http://hijiri.tamajiri.com 「日知り事典」 page347.html(未定稿) 日知り事典 マ〜真北 ま● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ま● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ● ●ま・・・・・・・眼。真実。例えば「真綿」と言うのは、繭から作った綿を木綿と区別して言ったもの。 ▲マ(字義)・・・・・・・マとムの字は似ているが、よく見れば其の形は▲と▼、つまり逆方位を示している。従ってマの字 は天下の物、逆にムの字は天上の架空の世界を示していると仮定出来る(アラカ、アラカジメを参照)。此れはマジな 話です。 例えば「マ」では了、予、矛、野、勇、柔、序、務、舒、橘・・・・等の漢字に変化するが、其れに対して「ム」では云、去、 至、牟、矣、室、弁、台、鉾、公、参、參、勾、鬼、魂、魄、・・・・・等をつくる。「マ」はつまり「了」から変化したと云える。 「了」は剣を地に突き刺した形の全体を省略して、影の部分だけ略して書いた文字と思われる(「矛」を参照)。 こうした具体的な物質ではなくて、架空の天象とか勾配と言うような事には「ム」の字を付けた(「法のり」「勾配」を参 照)。 ▲麻・・・・・・・漢字の麻をマと読んだ。 ▲馬・・・・・・・野生の馬。おとなしい性質から人類に飼われて家畜の馬となった。文献に馬飼とあれば今では「うまか い」と読むが、本来は「まご」と言った。同じ事は、馬子唄の「まご」読みに伝わっている。 ▲間(ま)・・・・・・・隙間、間。会話で「マァ」と一旦、間を置く事。おき過ぎる場合を「間が抜ける」と言う。外にも間は、暇 (いとま)、頃合い、機会、音楽の休止符、船の碇泊する所などを言う。或いは床の間とか茶の間と言う場合は、間取り を意味し、其れは尺貫法で言う「一間」の長さに基づく。 其処から畳の規格にもなった。此の間の場合は、柱の心と心との間隔であり、京間が曲尺(かねじゃく)六尺五寸、本 間と田舎間は曲尺六尺でした。外にも江戸間、中京間があり、今ではもっと小さな団地サイズが定番化している(「畳の サイズ」を参照)。 其のほか、武術で「間をとる」とか「間合い」と言うのは敵との間でお互いの剣がギリギリ届くかどうかの距離、つまり何 れかが一歩踏み込めば相手を倒せる距離の事。この場合は相手の身長の高さで違うので定尺ではなく比例尺となる。 ▲魔・・・・・・・隙ある所に入り込んで来てエネルギーを吸い取り、穢れに変える存在。多くは霊体である。間はつまり隙 間でありまた隙を見て入り込む魔であり、また梵語のmaraにも通じる。東南アジアやメキシコなどの紋様はギッシリ詰 めて描く。それは隙間から魔が入るのを恐れたからとも言う。 maraは、人の善事を妨げ、人命を損なう存在であり、心を乱す霊、悪魔とされる。何れにせよ、魔は普通は餌や金銭 が集まる所に集中する。権威や権力、或いは資金が集中する国家中枢部や営利組織の頭部にも必ず密着してしまう 存在である。 ▲魔(字義)・・・・・・・鬼の上に「麻」を載せた字で梵語のmaraに音訳形声文字とした。従って「麻」とは直接関係はない が、鬼の上に乗っかって支配する存在と黙示している。例えば鬼(国民・市民)を麻雀(イベント)で誘って誑たぶらかし、麻 薬(麻酔薬・税法)で痺しびれさせて麻縄(魔法・法制度)で括る悪徳公務員のような立場を言ったのではないでしょうか。 此処から悪魔、閻魔、色魔、邪魔、睡魔、天魔、病魔、魔法、妖魔・・・などに使われる(魔女・魔物を参照)。 ▲マイセン・・・・・・・・マイセンはプロテスタント大教会のあるドレスデンの町である。ザクセン王の時代、銀の産出で発 展して美術品の宝庫となった。