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http://hijiri.tamajiri.com       「日知り事典」 page217.html(未定稿)


    日知り事典       シナ〜指紋

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シナ・・・・・・・シナと言う言い方に抵抗を感じる日本人が多いが其れは誤解だ。「支那」とは日本語ではなくて漢字で
あり、其の意味は昔から多民族の枝分れした多様な国と言う意味である。歴史的に見ても中国と言う時代は無かった
し、古い国名から言っても例えば夏、殷、周、秦、漢、唐と言う国はあったが、中国と言う国名はなかった。

例えば三国時代が終わると西晋の時代となり、やがて五胡十六国と言われ、次は南北朝時代を見た。漢民族は南京
などに六朝時代と言う南朝文化を花開かせ、やがて隋や唐文化を形成した。しかし間もなく安禄山の変を経て907年
に唐が滅びて五大十国と言う武人割拠の時代となった。

契丹が遼を建て、960年には宋が建ち、979年に宋が統一した。以来軍人支配から転じて科挙による官僚政治となっ
た。1004年、遼と宋が一旦和睦したものの、やがて宋は北方民族から追われるように南へ移った(「元」を参照)。で
すから彼ら自身が「大国」とは書かずに一般に「支那」と書き、チャイナを自負して中華思想を誇って来たのである。

シナと日本は長い間、陰陽関係でいた時代には平和な蜜月時代を過ごした。だから古来日本は戦乱の続くシナから沢
山のボートピープル(難民)を受け入れて来たし、また日本からは逆に豊かな黄金を手土産に遣唐使を派遣した。そう
した縁からか昭和には清国を守ろうと大東亜戦争を始めて日本が白人を追い出した。

ですから中には今度の大戦で戦争孤児となった日本の子供を残留孤児として優しく養ってくれた人もいた。でも他方で
は特に中共政府が南京大虐殺をデッチ上げて声高にカタリ、蛇のように執拗に繰り返す。また歴史認識を問題に掲
げ、靖国カードをシツコク使い、ODAを引き出し続けた上に反日を煽っている。

此処は大国ではなくて中くらいの、シナヤかな蛇の国が今、干からびた蛇に変貌しつつある。つまり月並みな国であり
元来、月や水神を祭る農業国だった。だが月ではなく星を祭れば滅びる。既に黄河は断流したが長江も問題化した。
例えば06/8/28の朝日記事には「日照り続く重慶、ダム決壊の恐れ」、堤防にヒビ、豪雨警戒と有った。

四川省では780万人が飲料水の不足に悩んでいる外、農畜産業などへの被害は60億元(900億円)を越えた。少なくと
も大小約300のダムで亀裂が確認され、豪雨が有れば決壊となるのを心配していると言う。

シナイ山・・・・・・・アラブ連合の北東部、地中海と紅海とを分ける三角形の半島であるシナイ半島にある砂漠の中の
山の事。モーゼが3500年前に山頂で神から十戒を授けられた話が聖書に記載されている。SinaiのSinはセム語で
「月」を意味するのでシナイ山とは月の山を意味した。

モーゼの山と言う意味でガバル・ムーサとも呼ばれている岩だらけの山である。通説では此のジェベルームーサ山
(2285m)とされているが、外にも諸説ある。因みに日本の5千円札の裏にある山は山梨から見た富士山であるが、水
面に写っているのは逆さ富士ではなくてシナイ山かアララト山であると言われる(円札を参照)。

シナ人・・・・・・・シナ人は昔も今も個人主義に徹する。情があり、企業よりも人に付く。プライドが強く面子に拘ると言
われるが実利主義と偽物天国でもある。またシナ人は月性であるから薬物信心である。其の為、近年はシナからの安
価な輸入農産物の農薬乱用による危険性が指摘され、また08年には毒餃子事件となり、ミタミドポスが検出された。

また5月8日、江蘇省と山東省の2社が製造して北米に輸出したペットフード原材料に、メラミンが違法に添加されてい
た。 米国とカナダでは今年3月、これらのペットフードを食べた数百匹のイヌとネコが原因不明で死亡したため、米国
食品医薬品庁(FDA)が追跡調査した結果、中国から輸入された小麦グルテン中にメラミンを検出した。

更に9月には牛乳にも混入していた事から乳児の死亡事故となり問題になった。更に10月には3社が飼料にも混ぜてい
たことが判明。彼等は本質的に薬物信心なので憎めない。特に危険性よりも実利主義なので薬物依存は止められな
い。歴代皇帝の中の数人も丹毒で死去している。水銀を不老不死の妙薬として愛飲して果てているのである。

しなつ彦(支那津彦)・・・・・・・奈良の龍田大社や御所市の風の森で級長辺(しなとべ)命とか支那津彦・姫神としても
祭られる神。風は「五風十雨」と言う格言がある通り、四季に応じて各々東西南北から吹き付ける。其の中でシナツの
風は東シナ海から日本列島を駆け巡る台風であるから夏越しの大祓い(別項参照)に祭られる。

このため水稲栽培の発祥地とも見られる葛城地区では今の7月末に葛城山(金剛山)から吹き降ろす風が忌み嫌わ
れた。よって五穀の稔りを風水害から守る農業神として都が飛鳥に有った時代は風の森に祭られ、奈良に遷った時代
は龍田に祭られた(▲以下は06/5/14大和高田市文化財を考える会・小林・植谷氏資料から引用)。

其れに対して息吹戸主(別項を参照)は、シナツの逆方位から京・大和を通過して押し返す東北からの言わば寒波や
春風である。

しなとの風(科戸の風)・・・・・・・風神の一つ。級長辺命による風。旧暦6月晦日の夏越の大祓い祝詞(別項参照)で
謳われる神。つまり東シナ海から上陸して列島を吹き抜ける台風の事。罪と言う罪を此の風が「天の八重雲を吹き放
つ事の如く・・・」云々とノル。

つまり此の大祓い祝詞では日本列島をこの台風による大掃除で祓い清める役割りを期待している。

シナの皇帝・・・・・・シナでは古来、「万物は東で誕生する」と言い伝えて来た。例えば山東省にある海抜1450mの泰
山に天子が諸侯を集めてしばしば封禅を行った。封禅(別項参照)の封(ホウ)とは天神に報告する事、禅とは地神を
祭る事だった。其の東には日本があったからだ。例えば秦の始皇帝はBc.220年に泰山で封禅をした。

以来歴代皇帝が此処で封禅を行い、8cには玄宗皇帝が日本の使者を迎えて封禅を行った。皇帝は此の泰山の封禅
で、「死後には天帝になりたい」と祈ったと言われる(06/4/16のNHK総合TV世界遺産より一部引用)。

シナの遺跡・・・・・・・河南省の二里頭遺跡は紀元前3600年前の夏王朝の古代都市跡とされ、其の近くの商城遺
跡は紀元前1600年頃から同11cまで続いた殷遺跡である(04/7/21 中国社会科学院)。

