http://hijiri.tamajiri.com       「日知り事典」  page355.html(未定稿)


    日知り事典        モ 

トップへ
トップへ
戻る
戻る

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★■▲◆★
も●● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・  ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ■▲◆★ 

●も・・・・・・・・「も」は「喪藻裳萌燃」の「も」であり、「も・も」と重なれば「百、桃、腿」となる。数詞ではヒフミヨイムナヤコ
ト、モチロラネのモは「百」を意味する。とすれば、八百万の神と書いて「ヤオヨロズ」と読むのは間違いではないか。此
れは「ヤモヨロズ」では?

また「四方、八方」と書いて古来、「ヨモ、ヤモ」と読むので「方」と「百」とはイコールなのか???(「八百万の神」を参
照)。

■ 
モアイ像・・・・・・イースター島の石像。小豆島と同じくらいの大きさの孤島に立つ神秘の石像・モアイの台座の祭壇
には文字が刻まれていた。此れは日本に仏像が入って来た頃・7c(飛鳥時代)に造られていた。石像の大きさは8〜1
0mで、海を背にして立てられている。倒れているものを含めると島内には凡そ900体もある。

彼らは何処から来て、モアイを誰が何のために造って立てたのか。彼らはアジアから4000年前にやって来ていたが、
4cにこの島に入った。モアイ像は目の前にある町や村を見守るように立っている。其処には集落が広がり、トウパと呼
ぶ石積みの住居があるが、モアイ像の立つ祭壇には誰も近づかなかった。

建物には強い風が入らないように多数の出入り口が実に小さくしてあり、室内の容量は数十人である。島の北には洞
窟があり、壁画が描かれていた。其れはマケマケと言う神様であり、唯一の神である。従ってモアイは其の神ではない
と分かる。祭壇をアクと言い、此処に秘密があって、位の高かった人と見られる髑髏が整然と納められていた。

さてポリネシアの伝統としてタパティの祭りがある。モアイ像の前では火を焚いて踊り、儀式を行った。モアイは部族の
強さのシンボルであり、強かった長の姿を示したものだ。かつてこの島には50を越える部族があった。当初7c頃は2
m大のモアイ像が造られていたが、最終的に15cには11mの大きさに達した。

帽子のようなプカオ(頭の上の赤い石)は昔、髪を上に巻く風習があったからである。ではどのようにして造ったのか。
島の中のラノララク山は70万年前は火山だった。其処には凝灰岩があり、造りかけの石像や運ぶ途中のモアイ像が
今も300体ほど散在しており、中には大きさが22m(400トン)のものもある。

18c末にキャップテンクックがこの島を訪れた時にはモアイ像の全てが倒れていた。この運搬方法を20cになってヘイ
エルダールが実験した所、5mのものは180人で運び出せた。だが村人は反論した。村の伝承では「モアイは自分で
歩いた」と言われて来たからだ。

其処で立てたままロープで引っ張って歩かせた所、前の半分の人数で動かす事が出来た。ただ日本の猪熊兼勝氏は
海上移動説を唱えている。ともあれ40年掛けてモアイ像を立て直し、日本の安田氏がボーリング調査をした。その結
果、4cには椰子の森だったが、7cには花粉が減少していた。其の花粉も12cにはなくなっていた。

今もこの島には森や林がない。島の人口増加に伴って農地が拡大され、或いは船材として木が伐られた事になる。其
れが原因して食糧不足となり、戦いが続くようになった。それでもモアイ像は造られ続けた。やがて19cからスペイン、
イギリス、フランスなどにこの島は次々支配を受けて最終的には島の人口が111人にまで減った。

以後チリの領土として自治が認められてから回復し、モアイの復元も始まった(05/5/12のNHK総合TVから引
用)。

▲もい・・・・・・
▲もう・・・・・・

▲設ける・・・・・・

儲ける・・・・・・儲と言う字は「人偏に者」と書くが、其れは教科書の学問である。商売人は此れを「信者」とも読み、
「だから信者を増やせば儲かる」と言って来た。また大阪商人の子に生まれて苦労して作家になった藤本義一氏は06/
6/8の教育テレビで先の「信者」に続けて、「自分と他者の間に言葉を挟む行為」と話した。流石である。

孟母三遷・・・・・・・・引っ越ししたけれど、周りに神社・お寺・お地蔵様・お稲荷様・墓地などが多くて、気持ちが悪い
し、子供の教育にも良くないから、また引っ越ししたほうがいいかと「ヤフー知恵袋」に母親が相談した件について回答
した中から以下、引用する。

----この世で一番怖いのは人間であって、神社・お寺・お地蔵様・お稲荷様・墓地などは犯罪を起こしませんのでどうぞ
ご安心を。シナの故事にも下記の「孟母三遷」の諺があり、この為に母が教育環境を選んで転居を繰り返して立派な孟
子になったと云う美談です。

塩の携帯も良い結果となります。無論効果があります。但し極上の塩にして下さい。孟母三遷(もうぼさんせん)とは, 幼児
の教育には環境が大切であるという教え。 孟子( もうし)が幼い頃、彼の家は墓地のすぐ近くにあった。 そのためいつ
も、葬式ごっこをして遊んでいた。

孟子の母は、 「ここはあの子が住むにはふさわしくないところだわ」 ...www.katch.ne.jp/~kojigai/moubo.htm -

▲もえ・・・・・・
▲もお・・・・・・
▲もか・・・・・・

(もがり)・・・・・・・・人が死ねば今でも通夜をするが、墳墓に埋葬した場合は其の横に親族が添い寝する形で通夜
をしたり、或いは直ぐに埋葬せずに墳墓の近くに仮の家を作って親族が居つき、一定期間遺骸を安置して親族縁者が
弔いに訪れる場を設けた(モノマサを参照)。其れを殯(もがり)屋と言う。