またザクセン王は日本の伊万里やシナの陶磁器に憧れて陶磁器の生産を始めて有名 となったが、日本のイチジクを真似て玉葱のデザインを絵柄にしているのが特徴である。 やがて時計の生産地としても発展したが第二次大戦で焦土と化し、戦後の時期には東ドイツになった(MBSテレビ「世 界ふしぎ発見」05/6/25より引用)。 ▲埋蔵文化財・・・・・・・先ず「文化」を参照。此処では特に埋蔵文化について批判論だけ言う。有形無形の文化 財の中の埋蔵物は本来、民法や遺失物法によって地主のものと決まっており、発見者が別の場合は折半となっていた が、文化財保護法が出来ても、其処に「調査費用の負担」の規定がなかった。 此のため、慣行として「原因者負担」の論理が定着する事となった。早い話が「発掘費用は地主が負担し、其処から出 土した埋蔵物は国のもの」と言う些か無茶な行政指導が行われて来た訳だ。其処で普通の場合の出土物は其の後、 資料館と言う箱物が作られて其処に移され、有料で陳列されるか「お蔵入り」となる。 行政側の正義は、役所に予算がないし、「民間は儲けている」とする得手勝手な偏見である。その上に立って、業者側 に高額な発掘費用の全額を被せる。でも此れでは公平性があるだろうか。しかも行政は、匿名で発掘業者を指名して 「丸投げ」し、その業者は他に「孫請け」させるとしたら、此処にも闇の世界が生じる。 さて、例えば高松塚古墳の場合は空調設備が作られ、痛んだ所は修復作業として、合成樹脂を注入する作業が約10 年続けられた。当時地元では、「国がやる事に間違いはない、大丈夫だ」と誰もが思った。「高松塚は研究・保存・報道 などの関係者と行幸時の昭和天皇を除けば、実物を見たものは誰もいない(中略)。 墓である石室内部は、生者には元来見えない筈の物。見えないと言う有り方の尊重にも積極的意義がある。対象その ものに意味があるのに、”国宝だから大切”と言う話にすり替えてはならない」(「」内部の文章は05/6/22毎日新聞 より引用)。 だが72年発掘後に国宝となった壁画は04年の段階で劣化が激しく、此れまでの考古学や文化庁の処置方法が問われ 出した。此処は「万全の体制」で守るために出来た筈だったが、何もしなければ1300年保存されて来た壁画を、考古 学関係者が実習モルモットとしたためにたった30年で破壊してしまったのだ。 其れについてabcTVは05/6/30日に「文化庁は関係者以外には見せず、独占的にやって来て10年以上も放置した。 長官は昨年<何でもない>と答弁したがカビで消えていた。其の対策委員と言うのが24人いるが、殆ど文化庁のOB であるから責任を「追及しない方々だ」と。 このように結果として裏切られたため、保存をめぐって此れから手探りの模索を続けると言うが、「石室を解体し、剥ぎ 取って保存する」と言う意見が強いから呆れる。其れでは粉々になるだろう。75年以降、壁画にカビ対策の薬剤を使 用したのが劣化の原因と判明(04/8/10日)した。 彼らが内部だけで「ない頭」を絞っても33年間に激しく劣化させてしまった。責任者・担当者は今後も頑張り、ない知恵 を出して破壊を促進するべきではなくて、この際に全員辞める事で責任を取るべきである。彼らは温度管理やカビのせ いにしているが、あんな大そうな設備をしなくても乾燥剤と小さな換気扇2つあればカビなんか出ないのである。 此処を自分の家の風呂やトイレ並に見たとすれば、余りにも幼稚だ。壁画を痛めたのはカビ取り材を使ったからだと言 うが、「大発見が口癖になった遺跡関係者は此れをも「失敗の大発見」と言うつもりだろうか。更にキトラ古墳も同様の 処置で「ハギトリ保存」をすると言う(04/7/6日)のだから言語道断である。 実際8/30からの作業再開では全体の漆喰が急速に劣化し、予定が狂ったと発表(9/4)した。