シナの特性・・・・・シナ文明は夏の禹の時代の治山治水から発展した。此処は広大であるが広すぎた。何度か統
一されたが長続きせず、必ず分裂して幾つもの国に分かれた。よって「支那」(えだぐに)と書いてチャイナと呼ぶ。何れ
にせよ此処は水が命の地域なので古来、水を司る月と龍を神として来た。

此処は広大な土地があるから水さえあれば庶民の暮らしは個々に豊かになる土地柄でした。また此処は仁政、徳政の
国である。例えば孔子や墨子など孔孟老荘、諸士百家が出て儒教・道教など高い文化を残し、また三国時代の曹操は
民生に力を注いだ。彼は武勇だけではなく、詩家でもあった。

そうした時代でこそシナは豊かで幸運でした。だが元の支配からモンゴル星を神とするように変わった事から、清朝の
時代には「眠れる獅子」に零落した。よって以後には列強の植民地支配を受けたが、今は日本のお陰で13億の人口
を擁して「世界の工場」と化し、更なる経済発展を狙っている。

だが星の共産党独裁下では経済格差が大きくなるのみならず、エネルギー問題で行き詰まり、更に所得格差と水問題
からその政策は破綻するだろう。北京の水源地は既に枯れている。大同には水がない。井戸を掘っても地下180mま
で掘らないと水が出ないのだ(05/12/19日の毎日記事)。

中国の緑化のためのボランティアが日本から100団体行っているが、日本でするように植え込んでも雨も降らず水もな
ければ緑化にならないだろう。

さて、日本は元々、太陽族であったから栄えたが、明治に一転してイギリス星の西洋化に走った結果、失敗を重ねた。
この他山の石の例を見ても分かる通り、シナも月の国として水があってこそ成り立つのだから此の特異性を忘れれば
危うい。しかし日清戦争で敗れたシナは「日本よりも出遅れた」と誤解して昭和時代にロシア星に同化した。

シナは月の国だったのに五星紅旗(図説3を参照)を掲げる共産党独裁の星の政府を持った訳です。満月の見えない
夜空には星が輝くように今のロシアには同列の星の共産党で対抗し、他方で軍は対米の姿勢で矢張り赤い星で対決
する。そして華僑はユダヤに対抗する星商として、共に三大勢力として存在する。

シナの本質が満月である。水がなければ生産できない国であるのに、暗い新月の星だけの空の下で工業化を進めた
結果、遂に共産ではなくて赤星商業資本主義で戦い、ジャパン・マネーを食い尽くす、「銭こそが全て」の拝金的国に変
貌した。いや、実利主義のシナ人の本性に戻った。

月は変化のシンボルですから発展するのも早い。だが星の世は「一夜成金、一夜こじき」の諺のように、多くの星を食
い潰してまた変わる。此れも月の属性である。日本の一部も今は其の星月の恩恵に浴しているものの、既に「黄河断
流」となり、また北京の水源である桑干河の水が絶えようとしている。

とすれば今後も日本に、安い衣類と野菜や雑貨が何時までも幾らでも入って来ると思ったら誤算となろう。と此処で述
べて1年後の05/6/7、中国政府は「都市の8割水不足」と発表した。全国の都市の約80%が水不足の上、都市部
の河川や湖沼の90%以上が汚染されている。

また上水管の漏水率が約20%に上り、毎年約100億トン(立方m)の上水が無駄になっていると言う。人口のピークを
迎える2030年には深刻な水不足国家になる、として強い危機感を表明した。このため06/5/20には120万人を移住させ
て造った三峡ダムを完成した。東京大阪間より長い、世界最大のダムである。

この様に、シナがアナログの月神を否定して星のような共産主義と無機的な工業化に傾斜して、水に不足すればこの
国の発展は望めないどころか自滅の道へ向かい、崩壊する危険性大となる訳です。特に共産党独裁は硬直的ですか
ら月のようなしなやかな政治バランスがない為、此処では弱点になる。

例えば沿岸部の金持ちと地方農民とのアンバランスが此れ以上拡大すればオリンピックを境に崩壊すると見ても良
い。此れは筆者の偏見ではなくて、その筋の通説である。

日本を戦争に誘き出して漁夫の利を得て、毛沢東時代と文革時代に1000万単位の大量の国民を虐殺した。或いはシ
ナ特有の覇権主義である。例えば台湾を自国領と称し、またチベットに侵入して何万人もの虐殺を繰り返し、其れを
「開放」と称して憚らず、よってインドとの間でも中印国境紛争を起こして来た。モンゴル自治区も同様であろう。

其れらを覆い隠して、その代わりに南京大虐殺をデッチ上げて反日を煽っているのが今の指導部である。其れが暴露
した時に外国に何時でも逃亡出来るように、此れまで世界一大量の外貨を積み上げている事実も06年に判明した。

シナの四大発明・・・・・西洋史観ではシナの四大発明として絹(シルク)、火薬、磁石(羅針盤)、紙、或いはウルシや
陶磁器などを挙げているが其れは「何でもシナ」と言う中華思想であって、広いアジアや東洋の特に日本に由来するも
のである。

シナの発明と言えるものは火薬くらいであってウルシや陶磁器や紙にしても日本独自の発明である。例えば縄文土器
より古い陶磁器はシナにはない。其の他、シナが作ったのは紙や火薬を示す「漢字」くらいである。詳しくは各項目で述
べる。

死に様・・・・・・人は死去の時の身分や状態によって用語が違うので注意しなければならない。天皇は崩御(かむ上
がり、かむ去り)、貴族は薨去、官吏は卒去、または卒とした。死去にはその場の環境と状態によって病死や情死、戦
死、殉死、獄死もあるが、身分によって別の用語となる訳です。

薨とは、コウと読んで「みまかる」意味であり、皇族、または三位以上の諸侯や貴人の死去を言った。また「卒去」とは、
太夫の死、または四位、五位の貴族の死だったが、今では一般人の死去をも言う。因みに、釈迦は入滅、大師などの
高僧は入定(城)、仏弟子は寂か入寂、禅宗では「帰」、または帰幽と言った。

一般庶民は「没・歿」か「亡」とし、子供の場合は夭折、水子や嬰えい児の場合は早世・早折と言った。訃報を打電する場
合には昔は簡潔に「死す」としたが、今は「永眠、急逝」を使い、或いは妥当かどうかは兎も角、「天寿を全う」と言う例も
多い。「逝」の場合はセイと読んで「ゆく」の意味から、訃報などには永逝、遠逝、急逝、長逝、流逝などと使う。

其れに対して「お悔やみ」電報では一般に「ご逝去」と使う。

▲死に花・・・・・・昔の日本人の、特に男子は最後の「死に場所」を選んで花道を飾って死のうとした。昔の人の生き
方、つまり処し方が特に武士は「死に花」を咲かす事にあったが、其れに対して、今の日本人は其れに批判的に「死ん
で花実が咲くものか」と呟く。モノカネ主義の観念からか。

▲しの

▲シノギ・・・・・・・・裏社会の隠語。ヤクザの資金源は従来から賭博、薬、貸金と決まっていた。所が賭博開帳も麻薬(ド
ラッグ)も取締りが煩くて至難。サラ金(町金・消費者金融)も同様に規制が厳しくて下火になった。其処で無認可の移動
式闇金に頼る。此れなら違法な貸金業でも捕まらない。携帯電話だけなので逃げ易いからである(06/3/13abcTV)。