此処から今でも尊属卑属に応じて一年とか一ヶ月の服喪期間を置き、其れが過ぎた時を「喪が明けた」と言う。因みに
天武天皇の殯(もがり)は三年弱の長期に及んだ。

◆もき・・・・・・
◆もく・・・・・・
◆もけ・・・・・・

◆もこ・・・・・・
◆もさ・・・・・・

モザンビーク悪循環・・・・・・・モザンビークはかつてポルトガルの植民地だった。反共のポルトガル植民地軍に
よって村が襲撃された後、村人が反政府ゲリラと化した。やがて独立してモザンビークとなったが、レナモと言う反政府
ゲリラ組織が出来て、此処から対立の悪循環が始まった。モザンビークは東西冷戦時代には東側に居た。

ジンバブエと南アフリカが容共と反共と言う立場で別々に援助した。つまり代理戦争である。特にアパルトヘイトの南ア
は米国の「反共の砦」であり、密かにレナモへの支援も強化された。スーダンでは村の焼き討ち事件があったが、モザ
ンビークのムエダ村の事件もアフリカ人同士の虐殺だった。

やがて干ばつと戦争で子供兵が活躍する国となった。子供たちは安上がりの消耗品として6歳で誘拐され、少年兵にさ
れた。モザンビークはやがて西側に接近し、西からの援助が始まった。1990年にモザンビーク内戦は終わったが、反
政府ゲリラの八割が子供兵であり、言わば「子供たちの戦争」になっている(以上、05/7/24NHK総合TVより引用)。

子供兵がやがて大人になっても罪を犯した過去の悪夢を忘れる事が出来ない。トラウマもカルマも消えずまた繰り返
す。此処には昔からキリスト教の布教が進み、今も博愛的な援助が続けられているが、村は更に不幸が続き極貧とな
った。今までかかってもキリスト教ではこの矛盾と悪循環から救えない事がハッキリしている。

◆もし・・・・・・

文字・・・・・・日本の神代文字(じんだい文字を参照)やペトログラフ(聖、神官文字)など、世界の古文字は天体観
測により得た天神の印だった。つまり祭の時期・方位を示すための祭りの順番や場を示す厳格なものでした。それに
対して現代使われている文字は他人と約束し、他人を支配し、管理する文字である。

クレタやギリシャ文字や甲骨の場合も観測の場の方位や天体の兆を印す指事文字と象形文字が基本であり、これは
実に簡単明瞭なものだった。そうした神代の和字・カタカナなどを組み合わせて複雑怪奇にしたのが隷書や漢字である
が、此れは無論時代が下って漢の時代以後、律令を徹底し、人民管理を強めるための文字にしたもの。

権威のある文字信仰を逆手にとって悪用したのです。日本には古くから神代、和字、国字があったのだが、聖徳太子
が其れに代って漢字を採用した。神事の文字を俗事に利用する愚を避けたのでしょうが、其の事を先代旧事本紀(別
項参照)に記している。

所が無知な学者がシナの「説文解字」を信奉して物事を逆に考えて「文字は渡来した」と言う固定観念で教えるので問
題の根が深い(仮名を参照)。文字は象形から出て表意・表音に「進歩した」、と講釈すれば益々広く誤解を植え付け
る。こうして終に本当の事を何も分らなくしてしまった。

◆もす・・・・・・
◆もせ・・・・・・

モーゼ・・・・・・・紀元前13cのユダヤの指導者。旧約「出エジプト」と「モーゼの十戒」で有名。竹之内文書にはモーゼ
が来日したと記録している。また石川県山崎町にモーゼと夫人、其れに孫の古墳が有る(06/5/21の19ch大阪放送TV
「田舎へ泊ろう」で放映)。

◆もそ・・・・・・

◆もた・・・・・・
◆もち・・・・・・
◆もつ・・・・・・

◆木簡・・・・・・木札に文字を書いたもの。木簡の由来は墓地に木串を刺して命日を確定するため天文観測した事によ
る。其処に糸を巻きつけたので今でも人形(形代)や卒塔婆は人の形や五大と言う独特の切込みを入れる(「串」を参
照)。供物にも荷札のように木簡をつけた。納税に際しても付けた。

今発掘される中で一番多いのが其の新しいものである。シナでは文字を甲骨やこうした竹簡や木簡、或いは絹に印し
て来た。紙が出現したのは1c頃である。

勿体ない・・・・・・昔気質の日本人なら誰でも言った言葉。ただ戦後、欧米型のマスプロ・マスセール浪費を「美徳」と
する時代となった為、「勿体無い」とか「節約・倹約」は浪費に矛盾するので「時代遅れ」のレッテルを貼って排斥した。
だが愛知万博に招かれたマータイさんが此の名言をまた復活させた。「勿体無い」はケチと同義ではない。

人が仏心から「物の命を全うさせたい」と思って大切に扱う事である。其の思いやりが物を長持ちさせ、結果として節約
になるが、其れを誤解してケチと見られる事もある。だがケチは仏心ではなくて打算から出し惜しみする欲心であるか
ら、見習う必要はないものである。

「勿体ない」と思う心が情緒を育み物を生かし、ゴミを出さないように工夫する事となる。其処から豊かな知性と知恵を
育み、或いは産業創出のエネルギーとなる。日本は資源が少ない国と言われる。とすれば大陸型の今の浪費性向は
日本には馴染まない。

此れまでの「消費は美徳」と言うキャッチフレーズは商業主義のプロパガンダであり、もしくは単なる商業主義ではなくて
間接侵略であり、亡国的であったと気づくべきである。

◆もて・・・・・・
◆もと・・・・・・

元伊勢・・・・・・垂仁天皇時代に倭姫命が近畿各地を巡幸して伊勢神宮を創設するまでの経緯が「倭姫命世記」に
記録されている。其れに拠れば先ず1、倭国の笠縫邑、2、但波の吉佐宮、3は倭国の伊豆加志本宮、4が木乃国の
奈久佐濱宮、5が吉備国の名方濱宮である。

