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     日知り事典     賢所〜過疎化

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◆かし・・・・・・

賢所・・・・・・皇居の賢所、東殿(天神地祇八神殿)、西(皇霊)殿を宮中三殿と言うが、中でも賢所は中央に位置して
皇祖・天照大神を祭る。最高位の場であるから此処が一般に公開される事はない。よって次は憶測であるが、伊勢神
宮にも神宮寺があったように此処にも仏像が祀られ、ご本尊は七星如意輪観音であると聞き及ぶ(浅井氏)。

こうした形態は真言密教であり、平安時代の弘法大師以後であろう。それ以前の八神殿は八方を祭る斎場、つまり畏
まる場であったと思うが、何れにせよ賢所は以後、江戸時代まで神祇官が奉祭し、天皇の即位・大嘗祭に必要な三種
の神器の内、鏡と剣(何れも古代からの伝世物ではない)も此処に納められた。因みに鏡は内侍(ないし)所が仕えた。

だが本来の八神は八方に円環で祭った筈である(「八神」、「ヤタ」を参照)。

火事・・・・・・火の事と書いて火事と言い、其れを「火災」と見るのが普通です。確かに火災現場は不気味な妖炎が
渦巻く。だから火事は恐ろしい「災い」と見ます。よって「火の用心」に努めたのが木造家屋の多い日本でした。だが火
事は寧ろ積った穢れ、即ち「災い」を火で消す(祓う)、浄化の役割も有ります。

実際、先祖が悪事を働いて溜め込んだ財産が残っていればあの世から其れを早く消したいと思う。或いは醜い相続争
いで泣いている者があればその財産を散財させようとするだろう。こうした場合は如何に防火・防災・危機管理に務め
ようとも必ず失敗する。火事によって精算して其の家を再出発させる必要が有るからです。

こうして穢れを祓えば次の発展があると期待出来ます。いや発展するためには穢れを祓う必要があるので火事が起こ
る。とすれば火事は、被災者にはお気の毒だが反面では目出度い面も有ります。つまり、「防火=防災」と言う一見・科
学的な観念は余り意味が無いとも言えます。必要悪の面もあるからです。

例えば(NHK総合テレビ05/6/18によれば)江戸時代、「火事と喧嘩は江戸の花」と言われた。火事は十中八九の
庶民が喜んだ。近火見舞いで借金は棒引き、市中では売れ残った物が飛ぶように売れて不景気が嘘になった。

江戸には長屋(約2万棟)が有って約75万人が住んでいたが、江戸間の1軒分の規格は九尺二間の広さ(四畳半)と
決まっていたので一軒分の材料が荷車二台分だった(格式を参照)。今の杉並は当時、杉材の生産地だった。江戸に
は一万人くらいの大工がいたので復興も早かった。

遠くから運ぶのではなくて近場で自給自足する体勢が出来ていたのが江戸時代でした(福澤諭吉が其の辺りの事を面
白く書き残している)。実際今でも「火事場泥棒」と言う卑劣な行為が横行するし「焼け太り」と陰口を叩かれる事例が有
ります。実際火災保険で直ぐに元に戻る。こう考えると火事は儲かるし縁起が良かった。

序に言えば消防車が駆けつけて近隣に類焼をしないようにするのは大切な任務だが、出火した所は消さずに寧ろ完全
に全焼したほうが良い。生焼けでは大量のゴミが残って後始末が大変だからです。


加持・・・・・・一口に加持祈祷と言うが、今は其の実態が分からなくなった。鍛冶屋も消えたし特にカジリについては
「生カジリ」の言葉があっても元の意味がハッキリしない。加持・カジリとは何か。文字では呪術の呪であり、こうなると
尚更、意味不明である。呪の古字は口口の下に儿(ひと足)を付けたものでした。では「口々に走る」事を示したのか。

そうではないとすれば何か。口にはクチ以外にどう言う意味が有ったのでしょう。口の字は他にも兄古台吉各向吐加可
名などに変化します。此れらに共通点はないか。共通点は斎場、つまり方形壇である。次に「儿」は兄克先光兌兎党免
にも変化する。共通点は「動き」を示す会意である。

そして口ではなくて立と日で音として、其れに儿をつければ「境」を意味する事と、示(ネ)に兄を付ければ「祝」となる事
から見れば、前者は鏡の紋様のような結界を示し、後者は呪術と祝いが表裏の関係と分かる。早い話が正しい祭りは
兄の形で行い、其れとは別の裏の祭りの存在を口口で示した。

其れは神の横にもう一つ別の祭壇を設けて人を呪う事だったと見て良い。

鍛冶屋・・・・・・鞴(ふいご・タタラ)を吹いて金属を溶かして鉄器などを作る職人。彼らの神は家具槌命、火ほの雷(い
かづち)神、火むすび(産霊)神、伊勢の天一目神、・・・・などかなり古い神々を祭る。昔は湯(溶けた金属)を鋳物にす
るのをカンナ(別項参照)流しと呼んだ。