▲しは

シバ・・・・・・古の時間の事。江戸時代までは自然の時間で不定時法を採っていたのに対して、今は無機質・機械的
で不自然な定時法を採用しているので古今を単純比較するのは無理だが、例えば天児屋根命の時代に記したと思わ
れるウエツフミ(大分地方で書かれた)によれば冬の昼間は6シバ、夏が12シバと有る。

言わばサマータイムです。此れは今の時間にして10時間と14時間に相当するので、「1刻・1シバ」は冬が約40分、
夏が約1:20分と推定出来る。其れに対して江戸時代まで使われた12支による一時(イットキ・1刻)は、24時間を12
に区切った此れも伸縮時間ですから今の約3〜4時間に相当する(「アラカ」、及び次項を参照)。

シヴァ王国・・・・・・南イエメンにシバームがあり、「シバの女王」と言う映画が出来て大ヒットした。此れは8cに砂漠
の中のオアシスに実在した国のドラマでした。シバ王国は交易都市として栄えていた。今もイスラム教の為に女性たち
は家以外ではベールで顔を隠し、黒衣である。

またこの町が「砂漠の中のマンハッタン」と言われるのは、土造りの4〜8階建てのビルが砂漠の中に林立するからで
す。ビルの様にしたのは要塞都市とする目的からと言われる。この町は500年の歴史の街であるが此処ではコンクリ
ートを使わない。此処は一日の気温の寒暖の差が激しいためにコンクリートは壊れてしまう。

よって「日干し煉瓦のほうがコンクリートより百倍も良い」と認識されている。また強度を図るために例えば1Fの壁の厚
みを70cmとし、4Fでは45cm、6Fでは25cmと言う風に上層階ほど壁の肉厚を薄くしている。しかも30年に一度は
壁を塗り替えて補修する。交易では砂漠の中継基地として、特にローマには乳香を売って巨富を得て来た。

此処では今も乳香が家から悪霊を追い出すものとして使われていて家庭の必需品になっているが、乳香は当時、金と
同額の値段だった(以上、05/9/17のNHK総合TV「世界遺産」より引用)

●シヴァ神・・・・・・インドにヒンズー教以前から有る神で、男根石を囲むように女石の座で祭られる神。言わば日本の
岩倉やストーンサークルであり、太陽によって時刻を測った名残であろう。梵語ではSiva、漢字では湿婆と書き、仏教
では大自在天と説く。

何れにせよ上記の「シバ」(時の神)から来たものと推定出来るが、今の印度教・ヒンズー教では破壊神と認識してい
る。

シヴィリアン・・・・・・軍人でない人。非戦闘員、一般行政職。事務官、市民。例えば戦後のGHQ政策により、日本政
府はシベリアンがコントロールする事となったが、要するに利権はシベリアンが握り、義務は自衛隊(今は特別公務員
と言う)が負う構造である。

地盤(地震)・・・・・・・・大都市は殆ど扇状地に発展したものですから元々地盤が軟弱なので地震の際には流動化
現象となります。つまり此の意味ではどんなに瀟洒なビルでも砂上の楼閣になっています。特に大阪や東京は6〜7000
年前には海でした。此の件に関して立命館大学の高橋教授は06/6/15のMBSTVで「プリンのようだ」と述べた。

大阪の場合は大阪平野の全域から鯨の骨が出土している通り、南北に伸びる上町台地以外は河内湖だった。よって
地盤が弱く、地震の時にはまるでプリンのように揺れが大きくなると警告した。東大阪市の池島は当時の海が池として
残っていた遺跡である(堺市の馬飼田池も)。

地盤が強い神戸市でも阪神大震災では大きな被害を出したのだから、もし大阪に同規模の地震があればより大きな
被害を出す。特に大阪には橋が多いが、此れは橋脚が倒れる。もし橋脚が残っても道路が陥没するので、「抜け上が
り」と言う状態になって何れにしても道路が使えない。

また千林大宮のように住宅密集地では家屋が倒壊して道路を塞いでしまう。此れは大阪の全域で起こる。そうすると公
道の70%が使えなくなる。病院はあるが、医者が其処へ行けない事になる。譬え避難所が有っても、道路を使って行く
と言う前提では使えない。

プリンのような軟弱地盤にビルが林立している今の状況では、防災計画(防災を参照)を見直すべきだ。

シベリア抑留・・・・・・旧ソ連は第二次大戦で負ける前後に満州に攻め込んで日本の民間人の約57.5万人を捕虜
として不当に拉致してシベリアに抑留した。しかも−30度の酷寒の中、過酷な労働に使役した。暖房も無い1800ヶ所の
強制収用所へ分散した。終戦が確定してから攻めて来て不法にも逮捕し、しかも奴隷扱い以下で酷使したのである。

強制労働ではノルマを課して、ノルマを達しない者は一日1食さえ与えず、凍傷で死ぬ者も続出した。日本へ手紙を書く
事も禁止したので内地では生死も不明だった。s21年に米ソ協定があり、次々と舞鶴港に帰還した。その後、舞鶴港な
どに帰還したのは47.3万人であり、現地で約5.5万人が死亡した。

ソ連はs25/4/23日、戦犯を帰さずハバロフスクへ送った。此処で多くが死亡した。s28年になってやっと戦犯の手紙の
文通を許可した。s31年10月、日ソ共同宣言により1025人がナホトカから興安丸で引き揚げ、同年12/26日に舞鶴港に
入港した。60万人が抑留されて、帰国出来たのは47万人であった。

残る4.7万人が行方不明だったが、1946年春に約2.7万人を北朝鮮に移送していた事を認めて其の名簿(ロシア
語表記)を軍事古文書館から在ロシア日本大使館に05/3/31日に提供した(大要は毎日新聞、及び06/12/26の読売テ
レビの「今日は何の日」より引用)。「戦後」はまだなのです。いやソ連こそ極東軍事裁判で裁かれるべきでした。

▲しひ
▲しふ

自分探し・・・・・・・人は何処から来て何処へ行くのか。こうした事を思うのはロマンがあります。此れを存在証明とか
自分の帰属先(アイデンティティー)と言う。此れを知るには海外に出歩いて探し回るよりも自分の足元を見る円系図
(別項参照)が一番です。「自分探し」については十人十色の考えがあって良いと思います。

自分探しを知らない人が色々やっています。試行錯誤も良いのですが、一番肝心な事を知らなければ中々見つからな
いのでアドバイスします。世界中を旅してキョロキョロ見回しても回答はない。それより自分の足元です。何故貴方が其
処に生まれたのか。

偶然と言う事は有りません。何故其の親から生まれたのか。其れも偶然ではない。何故人により誕生日が違うのか。
それも必然である。つまり因果の元は種であり種は先祖です。父母は1-2-4-8-16-32-64と円環でハスの花のように、
菊の花のように連結しています。