6番目に倭国の弥和乃御室嶺上宮、7が大和国の宇多秋志野宮、8が大和国の佐々波多宮、9が伊賀国の隠市守
宮、そして10番目が伊賀国の穴穂宮、11が伊賀国の敢都美恵宮、12が淡海国の甲可日雲宮、13が淡海国の坂田
宮、14が美濃国の伊久良河宮である。

また15が尾張国の中嶋宮、16が伊勢国の桑名野代宮、17が伊勢国の奈具波志忍山宮、18が伊勢国の阿佐加藤
方片樋宮、19が伊勢国の飯野高宮、20が伊勢国の佐々牟江宮、21が伊勢国の伊蘇宮、22が伊勢国の大河之瀧
原宮、23が伊勢国の矢田宮となっている。

そして24が伊勢国の家田田上宮、そして25番目にやっと伊勢国の五十鈴宮、つまり今の伊勢神宮内宮に辿り着い
た。無論これ以外のコースも有って、上記の他にも10ヶ所以上の「元伊勢」があると言われる。其れは例えば時代がも
っと下った雄略天皇の時代に外宮が出来たが、其の由来に纏わる元伊勢である。

其のときは丹後の奈具社に祭られていた宇迦乃売を勧請した。或いは近くのヒジ(比沼)の真奈井からとも言われる。


◆もな・・・・・・

モナリザ・・・・・・ダビンチの傑作。娼婦か妊婦のような、謎めいた微笑の女性の絵である。ラテン語ではMona Lisaで
リサ夫人を意味する。モデルはフィレンツェの貴族の妻・リサの肖像画で1503-6年頃に描かれた。現在はルーブル美
術館蔵(コンサイス外来語辞典・三省堂)。

また08/01/15のNHK総合TVによれば、モデルの女性は最近、イザベル・ジュンドであるとする1503年の記録を見つけ
たと云う。彼女はダビンチの近所の二階の住人だった。ダビンチは其の後、晩年にフランスに亡命したが、其れでも売
らずに最後の一枚として残した。其れほどに理想の女性であったとも言われる。

モノカネ主義・・・・・・心よりもモノカネを第一にする幼稚な観念。シナなどの月を祭る地域、つまり月世界は古来
モノカネ主義社会であったが、米国などの近代物質文明も同じ月の化け物(モノカネ主義)です。例え其れが共産主義
とか資本主義とか言っても、本質は数値主義の打算か「数の論理」社会であって、実に危うい。

例えば生産管理と数値管理に徹した結果旧ソ連は崩壊した。其処で日本人は「資本主義が勝った」と思っているが、経
済大国の日米とも巨大債務を抱えて正に崩壊寸前である。米国は双子の赤字でドル垂れ流しであり、其れを買い込む
日本も1000兆円の赤字国債を出して更に増え続けている始末であり、其れをまた中国が後を追っている。

日本は戦後60年、モノカネ万能主義に染まった。だが数千年の歴史上、こうした価値観は異常な観念であって瞬間風
速に等しく、例えばモノカネ万能主義は万能ではなくて無能であり、物心共にゴミを増やしただけの有害無益な価値観
であると人々が気づいた時点で早晩消滅して別の価値観に激変する運命にある。

モノ作り・・・・・・日本人の特質はモノづくりではなく、物を作ったりゴミを作らない工夫をする、簡素な暮らしが基本
だった。ですから各種の職人が各地で活躍して世界一の高い技術を持って各々職人気質を伝えた。だが戦後はすり替
えが行われた。

日本人は器用な民族であるとし、また日本は資源小国だから貿易立国しか生きる道が無いとしてモノづくりに励んで来
た。確かに経済成長を果たしました。けれどもバブルが崩壊し、今は「世界の工場」が中国になってしまった。シナは古
来、「偽物天国」であり、日本人よりも手先が器用である。つまり今までの日本のモノづくりの固定観念はウソがあった。

ホントのモノ作り、職人気質ではなくてソロバンに血道を上げて作るモノヅクリにしたのです。職人気質ではなくてモラル
ハザードとしました。例えば半永久とされた多数の建造物が阪神大震災では脆くも倒壊したが、其の責任を建設関係
者は負っていないし責任すら感じていない。災害の都度、彼らは「此れは天災だから仕方がない」と逃げる。

天災の大部分は人災が被害とした事実から逃げるのです(防災を参照)。此れでは「物作り」として失格であり、極論す
れば犯罪人であるのに、無反省で今も作り続けています。また渡来の技術を「舶来は良い」との思い込みで商品化した
のが回転ドアでした。回転ドアは軽量化が安全化でした。所が業者はミテクレと強度を改良と誤解して重量化した。

よって30年間も事故が続いたのに小手先の付加設計を積み重ねて来た結果として死亡事故を起こした。また三菱自
動車では次々と欠陥が露呈した。ジープ式の車ではもうどうしようもない所に来ました。或いは最先端である筈の原子
炉でも事故が多発している。関電美浜死亡事故では原子炉の点検を28年間もしていなかった事が分かった。

技術者が多数いても全員が無反省です。誰かが原因を追求しても、関係者は誰もが「私は悪くない」と思い込み、逃げ
るばかりです。譬え犯人を捕まえる事があっても、其れで刑事事件が済むだけに過ぎない。其れで問題が解決した事
にはならないのだ。

原因を調査する義務とか、責任を感じて改善すると言う職人気質をなくしている事と、環境破壊と公害を未解決で輸出
に励むような通産振興・企業・工業・事業主義による「物作り」を日本はもう止めるべきです。為替差益スレスレのソロ
バン勘定で外国に出血サービスするような下手な商売(無理な輸出)をもうストップすべきです。

