http://hijiri.tamajiri.com 「日知り事典」 page337.html 日知り事典 ヒタサ〜ヒモ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ ●ひたさ・・・・・・・ ●・・・・・・・ ●ひたし・・・・・・・ ●ひたす・・・・・・・ ●ひたせ・・・・・・・ ●ひたた・・・・・・・ ▲日立帯・・・・・・妊婦の腹帯であり、「岩田帯」の事。学校とNHKではサルの子孫と言う先生たちがお猿の進化論を 押し付けますが、日本人は太古から神の国ですから私たちも神族の末裔と思って良い。とすれば女性は言わば神の子 を生産するメーカーです。ですから男性よりもかなり意識が高く出産に対する真剣味も違います。 どうぞ真剣になって無事出産して下さい。またご本人たちの為に、両親が手を貸して上げられるのがこの方法とか円系 図(別項参照)です。ヒタチ帯は今でも各地の「安産祈願」の有名地蔵尊や観音寺などで予約によって授与しています が、「日立」と漢字で書いては意味が分からなくなる。 日立は胎児の「日だち」の意味(「神代の風儀」鳥居礼著より引用)でした。つまり、神代から伝わる母胎のお守りを呼 んだものです。「日立」とは無事に日がたち、月が発って出産できるように妊婦と胎児の身を守る祈りのお守りであり、 同時にお腹を引き締める効果もある。無事とは肉体的な意味よりも霊的な意味が大きい。 「霊的」と言えば笑止だろうか。例えば犬が嫌いな人でも犬の世話になっているのが人類です。ともあれ古来、犬が安 産の守り神とされて来た。犬が何匹もの子犬を難なく生んで旨く育てるからであり、もう一つは母胎にとり憑こうとする邪 霊を見つけて追い払うからである(犬を参照)。 現代日本のように物質主義の社会では証拠主義ですから、他人の呪いなどは問題視はしないし、譬え呪いの結果とし て何かが有っても罪に問う事も出来ませんが、実に手軽な復讐方法として昔から呪いは存在して来た。生霊やノロイが 手軽に行きかって来た事実から、古来、「人を呪わば穴二つ」と言って戒めて来たのです。 人を呪えば、相手も自分も、共倒れの心中行為となるのが霊界の掟です。けれども実際問題として此れは手軽に行わ れて事件事故となり被害が出ているのが事実です。事件ではなくても例えば日本の出生率は04年が1.29人、05年 には更に1.25人に低下している。所謂「少子化」現象に拍車が掛かっている。 此れは若い夫婦の経済的な問題、つまり政策・制度の問題が色々指摘され原因であるように言われているが、実は性 の乱れと霊的な混乱が大きく関わっている(「不妊」を参照)。また、「長寿国・日本」と信じられているけれども、其の実 態は別である。其の統計は世界一出鱈目な基準によって作成された捏造データであるから信用してはならない。 出世時の未熟児や障害児の問題が増大の一途(だから産院が閉鎖している)ですが、此処で闇から闇に葬られる。其 れを助長するように出生届を2週間として来た。つまりその間の数字は黙認期間としてデータの「足切り」で偽装してい る事になるので、他国に比べて同水準と見て比較しても意味がない(比較に値しない)のです。 ともあれ、その様な呪いの増大から身を守るためには、古来、神社の祓いや雛流し、或いは七夕流しが行われ、或い は、「呪い返し」の護摩法や各種の防御方法もあった。だが、其れよりも常に恨みや妬みを持たずに明るく感謝の日々 を送る事です。そうすれば例え生霊となって強い念波が放射されて来ても跳ね返してしまうでしょう。 ただ、其れでも難を逃れられない場合が多いので出産の前の妊婦は古来、「岩田帯」を戴いて来て腹帯としたのです (「安産祈願」、「不妊」、「呪い」、「田の神」を参照)。因みに岩田は「祝った」の事であり、岩の田圃の意味ではない。或 いは「結わえる」と言う言霊だ。何を結うのかと言えば魂である。 先祖神の魂や神仏の加護を確りと結わえ付けて邪霊から身を守り、無事の安産を願うのです。 ●日次(日嗣)・・・・・・日本民族は古来太陽中心の祭りをするための暮らしを続けて来た。中でもヒツギとは日々の暦を 読む「日次ぎ」の事だった。其の祭りの主催者として天皇は代々、数多の皇子の中の若宮・日嗣の皇子(皇太子)から 即位した訳である。 一般の中でも「日待ち」の風習を続ける所も有るが、古社寺の中にはかつてこのヒツギの祭りをする所があった。だが 今は殆んどの寺社が月々の月を読む「月並み」の祭りしか出来ない所と変わったし、ヒツギの言葉も意味も不明になっ たので、一般庶民も無論無知無関心となった。 だから今は日嗣を火守りや火種を絶やさない主婦の務めと誤解したり、ヒツギを単に遺骸を納める箱の棺・柩を示す 用語として残しているに過ぎない。 ▲ピック病・・・・・・・認知症(別項参照)の一つで突然、性格が変わるもの。原因は脳細胞に傷が付き、或いは前頭葉 が萎縮してしまう。此のため記憶力と判断力がなくなり、手順の切り替えも難しくなり、欲望のままに行動し始める事に なり、同じものを食べるとか万引きしても罪の意識がない。やがて15年で寝たきりになり死亡する。 だが外には病気らしい所がないので周りの人たちが気付かない。現在国内には推定3万人がいる。殆どが40〜50代の 働き盛りである(06/6/20のabcTVより引用)。「松果体」を参照。 ▲ビッグ・フット・・・・・・・大足。アメリカの言わば雪男伝説。 ●日時計・・・・・・・日光のただ差す位置を知る時限装置。其れは障子の桟や窓枠でも良い。例えば電柱であっても、 水平面に垂直に立っているものなら日時計として使えます。例えば大昔のストーン・サークルだけを見ても日時計であ るとは分らないが、その中心に一本の棒を立てれば日時計となる。 