http://hijiri.tamajiri.com       「日知り事典」 page190.html(未定稿)


  日知り事典        ク〜熊

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・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・  ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
く●● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●■▲◆★▲◆★

●く・・・・・・・「く」は苦であり、「九」ではない。「く」は草や茎の「く」、クヒの「く」、久那土の「く」である。

◆苦・・・・・・・・釈迦は「人生は苦なり」と説いた。「生老病死」「四苦八苦」、全て苦であって楽しみではない。楽しみは極
楽浄土にしかない。死んだらお終いではなく、此の世の人生は儚い刹那(凡そ1/70秒)の命であり、あの世は未来永
劫、悠久の世界である。だからこの世で学び、徳を積んで極楽に往きなさい、と説いた。

また般若心経でも「苦集滅道」と言う一節で「苦」に触れている。此の場合の「集」は苦をあつめる「原因」である。自然
に任せていれば苦にならないのに、人は他人と比べる。そうすれば拘ったり欲が出て、自分も他人も思うがままになら
ない。だから苦になる(後半は07/3/11NHK教育TVより引用)。

グアナハト・・・・・・・メキシコの町。18cスペインのカルロス3世の時に銀鉱山で栄えて「王冠に鏤めた宝石のよう
な町」と言われた。今は世界遺産。18c、「銀を制する者が世界を制した」時代にグアナハトは世界の銀の15%を産出
して栄華を極め、この世の物とも思えない華麗な町となった。

同時期にその二倍の産出量があった日本の石見銀山などが、今も山間のただの田舎町であるのとは対照的である。
当時の日本にもメキシコ銀貨が入って来ていて洋銀と言われ、三分銀として通用していた。

其れに対してグアナハトは豪華なお城のようなバレンシアナ教会などが幾つも建てられ、その内外はウルトラ・バロック
様式の彫刻で埋められ、金銀で飾られた。のみならず大量の銀がスペインに運び出された。ラヤス鉱山が今も稼動し
ているが、貧しい労働者の犠牲でこの町の豊かさが続いた。

其処から鉱夫のピピラが独立を求めて蜂起し、11年後にスペインから独立したのである。だが19cには銀が大暴落し
た。世界が金本位制に移行したからだがグアナハトの繁栄は続いた。此処は石見銀山のようにインゴットをそのまま出
したのではなく、彫金や宝飾品などの加工産業を栄えさせたからである。其処から学生町へと発展した。

1960年代には学生町として栄え、今では人口の20%が学生である。しかも学生たちが古い建造物の修復をボランテ
ィアで行っている。また道路計画が持ち上がった時には、町の景観を潰さないために坑道を利用して全長8kmの地下
道を建設した。この当時の世界には例を見ない事だった。

また1973年からは学生たちが2週間続く芸術のイベントを始めて世界的な大イベントにした。無論、世界遺産としてメ
キシコ有数の観光地になっているのです(以上の大部分は05/6/23日のNHK総合TVから引用した)。

▲クアランプール・・・・・・マレーシアの首都。

グアンタナモ収容所・・・・・・・悪名高き米国の捕虜収容所。米国ではなくてキューバのグアンタナモ米軍基地の一角
に置いている。此の「米国外にある」と言う立場を利用して米国は、国内法にも国際法にも抵触しないと逃げて内外か
らの批判をかわして来た。現在は400人〜800人を収容。

批判されたのは、米国が勝手にアルカイーダの一味として、或いはテロリストと言う疑いを掛ければ此処へ放り込んで
拷問にかけて来たからである。だがアフガンでもイラク戦でも米軍が失敗した為、今は閉鎖や見直しを求める声が高ま
っている(「情報操作」を参照)。

▲くい・・・・・・
▲くう・・・・・・
▲偶像・・・・・・仏像や尊像等。釈迦は仏像を否定したが、やがて像法時代になり、日本でも仏教渡来以後は神像を造
った。仏像・尊像の中で、飛鳥時代は念持仏と言う小さな仏像だったが、奈良の大仏以後は等身大の物が多数作られ
た。だがイスラム教やプロテスタント(キリスト教)は偶像崇拝をしない。

同じキリスト教でも古典的なカトリック教ではマリア様などの偶像を崇拝する。以下、Yahoo!知恵袋http://detail.
chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1110907946に投稿された知識から引用する。
十二支守り本尊を買って置いておくと、いいことありますか?・・・・・・・・・・・・・質問した人: koza38さん

回答1---買って置いただけでは臨床的な実証性はないと思います。有ったとすれば勘違いです。12支は暦の事であり
ますので、其れを買っても貰っても特に効力はない。ただ昔は暦を方位として理解しましたので、曼荼羅を平面に広げ
て、12方位に先祖や仏尊を配分して、特定の方位の守りを祈願した。

ですから例えば子年なら12月、または北の守護、卯年なら3月、または東の守護と見て、其の季節、または其の方位に
祈れば意味があるかと思います。 回答した人: onia222さん
回答2---彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。

口があっても語れず、目があっても見えない。 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。 手があってもさわれ
ず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。 これを造る者も、これに信頼する者もみな、こ
れと同じである。旧約聖書詩篇115編4−8・・・・と書いてあります。 回答した人: chirinokoさん。