▲モノマサ・・・・・・・尸(死者)を弔うために喪に服する人。其のモノマサを尸者とも書いた(「尸=シ」を参照)。

◆もは・・・・・・
◆もひ・・・・・・

モヒトリ(水取り)・・・・・・モヒトリ、またはモンド(主水)とも言う職種の事で、古には太陽観測の場の事でした。即ち
水平・水準器を言ったが、後には其れを司る役職名となった。モヒトリとはヒモロギ(別項参照)の場で水面(ミナモ)を見
る事であり、「ミナモで日取り」する行為だった(図説を参照)。

地上や水平面に見柱を立てて、日影の角度を観測して方位を測って季節を調べ、暦を割り出して日取りを決めた事で
した。そのために「日を貰う」のでヒモロギとも言ったと推定できる。だが今ではヒモロギとは榊の飾り物と誤解・解釈さ
れた上で神社の常備品になっている。

其の誤解を解くために言えば、ミナモを作るには田んぼがあれば良い(鍋蓋を参照)のですが、山頂などで田んぼがな
い所では壇を作らなければミナモを見られない(「山」を参照)。其処で「水垣」と言うタライのような木枠を設えた。

其れが今「瑞垣」と言う言葉に残っているが、漢字でそう書いてあっては正しく理解できる人がなく、此れも「神社の石
垣」と誤解されている。其処で字義にまで触れねばならない。古和字の断片(モヒトリの部品)を漢字でも流用して今も
使っているケースでは例えば鍋蓋(⊥、「鍋蓋」、「モヒトリ」を参照)がある。

此れは鍋の蓋ではなくて、地上に立てた見柱をリアルに図示した象形であり、言わばモヒトリの立面図です。次に、モヒ
トリの平面図に相当するのが水田の「田」の字や「囲」の字であり、此の「田」の字は○に十文字でも良かった。○は円
壇、つまりタライであり、其れに対して方形の木枠を「田」の字とした。

断って置くが、此処で言う水田(モヒトリ)と稲作の田んぼとは別物である。所で、シナの礼記・「周牌算経」にも当時のこ
うした太陽観測の記事が残っているが、今では幼稚な数学や昔の天文学と誤解されて顧みられる事もない(水の字義
を参照)。

ともあれ、その後のモヒトリ職は、延喜時代には氷室が畿内だけで数百箇所に及び、中でも山城の国にはその大半が
有ったが、この時代は氷室守りを兼ね、やがて江戸時代には稲作の田んぼの利水・水利役人の世襲的な役職名に変
化した。其の例が、テレビで藤田まことがドラマで演じる「中村主水」である。

またこの種の姓には水守(水森)と言う苗字もある。

◆もふ・・・・・・

喪服・・・・・・喪中に着る服。薄墨色・墨色のものを用いる。藤衣。喪衣。凶服。ただ昔から一般の喪服は素衣・白衣
だった。または墨染め、中世以来も男が麻上下(かみしも)、女が白無垢と決まっていた。今でも遺体を白衣・白装束に
包み「死に装束」と言います(因みに伊勢神宮も昔から白木造り)。其れに対して祝い・祭り・晴れ着が黒衣でした。

所が今の喪服は黒いモーニングが常識です。では喪服は白か黒か。その由来は、白を黒とし、黒を白とするペテンが
あった。ハッキリ白黒に決着を着けたのが明治31/1月、英照皇太后の葬儀であり、明治天皇が一転、黒衣とした事
による。

彼女は第121代孝明天皇・夫人(九条夙あさ子)だった(新人物往来社「歴史読本」05/12月号で小田部雄次教授)。
旧幕時代の終焉に際し、其れを祝ったかのように国際化とか外圧利用で新政府が日本の伝統風俗を逆転させた事に
なる。でも何故「喪服」をイブニング・ドレス(夜会服)ではなくてモーニングにしたのか。

モーニングとは朝であり、寝巻きであるが、其れを日本は喪服としたのです。不思議なのは朝を晩とした頭の構造で
す。そうした事から今でも混乱が見られる。例えば、「黒は喪を表す色なので、祝いの席に黒服着用は避けたい」と言い
ます。ただ今はあんまり難しく考えずに今は他人と同じにしていれば良いのです。

今でも白は死に装束です。白は忌籠りの礼装でした。其れに対して黒装束は祝いの儀礼の服装でした。其れが明治に
なって何もかにも逆転した。仏教国から神道国になり、月の暦から西暦というカトリック暦となりました。戦争は其れまで
武士だけがしたのですが、明治からは国民皆兵へと進化しました。このように常識はその時の都合で変わるのです。

◆もへ・・・・・・
◆もほ・・・・・・

◆もま・・・・・・
◆もみ・・・・・・
◆もむ・・・・・・

◆もめ・・・・・・
◆もも・・・・・・
◆百・・・・・・

●桃太郎・・・・・・各地に桃太郎伝説があるが、例えば岡山はウラ伝説と吉備団子、木曽川沿いの犬山市は春の犬山
祭りのカラクリ人形で知られ、桃太郎神社もある。


◆もや・・・・・・

◆もゆ・・・・・・
◆もよ・・・・・・

◆もら・・・・・・

モラル・ハザード・・・・・・・・・近年の日本はモラルの低下が著しいので、此れをモラルハザード社会として話題にす
るようになった。例えば教育の問題、或いは警察の実態である。日本の警察はかつて「世界一」の定評があったが、今
は「警察の裏は闇」と言われる程に逆転した。

検挙率は20%以下に低下し、拳銃の摘発の90%も全国的にヤラセと言う呆れた実態が分かった。そうしたのは検挙
率に拘わらず自動的に予算が増えて行くシステムにあるからだが、更なる問題は業務の幾分かが裏金作りに費やされ
ていた事である。例えば全国の警察では報奨金80億円の偽領収書を作っていて、其れが幹部のポケットに入った。