けれども木の棒では数千年間経てば朽ち果てますから、今は石だけの「謎の遺跡」として残った訳である。インドのシヴ ァ神も岩倉タイプのものですからストーンサークルの部類と見られる(「シバ」を参照)。 例えば東京タワーは大きな一本柱ですから、其の影は伸びたり縮んだりして午前中は西に伸び、正午には真北を指 し、そして夕方には東の町に伸びて行くでしょう。ですから図らずも近隣にとっては日時計になっています。 また近年発見された三内丸山の縄文遺跡の六本の柱列は物見櫓の建物と見られて其の柱列の上に今の人たちは屋 根を掛けようとします。でもそう決め付けてしまえば真実が不明となります。此処では日陰の角度を厳密に観測する目 的から一本ではなくて六本にしたとも思えます。 何れにせよ、日時計は時間と言う捕らえ難い観念を人の目にアナログの形(角度と面積)で比較して幾何学的かつ直感 的に認識出来るように示した装置でした。文字盤式のアナログ時計も其れを応用した形ですが、其れに対して現代は デジタル時計と言う新方式を採った。 此れは数字によってその瞬間の時間を正確に示す事が出来ると言う「信仰」に基づくもので、これこそ最先端の技術文 明であるかのように錯覚するが、実は時間そのものも厳密に言えば極めて曖昧な観念(一つの人為的な指標に過ぎな い訳)であり、しかも数字が幅の狭い指標に過ぎないので矛盾が残る。 また数字の羅列では読み違いが多く、其れを人がいったん認識しても、其れを頭の中に入れて、前の時間と比較する と言う二重の過程を頭に負担させるために、譬え機械的に暦時を直ちに数値化出来たとしても其れを人の頭では直ぐ に認識し難い、と言う欠陥を持つ訳です。つまりデジタル式はこの点で太古の日時計より劣るのです。 ▲人・・・・・・・人は神が「神に似せて作った」(旧約)存在と言われる。そして記紀でも人の先祖が神であると明記してい る。人間は神の子であって動物から進化したものではない。サルやチンパンジーとは科目も違うのですから其の壁を進 化の仮説でも乗り越える事が出来ないのです。 ただサルの子孫を自慢する進化論信奉のサル先生たちや外国人は例外です。日本人であっても渡来系は永い歴史を 通じて遊牧を生業として来た以上、動物と交雑・混血と言う間違いがなかったとは言えないからです。だから彼らは「猿 の子孫」と自ら吹聴して廻る。 其の上、日本でも渡来系・遊牧民族系の人たちは近親相姦や動物的な生き方を続けて自ら獣化に突き進んでいる訳 ですから、人の皮を被ったケモノやモノノケが多数を占めるようになった。此れは哀れであり、此の世は油断禁物です (国津罪を参照)。 哀れと思うのはこうした獣性人間の行く末が、やがて「人に食われる」存在に落ちるからです(ソロン・アサミ氏の著書か ら一部引用)。 現代の日本では「人は皆平等だ」と言って対等に扱おうとする。同じ肉体の塊として一律平等に扱おうとするが中々旨く 行かない。人は同じではなくて元々千差万別であるからです。人は誕生日も因縁も違う。だから他人と決して同じでは ない。譬え誕生日が同じであっても年代や生まれた時期や地域が違えば意思も運命も違う。 譬えメーカーである親(血筋やDNA)が同じであっても、誕生日、性格、年齢、兄弟、友人、学歴、職歴、出生地、環 境・・・・によって別々の意識と運命を辿ります。ですから他人と比べたり競争しても余り意味がないと言える。其の他、 同じ肉体をしていても能力、職場環境、職種、地位、収入、財産、持病、障害、家族環境・・・・・なども違う。 ならば生き方も違って当然です。従って一律平等はない。憲法や選挙公約を無理に追っても始まらない。自由もなくて 制約ばかりです。それらが如何にも有るかのように言うのはマヤカシか幻想である。そうした違いや時間的な制約の中 で、人と人とが縁を持ち、共に過ごす相手がある。其の巡り会わせを日本人は「一期一会」として大切にした。 ▲人・・・・・・・人の字はカタカナの「ノ」の字と尻尾のようなツッカエ棒で示されている通り、「支えあって生きる」存在と教 えています。或いは肉体の場合は陰陽合体の産物と見られている。例えば日月を意味する左右の目や手足がシンメト リー(左右対称)に出来ている。 左右合体の跡(証拠)としては例えば口を開ければ歯があり、其の上下に筋があって、左右を繋ぎ合わせた形で見せ ている(静間先生談話)。両手、両足、左右の指も対照的に揃っています。だから正中線には気をつけた方が良い。例 えば体の中心線上に位置する額、鼻、口、背骨(脊髄)、性器、尾てい骨などに傷をつけたり粗略にしない事である。 ▲ヒト・・・・・・人間は理性のある動物だ(武者小路実篤)。日本では人をヒトと言うが、其れは「火止」、即ち「霊を留め る」存在と見たからだ。例えばヒトは、自分の意思で行動していると思い込んで暮らしているが、其の内の1/3は霊的 な因縁因果で動かされているし、次の1/3は会社や仕事や家庭の事情で時間の制約の中、行動する。 自分の肉体の生理的欲求で行動するのは残りの僅かな部分に過ぎない。だからアイヌは神(カムイ)に対して、ヒトをア イヌ(人間)と云い、其れを日本人は漢字で「人間」と書いた。 人間と言う場合でも、自分の意思で生きているのではなくて、ヒトヒトの間で霊的に動かされ、同時に自然界から生かさ れている存在と見た訳である(「人の使命」、「カラダ」を参照)。 ▲ヒトゲノム・・・・・・ヒトのDNA遺伝子(別項を参照)。ヒトとサルの違いは約1.2%であり、ヒトとチンパンジーとは略 同じと言われる。だから日本人と白人とは略同じであると言われる。無論、DNA鑑定によって個人を識別する事は可 能であるけれども、サルと人とが大きく違う点は肉体、つまりDNAではないと言える。 ネアンデルタール人と区別して作った分類にホモサピエンス(知恵ある人)がある。