クォーク・・・・・・・物質を構成する最小単位として素粒子があるが、クォークもその仲間である。原子核を構成する
陽子や中性子はクォークが三個集まっているが、中間子は通常二個がペアとなっている。重さはヘリウム原子程度だ
が、人工的に作ったものは寿命が短い。そしてクォークについては従来3個だけが知られていた。

それに対して小林・益川両氏が物質と反物質で6個あると言う仮説を唱えた。それがやがて1994年、6個目が発見さ
れて両氏の仮説が実証された。

物理学ではこのように二律背反の頭で「物質と反物質」と言う造語を作って、「其れは進化の結果、科学が加速器で究
明・実証したものだ」と自画自賛しているだろうが、古人は、幽界と幽子と言う概念で見ていた。インドのヨガ行者などは
既に数千年前から他人の懐から出た税金を使わず自らの瞑想によって其れ以外の事まで悟っていただろう。

電波などについても今の電気理論では電子が飛び出しているような説明でツジツマを合わせているが、電波なども無
論この反物質の働き(波動)で説明した方が無理がない(波動を参照)。太陽エネルギーについても、彼らはどうしても
モノカネ主義でしか見ないために、核融合反応によるものと説明している。

其れを誰も確認できないから彼らの嘘を暴く事は出来ないが、太陽もまた物質だけではなく、反物質つまり幽子も混在
し、地球よりもこの幽子の働きが活発な所と見た方が間違いがないだろう(エネルギーを参照)。

クガタチ・・・・・・・古代に出自、つまり氏素性などの真偽を明かす方法として採られた審判方法であり、神前に置か
れた釜の熱湯に手を入れて熱くなければ良いが、もし、火傷をすれば虚偽だったとされる厳しい審判であり、「探湯」と
書く。明日香村の甘樫岡神社では今でもこの探湯を再現する祭りをしていて、2004年は4/4に行われた。

九九・・・・・・・「一二三」をヒフミと読む日本語の数詞は、億百萬の単位まで一気に数える。此れは世界に比類ない
優れた言辞である。此処から無理なく九九を覚えられる。其れに対して米国や印度でも九九を真似ようとして九・九=8
1を遥かに超える掛け算を丸暗記させようと努力しているが、其の成果は期待出来ないだろう。

英語では二桁以上の数詞が分かり難く、しかも日本語なら「モ・チ・ロ(ヨロズ)」で済むものを、ワン・ハンドレット(百)と
かthousand(千)、・・・・そしてthousand million(億)などと言うのですから大変です。掛け算九九の外にも割り算九
九がある。但しソロバンの心得が必要。http://macky0625.hp.infoseek.co.jp/warizannkuku.htm 「割り算九九」

▲くこ

・・・・・・・植物の内の雑草の類。有ってもなくてもよいもの。或は忍者、及び民草(国民を参照)の事。例えば天皇
の為の戦争で「一将功成り万骨枯れ」て、300万の犠牲を出しても天皇は健在である。遺骨も回収しない。其の比例式
から見ても雑草の存在がハッキリしている。新憲法で掲げた基本的人権などはインチキである。

税務署にとって国民は田圃や町から税収を作り出す稲草であり、与党の政治家にとっても選挙民は国民ではなくて票
田に生える雑草に過ぎない。

▲クサ(種)・・・・・・・因子。根本。種。類い。

▲臭い・・・・・・

▲草木・・・・・・

草木染め・・・・・・昔から糸や布地はあったが化学染料がなかったので草木染をした。例えばタデアイの葉を水の
中で千切って揉めば緑色の溶液になる。此の中に木綿、麻、絹を漬けては上げ、上げては漬ける事を繰り返せば、其
の過程で藍の色素・インジゴが出来て絹を空色(青色)に染める。此れを生葉染めと言う。

化学変化ですから一度染まれば水洗いしても色が落ちない。但し木綿と麻は薄青と薄い灰色になるが水洗いで色落ち
する。絹は蛋白質なのでプラス・マイナスどちらの電気力も強いため、植物染料を強く引き付ける。所が木綿や麻は絹
ほど強くないので其れを仲立ちする媒染剤が必要。此のため灰汁や金属を媒染剤として使う。

また普通、藍染め(別項参照)と言われるものは葉を3ヶ月ほど醗酵させ、堆肥状にした「スクモ」(別項参照)による「建
て染め」である。次に植物染料は文化財の修復にも使われている。植物染料は少なくとも1000年以上の実績が有る。
化学染料の方が手間が掛からないが、長期保存に耐えられるかどうか分からないからです。

例えば色は刈安(かりやす)と言うススキに似た多年草。またはカレーの香辛料にも使われるウコン。色は茜(あ
かね)の根から抽出する。そして紅花(花の色素)。色はタデアイ、インド藍、琉球藍。色は紫根(紫草の根)。
(以上、06/8/20の朝日新聞より引用)。