それがDNAの設計図となり、其のDNAが肉体を再生しています。同じパターンで魂の根源がインプットされていますの
で、是非両親から先祖を辿って見て下さい。きっと素晴らしい自分を発見し感動するでしょう。

基本的な事を言いますと「先祖」に行き着く。其れを知らずにアイデンティティーなど外来語や新造語を無闇に濫発させ
ているのが今の日本の偽装社会ですから要注意。先祖は心の根源にあり、本物です。それが肉体ではDNAを遺伝さ
せコピーして健康を維持しています。先祖は私たちが知っているだけの数ではなくて無数に存在します。

父母--祖父母--曽祖父母--高祖父母・・・と2-4-8-16-32-64-128-と倍々に増えて、30代で何億人にもなります。其れ
を教えたのが八方のハス、16方の菊の紋です。こんな事を言えば、今の日本人は「それは宗教だ」と小馬鹿にしますが
誤解です。宗教団体は決まって「先祖より当教会の神仏を信じなさい」と言う筈です。

ですから其れよりも是非、自分の先祖を大事にして見ましょう。そうすれば、未発見の先祖探しになり、先祖からも喜ば
れて、次々と自分発見、つまりホンモノの自分の設計図が発見できますよ。

自分つくり・・・・・・・自分の心身を作る事。此れまでの世代は先ず学歴と体力を作ろうとして勉強をしたりスポーツに
励んだが、其の結果は見るべきものが無かった(スポーツは国を滅ぼすを参照)。だから今は主として精神面での「自
分つくり」が注目されている。特に今は若者たちが悩んでいる。

例えば「何故か旨く行かない」とか、「どう生きたら良いのか分からない」と言う若者が多い。其の答えは学校やスポーツ
には無かった。家族の中には見えるのだが会話もなくなったので、敢えて言えば、其の答えは先祖です。つまり先祖の
血をひく自分の中にあります。肉体の設計図はDNAにあり、其の設計図は血にあり、血は先祖からのものです。

ですから人生設計も先祖の中にあります(円系図を参照)。他人とは別のホンモノが見えて来るでしょう。

●自分の存在証明・・・・・・・馬は血統書が有る。犬でも業者が売買する犬(商品)には血統書を付けます。でも貴方に
は其れが有りますか。ないとすれば「何処の馬の骨か分からん」と言われても仕方がない。

そんな場合は「自分は誰か」と悩むでしょうが、そんな時には本籍地の役場で戸籍謄本を取れば分かりますし、存在証
明になるでしょう(円系図を参照)。

でも其れを携帯している訳にも行きませんから、別のモノザネ(物種)がいります。外出や旅行では何が有るか分かりま
せんから、出来れば身分証明書や自分のメモを携帯したいものです。メモには連絡先の電話番号、既往症、血液型、
かかりつけの医師、などを書いて置きたい。

紙幣の素性・・・・・・日本は神代から神に御幣を奉ったので紙があり、その後にシナに伝播した。日本は金銀銅も
豊富にあった。かつては上方は銀貨、関東は金貨が流通していたが大和朝廷から室町幕府にかけてシナに金を浪費
して放蕩を尽くしたので江戸時代になると通貨不足に陥った。

其処で元禄には勘定奉行の萩原重秀が瓦で通貨を造ろうとした。政府(幕府)がしっかりしていれば金銀でなくても良
いと言う「先見の明」があった訳です。また商人たちは紙切れによる為替システムを作り上げ、先物市場も作った。此
れはシカゴ市場に1世紀以上も先立つ文化でした。

日本では大昔から祓いを御幣でする風習があり、「支払い」が紙の「証文」に代っても格別抵抗感がなかったのでしょ
う。更に鴻池や三井(越後屋)は担保による「信用貸し」や「大名貸し」と言う金融システムを1600年代から使ってい
た。それらが今の手形制度(「手形」を参照)に発展した。

▲世界初の紙幣はシナ・宋代997年に鉄銭の預り証として発行された交子である。四川地方で用いられた。同地方で
は銅銭よりも重くて価値が低い鉄銭が使われていたが、山々に囲まれており不便であった為に富豪たちが取り決めて
銭手形を発行・流通させた。後に発行は政府に移り、法定通貨として発行されるようになった。

日本では1600年頃に伊勢の山田で商人が銀貨の預り証として発行したのが我国の紙幣の始まり。伊勢神宮の神職に
就いていた土地の豪商が「山田羽書」の発行元。商人の自治組織によって流通していたようだ。

「羽書」の元は「端書」であり、端数金額の銀の釣り銭の代りに使用したとも言う。信用度が高く、明治の貨幣統一令ま
で使用された。明治18(1885)年に日銀券第1号発行開始。銀貨10円との兌換紙幣となった。通称「大黒札」である(▲
以下はPISC06/10より引用)。

其れに比べてヨーロッパにはマルコポーロ以前は紙さえなかった。従って紙幣経済とかマルクス経済、近代経済学と言
うものはつい近年の事だ。経済行動は欲と欲との突っ張りあいで交換されるものである以上、元々いかがわしい物で
すから、今になって経済学などと学名を装っても本質は変わらない。

ともあれ、其れまでは金銀を基本としていたから貨幣経済だった。シナでは元の時代に紙幣が出たが、ヨーロッパでは
フランスが最初だった。日本のような神の「祓い」の思想が此処にあった訳ではなく、また当時のフランスが経済大国だ
ったからではなく、破産状態だったから紙切れで代用したのである。

其の発案者はイギリスを追い出された博打打のジョン・ローであった。彼は政府に、紙幣での納税を認めさせて紙幣の
信用を確保し、1716年に紙幣発行の銀行を設立した。次に貴族たちが持っていた紙切れ同然の国債を、銀行が発
行した紙幣で買い集めた。

そしてミシシッピ会社と言う植民地運営会社を設立し、貴族たちには紙幣で其の株を買うように勧めた。フランス国債
は瞬く間にミシシッピ会社株に姿を変え、フランス財政は再建できた。やがてミシシッピ会社株で稼いだ貴族たちは、株
を売り始めた。株価は暴落。

ローは今度はフランスを逃げ出した。信用を失った国債を復活させるマジックとして生まれた紙幣が、今は、価値が低
下したら硬貨に変えると言う理由で駆逐されて行く、紙幣の数奇な運命を思う(04/8/26毎日新聞「余禄」より大半
を引用 )。

確かに、インフレ懸念から金に換える人も多くなったが、今の世界の金融経済は米国ではなくてイギリスのシステムで
世界の金か゛動いている(「祓い」、「円札」を参照)。

紙幣がモノから独立したのは1971/8/15のニクソン大統領によるドル・金交換停止宣言(ニクソンショック)からであ
る。此の時から紙幣はモノ(金)の裏づけから開放された訳だが、千年の歴史の中で見れば、僅か35年しか経っていな
(▲以下はPISC06/10より引用)。


▲死亡・・・・・「終末医療」「死」「死後」を参照。

時報・・・・・・・・宇宙は生きているので自然界には四季が有り、其れを読むのが暦法であり、其れを細分化したのが
時刻です。何れも其の基底には方位と言う尺度があった。数字ではなくて方位なのです。江戸時代はお寺の鐘が時報
を告げていた。この時代は「時は鐘なり」でした。だが其の鐘を衝く時刻をどうして測ったのか、今の人は誰も知らない。

