みである事に、気がつかなかったというのだが ・・・? さて、 それはどうだろうか?

こうして「先代舊事本紀」は漢学においては、天下の第一人者である林羅山によって、偽書の烙印を押されたが為に、
学者の間では偽書説が主流となってしまいました。「これぞ天下の名著なり! これぞ我が日本の道の標なり!」と刊
行を試みた潮音ですが、時の漢学者や碩学の言葉に悲憤の涙に暮れたという事です。ああ・・!何たることであるか
 ・・・!

「偽書だ! ・・・ 偽作だ!」と騒がれ、末は幕府の弾圧により禅僧、潮音と伊雑宮の神官、永野采女ら関係者は処罰
され、書は発禁処分、その上焚書にされ「伊雑宮事件」として歴史に残りました。この出来事をそのまま語るより、なに
か新たな陰にある歴史的事実が発見できないものだろうか! ・・・・ 。

仏教の世界で名のある潮音はその後、自ら神儒仏の三教を通して「大成経破文答釈」を著わしこの書が神典であり、
真書である事を幕府の弾圧に屈せず叫び、訴えたのでした。仏教信仰からの精神から接した「先代舊事本紀」に対す
る潮音の心念は、簡単には崩れ去る事はなかったのです。

以来、明治の時代に及んでも、「舊事紀」の一部を勉強した人はいても、全巻七十二に及ぶ大録を悉く勉強した人はお
りませんでした。「先代舊事本紀」が秘蔵されていた伊雑宮(イゾウグウともイソベさんとも言う)は徳川時代、地元、磯
部の漁師達の守り神として尊崇されておりました。明治初年になって宮司が神社の庫内で膨大な神書を発見しました。

それは「先代舊事本紀」即ち(神代皇代大成経)の写本でした。驚いた宮司は伊勢の神宮にこれを見せました。爾来伊
雑宮はイザワノミヤと呼ばれて、内宮の別宮とされ、内宮、外宮同様に式年遷宮には遷座する事が決定したと言うこと
です。そこで考えられる事、伊雑宮(イゾウグウ)とはその昔の五十宮(イソウグウ)の事であります。

今から千八百年前、垂仁天皇の皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)は斎宮(いわいのみや)となられたが、この倭姫
命に憑られた天照大神は、幽遠の彼方の御誕生の地こそ鎮座の場所と、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)をお出まし
になり、伊賀、近江、美濃、尾張、伊勢路へと諸国を巡られました後、遂には聖地、伊勢国の磯部の五十宮に辿りつか
れたのです。

こうして伊勢に内宮が完成されるまで、磯部に留まられたのです。その磯部は今でも志摩国(しまのくに)です。今から
千四百八十年前、志摩国は大地震の為海底に沈んでしまいました。時の武列天皇は非道横暴を極めた人で、地震は
神様が起こすと信じられていた当時の事、「神様などに負けてたまるか、志摩国が無くなったのなら造れば良い」と伊勢
国の一部を割いて志摩国としたのです。

この五十宮(イソウノミヤ)に、推古天皇の命を受けた中臣御食子は「先代舊事本紀」を秘納しました。五十宮(イソウノ
ミヤ)こそ、後に名を改めた現在の伊雑宮(イゾウグウ、イザワノミヤ)なのです。

今より数えて二百有余年前、神道家の依田貞鎮(偏無為)は伊勢の五十鈴宮、大和の大神神社、大阪の四天王寺に
秘蔵されていた「舊事紀」を合わせ七十二巻に整え、「古事記伝」で有名になった本居宣長にこれを見せました。

宣長にとっては当然の事、「古事記以前に斯様な書物は無い筈!」と疑問を抱きながら、「古事記の文と日本書紀の文
を交えて挙げたる故に文体一つの物にあらず、諺に"木に竹を接けり"とか云うが如し」と軽く評価、「先代舊事本紀」は
真書とは認め難しと言うのでした。

偏無為は四十五年間を「先代舊事本紀」と共に過ごし、七十幾年の生涯を鎖じたと言うことです。「先代舊事本紀」は聖
徳太子の発案で、先史のことごとくを集め記録したもので、「編録終了の砌は、六名家[吾道(あじ)、物部(もののべ)、忌
部(いんべ)、卜部(うらべ)、出雲(いずも)、三輪(みわ)]より集めた家録を、それぞれの名家に返還するように」と太子
が命じたのに、馬子はこれを返さず自家に留めおいたのです。それが後日の「日本書紀」の記録の原典となりました。