此のハイテクで精緻な銅鏡や銅鐸を見事に鋳造し、或いはあの奈良の大仏を造ったのが火男であり、ヒョットコの名を
残している。所がその後は鋳銭、或いは寺の梵鐘を鋳造する程度に技術が低落し、また中世以降は玉鋼はがねを叩いて
鍛造する刀加持が主流となり、更に近年は馬蹄や包丁、農具を作る程度に落ちた(「火の神」、「愛宕」を参照)。

果樹・・・・・・梅・桃・栗・柿・蜜柑・林檎など。今は商品栽培が主だから化学肥料・農薬をふんだんに使い、品種改良
して機械を使って計画的に栽培し7曜日の作業で収穫するようになったが、ミテクレは良くても美味しくなくなった。果物
は月が水の力で作るものであって肥料や機械や星のカレンダーで成育する物ではない。

其れに対して青森のリンゴ農家・木村秋則さんは農薬に頼らないリンゴつくりで成功した。06/12/7のNHK総合TVによ
れば、彼は果樹の生命力に気づいた。だから人が管理すると言うのではなくて、放置すると言う方法を採り、600本のリ
ンゴ園は草ぼうぼうである。

だが彼が初めて成功したと思われているが、言うまでもなく日本の何処でも昔はそうやって来たのです。

過食障害・・・・・・戦後の栄養学は日本人の体位向上に貢献した。けれども其れは青少年期には効果があっても中
年以後もカロリー重視では障害を起こす。食べれば食べるほど健康に障害が出て来るのです。行き過ぎた栄養学の弊
害が過食、ないし多食障害になる。

いったん糖尿病(別項参照)になったら治療法がなく、しかも色んな病気を併発して益々問題を拗らせるが、そんなこと
をしなくても断食(別項参照)すれば簡単に治るだろう。このように健康(別項参照)のためにはカロリーを採るよりカロ
リーを採らないよう腹八分目の節食に心がけるべきなのだ。

主計・・・・・・「かずえ」と読む。昔は財政係だった。

・・・・・・数は自然界では余り意味を成さない概念である。つまり数は人為的な観念でしかないので自然界には一
切通用しない。従って単独では存在しない概念である。人間界であっても元々順番の目安になるくらいのものである。
そうであるならヒフミでも子丑寅でも甲乙丙丁でも、或いは1、2、3・・・でもABCでも日月火でもイロハでも良い訳です。

数字はハッキリしない概念や抽象的な事を具象的な言葉や記号の形で明確に示す事が出来る便利な指標として、人
間社会で約束事としたものに過ぎない。であるから、此れを使う場合は、実在する物、或いは時空を区切る方位の裏
付けが必要でした。

其の点、ギリシャ数字でも1から10までをTUVWXYZ[\]と書くが、Tは御柱、Xは其の柱の作る影の角度、
そして]は10であると同時に四方を結ぶ中心点を示したものと推定できます。此れも天文観測、つまり五行思想(「御
柱、「五行」を参照)から出た方位文字からの指事数字だったろう。

だが前6世紀のギリシャのピタゴラスは、「数は万物の根本物質である」と誤解した。彼は自然数で秩序を整えようとし
ていたので此の時代まではさしたる弊害はなかったが、アリストテレス以後、西洋数学は代数を駆使し、小数点以下、
無限に続く迷路に発展させた。

例えば今、インターネット検索ではgoogolが役立っているが、此れは10の100乗を意味する造語だ。またインドのサン
スクリット語のナユタは、10の60乗の単位であり、シナ佛教の金輪際とか由旬、其れに億劫や有頂天などの言葉も、
此処で数字を挙げて説明するのに窮するほど天文学的数詞である。

無論、ジャイナ教やインド哲学も、天文学的な数字を乱発した。瞑想的な宗教観なら其れも楽しいし、日本固有のもの
には四を死として嫌い、八を末広がりと喜んだり九を苦と見る数によるゲン担ぎや言霊や数霊学と言う占いもある。が
何れにせよ、数を信仰したり数が多ければ良いと言うものではない。

兎も角、譬え学理や科学の仮面を被っていようと数字を使って人を惑わすならば、其の裏は闇であり、弊害を及ぼす言
わば魔界の迷信教だ。其れなら今のコンピューターの作るバーチャルリアリテ(仮想現実)と同類である。

ガス器具・・・・・昭和初期の都市ガスは石炭から作っていたのでガス自殺と言うのがあったが、今は都市ガスはメタ
ン(天然ガス)。地方のガスはプロパンだから死なない筈だった。所がCOガスが発生すれば話は変わる。ともあれガス
は直接燃焼させて利用するので電気よりも熱効率が良い。

其の器具はメーカー各社により暖房機やガスコンロがあるが、例えばパロマの瞬間湯沸かし器は、不完全燃焼が原因
で96年の事故以来20年で27件の事故を起こして20名を殺した。基準の400倍のCO(一酸化炭素)発生器になってい
た。対象機種は2.9万台。

典型的なPL(製造物責任)法対象事故であるものの、対処・改善などを怠ったので問題である。其れまで欠陥を認めな
かった小林社長が06/7/19にやっと非を認めて謝罪した。一度失った信頼の回復は難しい。非上場の同族会社として
もパロマの会社は此れでザ・エンドであろう。