この「時の鐘」を合図に、お百姓さんは田の水をある村から次の村へと公平に分配した(「御堂」を参照)。当時の日本
は太陽と月の織り成す自然の時間の中で比較的ゆったり暮らしていた。時間の観念には時代性があり、地方差があっ
たのです。其れまでの時報は自然時間であり、言わばサマータイムによる、しなやかな不定時報でした。

そうした中で、関東大震災があり、以後、「時報が命を救う」と言う認識からラジオの必要性が高まってNHKが発足して
肉声による時報が高く評価された。しかしこのNHKの時報は方位に対してのっぺらぼーで機械的な定時報であり、現
代の時報と同じです。

暦法の旧暦と西暦、時報の不定時と定時の何れが良いかは問題ですが、何れにせよ「進歩」ではなくて其の時代のニ
ーズや流行によるものです(御堂を参照)。

磁北・・・・・・地球は大きなダイナモ(発電機)であり磁石でもある。このため南北両極の磁気が強いために鉄片がコ
ンパスになり、この時に磁針の示す北を磁北と言い、またその逆の、南極近くを磁南と言う。但し、此れらは地軸の両
極から少し離れた所になる。

また磁針は地磁気によって左右されて偏角を示す外、近くに鉄製品や建物があれば其れに左右されて磁北とは違う所
を示すので要注意である。偏角は地域によって異なるが、日本の場合は実際の子午線よりも数度西を示す。

コンパスと言えば一般に方位盤・羅針盤としてこの磁石が使われて来たが、此れには以上のように致命的な欠陥があ
るので方位の指針とするのには不適である。此れは西洋の大航海時代、西洋の文明の第一の発明品とされて来たけ
れども、其の100年前にシナの鄭和が大船団に備えていた。

コロンブスの場合は日本に来ようとしたのに此のコンパスによってアメリカに行って新大陸を発見してしまった。其処を
インドと誤解していた事に気づくまで、なお数十年を要したのである。この様な代物(オモチャ)を頼って、近代科学は全
ての基準・指針として磁石による磁北主義で此処まで発展した。

と言うのですから、「近代化」の全ては極めて浅く危うい、と言えよう。日本の神社仏閣は1000年以上前に、こうした磁
北ではなく真北を基準に建てていた。更にそれ以前に天文方位を元に、20万基もの山のような墳墓を日本で築き上げ
ていたのです。だが、家相学や気学ではこの磁北主義である。

此れは経験則でもあろうから譬え例外であっても「当たれば良い」のである。



■嶋

島原の乱・・・・・・・・以下、07/1/24日のNHK総合TV「其の時歴史が動いた」から引用する。寛永14(1637)/11月
から1638/2/28日に3.7万の住民が12万の幕府軍と戦った原城の戦い。只一人生き残った山田エモサク(右衛門作)は
切支丹大名・有馬氏のお抱え絵師だった。

当時、キリスト教は異教を排除しようと寺を焼くよう煽動していた。家康はキリスト教が宗教対立を煽り、内乱を起こそう
としている手紙を見て警戒した。当時、イスパニアとポルトガルは、競ってゴア、マカオ、マニラを植民地化していた。ロ
ーマ法王から切り取り自由の許可を貰っていたからだった。

実際、ジェズ教会は「武力征服が有効であり、征服可能」との手紙をローマへ送っていた。1612年、有馬氏はキリスト教
会と結託して領地拡大を図り、其れを責められて死罪となった。家康は宣教師追放令を出して国外追放した。残った教
徒は拷問に掛けた。よって島原から切支丹は一掃された。

ただコンフラリアと言う秘密組織の隠れキリシタンはいた。彼らに対して島原の乱の10年前には、ウルバノ8世が「殉教
者の大群を送る」と言う約束をした。イスパニアとポルトガルはローマ法王から許されて世界分割の国家戦略で植民地
を増やしていた。禁教令から23年後の寛永14年の家光の代に、島原では飢饉が3年続いた。

此れは信教を捨てた為だ、として公然と切支丹に戻る者が出ていた。このとき6歳の天草四郎が出た。寛永14年/1637
/10/25日、島原の乱が起きた。全能の神・デウス。四郎と戦えば不死身と信じられた。しかも彼らは「天の使いがやっ
て来る」と信じた。殉教者の大群とポルトガルからの援軍を当てにしたので篭城戦を採った。

だが宣教師たちが日本に入ろうとしたが上陸出来なかった。「単なる一揆である」と言われて引き返してしまった。しか
も松平信綱の策略により、オランダ船を使って原城を攻撃させた。味方と信じた外国船から砲撃された篭城組は此れ
で失望し、更に四郎の被弾と近従者の戦死でショックを受けた。

篭城3ヶ月の1638/2/27日、幕府の総攻撃で女子供までなで斬り。1638/2/28陥落。幕府軍は折り重なる死体を城ごと
埋めた。直後から宗門改めが始まった。寛永16年、ポルトガルと国交断絶し鎖国とした。只一人の生き残り、エモサク
は信綱の下で切支丹摘発の仕事に就いた。此の時から30年後に明治維新となる。

フレノ神父を迎えたのが隠れ切支丹たちだった。其処に再び教会が建った(以上)。
次に、http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/simabara.htm「島原の乱(1637)」より引用する。---1637年
(寛永14年)10月25日、島原の乱が勃発しました。この未曾有の乱について時間を追って見ていきましょう。

■1600年関ヶ原の合戦---天草を領有していたキリシタン大名小西行長が関ヶ原の合戦で西軍に参加。捕らえられて
斬首。所領は唐津の寺沢広高に渡されます。

■1612年岡本大八事件---キリシタン大名であった島原藩主・有馬晴信は本多正純の家臣・岡本大八にだまされてポ
ルトガル船を撃沈、また長崎奉行長谷川藤広を暗殺しようとしました(暗殺は未遂)。

有馬はポルトガル船撃沈で恩賞がもらえると岡本に言われていたのですが、事が露見すると、幕府はそんな約束など
していない、ということが分かり、しかも長崎奉行を暗殺しようとするとは不届至極ということで切腹を命じられます。そし
て晴信の息子直純は家督相続は許されたものの、藩内でキリスト教を取り締まるよう厳命されました。

その直純も2年後には宮崎に転封になり、その後島原には松倉重治が入り、更に過酷なキリスト教追放政策を実施し
ました。

■1614年ママコスの予言---島原藩主が有馬家から松倉家に変わった年、天草を追放になった一人の神父がいまし
た。名をママコスといいますが、彼はその地を去る時に不思議な予言の書を残していきました。当年より五々の数をも
って天下に若人一人出生すべし。その稚子習わずして諸学を極め、天の印顕わるべき時なり。

野山に白旗立て諸人の頭にクルスを立て、東西に雲焼る事有るべし。野も山も草も木も焼失すべきよし。
■1634〜1637年続く凶作---江戸時代初期は幕府は諸大名の力を抑えるために、諸藩に本来より多い石高を設定し
ていました。