猿から進化してネアンデルタール人 とホモサピエンスに分かれたとする仮説が進化論である。だがサルとホモサピエンスとのDNAの違いは1.2%である。 此の1%で両者の違いの全てを解釈しようとしても無理があろう。 同じような肉体は同じような遺伝子である。チンパンジーと人類(ホモサピエンス)との違いは殆ど無い。此の事実から 遺伝子で全てが分かると思った生命科学や進化論が壁に当った。肉体より先に先祖や心性が分からなければならな い(因果律、八卦、「人」を参照)。物を細かく分解しても矢張り物でしかない。 何処まで分解しても人間は出て来ないのである。肉体ではなくて道具や言葉を使うかどうかでもなく、精神性であり、先 祖祭りをするかしないかの点に尽きる。小鳥の場合は人のような言葉を使わないが、人と同様に仲間と意思疎通をし ている。 小鳥やカラスも言葉を交わし、自然界の草木を巧みに編んで巣を作るのですから、人間だけが言葉と道具を使うと言う 解釈をしていては困る(誤解である)。 ただサルや他のケモノだって自然破壊した事はなかったが、「サルから進化したヒト」が、科学と言う道具を使って此れ までなして来た事は収奪と自然破壊でした。其れを自然界から見れば、祭りをする側のヒトではなく、ヒトの皮を被った 悪魔の行為と見るだろう。ゲノムの解析だけではこの点でも謎を残す(遺伝子を参照)。 人は知恵によって確かに発展した。けれども現在の様に問題山積としたのは、根っこの所で良くない想念をもって増幅 した。だから現代がある。こうなったのは心性が人を作ると言う因果律による当然の帰結(変化)であって、何も「進化」 ではない。 ▲人助け・・・・・・・人命救助、または他人の窮地を助ける事。または経済援助など恩恵を与える善行。または今の政 府の言う海外向け人道支援(経済支援)。慈善行為(活動)。だが実際の所、他人を助けるような行為は中々出来な い。例えば親は何人もの子供を育てたが、其の子達が成人しても老親の介護さえしないものです。 兄弟たちが皆健在であったとしても、親一人を介護し、或は救うのも中々出来ずに社会制度や保険に頼るのが現状で す。人助けとは運よく其の場に居合わせたとか、機転で救うと言う場合も有るが、其れ以外はかなり意思が強く、或は 愛情でもなければ続かない。本当に救えるのは其の人の先祖であって、人力や政府の力は微々たるものです。 何故なら其の人を存在させているのは他人や国家や医療や保険ではなくて、100%が先祖(円系図を参照)であるから です。人助けや慈善行為は「情けは人のためならず」、つまり其れが其の人の徳を積む事になるのです。 ■人の使命・・・・・・・人は自然と調和して、誰もが天命を全うして生きて欲しい(武者小路実篤)。ただ「誰も」、と言っ ても人は本来「平等」ではなく不平等です。心や体は各々違い、決して他人と同一ではない。人々が皆一律同一の規格 品ならロボットと変わらない。従って古来、人は「十人十色」と言うように個々別々でこそ意味があると見て来た。 個別だから生き方も違うし価値観も違います。ですから、もし色んな人に頭から一律の価値観を強要された場合は問 題です。人は各々身長・体型も違うのですから、もし病気となった場合は、他人と同一の医学や方法で治療しても治癒 しない。もし子供と老人と同一の扱いをするとしたら此れも平等ではなくて問題です。 人は本来「平等」ではなく不平等です。譬え五体満足でも心に障害がある人、或いは精神が満足でも体が不自由だっ たりします。其れは各々の使命が違うからであって、一つの理由を上げて欠陥と見て悲観したり、親や社会に甘えたり 抗議しても始まりません。悩みは誰にもあり、其れだって個別に違います。其れは何れも使命が違うからです。 人は各々同一ではないが、全てが違っても、別々の特性があり、それでも人は霊的には平等かつ各々完全であり、不 完全はないのです(「魂の実相」、「円系図」及び別紙の「日読み」の「生死の意味」を参照)。 ▲ヒート・アイランド現象・・・・・・大都会が暑くなって来た事。ご維新後の日本人は西欧に憧れて、「近代都市とは コンクリートビル群がある事」と言う変な観念に染まり、ビル乱立化を進めてジャングル状態にして来たのですから自業 自得です。東京は此処100年で3℃上昇したが、此の上昇率は世界一である。 この為、都心部への集中豪雨も多発している。ヒートアイランドによって東京が04/8月、遂に42.7度の酷暑となっ た。異常気象と言われて数年続けば、其れはもう「異常」ではなく常態である。「温暖化の警告」に備えて、本格的な対 応が必要と叫ばれてはいるが、必ず半年で忘れられる。冬になれば寒さが戻るからでしょう。 其れにお役所の縦割り行政が一番の癌である。ともあれ今その原因とされているのが@アスアァルト舗装、A車の排 気ガス。都内は一日700万台が動く。Bエアコンの放出熱。この30年間にエアコン普及が30〜100万台になった。 このため対策として@ビルの屋上緑化義務付け、A省エネ促進、B保水性アスファルトによる特殊舗装などへの切り 替えが進められている(05/3/11教育テレビより引用)。また、打ち水、V屋根(別項を参照)など、出来る所から改 善すべき時でしょう(「温暖化」を参照)。都内では大気汚染も激しい。 排気ガスの粒子状物質によるものとして、都は「ジーゼル車規制」(1都2県)を始めた。その結果、浮遊物質の濃度が 02〜03年に30%低下となったが、除去装置を付けるには一台当たり60万円のコストが掛かる(05/3/11、同テレビ より引用)。 また、大阪府と大阪市は「日本一酷暑の街」として「ゴーヤ・カーテン」と「ミスト散布」の普及に力を入れていると言う(07 /6/11、朝日記事)。前者は建物の外壁にツル植物を植える事。