▲草草・・・・・・・

草薙の剣・・・・・・・Yahoo!知恵袋に投稿された知識から---質問する -----熱田神宮にある(あった)という「草薙の
剣」って見たことありますか。どのような剣でしょうか。 回答---回答日時: 2007/3/15 20:48:43 編集日時: 2007/3/16
12:19:07 回答番号: 35,716,953 ---江戸末期に、神官が見て眼がつぶれたという記録がある。

神宝である草薙の剣について江戸期の「玉籤集(ぎょくせんしゅう)」には、神官がこっそりのぞいた記録がある。
tokdo53.arrd.net/hr-02/hiro04/42atutamiya.html

ご神体は長さニ尺七、八寸、刃先は菖蒲の葉なりにして、中程はむくりと厚みあり。本の方六寸ばかりは節立ちて、魚
などの背骨の如し。色は全体に白し。なお、平安末期の源平の戦いで、壇ノ浦に沈んだともいわれている。
www.geocities.jp/rekisi_neko/owari.htmlしかし、沈んだのが本当の剣なのかという疑問もある。

追記、---天智天皇7年(668)は中大兄が即位した年、「沙門道行、草薙剣を盗みて新羅に逃げ向く。而して中路にて
雨風荒れ、迷いて帰る」という記事である。

この僧は愛知県知多市の名刹・法海寺の開基として信仰を集め、境内からは弥生土器以来の遺物が出土しており、さ
らに7世紀末頃からの瓦も出土することなどから天武天皇の頃に大伽藍が営まれていたことが分かる。

『法海寺略由緒』によると「むかし、新羅の明信王の子、道行法師が父の命を受け我が国に渡来し、熱田の宝剣を盗も
うとしたが、事が露顕して星崎の浦にある土牢に捕らえられた」ことが記されている。星崎とは熱田の東南にあたり年
魚市潟(あゆちがた)の渡船場でもあった。

道行法師は囚人となったが、修行を積んだ高僧であることが認められ、天智天皇が病のおり加持法を執り行ったとこ
ろ天皇の病が治り、薬師如来を本尊とする法海寺の基礎ができたという。このことから大和朝廷による神剣奪取の陰
謀が露見する。

朱鳥(あけみどり)元年(686)に、天武天皇の病が重くなったので「天皇の病を卜うに、草薙剣に祟れり。即日に、尾張
国の熱田社に送り置く」。この記事は、長年にわたって草薙剣を熱田社に戻さず、宮中においていたことに対する非難
や批判があったことを示していると思える。

宝剣が盗まれてから宮中に置かれ、さらに熱田社に返されるまでの間の天武天皇4年(675)土左大神(高知市一宮に
ある土佐神社)が神刀一口を天皇に奉っている。

戦後まもなく後藤守一氏は「三種の神器の考古学的検討」という論文を発表されたが、この中に『玉籤集裏書』として残
された熱田の社家4、5人がひそかにご神体である草薙剣を見た時(江戸時代)の記録を紹介された。この見聞は事実
としても、神官たちが隠し火によりおそるおそる窺い見たもので、どれだけ詳細かつ冷静に観察できたかは疑わしい。

このご神体は、5尺(約1.5m )ばかりの木の箱に入っていて、木箱の中に石の箱があった。二つの箱の間には赤土が
しっかり詰めてあった。さらに石の箱の中に樟の箱があって、その中にご神体が入っていた。そして石箱と樟の箱の間
も同じように「赤土にてよくつつめり」となっていた。

中には長さが2尺7、8寸(81〜84センチ)で、刃先が菖蒲の葉のようになり、中ほどはむくりと厚みがあり、全体が白い
色をした剣があった。後藤氏は、この見聞によって銅剣と考えたが、当時の主として北部九州の弥生遺跡で見つかっ
た銅剣に比べると長大に過ぎるという点で躊躇されたようだ。
 
回答した人: apocalypse666survivalさん (以上引用)。
 
▲クサヤ・・・・・・・魚の干物の一つ。東京・新島のクサヤはアジやトビウオを開いて塩水に漬け、干物にする。新島は
江戸時代には税金として塩で納めて来た島であり、よって塩漬けのクサヤの技法が伝わった。先ず捌いた魚を年中一
定の温度の井戸水で洗ってから塩水に20時間漬ける。

添加する塩は四国から取り寄せた塩であり、其の塩水は400年も昔から使い続けている保存汁である。其処から出し
て干したものを焼いて食べる。独特の臭みがあるが美味と言う(06/4/5のNHK総合TVより引用)。

・・・・・・・焼き鳥の串ではなく忌串の事である。本来此れは太陽観測の場で御柱の日影の糸目を印す所に刺して
使った竹や木の串であり、或いは立てた高木の事を見柱と言い、其処の日祭りを玉串の祭りとも言った。古いものは
上に穴があり、更に古いものは人形の形をした物もある。

何れも観測の場で糸を巻きつけたり糸を通す必要からの穴であり、先が尖っているのは地に刺す必要からでした。従
って、紐でぶら下げるための穴や尖りではなかった。こうした串は神に対する座の立場してミテグラとも呼んだ。
神代の日本にはスサノヲの新妻に櫛稲田媛がいたが、櫛ではなくて「串イナタ媛」であったろう。

