http://hijiri.tamajiri.com 「日知り事典」 page248.html (未定稿) 日知り事典 ト〜童謡 ●と ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ と● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ● ●と・・・・・・・「と」は真上、または真南・真正面の事であり、従ってオテントウ様とかトト(父親)さん、或いは「十」(とう)と なり、また上の「ト」と結ぶ下の土地の「ト」、そして所の「ト」ともなる。 ★斗・・・・・・水を汲むヒシャクを象った字として象形文字に分類されている。しかしどう見ても日用品のヒシャクとは思え ない。所で斗の字は1斗とか北斗七星として使われる。つまり、手元で使うヒシャクではなくて、天の中空を巡るヒシャク 星(北斗七星)と小熊座を十文字に架けて表した文字が「斗」の字であると思われる。 斗に十文字を使ったのは、天球を四方に分けて見たからです。夜の天球の十文字の中をヒシャク星が一晩で巡るの で、其の角度から人は時期や時刻を計る目安としたからです。よって此の「斗」の字が更に液体や穀物の計量単位の 1つになった。計る意味からである(マス・升を参照)。 ★とい ★ドイツ・・・・・・・・国章は鷲。 ★とう ▲唐 ▲灯 ▲塔・・・・・・・・中世ヨーロッパの塔は権力や冨のシンボルでした。ヒンズー教寺院の跡にイスラム教寺院になった所に も新たな塔が建てられた。市民は塔を欲しがった。町の中の高い鐘楼から街中に鐘の音を響かせたいと望んだ。塔や 鐘は元々教会だけの物だった。やがて市民が自治権のシンボルとして鐘楼を建てて教会からの自由を示そうとした。 更に多数のカリヨンを演奏したりパイプオルガンを響かせて自ら情報発信をする塔とした。王権や宗教からの自由と新 たな力のシンボルとして(06/9/10のNHK総合TVより大部分を引用)。 ▲党 ●銅・・・・・・・日本は昔から銅の産地であり、銅鏡や銅鐸として神器に使い、また中世にも幕末にも銅の輸出で世界の 相場を左右して来た国でした。銅は加工し易い金属であり、昔からシナでも神器として多用されて来た。今も銅製品は 特に熱伝導性が良いので調理人は銅鍋を愛用する。 また銅には殺菌作用があるため昔から医学機器として使われ、また近代戦では銃砲の弾に銅が多量に消耗されるの で戦争の都度、銅の価格が暴騰した。銃弾は鉛(有毒)であり、其れを包むのに銅が使われるからです。其れに電化 時代となった今は銅線として多用する。電気伝導度が良いからです(「銅鐸」、「赤がね」、「青銅器」、「龍神」を参照)。 ▲遠あて・・・・・・・・遠くの物を手も触れずに動かす術。例えば念波で雲を作ったり消したり、或いは鳥や獣を遠くから 気絶させる気術。此処から意気軒昂な者を「飛ぶ鳥を落とす勢い」と形容した。昔の剣豪や柔術者には手も触れずに 相手を数メートル投げ飛ばす術者がいた。此れが「空気投げ」であろう。 其の流れが合気道や今の気功であろう。こうした術者の前では恐らく如何なる相撲もスポーツも無駄。選手たちがもし 「何かへん?」と気付いて無理に抵抗してもコロコロ転がされて試合が大混乱に陥るに違いない。 ★東欧・・・・・・・陸続きの大陸は何処でも通行できますから遊牧には適しているが、大河や山脈でもない限り何処か らでも侵略され易い。此れは弱点にもなる。よって東欧の場合は国境がめまぐるしく変わったし、今も国境と少数民族 の問題が有る。 東欧はワインと遊牧の土地柄であり、少数民族・ロマが850万人いて教育水準も低く、彼らはジプシーのように毎年4 月から旅立つ。凡そ半年間の長い旅である。