此れもまた「文化財 保存」ではなくて、文化財が彼らの実験材料・モルモットになると言う愚行の繰り返しだ。文化財が、関係者のメシや手 柄にしかなっていないのです。此れでは彼らの仕事を幾ら増やしても文化財は次々消えて行く。 此れまで数多くの古墳を潰した彼らが古代の謎や意味に何も答えを出せなかった以上、関係者は責任を認めて埋め 戻すべきだ。そして先ず原点に返り、「保存」や管理と言う思い上がった態度を改め、此れまでの仕事から全員が手を 引くべきだろう。埋蔵文化財は「誰も掘り出したり移動しない」事を考古学や行政が範を垂れて示すべき立場である。 仮に古墳から剣が出土した場合、考古学者が「古墳時代の剣と思われる」と講釈する程度なら、其処にどれ程の意味 があろう。巨費を投じて発掘しても、何の答えにもなっていないのだ。 失礼ながら、出土品の本来の意味や用途も分からない関係者の多くが、古墳の被葬者の特定と言う命題から離れて、 ただ「掘り返して宝物探しをしたい」と躍起となっているようでは、死者への冒涜であり、また国民への裏切り行為であ る。だから今回は彼らの目の前に、高松塚が「文化財とは何なのか」と警鐘を鳴らしたのではないか。 だが其れにも彼らは気付こうとはせず、惰性のまま走り続けようとする。言うまでもなく高松塚やキトラ古墳は、特定の 人たちの研究対象である前に、誰かの墓であり、被葬者の遺族や子孫の心の拠り所であり、其れが不明ならば地元 の人が主権者である。 しかし肝心の被葬者の特定や謎解きが出来なかった人々が此れからも「墓暴き」するのが許されて良いものだろうか。 少なくとも墳墓である以上、興味本位に「墓暴き」せず、ソッとして置くべきである。其処を無理やり発掘する必要性が 仮にも「ある」、とするなら、そうした命令を下す主権者が一体誰なのかを先ずハッキリ特定すべきである。 因みに筆者は何を隠そうキトラと言う苗字の先祖の子孫なので一言する。筆者に比べても今の関係者たちは系譜上、 殆どキトラに繋がるかどうか怪しい人たちだろう。ただ「此れは吾らの仕事だ」として、当然の権益として群がっているに 過ぎない。地元の人以外は殆ど無資格なのである。 であるなら主権者ではなくて、単なる墓堀りか用務員であるし、答えを出せないなら先ずプロとしても失格だ。そうすると 何から何まで彼らは無資格、もしくは胡散臭い立場である。にも拘わらず密室で勝手に決めて文化財を破壊し、其の 為に予算を使うのだから飛んでもない話です。独占的に私有物を勝手に処分するのとは訳が違う。 此処は墓地でありまた公共の宝(文化遺産)である。だがそんな道理も無視して強引に押し切るとすれば、其れはGH Q分子である。昔から互いに死者を弔いあった同じ日本人のする行為とは到底、思えません。其れが出来るのは日本 人ではなくて、戦後のドサクサの時のGHQとか異教徒、そして其の手先となった人だけです。 マスコミも「墓暴き」に加担し、煽りたて、片棒を担いで飯にして来た共犯関係と言う前科があるが、今もって非常識な 彼らの暴走行為を止めようとする人がいないので今回は敢えて筆者が苦言を呈した。だが此れは筋目を質して道理を 説いたものであり、私益でもなく暴論とか妨害行為でもない。 利権屋の暴走を止める正論である(04/7/11日、埋蔵文化財センターと毎日新聞へ苦言)。04/10/1日、高松塚古墳の 調査の名の下、墳丘発掘工事を開始した。しかし01/12/11の作業の不注意から壁に剥落傷を付けていた事が分かっ た。このように「文化財保護」の名の下で、学問と税金による「文化破壊」が推し進められて来たのです。 また多くの国民が懸念する中の05/2/18日、東京文化財研究所がキトラ古墳の壁を総て剥ぎ取ってしまった。更に文 化庁は05/7/22、高松塚に石室冷却装置の工事を開始した。石室解体までのカビ抑制のためと言うものだが、やる事 が全て逆さ事である。