さて神道では串の名残を形代、幣串、及び「玉串」などの言葉だけ残したものの、元の祭りを良く知らずに金幣と榊の
葉っぱにすり替え、金集めの手段としてしまった。他方、仏教では串を塔婆と言う板に形だけ残したが、シナでは漢字
で其の串を竹簡、木簡と書いた。

此れを考古学では紙がなかった大昔に、短冊状の板切れに役人が墨で書いた公文書であると解説して来た。つまり誤
解による講釈だった。エジプトのオベリスク(尖石柱)も現地では古来「串」と呼ばれたのであり、太陽の御柱だった。

九字印・・・・・・・九字とはタテ四本と横五本の線、つまり格子目のような形であり、古代の口分田の原理の応用か
ら、後には「井田」の護符にもなった。平安時代の陰陽師・安倍の晴明がセーマンと言われる五角形の星型を使ったの
に対して、芦屋道満がこれを使った事により、九字は「ドーマン」とも呼ばれるようになった。

セーマンとドーマンの形は何れも悪魔のつけ入る隙を与えない「マジナヒ」(「ドーマン」を参照)とされており、伊勢志摩の
海女さんたちは昔からこれ等を一対で潜水着や手拭に印した。また密教行者や修験者はこの九字を「臨・兵・闘・者・
皆・陣・烈・在・前」と唱えながら気合と共に手刀(刀印)で切って祓うのであるが、其の前に手に九字の印を結ぶ。

其れは精神を統一し、其れを現実のモノ・形に具現しようとする働きとして、手で九種の印の変化で作り上げる祈りであ
る。更に一般社会でも武家などはこの形の何れかを家紋や旗印として用いて来た。

両部曼荼羅、阿弥陀籤や囲碁・将棋盤もまたこの九字の応用とも言えるし、また古い建築物の棟札にはこの二種の印
が「火難除け」の護符として付けられた例が多い(棟札、魔方陣を参照)。

次に「ヤフー知恵袋」の回答から転載する。臨兵闘者皆陣烈在前 意味は----兵(いくさ)に臨みて闘う者、皆、陣をは
り、列を作って前に在り。(だからさっさと立ち去れ)の意味(msa)。此れが「お守り」に入っていた場合はmsa様のご回
答の通りかと思いますが、もう一つの意味もあります。其れは封じ込める場合です。

修験者などが二本の指を立てて手印を切って此の九字を叫ぶ場合は、封じる意味にも使われます。縦と横に格子のよ
うに手印を切っていますね。その形がいわゆるドーマンに似ている。

鯨尺・・・・・布切れの尺度。曲尺で1尺2寸5分=37.5cmの長さ。反物の場合、一反の単位は鯨尺で並幅9寸で長
さ2丈6〜8尺を言った。

▲葛(くず)・・・・・・秋の七草の一つ。秋に紫色の多段の小花を咲かせる野生の蔓植物。マメ科である。葛の名は大和
の葛(国栖)地方から葛粉を売りに来たからとも言われる。三枚葉のツル植物。茎は硬く強いのつり橋等のロープとし
ても使う。昔は其の繊維を葛布とした。また地下には太い根が有り、良質の澱粉が採れる。

この根を刻んで乾かしたものが葛根であり、薬用になり、風邪薬としては葛根湯(カッコントウ)が知られる。また澱粉
は、葛粉、葛餅として食用にする。葉も栄養が高く、牛馬の飼料に最適と言われる。

■クズ(国栖)・・・・・・・神武東征の時に吉野地方にいた人々。クズ(国栖)とは実は国主であったとも解釈される(土蜘
蛛、国津神を参照)。応神天皇の時から宮中の節会に際してニエを献じて笛を奏し、口鼓による古風・独特の吉野舞・
国栖舞を奉納するのを例とした。能にも天武天皇を助ける話の国栖の曲名がある。

グスク・・・・・・・中グスク、勝連グスク、座喜味、今帰仁(ナキジン)など何れも沖縄の13c〜14cに作られた城跡(グ
スク)であるが、本来は神々に祈る空間だったと言われる。2000年に首里城などと共に世界遺産登録となった。

(クスノキ)・・・・・・・西日本で自生する落葉広葉樹で良い匂いがする。縄文時代には丸木舟に加工され、近世・近
代には樟脳の材料として盛んに伐採されたので巨木は墓地か寺社の境内にしかなくなった。それでも生育が早く、短
期間に大木・巨木になるので、狭い土地では逆に厄介者扱いされて伐られる。

ただこの木は霊木・因縁の木と言われ、「伐れば崇りがある」と言われる。科学万能を信じている人でも枝葉を払った
だけで事故に遭う事例も多いので気をつけたい。作法としては先ず「お断り」の祝詞を上げ、同種の苗木を傍らに植え
て、二者の間に注連縄を渡してお供えをする。其の上で一晩待つ事。

そして何らかの印が現れてから着手すれば無事に済むでしょう(「木」「龍神」を参照)。

(ドラッグ)・・・・・・薬と言うものは実は存在しない。地球上にある薬と言われるものは全て毒物である(故・岡田茂
吉翁)。生薬だからとか漢方薬だからと言っても薬は全て毒物であって、其れが即効性か持続・継続性かの違いが有っ
ても五十百歩です。病原を薬物で抑え付ける事は出来ても病気を治す働きはないのです。