国境については例えばハンガリーは950年以来、1648年にオスマント ルコに支配され、1815年にはオーストリア(ハプスブルク家)に支配された。 1930年には第一次大戦、1942〜1945には第二次大戦があり、国が小さくなった。激しい戦乱で人々は殺戮され、 国境も変わった。またポーランドの場合は歴史的にドイツから侵略されて来た。第二次大戦後にドイツとは国境で仕切 られたが、今は寧ろドイツの経済に支えられてEUに加盟した。 だが西部は其れで良くなったものの東部は西欧から遠く不便なため貧困である。 ★闘牛・・・・・・・牛と人とが戦って観客が異常に興奮する競技である。牧歌的な西欧農耕民族特有の娯楽として、スペ インの伝統文化になっているものの、何の罪も、戦う気もない牛を競技場に引っ張り出して殺した男が英雄視されると 言う事は動物愛護の観点からも好ましくない。こうした事からバルセロナでは2004/4月から禁止と決定した。 日本でも先の中越地震で被災した山古志村でも伝統的な闘牛を行う。だが此処では牛と牛とを戦わせるが勝ち負けは 決めない。 ★東京一極集中・・・・・・・経済活動の為に首都に人口が集中した事。だが危険な事である。近年の経過から言え ば、池田内閣の所得倍増論に続いて田中角栄の「日本列島改造論」以来、全国に新幹線や高速道路が出来た。それ らが東京に一極集中したが、これからは空港も益々出来る。関空も赤字であるのに、直ぐ近くに神戸空港を造った。 続いて06/3/16には新北九州空港が開港した。どうしてそんなに造るのか。理由は簡単である。戦争を始める為であ り、其の為に日本を米軍の「不沈空母」とするために全国各地に赤字空港を乱造中なのであろう。日本列島の特に太 平洋ベルト地帯は車の洪水で有事の際には到底役立たない。よって空港を使って防衛しようとする。 此れが中曽根の「不沈空母」であろうが、自衛ではなくて要するに米軍基地化して来た。06年には米軍再編で司令部 が日本に来る。3兆円も出してである。此れで日本が先にミサイル攻撃される。だから米国は安全だ。だが此れでは 「不沈空母」が残っても日本人が全滅しているだろう。 やがて無人島の日本が目出度くUSA日本州となって、米国から植民団がやって来ると言う悪夢が現実味を増して来た (沖縄、及び「ミサイル」を参照)。 此の悪夢を見たくなければイラク派遣と一極集中を止めて地方分散化に転ずる必要が有ろう(次項、及び「首都移転」 を参照)。所が石原知事は06/7/20に次のオリンピック2016を招致と発表した。此の頃まで日本や都内がまだ残ってい ても都内は益々渋滞です。 ★東京大空襲・・・・・・・関東大震災の痛手の後、終戦直前の昭和20/3/10、東京は未曾有の空襲で10万人が 犠牲になった。無論、騙まし討ちした米国が民家を爆撃するのは国際法上も違法であり、二重の罪であるが、直接の 犯行は米軍のカーチス・ルメイ(空軍少将)だった。 彼は米国では英雄になれたが、成果を上げるためなら何でもする男だったとも言われる。彼はB29で都内を効率的に 焼け野原にするために何度も実験を繰り返してM69焼夷弾の38本セットの威力を確かめた。 都心部は木造家屋が多かったからだが、此れはゼリー状のガソリンが主成分で、瓦屋根を突き破ってから内部で発火 する仕掛けのものだった。特に人口密集地域の下町・浅草は悲惨だった。言問橋には多数の都民が避難のために集 中したが全て炎に包まれた。この日の爆撃で都民の10万人がゴミのように殺された。 その翌日、下町や隅田川の川原には累々と死体が折り重なっていた。その多くは女子供とお年寄りだった。非戦闘員 に対する無差別爆撃である。しかし大本営は翌日、犠牲者について一切ノーコメントだった。また戦後、日本政府は戦 争犯罪人である彼に勲一等旭日大綬章を与えた(毎日S)と言うから馬鹿さ加減に呆れる。 