それ故に、「日本書紀」の記述内容の全ては、「先代舊事本紀」の中に記されているのです。蘇我馬子は東漢直駒(や
まとのあやのあたいこま)の手で倉梯の宮(くらはしのみや)において、崇峻天皇を斬殺させて以来、太子は蘇我馬子
に対して笑顔を見せた事がありません。

太子は馬子に「斯の書物は神々の在(ましませ)し姿を後世に示すもの、心は清浄に微塵の穢れもあってはならじ。わ
ずかにも穢れの在りては、後世を欺く事になる。懺悔して認めに当たれ」と懇々と諭されては、馬子、天皇斬殺の罪を
陳べざるを得なくなりました。「陳べては、これ曽我家の恥辱、万代に傳わる。

然らば斯の書物遺すべからず」と太子ご夫妻を毒殺し、この書物の抹殺を考えたと思われるのです。古来の記録を集
めて、国史を正しく後世(のちつよ)に遺し、国の将来に誤る事の無きことを求めたのが「先代舊事本紀」。

時は推古天皇の二十八年十一月、太子は撰録が終了した時、「折角の之が紀、天(あめ)を望(あおい)で窺うに、久し
からずして亡失の怖れあり」と申され、翌年の二月五日、膳大郎女(かしわでのおういらつめ)の后と共に、枕を並べて
急逝されました。

栴檀(せんだん)・・・・・・・日本では暖地の海岸近くに自生する落葉喬木。インド産のセンダナ(香木)で白檀の別名で
もある。

▲センダン草・・・・・・・雑草の仲間。秋になるとトゲのある実を花火のように開いて、其処を通る人の衣服の膝の辺りに
くっつけて繁殖して行く草であり、嫌われ者である。だが其の根っこを煎じて飲めば、膝の痛みに薬効が有ると言われ
る。

▲剪定・・・・・・・別紙の「月読み」を参照。

▲千日回峰・・・・・・・比叡山延暦寺(天台宗)で行われる行法。不動明王の化身として体力・気力を共に使って命懸け
で祈る荒行である(「祈り」を参照)。350年間、絶えていたのを箱崎上人が復活した。

所が此れについてかの養老猛孟司先生は傲慢にも、04/11/15日のNHK教育テレビで「千日回峰などをしても、GNP
に寄与するものではない」、と言うような事を断言していた。これこそ、医学迷信による、どうしようもない馬鹿のたわ言
ではないのか。現代科学やGDPこそ、今は最早どうしようもない所に来ているのである。

▲千日参り・・・・・・・「千日」の付く言葉には「千日行者・千日紅そう・千日講・千日草・千日参(詣で)」・・・等があるが、
「千日行者」が千日間、ではなく10日間、行をする人の事である。「千日参り」は、千日間、神社仏閣に参詣して祈願す
る事。

所が「陰暦7/10」に観世音に参詣し、或いは「陰暦8/24、25」に大阪の天王寺にお参りすると、たった1日の参拝で
千日分の功徳に値すると言う。此処から今も大阪南には「千日前」と言う町があるが、この辺はご維新までは刑場だっ
たと言われる(「祈り」を参照)。

戦法・・・・・・・戦法の第一は無手勝流。此れが日本の古法であり、戦わずして勝つ事である(イクサを参照)。第二
は強くて勝つ事だが此れは当たり前であるから戦法とは言えないが、勝つために各国が各時代に富国強兵と言う手法
を採って来た。第三は「孫子の兵法」など情報戦とか戦術で勝つ事である。

しかし例えば彼が「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」と言ったものの現実的ではなかった。実際、帝国陸軍の「作
戦要務令」は此れを基本としたものの、己の事も中々不明な内に攻勢に出た。敵の何を何処まで掌握するかは至難の
業であり、到底実行不能ですから中々難しい。結果から見ても情報戦で惨敗した(大東亜戦争を参照)。

よって孫子の兵法は使い物にならない。更に日本の敗戦は「物量戦で破れた」と言うのが大方の持論である。其れも一
面の事実であるが、直接の失敗は情報戦で遅れを取った事である。更に決定的な間違いは、古来の和の力に無知な
ために幕末から既に洋式の星族を真似て同じ武力と言うカードを使った愚策からである。

次に第四として集団安保が有る。実際、「弱い奴ほど群れたがる」ものであるが、古来、利害で結べば簡単に利害で崩
れるものである。現にソ連は日本を裏切ったではないか。このように安保で一時は少しの安心を買っても大きな不安と
なる為に、20世紀を大殺戮と「戦乱の世紀」とした愚策である(合戦を参照)。ともあれ此れからの戦法は何か。