だが此れまで見過ごして来た監督官庁(経済産業省)の役人たちはどう責任を取るのか。犠牲者は生き返らず、民間
会社が潰れても役人たちだけ其のまま居座るのなら許せない。経産省は「対策に万全を期す」と答弁したが冗談じゃな
い。其れで良いと思っていたら傲慢不遜である。

犠牲者の数だけの役人を死刑に処するか首にしてお詫びすると言うのが責任の取り方ではないか。少なくとも国民に
対しては「現行法規の枠内で、より厳しく適用し関係者を全員処分する」と謝罪すべきが当然だろう。そうでなければ国
会で経産省の縄張りからガス関連を即刻取り上げるべきだ。議員も責任がある。

▲上総掘り・・・・・・かずさ堀。井戸掘りの一つの流儀。千葉・君津市には街角に多くの井戸があるので「井戸の町」と言
われる。其の多くが上総堀で掘った井戸です。井戸端では主婦たちが集まって野菜洗いと洗濯、そしてお茶を楽しみな
がら井戸端会議が繰り広げられる。上総堀とは明治に考案された工法で、木製の大きな滑車と竹を使った機械堀。

深さ数百メートルまで掘削可能だ(07/2/6日のNHK総合TVより引用)。


数霊・・・・・かずだま。数字には特有の意味があると言う縁起担ぎの信仰であり、其処から占いに使われる。名前の
画数なども流行した。キリスト教圏ではラッキーセブン信仰があり、また13日の金曜日(イスラムの聖日)が忌み嫌わ
れる。「周期律」を参照。

数の原理・・・・・・物や方位の裏づけのない数字は架空であり意味が無い。其処で古人は数字の裏付けとする方
理を色んな形で示し残した。先ず丸と四角の簡単な図形で古義による数の原理を述べる。では先ず丸の中に囲の字を
入れて見よう。そして囲の字の右肩から左下へと順番に294/753/618と嵌め込んで下さい。

この順番が毎年変わる神宮暦の原盤(数列)であり、方位と数字の連関表です(九星、魔方陣を参照)。此処までの数
字は1〜9までで「0」がない。なくても良いのです。今の数学は10進法ですから1〜10まで数えるのですが其の桁が
増えたり、またどうしても虚数・複素数になって計算が複雑になります。

だが其れだけ使ってもどれだけの真実を表わす事が出来たでしょう。ならば1〜9の自然数だけで十分ではないか。さ
て先の数字を各々更に9等分すれば81になり、其れを更に続ければ6561〜4000万にもなります。因みに真ん中の
数字は五(イツ)になりますが、此処は結びの意味がある。其処を中五(ナカゴ)と言い、五色では黄色としました。

続いて他の数字について時計回りで述べる。先ずは陰数の極みの真北(子)に当たる「1」を置く。此れはヒフミのヒで
あり、エの神の位置。次は丑寅で「8」、ヤとか八とも言うがホ(ほ)の神です。次は「3」でミとも読めるが東・卯の方位で
「タ」の神です。次は巽の方位で「4」であり、ヨとも読むが「ミ」の神です。

次は午(南)の位置には「9」と言う陽数の極みが位置して「コ」と読むが「ト」の神。次は未申(南西)方位に「2」を置いて
フと読み、「ヒ」の神が位置する。そして西には酉の位置に「7」を配分してナナと読むが「カ」の神。最後に乾の方位に
「6」を配してムと読むが「メ」の神が位置する。

これ等を読めば「日ハミ、横に、南無」とも「日む何暦は」とも「日は見よ、暦は日」とも読める。まぁ此れは無論余談です
が・・・・そして何れの方位にも属さない所がゼロであり、ロとした。だが古代インドでは方位ではなくて何もない事をゼロ
と見てしまった。以来ゼロの観念は近代数学に大きく貢献した。

だがゼロは何もない事ではなくて、最も大切な定点を示した所でした。要するに昔は数字の飛躍をなくす為に方位(トホ
カミエヒタメ)の枠を着せたのです(魂の実相を参照)。

数の論理・・・・・・古の日本ではカズエ(主計)と言う官職が有った。此れは日数を数え、順番を数えると言う役目で
した。其れが今の大蔵省に発展したのかも知れないが、今やっている事はカズエではなくて「数の論理」である。

今の経済理論もカズエではなくてコロガシであり、例えば100万円が100回転がれば1億円となり、其れに応じて所得
税や消費税が転がり込むと言うコロコロ狸の幼稚な皮算用である。凡そ「数の概念」は全体をゼロとするか、或いは
「一」とするか、其れとも百とするかで違ってくる。全体を百として、其の一部をパーセントで表したのが百分率です。

この様に、数字は全体との関係をどう捉えるかで違って来ます。だが其の全体が例えば経済や人口など、流動する訳
ですから、譬え実体があっても変動する場合に、単に数字だけを残して論じても実態とは離れ、浮いて来ます。

この場合は故意・過失を問わず、「数字のマジック」に引っ掛けた事になり、また其の裏を返せば数字は常に「騙し」や
ペテン師の便利な道具ともなる訳です。所が現代社会では「数字で示せ」と言う数値万能主義、数値主義になって来ま
した。だが其れは前述の通り大変危険な支配観念である事を忘れてはならない。