そのため警察官全員がその犯罪者になっている(朝日テレビ2003/11/23)。警察以外では04年には三菱自動車と関電
美浜事故、05年には大阪市が役所ぐるみで巨額の闇手当てを支給していた事が暴露したし、その後にはJR尼崎の
列車事故となった。利益のためエゴのため、公共の場でもモラルが消されて犯罪者集団に走る時代です。

(ドイツ)・・・・・・日本は国土の70%が森林ですが、ドイツは30%の森の国です。でもベルリンでもウイーンでも街
の半分は森に覆われています。但し日本のような原始林はなくて全て人工林です。ドイツは30年戦争の結果、森を全
滅させました。ヨーロッパ全体が其れへの反省から植樹したり森を大切にしている。

ただ日本で言えばサハリンと同じ緯度なので中々育たない。特にポプラは群立しないので森はブナが作る。パリの街
路にも見事なプラタナス通りが堂々と広がっているが、日本人は落ち葉にも苦情を言う人があるので問題です。森や自
然が昔から有って当たり前ではなくて、人間がその気になって苦労して努力して育てて守らなければ存在しない。

今の日本人は「森は暗く寂しく怖い」と思っているが、ドイツではグリム童話のように子供が放置されていても暖かく守ら
れる安心な所と思われている。此処に意識の違いが見られる(日本でも昔は森の恵みに感謝し、安心出来る所でし
た)。有名な「黒い森」も、其処を何日も掛けて散歩するのがドイツ人の憧れである。

木造の家もドイツでは一番贅沢である(06/2/1NHKラジオ深夜便より)

盛り塩・・・・・・・・・門口や店先に左右一対の塩を積むこと。日本では古来、塩を神に奉げた。今でも神棚には洗米、
塩、水、酒をワンセットで供えます。塩には祓いの意味がありました。塩を扱う人々を神代には猿田彦とか塩土の爺と
呼んだ。以来、神に祈る時には人は代償として塩を捧げた(塩を参照)。

中東からローマに其の意味が伝わって彼の地では塩からサラリー(俸給)の言葉となった。つまり支払である。同時に
祓い・支払いの意味があった。サラミとかサラダもその流れ。だが中国の場合は、客の足を止めるための縁起ものと
理解されている。昔々、中国の皇帝の寵愛を望んだ美妃が一計を案じた。

それは、皇帝を乗せた牛車が家の前に止まるように、通る時刻を見計らって、門前に牛の好物の塩を盛って置いた事
による。其処から、客寄せの意味となった。所が日本の場合の盛り塩は客寄せとは逆にハライ、つまり嫌な客を寄せ付
けない為、或いは直前で追い払うためである。

森の経済・・・・・・日本人は歴史的に世界一古くから森の住人として暮らして来たので森との付き合い方が旨い。
例えば木匠たくみたちは木材にホゾを付けて建造物を組み上げて法隆寺のような千年持つ建物を完成したり、大型構造
船を造っていた。造船所が海ではなくて当時は山にあったのです。

或いは再生産可能な資源である木材を炭化させて燃料とするため、山に製鉄所を造った(刃物を参照)。山の中には
今でも炭焼きの跡が無数にある。シナが陶磁器の国としてチャイナと言われたのに対して、森と湿気の多い日本は漆
(ウルシ)が特産品でしたからジャパン(黄金・ウルシ)と言われるようになった。

ウルシの食器を作るには木を先ず木地師が加工するので、江戸時代は3000万人の人口に対して6万人もの木地師
がいたと言われる。日本経済をこれまで支えて来たのは其の基本に森があったからです。しかし現在は1.2億人もい
るのに、林業人口が全体でも6万人しかいなくなった。

森では暮らしが成り立たない経済にしてしまったのです。森は狩猟を支え、漁民を支え、野の作物栽培を支えて来まし
た。家の周りを10分ほど歩けばキノコも一杯採れました。それだけ腐葉土があったのです。大国主命や少彦名命が薬
草を研究し、また秦の時代に徐福が仙薬を求めてやって来たくらい薬草や山野草も多種多様でした。

其れは落ち葉が木を育て、虫を育てて、その虫がまた土を作ると言う循環が活発だったからです。土が基本である事
を日本人は知って大切にして来ました。これは肥料を施す事ではなく、肥料を撒かない工夫をした自然・無農薬の農法
です。土から生まれたものは譬え人間が死んでも土に戻すと言う観念でした。

陸地があっても土がなければ木は育たず、また木がなければ森が出来ず、森がなければ虫も魚も育たない事を知って
いる生物経済学でした。森がなければ水不足となる事を知る自然科学でした。水がなければ文明は滅びます。でも土
と言う基本がなければ水も得られないのです(「木」を参照)。

「森は静かである」と言えば文学的な表現になりますが、実際の所、静かな森は人口植林によって死んだ山である。普
通の広葉樹の森は小鳥やセミや虫が囀って煩いくらいだ。夜は静かになるかと言えば寧ろもっと騒がしくなる。虫が鳴
き、鳥たちが騒ぎ、フクロウが鳴き、獣たちが走り回る。昼間よりも賑やかになるのです。

今はただ森林経営が成り立たない。其れは人工植林の失敗に加えて人件費アップと安い外材とのダブルパンチによる
ためです。でももう少し耐える気持ちがあれば復活する。外材はコンパネなど建築材として輸入しているが、例えば★
今吾々が消費している1/4のコピー用紙も南洋材であり、インドネシアの場合、不法伐採が70〜80%と言われる。

象たちが森を追われて今は民家を襲撃するようになった。日本人が買い捲るし政府が其れを改善する力がないため、
此の流れが止まらない(★以下は06/4/30のNHK総合TVより引用)。ドルは今堅調ではあるものの、何れ暴落して円
も暴落すれば外材は入って来ない。其の時にやっとインドネシアも日本の森林経済も農業も漁業も復活するだろう。