現代では大陸とか島国とを問わずミサイルが飛び交う。地理的制約がなくなったので、人知による在来の戦法は通用
せず無能化した。従って此のままでは原水爆による核ミサイル攻撃で人類玉砕へと突っ走る可能性が高い事は誰もが
予測出来る。特に平野部の大都市は悉く消滅する。

此の上は、下手な戦法よりも霊的制裁を甘んじて受ける覚悟が必要です。神に委ねて待つ事が無手勝流でした。そう
すれば、因縁の相殺によって、悪因縁の強い星型社会が真っ先に自滅するが、より人口の多いAA諸国が生き残るだ
ろう。特に山間僻地や高山地域が生き残る可能性がある。

前方後円墳・・・・・・・頭部が丸く、方部が三角形の墳墓の事。古来、「天円地方の理」と言う不文律の掟があり、天
子・天皇が祭る所をこの形とした。因みにこの形の古墳は現在、約4700基以上が確認されており、最大のものは大
山(伝・仁徳陵)古墳(約480m)や羽曳野市の伝・応神天皇陵がある。

だが考古学の解釈は古墳の規模や副葬品が「権力の大きさ」であると誤認するような、物的側面だけを見て被葬者の
格付けをする。しかも原理に不明なために次項の後方墳とを比べても、余計に謎を深めてしまっている。此のため、
「では一体、誰の古墳なのか」と言う最も肝心な命題に答えられない。

其処で当会は別紙「神々の歳時記」によって各地の古墳の被葬者の特定をした。因みにウィキペディアにも和暦・古
墳・天文などについて解説したのであるが、何者かによって無断で直ぐに書き換えられてしまうため、気がついた時点
でまた加筆すると言う無駄な作業が続いて中々真実が発表出来なかった。よって此処で解説する。

円墳が王の墓地、方形は諸侯の墓地でした。円墳と言っても円丘上はサークル状の平面でした。其の中心に1本柱
(見柱)を立てた。水平面に垂直な柱を立てる事で日影を観測して、被葬者の命日をメモリアルしたり確認する為でし
た。円墳を作る前から柱を立てて観測し、其の後、其処に土山を築いた可能性もあります。

そして埋葬後、半年以上経過し、或いは50年祭、100年祭と言う祭りをするために、命日方位とは逆の方角に三角形の
土壇を築いた。此れを付けたのが現在は前方部と言われていて、両者がドッキングして前方後円墳となっている。従っ
て前方部は古墳ではなくて厳密には埋葬時とは違う時期に付けた祭壇(「玉串」「見柱」を参照)である。

こう言う形態にするには子孫がしっかりしていないと出来なかった。円墳だけで終わっているケースが大多数です。ただ
応神天皇のケースでは実に見事な一連の形態を残している。前方後円墳の示す命日ラインの延長線の前後には更に
墳墓や宮や寺を建て、鹿児島にまで伸ばしている(別紙・歳時記の2/15を参照)。

今・治定の伝・応神天皇陵ではなくて、実はその横の伝・仲津媛陵が彼の真の陵である。其の主軸の前後から全国各
地の八幡宮が形成されて行った。従ってこの様な順序が方位から確認出来れば、被葬者を特定できるのみならず、石
棺や土器や副葬品についても正しく編年出来るのです。

所が今までの考古学は古式コヨミや葬法にも無頓着で順序も知らず、神(被葬者)を否定して目に着く「物ばかり」見た
ので迷路に嵌ってしまった。寧ろ逆に、土器を得体の知れない手法で分類して、導き出したどきの分類によって古墳の
年代を推測すると言う手法を採った。だから土器も被葬者もどちらも分からず迷路に嵌っているのです。

纏めとして言えば、故人の命日を方位で印すために墳墓をその方位に設定し、またその逆方位に宮を造って日迎えの
祭りをしました。つまり命日--墓地--遷宮(別項参照)の方式が、天文--人文---地理と言う方位の原理で一貫していた
事です。其の道理の完結によって調和と義の弥栄が続いた。

前方後方墳・・・・・頭部が方形で方部が三角形の墳墓の事。古来、「天円地方の理」と言う不文律の掟があり、天
子は円形であるのに対して、地方の領主・諸侯が祭る所をこの三角形(後方)とした。しかし考古学では其の前提を知
らずに「古墳時代の初期の古墳である」と言う邪魔な前提を置いているため、他の多くの真実まで不明にしている。

因みにこの後方形の古墳は現在、約500基が確認されており、最大のものは天理市の西山古墳(180m)があるが、
この形は弥生時代の伝統的な形から東海地方で先ず現れて各地に分散したと誤解説している。ともあれ天理市には
外にもノムギ古墳など最古段階の例が有ると言い、其処から邪馬台国・大和説が繰り返される。