後者は水道水を高圧で霧状に散布して涼しくすると言 う事業や実験である。府は昨春、ビル屋上の一部緑化を義務付けたが、コストが掛かる。 其れに比べて今度は安上がりと自画自賛しているのだろうか。大阪市の霧散布の場合も、ヒートアイランド対策にはな っても、同時に起こる水不足を解消するのではなく加速(夏涸れに逆効果)する事になれば矛盾である。此のあたりに も縦割り行政の弱点が見えてしまう。 こうしたヒートアイランドと大気汚染の中で頑張るよりも、永住の地を出来れば低地の都市部から離れた山間部や「田 舎暮らし」に変えた方が良いかと思う(ツバルを参照)。そして^「日知り」のV屋根http://toki.mikosi.com/page037.htmlと 半地下式の建物にする事だ。後者の場合は冷暖房が要らない。日本は平地よりも傾斜地の方が多い。 なので其れを旨く利用できるよう、宅地造成法と建築基準法を改正すべきです。今後仮に、ゴミ問題を解決出来たとし ても其れだけではヒート・アイランド現象を解決できないからです。 ▲一つ目・・・・・・天目一箇(まひとつ)命と呼ばれる神は天照大神の天孫であり、風の神・タタラ(鍛冶)の神として伊勢 の多度大社に祭られている。また其の鍛冶工が作った針が決まって一つ目である(針供養を参照)。ただ今は「一つ目 小僧」と言えば妖怪の類とされてしまう。 ▲一つ目小僧・・・・・・妖怪の一つ。以下「ヤフー知恵袋」の回答(回答日時: 2008/4/10 23:24:37)から転載。 先の回答者の通りです。因みに天目一箇神はアメノまひとつの神とも言い、記紀では天照大神の孫となっていて、有名 な所では今も伊勢の多度大社に祭られていて、風の神、タタラの神とも言われています。 例えば台風の目は一つ目ですし、タタラのふいごの火口も一つ目です。芸能に「ひょっとこ」がいますが決まって一つ目 です。 「ひょっとこ」は、火男から来た言葉であり、タタラで働く火男や冶金・鍛冶師は、火口を片目で覗き込むから目を傷めて 片目になるとか、「火男」は実は、風を送る「火吹き男」であり、「吹く神」つまり「福の神」になったと云う話もあります。 ▲人ヘルペス・・・・・・03〜4年には養魚場の鯉ヘルペス大発生が問題になったが、米国では人のヘルペスが近年か なり流行して被害が広がり問題となった。人もまたヘルペス菌を自分の胎内に寄生させている。普通は活発に活動しな いが、長く紫外線を浴びたり、疲れて弱って来た場合にヘルペス菌が活発になり、皮膚を荒らしたり無気力にさせる。 此れはしかし内臓の状態を表面化させてご本人に知らせるセンサーであるから何も心配はない。胃腸には善玉のビフ ィス菌や大腸菌、或いは悪玉のピロリ菌などが活動している。しかし善悪二元論で何かを退治しても問題解決にはなら ない。折角機能しているセンサーを病気と決めつけて犯人探しして退治したとしても無意味です。 薬局や病院へ行けば商売ですから、結構な病名をつけてくれるし、犯人駆除の薬を付けてくれる。でもセンサー(神経 系統)を麻痺させたり抑え付けたり退治したりしても、其れは問題解決とは違って本当の病気にするだけではないか (病気、「疲れ」を参照)。 ▲人柱・・・・・一般個人の死は、疲れて汚してしまった肉体をこの世に置き土産として返す事。全てを完結する為の因 縁の最後の決算。つまり最終的な「ハライ」の一つですが、ただ単なる1個人の祓いを超えた「死」のケースでは例えば スサノヲの流離いもハライ。キリストの死も、多くの人の罪をかぶって犠牲となったと信じられている(「祓い」を参照)。 「人柱」についも単なる個人の死を超えたものがある。下記を参照。 ▲人身御供・・・・・・ひとみごくう。生きている人を鬼神の生贄(いけにえ)、つまり犠牲として捧げる事。「人柱」とも言っ た。「唐人お吉」のように女性が見ず知らずの男の情欲の犠牲になる事をも言う。「人柱」の場合は堤防や橋をかける に際して難工事となった時に行われた(前世占いを参照)。 ヤマトタケルの時に弟橘姫が遠州灘で海に身を投げたのも、海神の怒りを鎮める為であった。ヤマタノオロチや岩見 重太郎のヒヒ退治伝説も人身御供の話であり、或はドイツの責任をヒットラー1人に、日本では天皇の責任をA級戦犯 にすり替えたのも現代版・人身御供ではないか(「祓い」「生贄」「防災」を参照)。 ▲一人暮らし・・・・・・自由気侭な暮らし。親兄弟など家族と離れてワンルームマンションで暮らす若者たちが増えた が、問題は自由が増えた分、気侭になって人間を駄目にする。古来其れを「小人閑居して不善を成す」と言った。其の 点、お年寄りは違う。 家族と同居せずに一人暮らしで自立するには其れ相応の雑事を全部しなければならないので病気にも罹りにくくボケな い利点がある。但し孤独ではなくて人付き合いをしている場合に此れが言える。 ▲ひな・・・・・・ ●雛ひな祭り・・・・・・形代しろ(人ひと形)を作り、其れに自分のケガレを移し、其の形代にケガレを託して水に流す事で、つ まりは水神に本人の罪穢れの祓いを祈る行事であり、平安時代は弥生の上巳に行った。源氏物語の「須磨の嵐」の一 節には、光源氏が此れを行った結果、大嵐となった事が詳しく語られている。 ですから此れを西暦の3/3にしては「桃の節句」と言っても桃がない行事となる(「桃の節句」、「上巳」、「祓い」、{月読 み}の「雛祭り」を参照)。また粟島明神(加太神社)の3/8日の祭りが事始と雛祭りの最古の起源と言われる。 次に「ヤフー知恵袋」の「方位」について回答した中から引用する。 ひな祭りは桃の節句と言うように年中行事の特に季節にリンクする祭りです。古来、季節ごとに災いを避けるための祓 いが行われて来ましたので、日本は清浄な国になっています。