の再生・・・・・・山が荒廃している。でも荒廃した山に植林すれば森が再生すると思うのは誤解であるが、其の誤
解が今の日本では多数を占めるから問題である。其の間違いも日本国内では例外的に一部は通用するが、此れも酸
性雨が続けば無意味となります。しかも酸性雨さえ降らない砂漠では人工植林しても無駄である。

その誤解が続く限り「砂漠の緑化」のためにボランティアや資金を集める団体が増えたり存続出来ようけれども、砂漠
には雨が降らない以上、失敗が目に見えているのだから杜撰な思い付きで計画すれば失敗を見るだけではなくて詐欺
行為になるだろう。その上、誰かが植えれば他の誰かが其れを盗むと言う地域では植林は「焼け石に水」だ。

人が森の再生などに夢を懸けたり手を貸すよりも自然のままにして置いた方が旨く行く。寧ろホッタラカシにした方が再
生する。人間たちが要らぬお節介を焼くよりも、樹木たちの自然の力を信じて任せて置けば、彼らが自力で再生するも
のです。

例えば三宅島は05年で噴火から八年経って見ると木は枯れていた。だが人間たちより一足早くアカコッコやオースト
ン・ヤマガラが戻って来ていて、木の実を食べてその種だけを島に撒き散らしていた。樹種もである。其れに、70年前
に消えていた湯の峰シダが再生し、一面に広がっていたのです。

このように森は生き物たちが種を蒔き、広げて来たのです。また其れに答えて樹木や雑草たちが思い思いに枝葉を伸
ばして広がる。ですから森の再生のためには邪魔になる人類は、いないほうが良いと分かります。植林よりも実は山火
事の方が森を再生する力になる。と言えば気違いと言われるだろうか。

灰は肥料になり、炭も空気を蓄え、微生物の活動を促すのですが・・・・・(「酸性雨」「森林火災」を参照)。森は人類から
収奪する事はなかったが、人類の特に西欧文明は森からも海からも収奪する事ばかりして来ました。収奪のための再
生では困る。

森の文化・・・・・・西洋文明は木を切る行為を「開発」と言い、耕す行為を「カルチャー」と言うが、日本文化は木を
育てる文化でした。太古にはスサノヲの尊が髭を抜いて杉檜を作ったとか、船や用材のために木がなくては困るだろう
と心配して、新羅にいた神子のイタケル(五十猛)に命じて色んな樹種を持ち帰らせた。

筑紫や木の国から始めて他の神子たちにも協力させて大八洲に植え始めさせたと言われ、紀州には植林の神としてイ
タケル神社に祭られている。日本は火山国であり、何度も焼け野原になったので豊かな森も何度か滅びた。其の経験
を元に日本は神代から世界一、自然保護でも先進国でした。また幸いにして雨が降るので回復が早い。

こうした神話と共に、日本は今でも天皇陛下が各地に招かれて植樹祭を行うので農林業者は植樹に熱心である。だが
古来和人が守り通して来た自然林に対して、稲作民が平野から今では山にまで侵出して、其れまでの自然林を潰して
商品作物としての単一種の人工林を広げたのが間違いだった。

日本の山は、渡来した稲作民の知恵ではなくて山の民の知恵が山を守って来たのです。土から生まれた産物は、また
土に戻す。死者もまた土に返して土を作って行く文化が日本人の心でした。土を失えば森がなくなり、豊かな森がなけ
れば魚も育たないし、水を作る森がなければ水田も出来ませんでした。

こうした自然循環はかつての日本人なら誰でも知っている法則(因果律)でした。今の経済は全て都会が支配している
ように見えるが、其処では消費しているだけである。実は水も空気も土も、山村漁村が都会の人たちを養っているので
ある。日本は国土の70%を占める森林で養われているが、其れが近年益々荒れている。

水と空気だけを見ても、其れは都会ではなくて森で作られているのだ。日本で森を育てている土は、他国の土と比べる
と10倍の人口を養える上質な土である(この項目の大半は、NHKラジオ第一、04/6/17、日本福祉大学・富山和
子さんの談話から引用した)。

森の恵み・・・・・・日本は島国であり山国だから山間僻地が多いが、其処には決まって緑が多いし、川や海があ
る。また此れまで国土開発が盛んに行われて、各地に公園や緑地も作られて来たため緑が豊かです。しかし都市部の
緑は「あって当然」ではなくて守ろうとする努力なしには存在しない。

其の点、工業化社会の無機質な都市文明に漬かっていては自然を誤解します。機械には詳しくても自然に無理解な人
たちはお花畑のような緑があれば「自然がある」と満足する。また其の傍らでは隣家で植木の葉が繁れば「邪魔だ」と
言い、或いは木の葉が飛んでくれば「ゴミだ」と誤解し拒否します。

こうした無理解が増えるため都会の緑が益々減少して行きます。彼らも緑は好きだが、鉢植えの植木にしか親しめな
い狭量な観念です。鉢植えでも虫は同居します。虫や鳥と同居してこそ自然界は循環しているのですが、花や植木にア
リや蜂が来ても許せず大騒ぎして殺虫剤を撒き散らす。

こうした人種が「自然大好き」と言ったり、街づくりに参加していれば、其れが偽善的な自然派指向ですから其れに振り
回された社会はおかしくなって行く。結果として都市部の樹木は益々伐られて緑のない、コンクリート・ジャングルとアス
ファルトで埋め尽くされたが、此れが良い事だったのか。

町では森の恵みを味わえない。ただゼニカネにだけ群がる人が仕事に集まるだけで誰もその町へ観光目的では来な
い所としたのです。所で、同じような島国・山国であるハワイ(別項参照)やニュージーランドは果たして緑が多く、大木
があるだろうか。有るのは不自然な緑や草木であろう。