所が人は自分が不安になると薬に頼る。此処から薬物信仰(別項参照)が始まる。さて人は元々完全な存在です。所
が多数の人は自分が完全であるとは思わず、何かにつけて不足感を抱き、中でも病気が心配な人は「欠けた部分を
何かで補充して充足しよう」とします。其処から医学や栄養学と言う怪しい学問や業界が繁盛した。

クスリは、専門的には薬理学と言う分野になる。医学は昔から医方と言い、方位学でした。所がモノカネ主義の人々は
方位や心が信じられない肉体主義者ですから現物主義であり、患者も医者に薬剤投与を求める。薬剤には薬理があ
りますから、薬剤師の判断や医者の適切な処方箋が前提となる。

▲しかし現実は、クスリを知らなくても医師にはなれるのです。実際、医師の薬に関する知識をabcTVでテストした結
果、100点満点に対して平均35点しか採れなかった(▲以下は05/3/29、abcTV)。

確かに今のクスリの種類は多過ぎますが、医師は薬剤についての知識が足りないまま投与し続けている。特に副作用
についての知識が少ない。このような落第生が患者を「薬漬け」にしているのですから、多くの問題が出て当然です。誤
投与も多くなったが、もし薬害や副作用が出た場合はまた次のクスリを投与するのです。

従ってクスリの種類も量も増え続け、医療費も増え続け、病人も増え続ける仕組みとなっている。結論として、人に効く
薬はこの世には存在しない(故・岡田茂吉翁)。次なる問題は、多少効いたと思ってしまえば、その後も惰性で利用する
結果、慢性となる。例えば不眠の場合に、毎晩睡眠薬を飲む。効かない時には増量する内、やがて地獄を見ます。

医薬品は専門家が研究した結果として大量生産されるものだから安心だ、と思うのも誤解です。アレコレやって見て効
くかどうか試すだけであって、本当に化学の力で薬の仕組みが分かって来た物ではないのです。狭い範囲の研究施設
で何人かが研究や実験を10-20年間やって見ても、其の先は全く未知数です。

例えばウランやプルトニウムを被爆すれば其の半減期が最低でも2.4万年またなければ結果が分からないのです(放
射能、プルトニウム、「薬物信心」を参照)

薬漬け・・・・・・十数種の薬を継続して呑んでいる人がいる。此れでは消化しきれず副作用の方が先に来る。特に高
齢者は消化力が低下しているから良くない。或は体内で化学変化して複合汚染となる。こうなると病状も複雑化して治
らなくなる。

▲薬指・・・・・・関西では紅指し指とも呼んだ。人の手は中央から親指、人差し指、中指、薬指、小指と呼ぶ。昔の薬は
錠剤が少なく、殆どが粉薬であり、四角の紙に包んでいた。其れを開いて口の上から落とした。其の時に紙片を此の指
で叩いたので薬指と言った。従って足の指に薬指はなく、第四指と言う。英語では手の薬指をリング・フィンガーと言う。

果物・・・・・・作物は肥料で生育するものではなくて日月の力や雷の力で生育するものです。例えば昼と夜、夏と冬
との温度差は風を起こして生育を促す。此れは太陽の力である。葉緑素も太陽の光で作る。また雷のたびに膨らむの
で雷を「鳴り物」と言い、其れで膨らむ作物を「生り物」と言った(何れも「なりもの」と言った)。

稲の場合も雷のたびに身を膨らませるので雷光を「稲つる火」と言った。この雷の力は言わば星の作用である。其れに
対して月の力とは水の力である。草木が風にゆらぐのは、地中から水を吸い上げて気持ち良く生育している姿である。
だから台風は有り難い。潮の干満を作る引力も月の力である。このため人は、新月に種をまいて満月に刈り取った。

満月には実が熟して美味しい。そうするために木や木の実は新月には根っこに養分を送り、また満月に向っては逆に
作用する。新月を過ぎると、地中の水分を上の果物に引き上げる作業をゆっくりと繰り返しているのです。従って其れ
を無視した七曜カレンダーで西洋式に仕事(農事)をすれば、味を損ない、近代化の農業を悉く失敗続きとした。

自然界は卵や生り物を内部から膨らませる神の理によって成り立つ。それに対して近代科学は、皮相的・外形的な箱
物を作る文明であり、此れを先人は「仏造って魂入れず」と言った。

■口・・・・・・・
■久度神・・・・・・・火の神。

求道(グドウ)・・・・・・・仏道・神道(随神の道)など、何らかの正しい道を求めて人が修行し安心立命を得ようとする
心と行為。ただ人の踏み行うべき正しい道、或いは修行とか、正道とは一体何かは中々分かり難く、更に究める事など
は尚更困難です。昔から色んな教えはあった。儒教も仏教も神道も有りました。

昔から教条主義的精神教育もあり、また知識偏重教育も有りました。仏道を究めるのか、それとも学問を究めるのか
も迷う所です。難行苦行で心身の鍛錬をして求道に努める方法もありました。それが出来た上で神仏・先祖の行方を
尋ね、追い求めるのが求道なのか。