例えば男女(両親)から子供が自然に生まれる事を数式では簡単に説明できないし、或いは選挙の時の「票」の動きも
決して「1足す1は2」にならず、実に不思議な数字のマジック(作用と反作用)で当落が決する。また例えば籾一粒が半
年後には千粒以上に増える。

とすれば、土地さえあれば種が千倍の富に変わる以上、誰でも儲かると見るのが稲作民の皮算用である。けれどもか
つては難民を移民と言う名で棄民したのが日本政府でした。戦後はまた食管制度で国民を泣かせ、次は逆に減反で泣
かせた。或いは世界一高い米価を隙あらば更に上げようとしたが、それでもやって行けない。

つまり稲作が儲かると言うのは数の論理だけの話の誤解であって、現実は逆となった。だから毎度国民経済の足を引
っ張っている。この様に、数は単独で存在しない観念なので、此れだけを目安とすれば錯誤を生む。数が、物などの実
体があり、または方位に裏付けされている間は上の例のような程度で済まされる。

けれども、物や方位から離れると、数字だけが簡単に遊離して行きます。そうすると其の数字は実数か虚数か見分け
が付きませんから、数字だけが「一人歩き」して、バーチャル空間に惑うディリバァティブを演じてバブルとする。従って
現代のように余りに数値主義に偏ってしまうと弊害が多くなります。

だから、「数合わせ」に走る近代ゼニカネ主義社会の「数の論理」は幼稚で危険な信仰であって、決して科学的でも合
理的でもない、護摩化しの理屈としか言えません。早い話、数の論理は「金貸しの道具」である。銀行員が皆優秀な人
たちと思っているが、其れほどでもない。彼らは足し算と引き算しか出来なくとも良い世界だ。

金融とは金貸しであり先ず頭から二倍にして、其れを何時までに回収するかである。其れがローンであり、利率などは
後から付ける理屈でしかない。彼らは冷酷な数字でのみ動くのである。特にサラ金は回収する手段を選ばず、寧ろ乗
っ取りを目差す。

日本人が此の数の論理に汚染された結果として、ライブドアを急成長させた。ホリエモンはアイテイと言うマジックを使
って人の目を掠めたものの、結局は株の細分化の手口が露見して失敗した。この様に数の論理では方位も方角も無
関係ですから、法律や理屈などは後からどうにでもなると誤解して暴走してしまう。
    
カスピ海・・・・・・ヨーロッパとアジアの境にある世界最大の湖。塩水湖。ボルガ川やウラル川が流入する。旧ソ連とア
ルメニア、トルコ、イランなどと国境を接して周辺には油田も多い。名産はキャビア。

・・・・・・・風は何時も元気だ。暑さ寒さも知らないふうに飄々と走り回り、歌ったり唸ったりしながら通り過ぎて行っ
たかな、と思えばまた引き返してきて舞い上がる。そんな風を唯物科学的に理解しても正解ではない。自然は生き物な
のですから譬え物理的に分かる事が有っても、其れは半分しか分からないのであり、後の半分は謎とするのです。

では其の部分をどう認識するかで人間の幅が違って来ます。其れについて、中世はお寺の天上に尊像で示していた
し、江戸時代には俵屋宗達の「風神雷神図」屏風のような形で図示していた。この方が物理よりも親しみが有ります。
風は人の目に中々姿を見せないが、親しみが湧きますと風を捕まえる事も可能になる。

もし風を捕まえれば魔法使いの婆さんのように箒に跨って空を飛べるかも知れません。そう言ってしまうと科学常識家
から笑われるでしょうか。西洋ではトランプのジョーカーに彼女を道化師として描いた。昔はそんなジョーク(冗談)から
彼女を番外として、しかも最高の「切り札」と認めたのです。

でも時代は変わった。人が上手く風に乗れば、今はハングライダーで空を飛ぶ時代となったのですからジョークではなく
なりました。

さて、「天気は西から変わる」、と言われますが、風は何時も西からとは限りません。実は季節によって違う方角から吹
いて来るのです。風が春には東から「春の便り」を運ぶように、春夏秋冬の季節によって春は東から、夏は南から、秋
は西から、そして冬には北から吹いて来る(「五行」「五風十雨」を参照)。

地球が西から東へと一方的に自転しているのに何とも不思議な存在です。でも五行が分かれば五風十雨のパターン
が認識できる。そして風は、雨と同体異性である。雨は風が運び、そしてお掃除が済めばまた風が吸い上げて別の地
域に運んで行くのです。夏は南海上に、冬は北海上に台風並みの低気圧が生ずる。

よって日本列島には夏は南から、冬は北風となってやって来る。でも其れは経験則や気象学の見方であって、風の本
当の意味・役割は別の処にある。

風には二つの役割が有り、第一はの役割は雷や雨と同様、大掃除です。例えば落雷や「台風一過」の後は天気がスカ
ッと一変した事を経験された事がありませんか。其れはお掃除が終わったからです。次に、風の第二の役目は作物を
育てる事です。草木も稲も、風によって気持ちよく揺らされ、上に伸びて生育して行くのです。