熱帯雨林の南洋諸島や南米大陸なら兎も角、中緯度の地域にはハゲ山ばかりであって、努力なしには緑が育たない。
ゼニカネに群がるだけで、緑への関心と努力がなければ太古の森は守れない。中東やアフリカには牧畜が行われてい
る。其処には草原があっても森がないから牧畜しか出来ないのだが、日本人の中には其れを真似るヤカラが有った。

素晴らしい立体的な森があったのを刈り取って平べったい牧草地やゴルフ場にして「開発」と言う馬鹿者が後を断たな
かった。こんな方々が都会に多くては日本で緑は守れない。其の点、諸外国では度重なる戦乱で山の緑を失った苦い
経験があるから緑を重視する。

大陸のように土地が広い所でも、近くに水がなければ山火事も消せず、其処は再び緑の森になる事はなかった。其れ
に気付いた人が仮に植林しても、直ぐに別の人が盗んで薪にしてしまうのが普通です。其の点、かつての日本には「山
の神は只では返さない」との教えが有った。

海や川は冷たく危険だが、山は森を訪れる者に豊かな恵みを賜って来たからです。山は人だけではなくて虫やケモノに
も、更には川や海にまで恵みを垂れて豊かな魚介類と海産物まで養って来ました。日本は国土が狭い山国ですが、そ
の山には立体的な緑が大容量で積み上げられて来ました。

所が渡来の大陸式・洋式農法は天まで有った其の豊かで立体的な緑を「薄暗い所」と感じたのか、「開墾」とか「開発」
と称する愚法で刈り取って全く平面的な農耕地に変えてしまったのみならず、次には商品価値のある植林や造林にま
で手を広げて国民から森の恵みを奪った。無論、先の牧場やゴルフ場にもしました。

次に彼らは化学肥料と農薬漬で土壌を汚染して来た。不自然な渡来の農法では日本で失敗の連続となって当然でし
た。だから今は儲からなくなった農業に見切りをつけて其処に住宅を建てている。住宅地が各地にスプロール化してし
まったが、住宅もまた環境破壊と森林破壊の側にある(「土の神秘」を参照)。

◆もる・・・・・・
◆もれ・・・・・・
◆もろ・・・・・・


◆もん・・・・・・

●門・・・・・・・門は、家の入り口に付けて、人の出入りを止めたり開いたりするための扉を付けたものである。と説明さ
れて来たが果たしてどうか。しかも此の形を象形文字であると言う定説は何の根拠もない誤解である。門の字は観音
開きの今風のドアがない時代から有った。つまり其れで説明してはならないのである。

ではなくて、二本柱の上に日(太陽)を掲げた形になっている。つまり鳥居と同様、日の出入りや太陽の動きを計るため
の目安として立てたものである(「角・門」、「鳥居」、「ミカド」を参照)。人が南面した場合に、左から日が昇って右に沈
む。其れを観測する門として南大門や羅生門が都の南に設置された。

寺院の伽藍も同様の意味から門が付けられて寺門とか山門と言い、其の前を門前と言った。ですから無論、東洋の場
合は、泥棒よけとか人の出入りの監視のためでも有りませんでした。

モンゴル・・・・・・・・モンゴルとは「勇敢で鼻息の荒い人」の意味。馬も鼻息が荒い。馬や牛を放牧して暮らして来た
が日本には元寇としてやって来て二度失敗した。今は外蒙古にある社会主義国(モンゴル人民共和国)。首都はウラン
バートル。清朝の支配下では辛亥革命に乗じて1911年に独立しようとしたが失敗。

21年にロシア帝政派の自衛軍に占領された。24年に共和制を宣言。住民の大部分がラマ教徒。通貨はトグリク。但し
中国の支配地のモンゴルもある。内モンゴルと新疆(シンチャン)ウイグル自治区、其れにチベット自治区である。新疆はト
ルコ系ウイグル族でイスラム教徒である。チベット自治区は農耕と放牧でラマ教を信仰する。

チベットではヤクと羊の乳でバターを作り、茶に溶かして飲む。此れは体を温める。またツァンパと言う乳製品を主食に
する。茶は500kmほど離れた東隣の雲南から運ばれる。雲南は茶の原産地です。今もハギ族が暮らしている。砂漠地
帯では天山山脈が水源地である。

トルファンではカレーズと言う水汲みの仕組みを使っている(07/3/12NHK教育TVより引用)。
★遊牧民のモンゴルが伝統的に使って来た円形組立て住居がゲル(パオとも言う)であり、此れは簡単にバラして荷車
一台に積んで移動出来るので作業が楽であり、しかも、屋根の骨組みは何本もの槍に早変わりする。

そして再び1時間で再設置出来るので機動的で行動が早くなり、このため13cに彼らは騎馬民族として世界最大のモ
ンゴル帝国を築き上げたと言われる。彼らはチームワークが良いが、大帝国を作った強さの秘密がゲルであった。

さてモンゴリアンには苗字が無いので長い名前を持つ。常食は遊牧で連れて歩く羊の肉とチーズ、其れにボーズと呼ぶ
肉饅頭や牛乳のような塩湯をお茶のように飲む。そして伝統的な楽器が馬頭琴である。モンゴルではナーダムと言う祭
りがある。此れは子供たちが行う競馬である。其れに彼らの弓は75m(和弓は15m程度だが)先の的を射抜く。

そして彼らの日常の楽しみがモンゴル相撲であり、此れはチンギス・ハーンが広めたと言われる。日本の相撲は先ず
土地の神を鎮めるために四股を踏むが、彼らは相撲の前後にザソールと呼ぶ舞を行う。此れは両手を挙げて行司の
周りを鷹の様にして回る事である。

そして日本では丸い土俵の中で裸で褌一本でするが、彼らは広い野原で腕カバーとパンツとモンゴル靴で時間制限な
しで闘う。さてテムジンは皇帝となってジンギスカン(ハーン)と名乗った。彼はナイマンなど、アジアの半分を彼の五族
で支配した。中でもゲルによる千人隊(千戸制)を各地に派遣し配置したが1227年に死去した。