ともあれ米軍はこの無差別爆撃の大成功に喜び、次は名古屋、大阪、広島、長崎と空爆を続けて日本人の40万人を 無差別虐殺したのである(大要は05/3/6、「NHKスペシャル」から引用)。 因みに翌日の毎日新聞では1945年の3/10〜8/14までの犠牲者数を広島(14±1万人)、長崎(7.3万人)を含 めて50万人と報じた。アメリカはキリスト教徒の多い国だがこれだけ無差別虐殺した。 「勝てば官軍」の実績を元に武力で脅して世界の警察官として正義を振り翳して君臨して見ても、前科者がポリになって 偽善的な事を言い始めても世界が従うだろうか。 ▲唐三彩・・・・・・・洛陽の墓の副葬品として100年前頃から出土して一般に知られるようになった豊かな色彩の唐時代 (1250年前)の陶芸品。骨壷、瓶、駱駝、馬など、当時の暮らしの様式を其のまま陶器に象ったもので、死者の死後 の生活を守ろうと副葬されたもの。但し出土品なので完全な形のものが少なく、しかも市場に有るのは偽物が多い。 ●動座・・・・・・・かつての日本人は「一寸の虫にも五分の魂」と言う認識があった。だから譬え木を切る場合でも、酒 をあげ、事前に注連縄を張って其の木に予告してから伐った。しかも近くに同種の苗木を用意して動座を願うと言う手 続きの作法を採ったのです。墓石の場合も上の石塔だけを移動して終わりと考えてはいけない。 無論其れはないと思うが建造物の地下にはより大切なものが有る(此れを沈め物と言う)。墓地にはお骨があるが、墓 石は其の「標し」でしかない訳です。寺社の建物は無論の事、城郭や旧家の場合も、下には基壇があり、地下には鎮 壇具(法具)や二枚貝、土器、シャリなどが埋められているのが古くは通例だった。 従って、建物・上物だけを動かして「一件落着」とするのは「一寸の虫」にも劣る。と言えば、「万物には霊魂が宿る」とす るのは極論であり、アニミズム的と指弾されようが、「物には魂が入っている」と見なす心得もまた必要であり、其れを 無視したり信じないのがモノカネ主義である。 科学の力で処理しても事故事件となる場合があるので一応この事(コトワリ)を知って置き、注意を払うべきだろう。この ために「ミタマ抜きとミタマ入れ」が古来行われて来た。皇居を遷す事を遷宮と言い、神社の本殿・神倉の位置を替える 事を動座・遷座と言う。墓地や墓石を移し(動座する事)、或いは工事に着手する場合も遷座式を行う。 先ず墓石工事の前に「御魂抜き」の儀式となるが、この場合は先ず命日など吉方・吉日(西暦や大安・吉日ではない)を 選んで移動する。其れには墓石の前に簡素な祭壇または祭具を作って酒・塩・洗い米・花などを供えた上、僧の読経と 参列者の焼香を行う。尚、寺僧は生前、その故人が信仰していた宗教によるのが望ましい。 そしてこの御魂を抜いた場合の御魂の処置は、無論当の親族が自宅の仏壇に仮に安置する心構えが必要である。こ のためには御魂の依り代として、予め、戒名札を作り、血の濃いものが送り迎えするのが望ましい。 「仏造って魂入れず」とは、こうした「動座」の観念のないモノカネ主義の事であり、物だけ見て美術品や骨董価値として 見て扱う事である。ともあれ、手続きとしては祈願し予告した上で工事に入る訳だが、その後、工事が行われて十日くら い後には墓石が整うので、また僧に来て貰う。 僧と石材業者立会いの上、読経による招魂・「御魂入れ」の法事をする。この間、墓石は白いサラシ布が巻かれるの で、当日儀式の中で序幕する。其のときの供物は祝い事になるので、山・海・野の三界の幸と酒・塩・洗い米・アズキ (または餅)・花などを供え、奉水・焼香で終わり、供物を撤下して関係者が直ぐに戴く(「なおらい」とする)。 