ですから春風は草木の若芽にとっては揺り籠になりますので大切な風です。作物もケモノも風を感じたら全身で喜びま
す。子供も喜んで走り出す。昔から日本人は「子供は風の子」と言って来た。子供は風が吹いたときには飛び上がれる
ような気になって走り出すものです。でも「風は困る」と言う人は其れを忘れて不健康になった大人だけである。

多くの大人たちはこのような偉大な風の恩恵を忘れて何時も風を心配する。屋根が飛ぶとか稲が倒れるとか心配して
被害者意識でいるから問題です。天気予報でも、風雨のマイナス面だけを吹聴するので誤解を広げる事になります。
そうした誤解からは正解は生まれず効能にも気づきません。

例えば、風は「五風十雨」と言う格言がある通り、四季に応じて各々東西南北から吹き付ける。シナツの風は東シナ海
から日本列島を駆け巡る台風であるから夏越しの大祓いに祭られる。また息吹戸主は其の逆方位から京・大和を通過
して押し返す東北からの言わば寒波や春風である。

ワダツミはこうした風に乗って海原を駆け回った。だが風の仕組みを忘れた者は風を怖がるようになった。確かに風は
調子に乗って色んな悪戯をするので手を焼く事も有ります。また稲作民は収穫の時期に風が有るのは迷惑と誤解し、
被害を警戒して、古来「風鎮め」の祭りをして来ました(シナツ彦を参照)。

でも其れも気休めが多いのですが、やり方によっては例えば、04/6/初に台風4号が高知に上陸した時に、大陸性
の高気圧が張り出して北風となってこの台風を南に押し出したので、熱低に変えてしまった。

気象庁は台風の雨を梅雨と勘違いして04年も「梅雨入り宣言」をしたが、例年と同様、其の後は梅雨とは思われない
カラッとした晴天となった。所で風は息をしながら進みます。海水を巻き上げて、雲にして、大陸に運ぶ白龍であり、彼
らは年間に1mもの高さの雨を私たちの元に降らせてくれている。

雨を降らせた雲は、母親が子供たちを集めるように谷間からかき集めて次の任地に運んで行きます。こうして風は、川
も、地下水も、そして海水まで手を広げて地球の水の循環システムを司る龍神である。つまり物理的な機械ではなくて
龍のような生き物だから機械的に見て風を予測しても当たらない。

古来、航海法は風を頼った。エンジンがなくても季節風を利用して航海した訳です。例えば福山・鞆の浦には朝鮮通信
使も立ち寄って風待ち潮待ちの湊として栄えた。潮も利用した訳です。よって船の形は流線型にして舳先には龍頭、船
尾には龍尾を象った。龍を慕って其れに一体化しようとしたのでしょう。

次に台風や雷は物理的な衝撃波と巨大な電磁波も有るので、此れを「勿体無い」と思う人は古今多数出た。例えばフ
ランクリンが雷雲から電気を取り出そうとして実験した結果、多くの学習をしたのは有名です。

けれども元より雷の役割は、人類が人類社会のみならず自然を汚染した尻拭いをするために、必要最小限のエネル
ギーを使って最大の効果を挙げるべく精一杯働いてくれているのであって、人類の更なる浪費や一部の人々の快楽願
望を叶えるために活動する余力は少しもない。

従って雷や風に感謝して多くを学ぶのは結構だが、物質科学が行き詰った事から此れをテコに真似をし、打開したいと
か、個人的な金儲けの道具に利用したいと思おうとも、そうした驕った姿勢は彼ら龍たちに嫌われて失敗を重ねるので
す。此れは台風にも同じ事が言えます(台風、竜巻を参照)。

以上、纏めとして風の神は古来四方におられて、四季に応じて恵みの便りを運んだり、低気圧の力で作物を育てた
上、大掃除してくれる有り難い存在(「大気」を参照)と述べた。つまり風には見える風と見えない風とがある。尚、気象
関係の風については「風向・風速」を参照。

風について以下は理化学的(地学)で説明すれば、ハドレー循環説とコリオリの力によって説明できる。前者が気温
のバランス、後者が物体の力学。地球上の物体の動きは右回りする。例えば北半球では回転軸とは反対方向に曲が
る。フーコーの重りを使って見れば、振り子の重りが右側にズレて来る。此れは引力プラス、コリオリの力である。

北半球では大気も反時計回りの渦となり、高緯度・北極地方では極循環となり、中緯度ではジェット気流となり、低緯度
地方では貿易風となる。雨もまたこうした空気の流れによって変化して雨の多い地域と砂漠地帯とを作っている(
下は08/1/25教育テレビより引用)。


風の種類・・・・・・・風には先ず見える風と見えない風とがある。見える風にも2種があって、先ず上空で雲を運ぶ
風、次は木々の枝を揺らす風です。気象関係者は機械的に見えるこうした風だけを観測データとして拾い上げるが、見
えない風の役割も大きい。此れは気圧の変化としてデータで拾えるけれども、其れだけでは分からない。

気象関係者たちよりも家庭にいるお母さんたちのほうが実感している。例えば洗濯物が良く乾く時です。此れは蒸発量
によって観測すれば良いのだが気象関係ではやってない。適当な器具もない。ないのはバケツに溜まった雨水を其の
まま放置して時々見れば良いからです。つまり簡単すぎて商売にならないからだ。