昔は出家して寺に入ったが、在家の求道者としては入道(別項参照)と言う方々がいた。娑婆で苦楽を味わいながら修
行に努める方法もあった訳です。或いは一定レベルの心がけをもって祭りの行事に参加し、行動する事も道を究める
方法です。其れが寺社の場合は参道に方向付けされている。

本書は其れを「歳時記」と言う方位暦で、神仏道の求道典範を示したつもりである。最初は単なる寺社巡りの観光客で
あっても、其の道を踏んで行けばやがて求道に繋がる。其れを先人が参道と言う目に見える道にして残してくれた。

或いは明治になって加納治五郎が柔術から柔道と言う道を作ったのも、単なるスポーツや格闘技ではなくて武力を持
つ者には先ず精神性を期待して礼儀から教えた。其れに倣って剣術も同様に、外来のスポーツとは一線を画する意味
で剣道とした。

活け花や茶の湯も華道や茶道としたのは、単なる人の行儀作法や芸事で終わるのではなくて、神仏来客に対する接待
の作法で和の心を教え伝えようとしたからであろう。武道の場合は特に心を修めていない者に教えるのは危険であり、
もし免許を与えた後ならば破門した。スポーツとは此処が違う。

求道とはつまり、動物性を離れて人間性の回復を求め、更に精神性を高めて神理に達しようとする試みと行為である。

■クナトの神・・・・・・・古い出雲の神。火の神。
■クニ・・・・・・・

国津神・・・・・・・天津神と国津神とを「天神地祇」と書く。国津神を「祇ぎ」と書いた。一般的には天照大神から皇統に
連なる天皇家の皇祖を天神と言うが、それは関東から西日本に進出して来た縄文人である。其れに対して国津神(地
)については天皇家とは別の、出雲の神々や賀茂氏とされている。

だが、神武天皇以後に何度も天地の関係が逆転し入れ替わっているので、天皇家よりも寧ろ、出雲の神の方が天神
なのか、判然としない。よって此処では天体を祭る聖を天津神・天神、それ以外の国土を守る神を国津神と解釈する
(「野沢菜」を参照)。

国津罪・・・・・・人の罪には古来、天津罪(別項を参照)と国津罪があり、其れを悔い改める方法として祓いが行われ
た。古くは記紀に載せられ、神道では太祝詞、中臣の祓い、大祓いなどにその内容が語られているが、要するに前者
は公務員が犯す公の罪、後者は一般的・私的な罪であるとも言われる。

ただ天津罪はスサノヲノミコトが天上で犯した罪として八種挙げられているが実際かどうかは何とも言えない。具体的に
は主に朝廷側から見た農耕に対する罪悪である。其れに対して国津罪は後に創作されたものであるとも見られる。

例えば阿離、上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚、生膚断(いきはだたち)、死膚断・・・とあるが、此
れは動物的なセックスや外科手術の罪である。

次に白人、胡久美、己母犯罪(己が母犯す罪)、己子犯罪、母与子犯罪、子与母犯罪、畜犯罪(ケモノおかし)、昆蟲乃
災(這う虫の災い)、高津神乃災、高津鳥乃災、畜仆志(ケモノたおし)、蟲物為罪など、多くは姦淫の罪。何れもこの罪
を人が恥じた時に放り(ホフリ)、祓(ハラ)う神として古来、祓戸神(祓いを参照)がある。

■クヌギ・・・・・・・シイタケが採れる木。
クネ・・・・・・・
クノ・・・・・・・

★グノーシス・・・・・・・一般的には「知識」と翻訳されているが、厳密には「知識ではなくて知性」と認識されている。もし
くは原始キリスト教の一派。他にもQuelle(ドイツ語で「資料」)の頭文字をとってQ集団と名乗る集団があってキリスト
教会以前の教団を形成していた。

グノーシスの意味について此処で更に想像すれば、「グ」はゴッド、つまり「神」であろうし、次のノーシスはギリシャ語で
「英智」である。とすればつまり「神の叡智」となる。

人の叡智が学問や知識であるとすれば、此れ(グノーシス)は「それ以上の存在」としたのでしょう。其れを彼らは「認識」
とし、また「霊肉二元論」と同士との「隣人愛」を説いた。だが4cに正典を確立して絶対的な階位制(ヒエラルキー)を護
持しようとする大教会(キリスト教)側からは「異端」と指弾され、次第に表面からは排除されて行った(コプト人を参照)。


★グノーモン・・・・・・・北を示す御杖。頭にGを付けたのはゴッド(神)、またはグランド(大地)であり、大地に御杖を立
てて日影を測り、方位を採ったもの(玉串)と思われる。其処から杖が度量衡の基準(ノーマル)ともなった。よって聖、
魔法使い、キングは杖を持つ姿で描かれて来た。

■クハ・・・・・・・

■クヒ・・・・・・・杭。
■クフ・・・・・・・

口分田・・・・・・・古の分割法は三分法が基本でした。其処から前述の「九字」となりました。今の十進法の方眼紙や
数学が昔と比べて進歩したものだとは何も言えないのです。口分田に対する課税については下記の「検地」を参照。