島原藩は元々は4.3万石であったのが6万石になっていますし、天草も当時4.2万石でしたが島原の乱以降は2.1万石に
なっていますから当時は本来の倍の石高が認定されていたことになります。このような実力より高い石高認定は、結果
的にはそれだけの年貢を納める必要が出てくるため、最終的には農民にずっしりと重い負担が掛かってきます。

島原・天草の農民たちはこの重い年貢にたえかねていました。そして年貢を完納できない農民に対してしばしば見せし
めにひどい刑罰が加えられました。有名な「蓑踊り」とは、年貢を納められなかった百姓を蓑(みの)でしばりあげ、生き
たまま火を付けるというものです。

熱さのあまりもだえる様が踊っているように見えるということでこの名前が付きました。加えてこの2地方は元々キリスト
教信者が多かったところで、この追求も厳しいものでした。島原では改宗を拒否した信者を雲仙の火口に放り込むなど
の虐殺がおこなわれています。

このようにして農民の不満が爆発寸前になっていた折りもおり、1634年から1637年までひどい凶作が続きました。しか
し凶作でも年貢の量は変わりません。餓死者が相次ぎます。農民たちはもう進退窮まる状態に置かれました。
神童現る---1637年の秋頃、天草の民衆の間に突然ひとつの噂が流れ始めます。

それはママコスの予言に関するものでした。ママコスは1614年に「五々の数」と言っていますが「五々」とは5×5=25
ではないか、ということであの年から25年目であれば1639年。予言が成就する年が近づいているというものです。

そしてそのママコスの予言に言われていた印を持つ若人というのは、天草の大矢野島に住む小西浪人の息子・益田四
郎という当年16歳の少年のことではないか、というのです。この少年は5歳にして字を書き、習わずして書を読んだとい
われました。

(一般にはたいへんな美少年であったと伝えられていますが、残念ながら当時の文献に天草四郎の容貌に関する記録
はなかったようです。後世の付会かも知れません。悲劇に美少年は似合います。)おりしもその年の秋天草では毎日の
ように夕方西の空に不思議な雲が観測されました。

細く長い雲で旗雲と呼ばれましたが、7筋ほど見られ、その内の4筋が赤、3筋が白で赤い雲が先に消え、あとから白
い雲が消えます。

そして秋なのに桜が咲き、将軍家光が病気で余命いくばくもない、という噂まで流れてきました。天草のキリスト教信者
の一部はこの噂を積極的に利用し、キリスト教をやめて仏教に転向した人たちに「いよいよママコス様の予言が実現し
最後の審判が行われてキリスト教の時代が来る」と言って、キリスト教に再改宗するよう勧めて回りました。

■勃発---1637年10月23日。島原の有馬村で宣教活動をしていた三吉と角内という2人のキリスト教徒が家族ともども
検挙されました。二人は「デウスの絵」を掲げ、キリスト教徒に改宗しない者はこれから起きる最後の審判で火の地獄
の中に沈むことになる、といって強引な勧誘をおこなっていたのです。二人の回りに多くの信者が集まっていました。

農民達は二人が検挙されるといったんは解散しましたが、翌24日の昼頃になるとまた三吉と角内の家に集結をはじ
め、儀式を始めました。一説によると検挙された二家族はみな即処刑されたのではないかと信者たちが考え、追悼の
儀式をしようとしていたのだともいいます。

ここに農民達を解散させようと、九郎左衛門・兵左衛門という二人の代官が赴きますが、農民たちとの話し合いがなか
なか付きません。そして短気を起こした兵左衛門が「デウスの絵」を破って、農民たちを打ち叩きました。ところがこれ
に怒った農民達は兵左衛門を取り囲み、逆に叩き殺してしまいます。

九郎左衛門は危うく難を逃れましたがその辺にいたら自分も殺されそうなので知合いの家にかくまってもらい、その家
の者を島原城まで走らせて急を告げました。農民側としては代官を殺してしまったとあらば、もうただで済む訳がありま
せん。

積年の重い年貢に対する反発とキリスト教弾圧への不満がここで爆発し、有馬村の農民達はとうとう一揆を起こしまし
た。するとこの噂はあっという間に島原藩南部の諸村に飛び火、24日夜から26日にかけて各地で呼応した蜂起が起き
ます。これに対して島原藩北部の諸村はこのような形の蜂起に反対。

一部の過激派が扇動しているにすぎないとして、鎮圧に協力、いくつかの村で一揆のリーダーを討ち取ることに成功し
ます。一方知らせを受けた島原城では急遽鎮圧の兵を100名ほど差し向けますが、続報を受けて、それではとても足り
ないと判断。結局25日、城内の兵を総動員して、有馬村方面に向かいました。

しかし行ってみるともう一揆はとても手が付けられない状態でした。やむを得ず鎮圧軍はいったん島原城に戻ります。
逆に一揆側はどんどん各村のリーダーが連合、26〜27日には逆に島原城に迫り、藩軍側が籠城して堪え忍ぶ羽目に
なりました。

この時、島原城には急なことで通常の食糧の備蓄はありませんでしたが、何かの時のために1頭丸ごと地中に埋めて
いた鯨を掘り出して食べていたそうです。
■天草でも呼応---島原での一揆の勃発はただちに天草にも知らされました。

ここでまずは大矢野島の益田四郎をいただく人々が動き始めます。彼らもいよいよ最後の審判が来るのだと確信、集
団で大矢野の奉行を訪問し、「これからはキリスト教の時代になりますので、我々はみなキリスト教に戻ります。奉行様
も改宗なさった方がいいですよ」と勧めました。

奉行の石原太郎左衛門は大勢で来られたことで対処に困りますが、その場は穏便に「日本中がキリスト教の世界にな
ったら、殿様からその旨お達しがあると思うので、そのお達しを待って対処しましょう」と言い、農民達をおとなしく帰しま
す。(とても素晴らしい対処ですね。役人がみんなこうだったら乱も起きなかったと思うのですが)

奉行としてはそのまま沈静化することを最初は祈っていたのですが、信者たちが武力制圧を狙っているとの風聞が流
れてくるとやむを得ずこのことを唐津城に報告。すると唐津城ではそれに対しては武力鎮圧すべしとの決定が下り、
1500人ほどの兵力を差し向けます。

この鎮圧軍は大矢野島を急襲して益田四郎の母などを捕らえたりしますが、結局信者の数に対して差し向けた兵力が
小さすぎました。結果的にはこの力の弾圧が逆に信者たちの怒りを買い、信者たちの一部がほんとうに暴徒化、わざ
わざ一揆を誘発する形になってしまいました。

一揆軍はあッという間に鎮圧軍を打破、逆に富岡城に迫ってこれを包囲。こちらも藩側が籠城する羽目になってしまい
ました。
■板倉重昌、派遣さる---島原と天草で相次いで大規模な一揆が起きたとの知らせは11月8日幕府に届きました。この
時幕府もこの一揆を甘く見過ぎていました。幕府の使者を出して九州の近隣雄藩である細川・鍋島両藩にも軍を出して
もらい、協力して鎮圧しようとしました。