06/5/12〜28日、キトラ古墳から剥ぎ取ったパーツの公開を始めた。見世物として。 06/5/25の朝日は、「高松塚の青龍に黒かびが出ていたのを2年8ヶ月前に確認していながら公表しなかった」と報じ た。06/5/27の朝日で網干教授は「保存科学の専門家から脅されてやった」と言う意味の事を述べた。だが此れで失敗 した文化庁の肩の荷を降ろす事にはなりません。 此れに懲りずにまた07/1/20日、明日香村教委は土山塚の発掘を始めた。第三の彩色壁画を期待している。此の村 は日本で唯一、先人(他人)の「墓を暴いて商売にする」村となっていた。先人にとっても今の国民にとっても由々しき問 題である。 ▲・・・・・・・ ▲マイナスイオン・・・・・・・科学迷信の日本では近年マイナスイオン信仰が広まったので、売れない商品には「マイナス イオン」と付ければ売れ出したようであるが、マイナスイオンは世界の科学者の間では笑い話と言う「99.9%は仮説」(光 文社新書・竹内薫著)。 ●舞う・・・・・・ ▲まえ ▲前向き論・・・・・・・慰めのために使われる気休めのオバちゃん言葉。或いは過去を言う人を「否定的」と決めつけて 排除し、専ら夢だけを肯定的に語る「未来志向」を言う。此れが現代日本の正義として流行しているが、過去は完全で あるから成立した事実である。其の事実を無視して、未来志向をして見ても、未来は希望や予定でしかない。 しかも「前向き」思考者の大部分は自分の前科や傷などをプライバシーとして覆面で隠し、何の保証もない夢だけが正 しいとする。とすれば得手勝手な架空の独善であり偽善になり易い。其のように見られたくなければ、「前向き」と言わ ずにもう少し考えて、「積極的」とか「忍耐」とか、別の用語を使うべきだろう。 ▲まか ●勾玉・・・・・・・・・勾玉は耳の形に似ている。でもサン・グリーンの宮崎様は「其れよりも胎児の形に似ている」と言 われました。確かにそうです。其の意味もこれから述べます。勾玉は曲玉とも書く。此れは曲がりの角度、つまり勾配を 計る玉でした。太陽観測にとっては、どうしても角度を測る必要があり、其れを勾玉で行っていました。 だから古代から日本やシナで玉類は、「三種の神器」や皇帝のシンボルとして珍重されて来た。先ず其の勾玉の使い 方について言えば、角度を測るために糸に付けて錘(おもり)にしました。此れで垂直を測定して、其れとは違う他の角 度の差を読み取ったのです。天文の例えば日影観測では、見柱から日影が伸びて地上に落ちる。 其処に勾玉を置いて、垂直と日影角度を紐や糸に付けた勾玉で測りました。次に見柱から引いた糸に付け、泥田に突 き刺して糸張りの止め具とし、或いは地面を引っかくようにして線(ライン)を引いたものです。つまり当時の筆記具でし た。或いは同じ長さの糸で結んで引っ張り合い、四人なら四角形、6人なら六角形などを作りました。 このように勾玉は一定の定形図を作る矩形器具としても使われた筈です。例えば12ヶを等分に糸で連結すれば、数字 を使わなくとも三平方の定理で直角三角形が作れる。其の比率を3:4:5=12として広げるだけで出来た訳です。 また3ヶ等分では▲正三角形にもなり、また先のように4ヶづつにして広げれば方形(真四角)、更に6個で正六角形と なり、或いは同心円の場合は、其の円の中心から30度づつ12等分する形で12角形にする事も出来ます。 勾玉があればこのように、地上の測量の場の、特に条里制の作業に色んな人たちが同時に方位と長さとを整合させる 場合に役立った事でしょう。幾何学や数式を使わずにスピーディにこなす事が出来た筈です。ですから作業の場では首 から提げていた訳ですが、其れを考古学では誤解して「装飾品」と言う解釈を垂れて来た。 確かに勾玉は翡翠(ヒスイ)、瑠璃、琥珀、瑪瑙(メノウ)、水晶、玉石、硬玉、純金、陶器、ガラス、牙、骨、・・・などが有 りました。