クヘ・・・・・・・
クホ・・・・・・・
クマ・・・・・・・

熊野古道・・・・・・・「紀伊山地の霊場と参詣道」が04/7/1世界遺産登録となった。仏像や建造物ではなく、
「道」が文化遺産として認められ登録されたのは異例(仏〜西のサンチャゴ巡礼道に次いで二例目)であり、素晴らしい
事です。此れまでの文化とは物質的な点と点で理解された。

其れが今回は点と点を繋ぐ「線」の文化、即ち非物質的な心の道がやっと理解される。其処に新たな期待がある訳で
す。この道に沿った紀伊山地の名所としては吉野・高野山・熊野が有名ですが、其の中でも中心的な存在として吉野
は日本古有の修験道の拠点としてキンプセン(金峰山)寺と山上ヶ岳には大峰山寺がある。

其の麓には竜泉寺と天河弁天がある。天河弁天の東には近畿最高峰の弥山・八剣山など1915mの山々があって、
更に東の大台ケ原に続いている。次の高野山には真言密教の道場・金剛峰寺があり、そして神道と修験道の熊野
は本宮・新宮・那智の三山がある。

さて吉野は日本一の桜の名所であるが其の中心に金峰山寺の蔵王堂(国宝)がある。此れは東大寺の大仏殿に次ぐ
高さ22mの木造建築である。吉野では桜がご神木とされているが、特に蔵王堂には役行者が桜の木で彫った三体の
金剛蔵王権現を本尊として祀っていて、以来1300年の歴史がある。

三体の本尊は秘仏であるが、過去世・現世・来世を弥陀・観音・大日の合力で済度しようとする憤怒の相の尊像であ
る。次に高野山は中心に産土の鎮守神として丹生高野明神を祭り、根本大塔と金堂・講堂・御影堂などを配置した壇
上伽藍の元、120の寺院と奥の院がある(『紀伊山地』を参照)。

此処には28000点の国宝と文化財が残されている。

さて、熊野古道の道としては「大峰奥駈道」、高野山町石道、熊野参詣道があり、奥駈け道は「75靡なびき」を言う。明治
五(1872)年に修験道が禁止・廃止されて以来衰微していたが聖護院が04年の世界遺産登録に合わせて140年ぶ
りに復活した。熊野参詣道の中には、伊勢路、小辺路、中辺路、大辺路などの巡礼路がある。

外にも大阪から伊勢街道や東、中、西の高野街道があるが、此れは今回別である。何れにせよ、この古道が全て本宮
に向かっていて本宮で結ばれている(神々の歳時記「4/15、10/15」を参照)。 

このように紀伊山地の場合は、何れもバラバラな存在ではなくて密接に関連した聖地として温存され、山岳修験と多様
な信仰が1000年間の時間と「巡礼路」などによって結ばれた所であり、広い空間に点在する文化的旧跡である。其の
外、此処は木の国ですから周りには原生林も残されています。

従って此処には独特の景観がある訳だが、古の日本文化・宗教・風俗風習を直接体験できる貴重な地域として多数の
人が一度は訪れて欲しい所ではあるけれども、其れが今後、観光地化し俗化する心配もある。信仰の地がもし観光優
先になれば心配です。

さて高野山は1000m前後の山々に囲まれており、此れが真言宗の聖地となって以来、「八葉の蓮華」の立体曼荼羅
世界、即ち大日如来の浄土とされた所だが、それ以前から此処は聖地だった。昔から、紀伊の国の地主神は丹生都
姫神、即ち和歌の神の和歌姫の里、即ち観音浄土だった。其処へ空海が乗り込んで来た訳である。

高野山の麓には慈尊院が建てられ、空海は其処に母を住まわせた。高野山は女人禁制の山だったので、此処に空海
が月に九度も訪れた事から此の紀ノ川辺の町を九度山と言うようになった。道長や鳥羽上皇も紀ノ川から船で来て町
石道から高野山へ向かった。

御幸は決して、中辺路を歩いたのではなくて、この慈尊院から高野山へ、そして熊野へは藤白の地からと言う風に、河
野・九鬼・熊野各水軍の船によって川から巡拝したものと思われる。其れに対して熊野の神は須佐之男命を中心とす
る三所権現があり、本宮ではの場合は例大祭が4/13〜15日。此処は明治22年の大洪水までは中州にあった。

其処を「大斎ゆの原」と言い、国の史跡となっている。其れに対して、速玉大社(新宮)は1205点の国宝があり、有名な
祭りとして先ず2/6に女人禁制の火祭り「お灯まつり」があるが、此れは元は摂社の神倉神社の祭りであり、新宮とし
ての例大祭は本宮とは逆の時期の10/15〜6日で対照的である。

そして那智大社には那智の滝があり、那智大社のご神体は那智の滝である。7/14には「那智の火祭」(神々の歳時
記「7/14」を参照)が行われる。また本宮と同じ時期の4/14には「桜花祭」、11/14には「紅葉祭」があり、何れも
平安の時代絵巻を繰り広げる。