この使者には家康公以来の忠臣で幕府の信任の篤い板倉重昌が指名されました。幕府から大軍が派遣される!!
その知らせを受けた島原と天草の一揆軍は、なかなか落ちない島原城・富岡城の攻略を諦め、11月下旬、合流して島
原の廃城・原城跡にたてこもりました。廃城とはいえ、堀と石垣は充分に防御に役立つものでした。

その勢力は3.7万人。一揆に参加した農民がみな原城に入ったため、島原南部と天草は人っ子一人いない廃村のよう
になりました。島原・天草の合同一揆民は益田四郎(天草四郎)を総大将とし、その下に鉄砲大将・侍大将・普請奉行・
などといった幹部を置いて組織をしっかりと固めました。

そして板倉が率いる軍は12月上旬に島原に到着し、松倉・寺沢両藩の軍、鍋島・細川からの協力軍とともに、原城の
攻略にとりかかることになりました。ところが板倉は能吏ではあってもわずか1.5万石の小大名。細川の軍も鍋島の軍も
このような小大名の言うことなど全く聞いてくれません。幕府軍は全く統制を欠きそれぞれが勝手な動きばかりします。

そこを付け入られて一揆軍に手痛い目にばかり合わされました。結局攻略は全く進みませんでした。
■老中・松平伊豆守、派遣さる---ここに来て幕府もこれはただごとではないということにようやく気付きました。将軍家
光は自ら決断を下し、腹心中の腹心である、老中・松平伊豆守信綱(通称「知恵伊豆」)を援軍として派遣します。

動員する兵力は一揆軍の3倍以上の12万人の大軍になりました。ところがこの知らせを聞いた板倉重昌は苦しい立場
に追い込まれてしまいました。自分が最初に派遣されてきたのにどうしても一揆側を鎮圧することができないでいるとこ
ろに、超大物の「援軍」がやってくる。これでは武士としての面目が立ちません。

板倉は討ち死にするしかないと心に決めました。そして松平信綱が到着する直前の1638年1月1日。板倉は手勢の兵
を率いて無謀な城突入作戦を敢行。望み通り討ち死にしてしまいました。この戦闘における幕府軍の死者は4000人、
対する一揆側の死者はわずか100人でした。

■松平伊豆守、城を攻略する---老中・松平信綱が率いる軍勢は1月4日島原に到着しました。信綱はこの城は強引に
攻めてもそう簡単に落ちるものではないと判断。長期戦に転じます。

城をしっかりと包囲して兵糧責めにする一方、トンネルを掘って城内に侵入しようとしたり、オランダに協力を求めて船
から艦砲射撃を加えてもらったりしましたが、これはいづれもあまり効果は得られませんでした。しかし、鯨を埋めてい
た島原城とは違って原城には多くの食糧備蓄はありませんでした。

長期化してくると城内の食糧も弾薬も不足してきます。何度か起きた小戦闘で倒した一揆軍の農民の腹を割くと、中に
は芝や海草のようなものしか入っていませんでした。そんな中、信綱は甲賀者を城内に潜入させて、中の状況をできる
だけ正確に把握させます。また城内にわずかに残る食糧を盗み出せるだけ盗み出させました。

そして城の回りに土俵を積み上げ、侵入しやすいようにしていきます。2月27日、幕府軍は満を持して城に総攻撃をか
けます。一斉射撃をかけて城方の防御兵がひるんだ隙に、突撃隊が塀を乗り越えて中に侵入します。そして出丸に火
をつけ、一揆軍が後退するのに合わせて、幕府軍はどんどん中に流入。

一揆軍は最初は三の丸で、最後は二の丸で抵抗しますが、翌28日完全に壊滅します。幕府軍にはたとえ女子供でも
全員殺害せよ、との厳命が下っていました。わずかに事情聴取のために生かされた一名(山田右衛門作)だけを残して
一揆軍は全滅しました。益田四郎の首は細川家の家臣・陣佐(じんの)左衛門が取りました。

この戦闘で幕府側も1000人以上の死者を出しました。おびただしい死体の群を前にして、41歳の若き老中は厳しい表
情で立ち続けていました。世は鎖国へと進んでいきます。

■乱後処理---幕府の乱後の処分も厳しいものでした。乱の原因を作った島原藩主・松倉重治は美作国に配流された
上、大名としては異例中の異例の斬罪に処されました。天草藩主(唐津藩主)の寺沢堅高も天草領は没収されました。
堅高は責任を取って切腹しました。

また攻防戦の時に軍紀に従わなかった佐賀藩主・鍋島勝茂(本来は総攻撃は28日の予定であったのが佐賀藩が抜け
駆けした為、やむを得ず27日に全軍が動くことになった)も処分を受けました。乱後、島原南部と天草にはほとんど農民
がいなくなってしまったため、各藩に強制的に人数割をして農民を移住させました。

藩によってはくじ引きで移住者を決めたところもあったようです。その後この土地の農民は非常に優遇されたため、そ
の後近隣の諸藩から非合法に流入してくる者も多く、それをまた黙認したため、50年後には再び豊かな農村が復興し
ました。

しかもこの土地の年貢は軽減されていた上に古いしがらみのない新しい村が構築されることになったため、日本国内
で最も近代的な村が生まれたのです。乱の発生を知った幕府は上使として御書院番頭であった板倉重昌を派遣した。

重昌は城攻めの常道として長期包囲を行おうとしたが、九州の諸大名は統制がとれず、幕府の命令との間で板ばさみ
になった。さらに幕府から二人目の上使筆頭老中松平信綱が派遣されるに及んで、焦った重昌は1638年1月に強引な
力攻めを行い、討ち死にした。

松平信綱は初めから強攻策をあきらめて、兵糧攻めをとり、オランダ船デ・ライプ号に依頼して海からの砲撃を行い、
さらに陸揚げした船砲五門を城内に撃ち込んで一揆勢を弱体化させ、落城に持ち込んだ。最終的に幕府軍の攻撃とそ
の後の処刑によって老若男女3万7千人が死亡した。生き残ったのは内通者であった山田右衛門作一人であった。

http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/simabara.htm「島原の乱(1637)」より引用。

次も引用する。「島原の乱以後の天草」---島原の乱が天草と連動した原因の一つは、寺沢広高が天草の石高を過大
に算定したことにあった。すなわち寺沢は、天草の石高を田畑の収穫を3万7000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5000
石、合計4万2000石と決定した。しかし実際にはその半分が妥当な数字であった。

寺沢が石高を実際の生産量の2倍に算定したため、徴税は過酷となり、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを一揆
に追い詰め、武士身分から彼らと同じ百姓身分に転じており村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として密
かに一揆の盟約が成立、さらには反乱に立ち上がることによる内戦に至ったのである。

島原の乱後、山崎家治が天草の領主となったが、3年で讃岐国丸亀に国替えとなった。天草は幕府直轄領(いわゆる
天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。鈴木は浄土真宗(一向宗)の教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗で
きると考え、同宗の僧となっていた兄の鈴木正三(すずきしょうさん)を天草に招き住民の教化につとめた。