さて方位ですが、四季はカレンダーの数字ではなくて四 方を巡るのですから、春は東です。 数字と曜日の今の西暦では日本文化も伝統も破壊されていますが、ひな祭は桃の花が咲く頃にしました。今の3/3では なくて旧暦の節句ですから西暦の08/4/8にすべきです。 従って方位は春の神を桃の花や雛飾りに迎えて西に流す神事行為になりますので、厳密には真西から17度北寄りにし て、其処から毎日北へ日々1度づつ回り込む方角に余裕をもって飾るのが最善と言えます。 ▲ビーナス・・・・・・「ヴィーナス」、「金星」を参照。 ▲ひに・・・・・・ ▲ひぬ ★ ● ・・・・・・・・・・・・・ ●■▲◆★ ◆ひの・・・・・・・ ★火の神・・・・・・・火を物理的に見れば酸化作用である。酸素の働きで元の形を消してしまうのが火の特徴です。 そのようにも理解できるが敢えて別の点から述べる。天の太陽はあまねく此の世を照らす日火であるが、其れに対して 地上の火は局部的な存在です。太陽は天下る光ですが、この世の火は局部的に燃え上がる性質です。 また日本神話の外こと天神には独り神があり、此れをヒトリ即ち独身(ヒトリミ)と見る。其れが普通だが仮にヒトリ=火取 り神とすれば「火の神」になり、或いは「独り」を「日取り」と見れば別の解釈も出来る。 さて、ハッキリ火の神として知られるのは家具土の神と火雷(ほのいがづち)神が愛宕・秋葉明神である。外に竈(かま ど)神・久那土神・土公神(サルタヒコ)がある。海外ではBC6C以後のバラモンやゾロアスター(拝火教)も「火の神」を 祭る宗教であり、ギリシャ神話でも星と火を神としていた。 日本でも火祭りが多いが、古来、家で火を守るのは台所を守る主婦の務めであり、仏教の倶利伽羅竜王(不動明王) や三宝荒神を竈の守り神として祭る所も多い。 日本の火の神は先の秋葉・愛宕の神、即ち火雷(ほのいかづち)神やホムスビ(火産霊)神、家具土の神であるのに対 して、ギリシャ神話には其の火を天界から盗んだと言われる巨人・プロメテウスが有名だ。 彼は火で土人形に命を与えて人類を創造したとされるがゼウスの怒りに触れた。また家具土の神は母(イザナミ)のホ トを焼いて父・イザナギに斬り殺されたが、日本では家具土の神が天狼星とも見られている。此の星はシリウスであり、 ギリシャ語ではセイリオスが「焼き焦がすもの」との意味になる。 諺にも「火の無い所に煙は立たない」と言う通り、火は自然界にはないものです。有るとすれば日本のような火山のあ る限定的な場所でした。とすれば火の神の素性は古の日本であり、其処から冶金鍛冶の技術がシナ大陸からインドや 西洋、エジプトへと伝播したと考えるほうが無理がない。 其のように見ればヒッタイトがエジプトへ侵攻した事も、或いは釈迦の時代のゾロアスター教などが当時のインドで起こ った風土的な新興宗教だった事も分かる。さて火を火の気の無い所にも作れるのが人間であり、実際、火を焚けば人 が集まり、団欒の場を作ります。火の神はこのとき、人の心を一つに集める不思議な働きをする。 イスラエルの伝承でも「火は神の臨在の象徴」とするように、星族(別項を参照)は火の神を崇める。極寒の地では特に 火が貴重で有り難い。よって彼らのイデオロギーは火が燃え上がるように激しい一神教に集まり、熱い戦争を続ける宿 命を持つ。特に寒冷地の遊牧民は火で肉を調理して火で暖を取り、死者が出ても火を使った。 寒い凍土には穴を掘って埋葬できないから火で荼毘に付した。金属精錬にも火を使うので、ヒッタイトは鉄器を発展さ せた。インドから中東の山岳地帯では前記のようにゾロアスター教、バラモン教など(「星族は金属」を参照)が出たが、 他方、この火の神に対しては水神がある。 火は如何に破壊力が強くても水に消される心配が常に有る弱い一面を宿命として持つ。ヨーロッパとアジアとが反目す るのはこの点にある。水神・竜神・月神・仏教の神は自然界を何度も洗い清めて再生させる力と、作物や肉体を育てる 力がある。此れは何事にも代えがたい能力です。 けれども火が燃え上がるのに対して、水神が譬え束になっても自力で飛び上がる力はない。其の点で火は、地から天 まで上下に働く事が出来る。水神が復活再生のシンボルとして蛇(ナーガ)で象徴されるのは、水の機能が水平面を蛇 のように動き回るだけの限界点が有るからです。しかし火もまた自力だけでは上れない。 酸素か水や土、化石、或いは草木などの媒体がなければ独り(火トリ)よがりの一人(火トリ)相撲であり、初めから此 の世に存在する事さえ出来ない弱い立場である。 ●日の国は考える国・・・・・・・日本は古来、仙人の国であり、長寿国だった。よって秦の始皇帝も仙薬を求めて徐 福を派遣して来た訳です。つまり日本は老熟した高い精神文化圏であり、其れは太陽を神とし、または方位を哲理・道 理として公平社会を作る知性と高い精神文化を持つ「考える国」でした。 だが精神主義一辺倒ではなくて神と人、心と体と言う両面の一致を重視し、家族親族の血筋を重視しながら悪平等に はならない「公平性」によって秩序と調和を図る気風や道理が有った。このため八方の先祖に対して円暦(各項目を参 照)で祭って来た。よって日本国内には至る所に八方の結界が出来て、神々が守るように設定されて来た。 だからまるで「神風が吹く神の国」として、江戸時代までの日本は警察もなく、武士も僅かしかいなかったのに世界の中 でも例外的に平和でした。他国では戦争をしていたのに対して、日本では各地で毎日何処かで祭りが繰り広げられた。 とは言っても江戸時代までは確かに唐風を手本とした。其れは「日から月」の文明時代になったからです。 所が明治に至り月の文化から方向を急転換して星の国に変わろうとした。そして武人の国として日清・日露と戦い、ま た大東亜戦争では列強を敵に回して大敗しました。