因みに熊野三山は物部氏系の祭る所として熊野権現と言われ、今も全国3000社の元締めである。

ただ昔は独立した神社ではなく、神仏習合だったので本宮は阿弥陀、新宮は薬師、那智は十一面千手観音を祭る寺と
して寺社一体でしたが、其れとは別に二寺があり、この五社寺を巡拝する道が熊野古道(熊野参詣道)であり、此れが
中世「蟻の熊野詣」と呼ばれた。

平安時代、上皇や法皇らが、「熊野御幸」したのは本宮・新宮・那智・青岸渡寺へと渡り歩いたものであり、近くに有る
のが庶民の道・中辺路コースだが、この沿道に九拾九王子が並ぶ。青岸渡寺は西国33ヶ所の第一番札所として観音
信仰の巡礼者が訪れ、那智の滝が境内からも眺望できる。

また、補陀洛山寺は、千手観音立像を本尊とする補陀洛渡海上人縁りの地(「補陀洛渡海」を参照)である。その外、
伊勢側にはイザナミノミコトの墳墓とされる「花の窟いわや」や七里御浜がある。この様に此処は何れも「心の道」である。

其れをレジャーと観光の道と誤解する客や業者、或いは「町おこし」の起爆剤として無知な行政が便乗しようとすれば
「荒らされ」て、結果はゴミ処理を増やす事にしかならないかと心配するのです。

熊野詣・・・・・・・近畿には古来、「神々の宿る熊野」と言う異界に対する畏敬があり、物部氏系の祭る熊野も16
00年前にインド僧・裸形上人が修行して以来、観音信仰発祥地となった。また平安時代になると貴族の中で末法思想
が起こった。

熊野は平安京から見て南に位置し、観音浄土の聖地とされ、其処から宇多上皇以来、鳥羽上皇21回、後白河法皇3
4回、後鳥羽上皇28回など実に140回もの熊野御幸が行われた。花山法皇は那智の滝で「千日行」(3年間)をしてい
る。京都からは20間(または一ヶ月)に及ぶ長旅だったが、西国33観音霊場第一番札所が青岸渡寺で有る。

此処は実際「補陀洛渡海」(別項参照)の行われている所でもあったから、室町時代には民衆にも広まって「蟻の熊野
詣で」と言われるほど盛んになった。だが御幸は源平の時代であり、其の実態は信仰心よりも現世利益、即ち熊野水
軍を頼る公家や都人の打算的な行動であり、実際殆どは徒歩ではなくて船で遊覧した事だろう。

特に修験道は日本独自の山岳宗教と言われ、先の吉野には根本道場として桜本坊が存在する。其処から熊野に向か
って大峰奥駈道があり、大峰山は今でも「女人禁制」とする男子の道場である。無論、高野山もそうだった。其れに対し
て、熊野は観音信仰の場であり、修験と言うよりは古くから伊勢・熊野が「お伊勢参りと蟻の熊野詣」で栄えた。

其れに今も33観音など、女性の参拝が多いから好対照である。何れにせよ昔、熊野古道をヒッチハイクのように徒歩
で登り降りしたのは男子と庶民だけだ。高貴な方や女性たちの殆どが恐らく、伊勢からは安濃の水軍が運び、京都か
らは渡辺水軍が運んだだろう。

とすれば点と点でも古道でもなくて、海や川と言う別の文化や交通ルートも浮かび上がって来るだろう。そして「補陀洛
渡海」の実態も見えてくる。「補陀洛渡海」とは信仰ではなかった。高僧を海へ捨てる姥捨て山としての悪弊であり、そ
れに小栗判官伝説も宣伝であった。

彼は南北朝時代に常陸の国で四郎五郎の暴徒として藤原弾正(因みに筆者はその22世孫)に捕まり、半死半生の状
態で逃げ延びた。結果として彼は照る手姫の介抱と湯の峯の湯治で命拾いしたものの、其れが浄土信仰の宣伝に使
われた。

「49日で元の姿を取り戻した」と言う「異界再生神話」が作られて「熊野は蘇りの聖地」としての噂が広まって益々「霊験
あらたかな熊野」として御利益信仰が高まり、歌舞伎や浄瑠璃の人気演目ともなったのである。

さて今回、此処が世界遺産に登録となって観光客が増えるのは良いが、其れに伴って地元では宿泊施設やトイレ、交
通関係の整備が進むだろう。けれども線香花火で終わっては惜しい。世界遺産はまた来年もその次もと次々増えて行
くのである。だから一過性の観光客に期待してはならない。

こうした現世利益の御利益信心と観光案内が続く限り、僅かに一時だけ線香花火のような光彩を放っても其のうちメッ
キが剥がれ、失望され、再び寂れてしまうのではないかと気がかりである。

古くから続いて来た33観音霊場めぐりや高野山への「同行2人」の巡礼者が従来よりも増えてくれれば有り難い。其の
為には上っ面を飾る観光案内よりも歴史の視点をより深く、長期のスパンで捉えて、ジックリ時間を掛けた対応を望み
たい(前述の「紀伊山地」を参照)。





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