一方、住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域(例えば大矢野島など)には周辺の諸藩から移住者を募って復
興に尽力した。天草の貧しさの原因が過大な石高の算定にあることを見抜いた重成は、検地をやり直し、幕府に対し
て何度も天草の石高の算定を半分の2万1000石にするよう訴えた。しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶した。

そのため、重成は1653年に江戸の自邸で石高半減の願書を残して切腹し、幕府に抗議した。幕府はこの事態に驚愕
して、重成の死因を病死と発表し、養子の重辰(正三の子)を2代目の代官に任命した。この事実はやがて天草の領民
にも伝わり、領民は皆号泣したと伝えられている。

重辰もまた天草の石高半減を訴えたため、1659年に幕府は天草の石高半減を認めた。重辰が畿内に転出した後、戸
田忠昌が封ぜられて領主となったが、戸田忠昌は寺沢広高が構築した富岡城を破壊して、陣屋造りとした。これは、領
民の負担を軽減するためである。

さらに戸田は、離島が多く農業生産力が低い天草は私領に適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。戸田の
提案は認められ、天草は1671年に再び幕府直轄領となった。天草における反乱の原因は、寺沢広高による天草の実
情を無視した統治にあった。その是正に島原の乱の鎮圧から30年以上の年月を必要としたのである。

天草の場合、島原半島よりも隠れキリシタンによるキリシタン信者の潜伏残存率は高かったといわれる。これは離島が
多いため、島原半島南目地域のように根こそぎ住民が反乱に動員されることが容易でなく無人地帯が広がらなかった
こと。

及び、江戸時代も半ばになると幕府直轄領である天草から産する海鼠・鮑・鱶鰭などの海産物の乾物(俵物)がやはり
幕府直轄領である長崎を通じて清朝治下の中国に輸出されて幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタン信仰の
過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。

以上、http://www.weblio.jp/content/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1「島原の乱」より引用。別項の切支
丹を参照。

▲しみ

自民党・・・・・・・以下、「前田 進 <jcfkp201@ybb.ne.jp> wrote: 」から引用する。----「福田売国自公政権を退陣さ
せ、6兆ドルを取り戻し、売国政治を一新せよ!」----小泉内閣の財務金融相だった竹中平蔵らは、「柏崎原発沖大
地震は米プラズマ兵器によるものだった。

言うことをきかないと日本沈没を起こすぞ、とブッシュ政権に脅された。米国のため郵政私物化と長銀叩き売りをした」
と、B.Fulfordに記者会見で告白した。 http://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/2007/07/post.html また
彼の英文ブログ参照。

 「オルタナティブ通信」によれば、郵政私物化で郵貯・簡保の350兆円の国民財産がブッシュの会社ベクテル社の手に
渡った。これで、ブッシュは北朝鮮の世界最大のウラン鉱山を開発、中国で500ヵ所の原発建設をする計画だという。ブ
ッシュが北朝鮮と急接近して、拉致事件から手を引いたのは、そのためだ。

中国の原発事故発生で放射能が風に乗って日本列島に降れば、日本人は全滅だ。Benjamin Fulfordの英文ブログに
よれば、福田売国自公政権は07年に米ブッシュ政権に8,000億ドル=85.6兆円($1=\107)を貢いで、それをブッシュら
は欧州などでの投資で金儲けに使っている。

福田売国自公政権は、「オルタ通信」によれば、08年1月のDavid Rockefellerの来日のとき、破綻寸前だったロックフェ
ラー系のシティ・バンクの無価値同然な株の購入と、日本の証券会社によるシティ・バンクの債券販売という詐欺的騙し
商行為で計2兆円をロックフェラーに貢いだ。

 さらに、戦後歴代自民党売国政権が米国へ貢いだ日本国民の収奪資金はB.Fulford英文ブログによれば、5兆ドルに
達している。35兆ドルの計算もあるという。こうした売国をしながら他方では、福田自公政権は悪名高い「後期高齢者医
療制度」で老人殺しを推進している。

自民党は財政逼迫の理由で消費税率引き上げの検討を開始することに決定した。これらにはっきりと自公の祖国に対
する反逆、裏切りが現れている。そうした売国の結果、自殺者の増加、貧困者の増加と深刻化、残業代の不払い略奪
犯罪、ワーキングプアーの深刻化、ネットカフェ難民の増加、勤労者の無権利状態の拡大などが広がっている。

日本はOECD加盟国中で最低の貧困者比率だ。福田自公売国政権を直ちに退陣させ、6兆ドルを取り戻し、売国政治
を終らせよう。以上引用。

★シム
◆しめ
◆しめ(七五三)

しめ飾り・・・・・・・・・「しめ飾り」は神聖な場所を示すもので、本来は地鎮祭の時のように四方に忌み竹を立てて、其
処に縄を巡らせて、一定間隔で御幣を吊るします。歳末には迎春準備のために神社などでは鳥居とか御神木や御神
石なども含めて架け替えをします。

新たな注連縄は、周囲のケガレを清めて、古い年の災いを閉め出して清浄な場とした印です。特に本殿の前には太い
注連縄が掛けられますが、一般家庭や会社なども大掃除を済ませた後に、門や玄関に注連縄を飾ります。今はプラス
チック製品が増えて来ましたが、此れは後の処理が大変ですから、なるべく自然素材の物を選んだほうが良い。

松の内(小正月まで)に取り外して1/14〜15日の「どんど焼き」までに近くの神社の境内にある納札所に納めます。でも
伊勢地方の場合は此処は「神の国」ですから例外的に年中掛けたままにして歳末に架け替えます。

●しも

■四門・・・・・・・・四方の門。仏教では真言陀羅尼の発心門(東)、修行門(南)、菩提門(西)、涅槃門(北)を言い、葬
場にも此れを表示する事がある。本来は暦法のための方位を鳥居や門によって行った事に由来すると思われるが、
釈迦の修行の縁起としても語られている。

指紋・・・・・・・・弓(流れ)紋、渦巻き紋、蹄状紋など、人により千差万別であるため、日本では古来、個人の特定、識
別の為に紙に墨で印して来た。此れはDNA遺伝子の働きで再生され続け、一生変わらないものであると言う事実を知
る世間の合意があったからだ。

一般常識ではイギリス人のゴルトンの発見により、明治政府が其の41年に採用(指紋法)したとされているため、ヨー
ロッパから踏襲したと思ってしまうが、日本ではもっと昔から印鑑よりもこの指紋が使われていた。ヨーロッパではモン
ゴルが伝えるまでは紙さえなかったのである。

日本では指紋の歴史は限りなく古く、例えば大宝律令では離婚の際に、拇印を使う規定が既に有ったらしく、江戸時代
は極く一般的に使われていた。此れは世界に比類ない高い文化程度である。明治以後、警察は犯人識別のために使
って来た。銀行もカード社会のトラブル続出で、何れ指紋や瞳孔識別の研究開発を進めなければならないだろう。

因みに人類学のデータでは日本人に渦巻き、アイヌは流れ紋が多いと言われる。





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