次に五風十雨の周期性の風がある。此れが四方からの四季の風であり、春風は木々の若芽を優しく撫でるような軟ら
かい風であり、まるで魚鱗のように細かいデリケートな身をくねらせて揉みくちゃにされながら山谷の木々の間をすり抜
けて来る青龍のような風である。

夏風は南海の海を渡って来る大らかな風です。たっぷり水分を吸って来るので生暖かくてしっとりと湿気があり、梅雨と
言う手土産の外に雷神も運んで来る。次は秋に海から来るのは台風として雨も運んで来る。或いは東シナ海から来て
西日本の陸地の街や村を飛んで来る風は煤煙や埃も吸ってカラッとした風になる。

其れに対して冬の風は荒々しくトゲトゲしく寒く乾いていて痛いくらい震え上がらせる北風です。

風の名前・・・・・・・雨には数多くの種類が有るが、風の名前は2000以上も有り、雨の名前より多い。変り種では
「波帆風」とか、「極楽の余り風」と言う風が有る(NHKラジオ第一、高橋順子?さん、H15/7/3夜、放送分より)。

そう聞いて意外に思ったので今、思いつくまま列挙してみると・・・・春風、コチ(東風)、緑風、南風、川風、熱風、西風、
西よりの風、嵐、大風、台風(ハリケーン)、サイクロン※、竜巻、秋風、北風、寒風、山瀬の風、空っ風、、赤城・榛名お
ろし、筑波おろし、伊吹おろし、比良八荒、金剛おろし、六甲おろし、・・・・・・

そよ風、つむじ風、突風、向かい風、追い風、・・・・・・・中でもつむじ風は「カマイタチ」ともなって、時には人を傷つける
イタズラ小僧の真空斬りである。 
  ※1992のハリケーン「アンドリュー」では26人の死者が出た米国では2004/8/14、フロリダ州を襲ったハリケ
ーンが15人を死亡させた。最大風速は秒速64m。また2005年にはカトリーナが襲った(ハリケーンを参照)。 

  ※2004/3/31、ブラジルを風速150mのサイクロンが襲った。竜巻(別項参照)は短時間で終わるが、サイク
ロンは何日も続く場合があり、しかも此れまでのサイクロンは東に向かう事が多かったのに、このときは逆に西に向か
ったので大きな被害となったと言われる。

また同年4/14夜にバングラディシュでは竜巻により55人が死亡し、数千人が家を失った。其れに、白ハエと黒ハエ
と言われる南風がある。前者は日本海、後者は太平洋岸を北東に抜ける夏風である。さらに貿易風とか偏西風とか季
節風(モンスーン)と呼ばれる風もある。此れは帆船を凄いスピードで運んでくれる風である。

何れも長い間に漁業や航海によって、風の特質を捉えた経験則から生まれた言葉でしたが、今の人々は忘れかけて
います(シナツ彦を参照)。

風邪・・・・・・・風邪は怖い。1918年のスペイン風邪では世界で4000万人、日本では36万人が亡くなった。05年
は強烈な鳥インフルエンザ(別項を参照)による新型が大流行するとWHOが予想し警戒する事となった(でもWHOは
日本でこの間、使途不明金のスキャンダルを暴露した所だ)。何れにせよ幸いにして嘘になった。

ともあれ、報道によれば新型鳥インフルエンザは人類がかつて経験した事のない脅威であり、今回は64万人の犠牲
(死者)を出す(05/11/14NHKTV)として心配しているが、其の対処法として政府はタミフル(別項参照)2500万
人分を備蓄する計画を発表した(だが此れも05年は余り要らなかった)。

其れが効くなら兎も角、効かないのに副作用だけが頻発しているのだからお寒い限りである。さて医学上では風邪と言
う病名はない。実際にあるのに病名に出来ないのは病理学的に良く分からないからだろう。分かっている事は単に症
状だけである。其処で急性肺炎とか急性気管支炎と言う症状だけをカルテに記入する。

だがどう処置して良いか分からない。ウィルスによるものと診断した場合でもアデノウィルスやインフルエンザウイルス
があり、其れらが次々百態、二百態と変異して行くので予防接種などでは到底対応しきれず治癒しない。だが医師が
此の「医学的な謎」に対して手をこまねいている間にもウイルスは次々体細胞を破壊して行く。

このため「取り合えず何か薬を」と言う程度である。だから風邪は怖い。風邪で死ぬ場合が多いし、対応を誤れば「万
病の元」ともなるからです。ですから風邪の本質を良く見極める事が必要です。其の点、「ハライ」の所で述べる通り、
風邪は浄化作用ですから、其れを良く知るべきです。和方の捉え方で見れば「出るものは全て良い」ので心配ない。

大便でもおしっこでも出ない事が問題なのです。大小便が出ても其れでも排泄しきれないものが残留する。其れを臨時
に排泄する生理現象が風邪の働きです。この場合は自力で強制排除するので衝撃や発熱を要します。