因みに一般の神式の「祭り」と言う行事の式典の部分も、この種・招魂のハレの儀礼であり、墓地の場合もこの「ハレ の祭り」の後に入魂により墓地・墓石としての意味・機能が発生・復活する事になります。 ■とうし ◆投資の心得・・・・・・・@「人の行く、裏に道あり花の山」、雷同売買、怪我の元。A「遠くのものは避けよ」、と言う。此 の意味は「乗り易い馬を選べ」、卵が産まれるまでは買うな、分からないものは買わない事。B「麦藁帽子は冬に買 え」、流行物は廃り物。 C「木は庭ではなくて山に植えよ」の意味は「忘れた頃に見に行くと立派に育っている」・・・・以上は月刊PISCより引 用。 ●冬至・・・・・・・24節気の一つで、太陽が一番低い位置に来る日の事。昼の時間が最も短くなるので太陽観測もし易 い。逆の夏至の頃は正午のお日様が真上(90度)近くになるのに対して、冬至の同時刻の場合は、地平線から30度く らいですからかなり低く、そのため家の奥まで陽光が差し込む訳です。また夜になると冬の星座が一番綺麗に輝く。 オリオン座が輝く時期なので方位の再確認が採り易い。何れにせよこの日を境に日照時間が長くなり、太陽の位置も 上がって行くので古代の太陽暦ではこの日を年の初めの元旦とした。冬至は暦では子の月、旧暦の霜月中気で子の 方位、つまり子午線の北、真北になる(「真北」を参照)。 またこの日は昔からカボチャを食べて柚子湯に入ると言う習慣が有った。此れは冬至と「湯治」の語呂合わせとも言わ れるが、外にも関西では冬至には「ン」の付くものを七種食べると言う。南京(カボチャ)、ニンジン、蓮根、ギンナン、金 柑、カンテン、ウンドン(うどん)、またはコンニャクである。 此れは単なる語呂合わせではなく、「アウン」(阿吽)から来ているものと推定する。アイウエオ五十音も「アから始まって ン」で終わるように、一年も昔の暦では元旦から「アケ」て、冬至の「ウン」で終わったのである。と同時にこの七種は何 れも厳しい冬を過ごすための健康食として適していたからだ。 だが、最近の日本の若い家族の年末は冬至よりもXマス主義になった。先ず手軽なクリスマス・リースをクリスマス前か ら玄関に飾り、そのままお正月を迎える所もあるが、日本では古来、年末には神社で大祓いを行うが、所により茅の輪 を置くケースがある。 また例えば伊勢・神島ではお正月にゲーター祭りと言う奇祭があり、其処では丸い輪を、何本もの長い竿で下から突き 上げる。此れはこの頃、日々弱って来る太陽の元気回復、即ち「一陽来復」を祈る冬至の祭りだったと推定されてい る。 先のリースも後者の丸い輪も何れも太陽のシンボルであり、クリスマス・ツリーもまた太陽観測の見柱の祭りに通じるも のと推定できます。またロシアでは伝統的に太陽を象徴する丸いパンケーキを焼いて春の到来を祝う習慣が有る。 古代ペルシャに発生した密儀宗教・ミトラス教に於いても「冬至祭り」は、「太陽の誕生日」として最も重要な祝日だっ た。太陽神・ミトラスは、全人類に救済を齎す存在であり、その宗教は、人類の贖罪・復活・洗礼・ブドウ酒とパンの秘 儀、日曜の聖日などの要素を持つものだった。経過から言えば、其れをキリスト教が借用してXmasにした。 ◆東寺・・・・・・・空海が嵯峨天皇から東寺を戴いてから53年。此処には薬師如来を祀る金堂だけが建つだけだった。 殆どが更地で東寺としては未完成だった。敷地の中心に彼は講堂を建て、其の中心に大日如来を祀り、四仏を配し た。 実は、大日如来の変化した21の分身として金剛波羅密多菩薩や明王(不動・グンダリ)などを配して立体マンダラとし て、民を救い、国を救う為の仕掛としたと言う。高さ約55mの五重塔も仏舎利を納めた塔であり、心柱を大日如来として 西に阿弥陀、北に不空成就如来を配した立体マンダラであるが、此処は正月1日から5日までの間しか公開しない。 尚、心柱の基底は固定していない(06/12/28日のテレビ大阪より一部引用)。