その後を息子のオゴタイハーンが継いだ。オゴタイは金を滅ぼしてカラコルムに首都を造った。また西アジアのアッバ
ース朝を滅ぼして1241年にはトルコに至るまでの広大な地域を支配した。1260年、孫のフビライハーンが東方を支配
した。

オゴタイハンの時はモンゴルの首都がカラコルムだったが、三代目のクビライ(フビライ)は砂漠と草原の地から海岸部
に近い大都に都を移し替えて全長30kmの都を造り元を建国した。其れが今の北京である。モンゴリアンには魚を食
べる習慣はないのに彼は何故か大都の中心部に態々湖を作った。

クビライは海までの50kmに運河を掘り、5km毎に水位差を調節する水門を作って高低差38mを克服して舟をこの
湖まで入れた。長江の産物を華北にまで運河を造って運んだのだ。そして1279年に南宋を滅ぼしてシナ全土を支配
した。南宋で手に入れたジャンク船(全長24m)を使って東南アジアの香木やインドの胡椒、アラビアの乳香を集めた。

このため銀貨を作って交易を広げて「海の道」を作って益々栄えた。広大な地域をオゴタイ、キプチャプ、イルハン、な
ど数区域に分けて支配した。しかも彼はアフリカまで描いた世界地図を作っていた。つまり大都の湖は世界との交易港
になった。無論、臨安、泉州、広州を外港として海外貿易をした。

またベトナム、インドネシア、日本(二度の元寇)に遠征したが失敗した。彼は人種や宗教を問わず能力主義で登用し
た。主な顔ぶれとして「東方見聞録」を書いたイタリア人のマルコポーロがある。其れに銀山を開発したアラブ人のサイ
ード・アッジャル、或いは暦家として郭守敬がいた。

クビライは「王の中の王」として、特に正月の儀式を盛大に行ったが、広大な新興帝国を纏めたのは能力主義であっ
た。彼は遺書に「力尽くで平らげるのではなく、差別せずに各々の人種や宗教、或いは各々の能力を認めて行くよう
に」と書き残していた(05/7/10の「世界不思議発見」より引用)。

しかし現実には14cに内紛があり、チベット寺院の造立のために財政が困難となり、加えて打ち続く天災により1351
〜1366の紅巾の乱や反乱により、1383年には元を捨ててモンゴルに去って行った。原因は人口の1%のモンゴル
人第一主義にあった。

人口の85%を占めた漢民族を身分制度の第三階級に落として支配したため反感を買い、やがて漢民族の明の時代
を迎えたと言われる(★以下は05/12/1のNHK教育TVより引用)。

もんじゅ・・・・・・・・・旧動燃時代の95/12/8に試運転中、高温の流体ナトリウム700kgが3時間も漏れ出して燃え
続ける火災となったが、ビデオの隠蔽や科学技術庁への虚偽報告が発覚した。其の後の04年には関電が美浜原発
で死亡事故を起こしたが次々と嘘で固めた発表をして其れが悉く嘘と判明して社会問題となった。

私企業にも劣る関電のような悪質な所に独占的な営利活動を許し、怠慢・巨悪を今後も続けさせるのは問題であり、
即刻潰さなければ危険だろう。特に今回は不可抗力ではないし、この先も計り知れない被害を出すと見られる以上、其
存在自体が社会の害毒なのである(「原発」、「核融合と核燃料サイクル」を参照)。

関電が利益優先で安全無視の人災を出した事から、福井県知事は8/12、「もんじゅ」とプルサーマル計画の一時凍
結を示唆した(「プルサーマル」を参照)。04/8/28、関電は幹部7人を減給処分とした。しかも05/2/27、西川
知事は新幹線の「駅1つ」と引き換えに「もんじゅ」の再開(改造工事)を了解した。こんなんで良いのか。


モンスーン・・・・・・・アラビア語の季節風の事。季節によって気圧配置が変わる。例えば夏は海洋から陸地へ向って
吹き、冬は陸地から海洋へ吹くものとなる。季節風は毎年、季節によって風向きが変わるので帆船の航海に利用され
た。東南アジアの場合は、インドから朝鮮にかけて陸地を蛇行する。

このモンスーン地帯の場合、農業では稲作に利用された。インドシナやシナ大陸は平野部が広いが、インドネシアや台
湾のように山谷の多い諸島部でも稲作適地であるのは、このモンスーンがあるため。

モンサン・ミシェル寺院(修道院)・・・・・・・天使ミカエルの山と言われるフランスの小島で、古城を寺院にしたものと
思われる。古い寺院と17cの修道院(世界遺産)がある。12c以来800年前から信仰が続く海の干潟の中に浮かぶ小
島。ただ其の干潟も僅か1時間で水深15mの海に浮かぶ小島に一変する神秘的な自然が見られる所。

8cオベール司教の時に天使ミカエルによる啓示で建設が始まった。此処は花崗岩の山で出来ていた。修道士たちは
此処で天文・数学・医学を学んだ。城の中には天文観測をしたかのような美しい方形の中庭(大回廊)があり、此処は
中世には薬草園になっていた。以来、目の見えなくなった女性が訪れボーボワールと叫んだ。

ボーボワールとは「素晴らしく良く見える」と言う意味。以来、天使ミカエルの奇跡が続き多くの巡礼者が訪れている。此
の美しい干潟も此の周辺の景色も「天使ミカエルの最高の贈り物」として信じて地元民は感謝して暮らしている。また昔
からモンサンミシェル湾は有望な漁場だった。

4月には復活祭のために巡礼者が集まり賑わう(大部分を06/6/24、6/30のNHK総合TVより引用)。





や●● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 以下は次ページへ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・■▲◆★
次は
ヤ〜ヤタ
ヤ〜ヤタ
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
または
トップへ
トップへ
戻る
戻る

パテント・著作権は本会に属します。        「鬼の会」