考古学は更に、古墳の規模や副葬品が「権力の大きさ」であると誤認している。しかし、物的側面だけを見て被葬者の
格付けをすれば、前項の後円墳とを比べても、余計に謎を深めてしまう。

例えば天理市には外にも巨大な鏡が出土した下池山古墳があり、鏡だけ比べれば他のどんな後円墳の被葬者よりも
権力が大きいと言う、変な結論しか出せなくなるのである(「古墳」を参照、及び別紙の「陵資料室」で詳説)。

ともあれ古墳の頭に「前方」と言う名前が付くので其れを解説すれば、此処は祭りの場であった。鎮魂ではなくて、日迎
えの場であった。古墳の鞍部に立って前方部を見れば、富士山の形に見える。ですから早朝に此処に集まって祭りを
すれば、恰も富士山の頂上からダイアモンド・ライトが輝くような御来光を仰ぐ事が出来たのです。

但し此れが見られるのは全ての古墳ではなく、全体の凡そ1/6であり、具体的には古墳(前方部)の向きが2/21〜4/
20の暦日・方位の場合に限られる。

★センマ・・・・・・・

専門家・・・・・・・昔は「よろず屋」だけで事足りたが、近代化に伴って肉は肉屋、魚は魚屋と言う分業化が進み、洗濯
物はクリーニング店、子供の教育は学校に頼むと言う時代になり、大学も専門科が進んでしまった。人間も商品も増え
たし、高度情報化社会になったので専門家が増えるが、一個人まで専門家で人生を終わってはならないだろう。

分化し枝分かれすれば基本から遠のく。根っこと言う先祖のある自分を知らずに機械や商品に詳しくなっても一時の軽
薄な利便性があるだけです。人は例えば自分で出来る健康を維持する大切さを忘れて、病気になった時だけ専門の医
師を訪ねる。プロに頼ろうとする。だからプロは看板さえ掲げれば直ぐに金に直結していい商売になります。

でもプロとして責任をもって治すような事は出来ない。合法的に料金を集めるシステムの上にいるだけです。プロであっ
ても基本から離れているので原理原則を知らない。人間の基本も全体の調和も知らずに歯科は歯科として眼科は眼科
の専門バカとして存在しているのです。

国民全体が現実主義的・実益主義のリアリズムになり、原因を考えずに過程(プロセス)さえ飛ばして、性急に結果だけ
を求める短絡的な風潮になった以上、町や村でも手軽に頼める専門家として彼らが存在するのは便利ですが、これら
は進歩発展と言うよりも動物的な暮らしにしているのだ。

世の中は物心両面で此れからも大きく変わる。その時にも専門家でいられる保証はない。寧ろ何でも出来るマルチ人
間を目標にするほうが良い。広い視野を持てば豊かな経験が出来る人生なのだから、一個人まで狭い世界の中の専
門家で世間の中にいれば他に迷惑をかけるし個人の人生としても貧しい事になる。

★センヤ・・・・・・・
★センラ・・・・・・・

戦乱の20世紀・・・・・・・20世紀は「激動の」と言う形容詞を頭に付けて語られる事が多かった。更に特徴的な事
は、実は戦乱の世紀でした。例えば16cから20cまでの兵士の死者数の総数が4612万人有ったと言われる。其れを
世紀別に百分比で見ると、16cは3.6%、17cは10.3%、18cは12.6%、19cは7.7%でした。

其れが20cには65.8%に達したのです。つまり20世紀は戦争で3035万人もの犠牲者を出した「最悪の時代」でし
た。此れが人類の文明であり、進化論の言う進歩や進化があったと言えるのでしょうか。

占領政策・・・・・・・戦後GHQの対日占領政策については例えばhttp://www.ta-da.net/i/3r5d3s.html 「アコードカ
ンパニー」昭和の吉田松陰と言われる安岡正篤先生の著書「運命を作る」より引用します。

---アメリカの占領政策ー3R、5D、3S政策---この欠陥(昭和の教育が知識、技術に偏り人間学の教育が無かっ
た)が終戦後また現れまして、占領軍の日本統治に対して対応する仕方を全く誤りました。占領軍は、むしろ日本を非
常に買かぶっておりましたから、いかにこれをアメリカナイズするかということにたいへん研究を積んでおります。

このアメリカのGHQの対日政策というものは実に巧妙なものでありました。この政策に巧妙な解説がありますが、たと
えば3R、5D、3S政策というものです。これについて、私に初めて説明した人の名前を今、記憶しないんですが、当時
GHQにおりました参事官でガーディナーという、ちょっと東洋流の豪傑のようなところもある人物からも直接聞いたこと
があります。