高野山を参照。 ●陶磁器・・・・・・日本の縄文土器は1万年以上古いものですから世界最古の土器である。それに対してエジプトから 発掘されたカバの置物は釉(うわ)薬を掛けた青色の陶器であり、これが4000年前の物と言われる。ただ日本では長 い間、高温によって焼成するこうした陶磁器を作らなかった。ゴミになれば、破片が危険である。 此のためか全て低温焼成によるカワラケ(土器)を採用して来たが、奈良時代から高麗から陶器が伝わり、やがて鎌 倉時代から伊万里など六古窯で陶磁器が作られ始めた。因みに土器(ハジキを参照)や陶器は土から焼き上げ、磁器 は石の粉(カオリン)から作る。 ■とうせ ◆とうそう ■とうた・・・・・・・ ◆ ●銅鐸・・・・・・・古代史で最大の謎と言われる銅鐸は、事実として決まって古代出雲族の集落付近で発見される。し かも古墳のような目立つ所ではなくて、考古学者の予測も付かない場所で発見され、其の殆どが民間人が偶然見つけ たものである。此れは弥生時代のものとされている。ただ当時は稲作時代であるが、水田から発見された事がない。 しかも銅鐸についての古文書はないに等しく、現代に出回る講釈書は絵空事ばかりである。つまりロマンを掻き立てる 創作本が色々出たが、要するに何れも嘘が多く、真実を語るものが少ないので此処では事実に推測を加えて述べる。 此れは銅の鋳造品であるが、作業のたびに持ち運びするために軽く肉薄に造っていた。 よって現代のハイテクでも及ばない技術があるため今の諸科学でも謎が解けないし、実際に同じ薄さで再現するのは 技術的に無理である。考古学では此れを「打ち鳴らした楽器の一つ」と講釈して来たが無論誤解である。此れは厚さ2 mmほどの精緻な造りであり、しかも銅合金は軟らかいから叩けば凹んでしまうのだ。 最近、東大阪市の上田合金鰍ナは粘土でマネ(真土)型を造って銅鐸と三角縁神獣鏡を鋳造・再現した。だが上田富 雄氏は「古代の技術には到底及ばない」(04/7/23 NHK総合テレビ)と言う。特に「鏡は鋳型が残っていないので、どう して造ったのか分からない」と言う。出雲に伝わっていたハイテクに対して今の科学技術が追いつけないのです。 銅鐸を鋳物で作るには1200度ほどの高温に耐える必要があり、其れに耐えた石の鋳型も色々残っているが、果たし て其れが何の材質の石なのかさえ今では判らないのだ。さて銅鐸の用途であるが、此れは出雲族が今から2300年 前に使っていた天文測量の祭器であり、銅鐸とは言わずにサナギと言った。サナギのサは南を意味する。 次のナギの意味も実際の観測・測量法も今の筆者には解けないが、「さなぎ」と言えば生糸を作る蚕の殻である事がヒ ントとなる。カイコは絹糸を吐き出して「さなぎ」となる事からすれば、銅鐸は糸巻きを入れる容器だったと推定出来る。 其れを補強する意味が次の二点である。先ず一つは測地である。 糸と言っても木綿糸のような伸び縮みする糸ではなくて、三味線の糸のように固絞めの糸であり、張れば針金のように ピンと張る糸でした。神代以来、何かにつけて祭りが行われたが、同時に温暖化と共に平地が広がった事と、大陸から 戦乱によって逃亡して来た渡来人(ボートピープル)を受け入れるために測地したもの。 当時は新たな植民地(収容地)の確保が課題となり、湿地を埋め立てて耕地を開発し、口分田・条里制を広げて税を取 るため測量が盛んに行なわれた。祭りのためには天文観測によって方位と暦法を定めて墳墓や宮を設定する事が継 続されて来たが、こうした新規開拓領地の測地も必要なために測量作業が盛んに行われたと見られる。 天文と暦制と度量衡法の設定により、測地との整合性を図るには厳格な幾何学による事とかなり長い糸が必要でし た。