例えば風邪では咳、痰、発熱、のどの炎症、鼻水、クシャミ・・・などの症状を呈するが、此れらによって浄化(祓って行く
事で解消)するのが一番自然で良い。特に有効なのは熱発です。毒素や老廃物を自分の熱によって溶かして排出する
仕組みです。ですから風邪をひいても心配せず、この優れた機能を信じて楽しみに待つのが良い。

こう言っても発熱を極度に恐れる人が多いが、自分の体温で死ぬ事は滅多にないので心配無用。生半可な医学に習
って心配して其れを解熱剤などで散らしてしまえば微熱によって殺菌しようとする自己治癒力(免疫力)を妨げる事にし
かなりません。そうした誤処置から風邪を拗らせてしまうために「風邪が万病の元」と言う常識を定着させてしまった。

西洋医学は風邪程度でも治せない駄目な学理なので「風邪」よりも寧ろ要注意です。次項も参照。

風邪を引かない・・・・・・・雀たちが寒風の中、電線に止まって並んでいるのを見れば寒そうに見えますが「着たきり
雀」でさえ風邪をひかないものです。ホントに寒ければあんな所にいないで植え込みの中にいれば良いのです(スズメを
参照)。犬や猿もカラスも、風邪で寝込んでいるのを見た事がない。

とすれば、人の場合も「風邪を引くのは寒さである」と言う固定観念を持つのは有益ではない。医学以外の理由も有る
のです。特に子供の風邪は両親が原因している。親の身代わりなのです(「夫婦喧嘩」を参照)。だから風邪を引かない
ように注意するには寒さに対して防寒着、或いは予防薬で対処できるものではない。

親切な方々は「病院へ行きなさい」と言ってくれますが、私は敢えて異論を述べる。個々別々の人に適材適所の処方箋
を与えるのは至難です。消化吸収量も千差万別なので、薬石でも注射でも風邪は治し難い。出来れば自然に嵐が去る
のを待つほうが良い。

風邪は血液のクリーナー、下痢は内臓の掃除屋さんである。時々風邪や下痢をしていれば大病にならない。風邪の場
合は、微熱で細菌を殺し、咳と言う衝撃で強制的に其れを体外に排泄する生理現象なのですから病気ではない。

こうした自己浄化作用(治癒力)を薬石で邪魔すれば症状が益々悪化したり副作用となる。余計な苦しみを伴って拗ら
せる事になるので、もう医薬に頼るのを止めて、熱いお風呂にでも入って直ぐ寝るほうが快癒が早いでしょう。

ともあれ風邪を引いたら人前であっても大威張りで咳をせずに、せめて掌で口を覆うようにして遠慮がちに咳をすると
か、マスクをするマナーを心得えていたい。そして帰宅したら風呂に入って直ぐに就寝する。風邪は病気ではなくて大小
便と同じ「祓い」なのですから浄化作用が済めば翌朝治っている。治った後は「台風一過」のように実に爽快になる。

こう言っても信じない人たちは生兵法の医学的治療を選ぶ。病院へ行って診断を受けて注射や医薬を貰う。そうすると
安心は出来ても処置を誤った事になる。出るべきものが出られなくなり拗(コジ)らす。しかも血を汚して行きます。よっ
て「風邪は万病の元」と言う見本を自ら示してやがて大病を患うようになり、保険のお世話になるのです。

風邪を愛でよう・・・・・・・風邪は怖いが実は健康の元である。善人ならば、時々風邪を引いていれば決して大病に
ならない誠に有りがたい生理現象です。

生き物は生理作用として当然ながら排泄行為をするが、どうしても老廃物が溜まる。特に血液が濁って来ます。其処で
定期的または臨機応変に老廃物や体毒を微熱や痰や咳で排泄する必要があり、此れを人は風邪と言う。とすれば風
邪は健康維持のための必要悪の潤滑材であり、大切な仕組み(生理現象)として愛でるべきなのです。

所が現代人は「祓い」(別項を参照)に無理解のまま風邪を警戒して西洋医学に頼り、自己治癒力を殺いでしまう。こ
うして拗こじらせてしまう結果、余病を併発させる。その誤解によって、「風邪は万病の元」として警戒し、周りの人に親切
にも「風邪を引くなよ」と言うのですが「余計なお世話」であり、此れこそ「医学迷信」である。

「風邪は病気」として皆さん心配しますが、此れは浄化のための生理現象なのですから病気ではない。折角「風邪」とし
て出て行こうとするものを引き止めてはならないのです。風邪は血の大掃除、下痢はお腹の大掃除であり、両者が「命
の洗濯」をしてくれるのですから、此れも先祖の愛と受け取って、もっと愛でる方が良い。


家相・・・・・・家の敷地の形、及び建物の向き、及び間取りの吉凶を方位で占う事。占う場合は敷地や建物の見取り
図(測量図や建築図)を使って各々対角線を書き、交点を中心点として全体の方位、及び整合性を判断する。方位など
は迷信だとは思っていても、人が新築するのは一生に一度あるかどうかの問題ですから慎重になります。

或いは昔から住んでいた家であってももし病人や事故が続けば家相が気になって来るものです。其れに昔からの習慣
的信仰、或いは迷信・俗信もあるので家相や地相を気にする。だが、其れを診断するビジネスには眉唾もあるので其
の効力が疑われるものである。