それによると、3Rはアメリカの対日占領政策の基本原則、5Dは重点的施策、3Sは補助政策です。
3Rの第一は復讐(Revenge)です。アメリカ軍は生々しい戦場から日本に乗り込んだばかりで復讐心に燃えていたので
無理もありませんが、復讐が第一でした。第二は改組(Reform)。日本の従来のあらゆる組織を抜本的に組み替える。

第三は復活(Revive)で、改革したうえで復活、つまり独立させてやる、抹殺してしまうのは非人道的だからというわけで
すが、この点、日本はアメリカが占領軍で有難かったわけですー共産国だとどうなったかしれません。

5Dの第一は武装解除(Disarmament)、第二は軍国主義の排除(Demilitalization)、第三は工業生産力の破壊
(Disindustrialization)で、軍国主義を支えた産業力を打ち壊すというもの。第四は中心勢力の解体(Decentralization)
で、行政的に内務省を潰してしまう。警察も国家警察も地方警察とに分解する。

そして財界では、三井総元方あるいは住友、三菱の総本社を分解する、つまり財閥解体です。第五は民主化
(Democratization)で、日本の歴史的・民族的な思想や教育を排除してアメリカ的に民主化する。そのためにはまず日
本帝国憲法を廃棄して天皇を元首から引き降ろし、新憲法を制定してこれを象徴にする。

皇室、国家と緊密な関係にあった神道を国家から切り離す、国旗の掲揚は禁止する。教育勅語も廃止する。これには
かなり抵抗がありましたけれども、GHQのひとにらみで駄目になってしまった。

新憲法も、あれを受け入れるならば、「日本が独立の暁には、この憲法は効力を自然に失う」という付則をつけておくべ
きであったが、そういうことも何もしていない。ドイツなどは、それをちゃんとやったのです。これをやらなかった日本は、
本当に間抜けというか、意気地なしというか・・・、そしてアメリカ流のデモクラシーに則って諸制度を急につくり上げてこ
れを施行したわけです。これが5D政策です。

それを円滑あるいは活発に行わしめる補助政策として3S政策があった。第一のSは、セックスの解放、第二のSがス
クリーン、つまり映画・テレビというものを活用する。それだけでは民族のバイタリティ、活力、活気を発揮することがな
いから、かえって危ない。そこで精力をスポーツに転ずる。これはうんとやらせる。スポーツの奨励ーこれが第三のS。

これらを、3Rの基本原則と、具体的な5D政策の潤滑油政策として奨励した。なるほど、これはうまい政策でありまし
て、非常に要を得ておる。これを3R、5D、3S政策というわけです。こうした占領政策を施行された時に、日本人は
堂々と振る舞うと思ったのですが、案に相違して、我も我もとGHQ参りを始めました。

特に公職追放が行われてから後は、表向きの人々はGHQ様々で唯々諾々として「命これを奉ずる」という有様でした。
そこへゆくと、同じ敗戦国でもドイツ人は違っていました。彼らは、なにしろ昔から勝ったり負けたり繰り返してきている
から、たまたま負けても動ずるところがない。ですから、占領軍が命令しても悪いことは堂々と拒否する。

日本人は唯々諾々、直立して「イエス・サー」と言うからイエスマンといわれたが、ドイツ人はこういうふうですからNein
Mensch No Manです。占領軍は、だから、初めは日本人を可愛がり、ドイツ人を憎みましたが、しばらくすると、「日本人
はつまらぬ、骨がない」と軽蔑し、逆にドイツ人は「しっかりしとる」と褒めるようになったのです。

日本を全く骨抜きにするこの3R、5D、3S政策を、日本人はむしろ喜んで、これに応じ、これに迎合した、あるいはこ
れに乗じて野心家が輩出してきた。日教組というものがその代表的ものであります。そのほか悪質な労働組合、それ
から言論機関の 廃、こういったものは皆、この政策から生まれたわけです。

今日の日本の堕落、 廃、意気地のなさ、こういう有様は昨日今日のことではない。非常に長い由来・因縁があること
を考えないと、これを直すことははできません。皆さんが今後起こってくる諸般の問題をお考えになるのには、目先の
問題をとらえた流行の皮相な理論では駄目でありまして、先程申したように、少なくとも明治以来の思考三原則によっ
て徹底した考察をなさらないと正解を得られない。

したがって、今後の真剣な対策も立たないということを私は信ずるのであります(以上引用)。
(関連先として「日本人絶滅計画」、「未来カレンダー」を参照)。







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