更に戦後は急転直下、一億総商売人の国に一変した。此の時点 で軍事外交全て駄目な国にしたのです。 軍事国家では困るが、市場原理とかゼニカネ主義と言う商売人の感覚で国家を弄れば国を滅ぼす事になります。 さて日本は古来、神を祭る国でした。年中戦い続ける蛮族とは違って、年々歳々神祭りを祭り事(政)として来たので す。其の高い精神文化を今に伝え温存して来ました。鎖国と言う方法で蛮族を敬遠して自国を守って来た訳です。 にも拘わらず、黒船以来、海外の物質文明に腰を抜かした江戸末期から明治になると、日本人は静かな月の唐風文 化を廃して積極的に蛮族の仲間入りをした。しかも此れを文明開化と喜んだのですから実に愚かでした。天気の挨拶 から始まる日本人の会話が、やがて「儲かりまっか」と言う大阪流の挨拶になり、物金主義に急傾斜した。 更に日本人は自ら考える事を忘れた。知識詰め込み偏重の点取り虫となり、或いは英語をしゃべって洋服を着こなし た。そうしても白人にはなれないが、戦後は全く日族はいなくなり、バタ臭い混血的な偽物やコスモポリタン(無国籍者) の支配する民族に成り代わった。従って自ら神の力が及ばない世界としたのです。 此処から脱するには欧米と同じ武力やユダヤとシナ式のモノカネ主義のカードを使うのではなくて、彼らが最も苦手とす る太陽や先祖、其れに祭りや魂、或いは歴史や伝統と言うカードを使うべきであろう。そうすれば日本は勝手に平和で 豊かで良い国に変身するだろう(「老成文化」に続く)。 ★火の洗礼・・・・・・・・・・星族(別項を参照)は火の神を崇める。特に寒冷地の遊牧民は火で肉を調理をして火で暖 を取り、死者が出ても凍土に埋葬できないから火で荼毘に付した。オリンピックも「火の祭典」と言い、「聖火」ランナー を走らせて始める。 また、キリスト教徒は「ノアのときは水の洗礼だったが、次に人類は火の洗礼を受ける」と堅く信じているのである(「キリ スト教」及び「星族は火の金属文明」を参照)。確かに彼らは原水爆など熱い戦争でこの世を焼き尽くすだろうが、日本 の言霊では「火」が実は「霊」なのである(「最後の審判」を参照)。 ●日のタタシ・・・・・・・・日のタテとも言う。タテは縦であり、日経とも書く(成務紀)。意味は東西に通じる方角の事。対 語にヨコシがある(日のヨコシを参照)。更に憶測を加えて言えば、日本は日の本であり、日は東から昇る。此れを日が 発つと見たのがヒダチである。また月が発てば月発ち、即ち新月をツイタチ(朔)として陰暦の1日とした。 オテントサマの日道(日の通り道)を黄道とも言う。黄道は東から西に走る。其のラインが日発ちの縦筋であるから日の タタシと言ったものと解釈出来ます。其れに対してヨコシとは其の日道を横から見るからです。横とは北に位置して南天 を見る事でした。横の字にしても黄(中央)の前に木(柱)と書いている(天子南面を参照)。 ●火の玉・・・・・・・・墓地や沼沢などで梅雨時などの夜間に見られるもので鬼火、人魂、火の玉、火玉などと恐れられ た。昔は土葬が殆どだったので、新仏の死体から出た燐が空気に触れて燃え上がった。梅雨の頃に屡見られた。人体 には歯や骨、其れに血液など全身に燐が含まれているが、特に黄燐が空気に触れると自然発火する。 黄燐は自然界に単体(有毒)で存在する事はない。つまり生物の死体が腐乱した時に発光現象を呈する。尚、人玉と 言う場合は火の玉とは違う。此れについてはオーブやプラーナを参照。 ■丁(ひのと)・・・・・・・・五行では「ひのと」、つまり火の仲間にされているがやや違って寧ろ「太陽の足」である。丁の 字は十干の「ひのと」。方位では南、但し丁の字が示している通り、地平線からの影(日縦・日垂・日のたた・日の下)が 真南から伸びて左に傾く時の形。つまり時刻では午後の始まり。 其の逆の「丁夜」と言う場合は丑の刻(02:00前後2時間)を指した。つまり丁の字は実に古く、太陽観測の方位と時 刻を示した指事文字であるが、古字の丁が今では象形とされている。また今では丁が釘の原字ともされているが此れ も疑問である。 丁の字は一に「はねぼう」でなり、「はねぼう」は鍵の手とも言われるが予や矛の字、事の字にも使われ、或いは仮に 巾、布、律、弟・・・とも同類とすれば「鍵」とは明らかに矛盾するため元の意味を正す必要がある(「ヨボロ」を参照)。 丁の字はヨホロと読み、其れは正丁などの課役人(「鬼」を参照)を意味した。 太陽観測(玉串の祭りを参照)による測地をした所から今でも役所を「庁」とし、観測に基づいた区割りで「町」を作り、こ の測地作業に従事した正丁(課役僕)を丁(ヨボロ)と呼んだ。丁の字は条里制を支えたヨボロであり、よって田の字に 付いて「町」の字になり、或いは庁となった訳である。丁はまた甲乙丙丁(こうおつへいてい)のテイである。 丁はアルファベットのティ(T)にも変化した。そして文房具には今も「丁定規」が使われる。此れも丁の意味を伝えるも のだ。 ●日の丸・・・・・・・・源平合戦図などでは軍扇に日の丸が使われており、また後醍醐天皇も、天皇旗として日の丸を 用いた(奈良アノウの堀家にある)。その後、武田信玄が軍配や旗印に日の丸を用い、また佐竹氏の定紋も「日の丸 扇」である。また福原氏は、「円相天地紋」と言う日の丸紋であり、関ヶ原の合戦では家康が旗と軍配に此れを掲げた。 そして江戸時代には御用米廻船で幕府の船印として使い、また幕末に幕府は、島津公と水戸公との意見を容れて安 政元年から軍旗を日の丸とした。勝海舟たちが米国への初渡航に成功した時も威臨丸には日の丸を掲げ、米国でも 日の丸で彼らを迎えている。明治三年1/27に政府は「日の丸」を日本郵船と商船に掲げさせた。 