だから今では装飾品です。でも古代と今との価値観がイコールではない。 更にこうした材質のものは今ではクォーツ時計となる水晶発振子のように、ある種の周波数を吸収したり発振するので 霊界との交流に役立つ場合もあったのでしょう。 ですから例えば御子が先祖の再生・誕生を予祝する祭りの場などで依り代として、霊玉(ひだま)として使った筈であり、 中でも翡翠(ヒスイ)の材質は、霊を吸うと言う機能が一番優れていたのでしょう。其の点で日本の「玉串の祭り」は先祖 の御魂を迎える祭りでした。子孫がその場で先祖の御魂を招魂出来ればやがて胎児が生まれます。 玉串の祭りは其のための先祖の復活再生の祈りですから、勾玉を胎児の形に似せて作ったものと推定できます。勾玉 の形が先祖の魂の受信機として、其の波動に同調するように巴紋や胎児の形に作られた。此れが相似性・同調性で す。 そして今でも寺社の軒丸瓦に巴紋がシバシバ見られますが、此れは「玉造部」の印であり、その寺社で勾玉を鋳型で 製作していた由来を伝えるものなのでしょう。 さて、勾玉の外に菅玉とか小玉、或いはシナで言う玉壁、其れに考古学で石釧や車輪石と呼んでいる玉類もある。何 れも天文観測と地上の測量の器具でした。 所がシナでも日本の考古学でも定説として此れらを首飾りや手玉(腕輪)などと解釈する。しかも単に石製品として金属 以下のものと蔑視した上で、装身具であるとし、今は「縄文のアクセサリー」とも言っているのですから驚くしかない。し かもこれ等は和人ではなく主として渡来系集団が使ったとの誤解を混ぜて解説を垂れて来たのですから問題です。 確かに遺物の玉製品は、現在でも宝石類とされる翡翠やメノウ、其れに琥珀や水晶珠が多数使われている。硬玉やガ ラス製品もあって色も鮮やかな例が多い。だから装身具と認識したのでは何ら学問的な解釈とは言えない。また菅玉 は勾玉の間に入れて使ったものです。菅玉は勾玉より小さいのに穴が開けられています。 現代の技術で同じ事をするのは大変ですが、昔は苦もなくやってのけていたのですから驚きです。そして勾玉は時には 菅玉・小玉と組み合わせて連珠とし、暦数・日数を読む時には連珠を重ねて使い、或いは算盤のように使った。其の流 れが今の数珠(念珠)である。其れに対して石釧・車輪石(別項参照)は言わば分度器でした。 考古学では其の使い方を謎としているが、此れは丸木に通して使った。其処から何本もの糸を四周に張り渡したので す。此れが玉串の祭り(別項を参照)でした。次は考古学で言う鍬形石があり、此れは言わば「コンパス」でした。これも 考古学では意味用途不明であるが、鍬形石(別項参照)も矢張り丸木を通して横にして使いました。 このため斜めに穴が空けて有るのです。丸木の柄を定点に置いて、其処から先にある鍬形石を地面に押し付けて回し て行けば綺麗な円が描ける。此れは現在のコンパスよりもずっと精密な円が描けるものでした。 何故円形を描く必要があったのかと言えば、太陽観測(玉串の祭り)では円と方形の幾何学図形を地上に描いて方位 を決し、その上に落ちる見柱の日影を測って暦を作り、其処から測量を始めたからです。つまり先の霊玉(ひだま)が 此処では日玉(ひだま)として使われた事になる(「玉」を参照)。 ▲まき ■真北・・・・・・基点から見て何処の場にも東西南北がある。この場合の基点は現在地であり、物事の中心点であり、 基準点であり、言わば定点となる。方位の基準は子午線、つまり南北線であり、北の位置、つまり「子の方角」ですが、 其の外にも各種の北があるので日本では混乱を作っている。 暦法の北は本来は冬至であり、古代の暦は方位の「子の方角」に合致していた。真北は古暦の基点であると同時に、 個別の定点であり、太陽が南中して向かう影の位置・方位である。