矛盾点としては、診断者の多くが真北を知らずに磁気コンパスで診断するため、譬え家相盤を使って天地の理による
吉相や鬼門を鑑定しても、家の端では柱や一部屋くらいズレてしまう点と、その鬼門の意味すら各人で矛盾した解釈が
多く定理はないと言う点である。

また「張り・欠け」を気にする場合は中心点をズラす事で解除できる。中心点とは襷目であるが、此れを神仏の位置の
移動でズラすと言う便法です。凡そ各方位や暦日には吉凶はないのですが、立地条件や家相も個別で多種多様であ
り、其処へ一律の定理や画一的な住宅を押し付けては全体の調和が得られず問題を残します。

其れよりも、寧ろ先祖の命日方位に正対、または汚物が溜まる事のないように設計する事が第一。次に湿気の多い日
本の特質から家の環境と言う点を重視するなら、家相の基本は採光と通風、其れに排水であり、要するに建築上の常
識と同じです。なので、此れを無視して個別の都合を押し通すために逆らう事のないようにする。

無論、近くから騒音が有れば、庭木や構造的配慮で遮断すべきではあるものの、常に外気との接触を図り、家内にケ
ガレが滞らないように設計すれば問題が減る。但し、井戸を埋めたり勝手に生えてきた樹木を切る場合には注意を要
します(「龍」を参照)。

更に欲を言えば、今新築した家の大半が、縄文時代の上に建っているのですから、現在地の郷土史や家の歴史を調
べて感謝し、また付近の状況を心得えて全体との調和を図る事が出来れば最善と言えるでしょう。

火葬・・・・・・・古代世界では殆ど土葬だったが、寒冷地では凍土を掘り返せない。また遊牧は火を神とする観念か
ら死者も火で清めて神に帰す意味で火葬となった。特にインドは拝火教(ゾロアスター)、バラモンの影響で仏教国、ヒ
ンズー教になっても火葬してガンジスの神に散骨する風習が長く続く。

よって道昭以来の日本も仏教の広まりと共に火葬が広まった。イスラム教は土葬であり、キリスト教もカトリックが196
0年代になって公式に火葬を認めた。中国や韓国は基本的に土葬だったが、近年は土地不足から火葬を奨励してい
る。現代日本の場合は原則として火葬以外は埋葬許可を出さなくなった(「土葬」を参照)。

でも火葬が他の葬法よりも進歩した葬法と言う訳ではない。


■カゾエ・・・・・・主計。

数え年・・・・・・今は年齢を誕生日が来る度に満年齢で数えるが、昔はお正月の元日に家族全員が一斉に歳を取っ
た。此れが数え年。譬え年末に生まれた乳児も元日を境に二歳となる。今はバラバラに誕生日をしているが、お正月
に一家揃ってお祝いすれば手間が省ける。学校でも同級生は同時に歳をとって公平に同年齢となる。

そもそも生まれた瞬間に一歳になるのが数え年である。この点は理不尽なようだが実は理に適っている。この世に肉
体を与えられたのが胎児となった時点であるから、其処から10月と10日を経て誕生するとすれば、生まれたときが一
歳としても無理はない(年齢を参照)。

しかし1950年に「年齢のとなえ方に関する法律」が施行され、満年齢が推奨され、誕生日の前日に一歳増える事とな
った。4/1日生まれが「早生まれ」になるのもこのためだ(下の2行は06/1/1の朝日新聞より)。

でも今の人達は若さを競っているので、先の「数え年」では一歳老けて見えるのは割が悪いと嫌われそう。でも昔から
の九星占いとか厄年などは今でもこの数え年を基準にします。

▲・・・・・・・

疎過化・・・・・・・江戸時代までの地方は賑やかだったが明治維新以来、日本国内では都市への集中化となり、そ
の逆に地方は過疎化した。特に「太平洋ベルト地帯」と言われる東京・名古屋・大阪に全人口の半分が集中する事とな
った。江戸末期まで全国には1万近くの市町村があったが、今は2800に減った。

その上、国土交通省はもっと合理化するためとして合併を強要して更に1/3にしたいと狙って05年には更に合併が
進んだ結果、全国の半分が過疎地化した。過疎化のみならず孤立化し、村ぐるみで消滅の危機に晒された。村がなく
なれば其処に根付いた歴史や文化も滅びる(首都移転を参照)。

東京都の1.7倍の面積の18万ヘクタールの農地が耕作放棄地となった。農村が壊滅すれば日本も壊滅する。こうし
た今、広島と島根が行政の枠を超えて山間部の集落で活躍するための「ひろしまね」と言うNPO活動を始めた。集落
再編をしているが言わば「老々介護」のようなこの活動を国が見過ごしていて良いのだろうか。

効果的な手を打てなければ過疎化が最早止まらず、国土も荒廃する一方です。政府は米国ばかりを向いているからだ
が、04年にはもう中国貿易が米国より大きくなった。そうなると今までの「表日本」と「裏日本」との関係が逆転して、日
本海側が昔のように「表」になる可能性がある。

そうすると都市集中化と合理化で荒廃化させた国の政策がまた無意味となり大失敗となるだろう。

カタカムナ・・・・・・・以下は次ページへ。

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