その後、フランスが日の丸のデザインを賞賛して此れを譲り受けたいと申し入れて来たが、明治政府は「日本のシンボ ルを売る事はできない」として此れを拒んだ。 また現在の朝日新聞社の社旗に似た、帝国海軍の旭日旗の場合は、既に原型として六つ、八つ、十二日足紋として西 田、神崎、河内、石丸、鍋島氏、木下各氏が源平時代から用いていたものである。やがて日の丸は戦時下の時には血 で染まったので、戦後暫くは、「日の丸=軍国主義」と一部の国民からは拒否された。 そしてやっと平成11/8/9「国旗・国歌」として、日の丸の寸法まで正式に制定した(2004/1/27 読売テレビ「今日は 何の日」より一部引用)。因みに国旗は、其の国が天体のどの星を神として暦法に使っているかを明示したシンボルで した。日の丸は言うまでもなく太陽星である。 とすれば日の丸を軍国主義や宗教とか天皇制と結び付けたり誤解して嫌うのは大人気ない事です。 ●日のヨコシ・・・・・・・・日の横、日緯とも書く。意味は南の方角、または南北に通じる子午線の事(日のタタシを参 照)。 ▲ひは・・・・・ ◆被爆・・・・・・・・原水爆の衝撃、熱風、残留放射能被害のうち、主に放射能被害の事。放射能は白衣を着ていれば アルファ線を遮蔽できるが、原水爆は突然投下されるものであるから此れを知っていても被爆は避けられない。 原子炉関係者は防護服を纏っているが、其れでも一定量のガンマー線を受ければ生殖機能が破壊されるので独身者 は担当に就けない。 さて人類最初のモルモット・標的として1945/8月、マンハッタン計画の責任者のグローブス将軍が「新潟、京都、広島、 小倉、長崎」と決めていたが、ポツダムのマーシャル陸軍参謀総長が広島にB52大型爆撃機によって落としたのがリト ルボーイと呼ぶ爆弾だった。 長崎には509混成群のティベッツ大佐がテニアンから運んだファットマンを落とした。日本への「実験」は旨く行った(原 爆を参照)。GHQは直ちに「プレスコード」を発令して原爆報道を禁止した(エノラゲイを参照)。このため被爆者は原爆 症に苦しみながら国から放置された状態で社会的差別や偏見にも苦しんだ。 何れにせよ20万人以上を殺した此れら広島・長崎型原爆が以後の核兵器の基本単位になった。被爆者の存在がクロ ーズアップされたのは54/3月に米国がビキニ環礁で水爆実験をして、日本の漁船「第五福竜丸」が「死の灰」を被った からである。池田勇人(衆院議員)は戦後10年目に被爆者の訴えを聞いて「日本はアメリカに弱いから」と言った。 また厚生省の「基本懇」は80/12月に戦争の犠牲について「全ての国民が等しく受忍しなければならない」と答申した。 しかし政府が「アメリカに弱くても」国民が受忍できるものではない。94年、原爆2法を一本化した今の「被爆者援護法」 が成立した。其れでも国家補償はなかった。被爆者は高齢化する一方である。 もう時間がないから直ぐに手を打つべきであり、また米国が日本に謝罪すべきであって日本は謝罪や懺悔は無用であ る。日本は核兵器廃絶を全世界や国連の責任として、より強く訴える世界第一の資格と使命がある。 ▲ひひ・・・・・ ●火色金(ひひいろがね)・・・・・竹之内文書に記されている貴金属で、古の神器や建物の屋根はこの金属で作られて いたと言う謎の物質の事。またヨーロッパでは錬金術師たちが黄金やオルハリコンと言う貴金属を作ろうとして失敗し た。かの地ではその目的を達成できなかったものの、その副産物として近世以来、唯物科学文明を発展させた。 ▲ひふ・・・・・ ▲皮膚・・・・・ ●一二三(日文)歌・・・・・・・ヒフミヨイムナヤコト、モチロラネ。シキルユイツ、ワヌソウタハクメカ。ウヲヱニサリヘテ、ノ マスアセエホレケン。と言って「ヒ」から始まり「ン」で終わる48音の奇妙な謎の数え歌。謎と言うのは初めの「ヒ」は天の 日、もしくは霊であり、次の「フ」は「降る」であり、そして「ミ」は地上に満ちた「水」を意味する。 と見れば分かる筈なのだが、其れを理解できなければ謎とする。此れは太陽観測の祭りの様を伝える部分(モヒトリを 参照)である。とも見えるものの、其れ以下については、この歌の意味が良く分らない。ともあれ最初の「ヒフミ・・・・モチ ロラネ」から15音は、123、456、78910(十)、百、千、万、億、兆・・・までの単位である。 それらをたった15音・字で一気に数える数詞である。此れは素晴らしい仕組みであると分かる。此処から掛け算九九 が成り立った。英語などでは此の九九を真似ようにも真似さえ出来ないから外人は計算が遅い。つまり日本人は極め て数理的にも明るい民族だった事が此処からも判明する。 この一二三歌は日本人の誰もが有史以前から当たり前のように何気なく日常使って来たものであるが、こうした事例 は世界広しと言えども他国には決して見られない。一二三は日本の教科書の歴史より古い文化の一つであり、他国が 急には真似さえ出来ない高度な精神文化である。 ▲飛蚊(ヒブン)症・・・・・・・・目の症状の一つ。飛蚊(ヒブン)症と言うのは普段は余り気にならないが、目の中に蚊が 見えたりシャボン玉のようなものとかアミーバ状の半透明のものが見える事。此れは中年過ぎに目の中の硝子体が濁 ったもので、悪化すれば網膜はく離を起こすと言われる。 或いは目の中に血痕が出来たり、網膜に微細な穴が出来た時に現れる。だがこの飛蚊症になっても特に害はないし、 治療法もない。他に目にチカチカと光が感じられる光視症と言われるものがある。また次は病気ではないが、普段は人 の目には見えないプラーナを見る事が有る。人体の周りには微細な浮遊体がある。 此れをプラナ、またはプラーナ(別項を参照)と言う。でも此れを見て先の病気と決め付けてはならない。プラナを見る のは病気ではなくて実に素晴らしい能力なのです。 ▲ひへ・・・・・ ▲ひほ・・・・・ ▲ひふ・・・・・ ▲ひま・・・・・日間。 ▲ヒマラヤ・・・・・インドとチベットを山麓にして標高(平均高度)4800mの山々を東西に連ねた山脈であるため「世 界の屋根」とも言われる。最高峰はエベレスト(8847m、チベット語ではチョモルンマ=大地の母神)。だがこれは海抜 からの高さであり、地軸からの高さではアンデスのほうが高いとも言われる。 何れにせよヒマラヤは長さ約2550km、幅約220kmに及び、シナの揚子江や黄河、それに東南アジア最大のメコン 川、更にインドのガンジス川とインダス川などアジアの8大河川の源流となっている(氷河を参照)。ヒマラヤでは海洋生 物の化石が色々見つかる。此れはヒマラヤが隆起を重ねて高くなったとして大陸移動説の証拠として説明される。 ●日待ち・・・・・お日待ち。氏神の命日など一定の日にグループで参拝して日の出を待つ事。元旦の日の出遥拝もこ の名残であろう。「日ごもり」、及び月読みの「月待ち」も参照。 ▲ひみ・・・・・日見。 ●ヒミコ・・・・・ヒミコは日を読む人の事であり、例えば日を見る「日見子」である。其れを卑弥呼と書いて「鬼道をよくす る」と述べたのが魏志倭人伝(別項参照)である。さて「鬼道」については、無知な学者が此れを憶測で必ず「シャーマン のような」と解説するが、別項の「鬼」で述べている通り、此れは太陽観測による暦道の決定者でした。 また古代史ファンの多くが必ず卑弥呼と天照大神とをリンクしてしまうが、其れは小説やドラマの話なら面白いとして も、真面目に歴史文化を見るべき歴史家や宗教家がやってはならない事であろう。 日本には世界一優れた記紀やその他の第一級の古文献があるのに、其れを精査せずに何でも外典を信奉して日本 で死守し伝えられて来た貴重な文献を軽視するのは止めたい。そうした倒錯した渡来史観の態度が先ず問題であり、 第二の問題として時代が違うのである。そして第三にはシナは政権がめまぐるしく変わった事である。 日本が長期安定した祭り事をしているのに比べて、シナの政府は何時の時代も政変が繰り返したので全く信用度がな かった。従って現在でもそうであるが、日本から多大な恩義と援助を得ながら国内では反日を煽り、日本を敵視する事 で国内を纏めようとした。 だから倭人とか倭の奴の国(「委奴」を参照)と蔑称し、卑弥呼と当て字してしかも海の彼方の実在しない架空の所に仕 立て上げたものである。其れを今、暇にあかせて古代ロマンに浸かり、実在したものと頭から信じて口角泡を飛ばして 議論したり検証に明け暮れるのは滑稽であり、時間の無駄の徒労であるのみならず、世を惑わす事になる。 有りもしない「南京大虐殺」をデッチ上げたように、あの国は元々フィクションが上手で夢のある国である。だから江戸 時代から日本の好事家が取付いても以来、今だに何も分からなくて当たり前なのだ。 ▲ひむ・・・・・ ●日迎え・・・・・・・太陽を迎える行事と言う訳ではなく、色んな縁日を日の巡る角度から暦日で知って先祖や神を迎え る事である。其れは一定の時期・方位に神を迎える事(行為・儀礼)であり、そのため予め辺りを清浄にする。神社の祭 りは主としてこの日迎え行為の場であった。よって神社は古来、「清め祓い」を主務として来た。 それに対して寺の祭りは穢れた遺体の処理と、野辺の送りに始まり弔いの法要や鎮魂のための場として其れを縁日と して続けた。つまり寺は「浄土」とは言っても神社とは逆の穢れの場であり、浄土とは程遠いケガレの場でした。そうして 一度送った御魂を、次は逆の時期・方位に迎える行為が「日迎え」でした。 此のため忌みケガレのある例えば近親者と死別した服喪期間中の者は参加出来なかった。その日はハレの日(祭り) として一族総出で着飾り、揃ってある一定の方位に迎えに出る行為となり、多くは行列となる。此れが見行(御幸)、道 行、即ち行幸でした。其の先に岬があれば海の彼方を見つめて、遠くに向かって叫んでその御魂を呼んだ。 其処が後に岬・御崎・神崎の名を残した。或いは其の方位が川岸であり、其処に花が咲いていればその花を手折っ て、其れを御魂の形代として奉げ持ち帰って祝った(生け花の由来)。イワイとは魂を結わえ付ける事でした。しかし其 れだけではない。依り代とか片身が有れば尚更良い(「片身」を参照)。 ▲ひも・・・・・ ▲・・・・・ ●ヒモロギ・・・・・・ヒモロギとは「日、即ち霊を貰う木」の事である。つまり先祖の墓標を立てて、其のなす影の角度を 知り、其れで太陽の暦を読みとって祭りをする事により、先祖の魂が復活すると見た。だから墓標と「御柱」とは起源は 同じものでした。従って先祖の数を今でも「何柱」と数える。 そして今でも寒村に行けば古の葬法を踏襲して、白木の檜材の先を尖らせた一本の角柱を立てて、其の周りに鳥居を 付けた井垣を設えた墓壇を見かける事が出来ます。また民家ではお正月になると門や家の前に門松を立てるが、これ だって歳の初めに神を祝いの「門で待つ」ための依り代であり、ヒモロギの類である(「御柱、及び杉紋」を参照)。 また上記の「日迎え」の際に手折った花木を家に飾る所から今の「生け花」に発展したものとも言える。ただ生け花の 場合のヒモロギの起源は神代に桜と橘とを植えた事に由来すると言う。しかし神道ではヒモロギを不明にしている。た だご祭神の数を座として数える。 今では先のようなヒモロギの意味が理解できない神社では、神社庁推薦のカタログからヒモロギと言う榊を立てたお飾 りを購入して神前に飾っているが、此れでは駄目である。 ● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●■▲◆★ 次は
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