所が近代科学の天文台では此れを特定しようとは せず、地軸や北極軸と星の位置から子午線を基準として「正北」と言う変な用語を設定しているから紛らわしい。 しかも其の定義さえしないので混乱を生む。この「正北」を採れば、地球の歳差運動によって年々星座の位置が移動す るので、国際標準が年々修正する必要が出て来る。このためメートル法も、近代科学の物理単位であるナノメートルも 極めて曖昧な尺度になってしまう。 なので此れを一部の専門家の約束事とし、国際標準としているのですから更に問題を広げてしまう。さて、「正北」に略 近いのがGPS北である。其れに対して「磁北」があり、此れはコンパスの磁針の指す方位ですが、各地で偏角によるバ ラツキがあるため、基準として使えない。 大阪の場合では「正北」から西に6.4度傾く。其の外に地図に表示された図北(方眼北)がある。此れは丸い地球をメ ルカトル図法などで方形に仕切ったものなので、実際の北とは違う方角を図示する事となる。この様に各種の北がある が、更なる問題は、それらの内のどの北を示しているかを地図や測量図に明示していない点である。 (次項の「真北の決定法」、または「方位」を参照)。其の点、本書では便宜上、国土地理院の地図の子午線を真北と見 なして説明する。 ■真北の決定法・・・・・・・・・水平面に同心円を描いて其処に見柱を立てる。其の場が例えば今もストーンサークル の遺跡として見られるし、神道では日モロギ等の言葉として、やや誤解された形で伝わっています。西洋では御柱をノ ーモン(杖)と言った。ノース(北)を決する杖と言う意味(ノーマル)でした。 例えば、原始キリスト教にグノーシス派と呼ばれた宗派があったが、此の場合のグは「G」、つまりゴッド(神)だったろう。 ノートルダムと言う意味も、本来は北のマダム(母・夫人)であり、何れも聖人・聖母を意味した筈だ。さて、其の見柱は 垂直に立てる。地上は水平面とする。水平に対する垂直がポイントです。 其処には太陽の日影が出来るが、朝から晩まで其の日影を計れば、同心円上で柱の影の長さと角度が一致する点が 出来るので、その二つの交点を結べば、東西線が確定する。同様の事を簡略化するには例えば盥か洗面器に菜ばし を立てれば簡単に観測できるでしょう。 菜ばしの影の印した各地点を結んで(糸を張るか線を引いて)、太陽の南中時刻の示す日影線が南北線(子午線)であ り、それに直角で直交するラインが東西線となります。但し、南中時刻が正午時刻とは限らない。南中時刻は日影の長 さが一番短くなった場所の時刻です。それは太陽が一番上に来た時刻なのです。 またこの子午線は天文台や一般が認識している真北・子午線・正北とは多少ズレる、真の子午線であり、従って其処 が太陽の南中点である。この様に太陽観測は何も難しい事ではない。 上の外にも例えば建物や窓の影に印しをすれば誰でも分かる事です。但し電柱は駄目(垂直に立ってない)。先ず水 平な場所を選び、次に垂直な「立て物」を選ぶ。其処を定点(中心点・基点)とします。そして正午時刻に影となった所に 印しを付ける。そしてまた別の日に同じ事を行う。そうすると日影ラインが前日とは少しズレた角度で出来ます。 其処で両者の中間点を採って真北とします。この誤差の最も少ない時期が冬至であり、従って古暦は冬至を子の月と し、年の初めとしたのです。原理が分かれば簡単です。所が近代科学は其の原理を知らず、先に述べたように西洋の 真似をして恒星を基準とし、其処から暦も時刻も決定しようとした。 でも其れでは曖昧なままで確定的な事の決定は不能ですから、従って毎年修正・改定を迫られるため、現在の時刻法 は太陽の位置とはズレる。よって先の日影観測でも分かる通り、正午時刻が必ずしも真北とはならない訳です。 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