その糸を長く張り巡らすためには大量の糸を糸巻きにして入れる重い容器(糸繰り器)も多数必要となり、糸を張る ための重りとしてもサナギ(糸繰り器)が作られ、上面と側面には穴が開けけられたと推定できる。 其の孔には糸巻きの軸が通されて、其処から糸が出入りする糸巻き・糸繰り構造になっていた。そして銅鐸には耳(専 門家は何故かヒレと言う)が付いているが、此れは外部の糸巻きである。弛んだ糸を耳(ヒレ)に巻き付けて調節したと 思われる。無論、銅製品でなくても其れは可能であり、土器や臼でも足りた。 大国主命は大穴持命とも言われた。其れに鹿島の武甕ミカ槌命はカメを使ったのだろうか。因みに此れに似た陶磁器 製の鐸が江蘇省無錫市で04〜05年に初めて発掘された。紀元前470年頃のものと推定されている。 或いはヤマトタケルノミコトを「小碓うす命」として建部社で祭って来たのも臼が建部、つまり土木建設の神と見れば合点 が行く。ただ土器は割れ易いし、臼も重すぎるために携行するには不便でしょうから銅鐸が急速に広がったのでしょう。 ともあれ銅鐸は糸・紐・縄などを張り巡らせて領地を確定する仕事をするものだったと言える。 因みにお役所仕事は今でも縄張りを重視する。自分たちの権益の及ぶ範囲を超えてまで最初に網を被せようとする権 益構造が、実はこの頃からの「縄張り」システムの因縁なのだろうか。銅鐸には渦巻き紋や流水紋と言われる文様が 彫られているが、此れも流水よりは糸巻きや素麺状の糸束をそのまま図案化したものと想像できる。 こうした用途に使った銅鐸については文字にも示されている。例えば草の字にはサ(草冠)があるが、其の元字は艸 (ソウ)であり、其れは「手・手」を並べた文字として解釈されている。 何れにせよ其れでは苦しい解釈であるが、例えば銅鐸を横に伏せて置けば「穴」の字となり、銅鐸の穴を上に向けれ ば艸(ソウ)になり、其れを上から見れば「口または日」となる。 また立面図は广(ゲン、ゴン、まだれ)となり、其の使い方は「臣、幽」の字に示されているようにも見える。或いは「サナ ギ」を地上に口を開いて据えた形を象形文字にして「宮」と書いたものとも推定出来る。古い神社のお札などに朱印で 印された宮の字や漢字の古字を見れば、大きな「ウ」の中に、○が縦に二つ書かれた形があります。 これらを見れば、其れが銅鐸の中に糸巻きが入った図として描かれた文字と理解出来るでしょう。宮は祭りの中心地 であり、暦観測を司る定点でもあった。従ってサナギや矛(同頃を参照)が置かれた。ともあれ出雲族は西日本一帯を 支配していたので、弥生時代の頃に西日本から東海地区に掛けて此れを赤松林に埋設した。 其処ならば花崗岩質の砂地であるため錆を防止出来た。よって2000年後の今になっても多数の銅鐸が弥生時代の 遺跡の外部から発見された。社寺や遺跡とは別の、何でもない山の中腹部から82%のもの比率で発見されている。と 言う事は、神器ではなかったか、或いは祭器であっても特に隠す必要性に迫られたと言う事になる。 遠州・三河も含めると全国には凡そ500ヶ近く残されているが、中には出所不明の宝物として個人(海外も含めて)所 蔵の銅鐸も多い。だが銅鐸は鏡と違って古墳からは出土しない。銅鐸は古墳時代以前の、弥生時代の祭器でした。何 れにせよ銅鐸は東海・近畿・中国・四国・九州の古代出雲族の平地の集落から少し離れた場所で発見される。 つまり出雲の国は一部の東日本を除く日本全体を占める広域に存在した事が分かる。所が本来の出雲王権に対して 新興の大和政権が席捲するに及び、新参者から卑劣な弾圧が繰り返されたので已む無く銅鐸を隠した事になる。出雲 とは今の島根県ではなくて中部から西日本に掛けて広範囲に君臨していた原日本の事でした。 だが「君臨すれども支配せず」でした。因みに大和とは、山と海で暮らした日本人であり、奈良盆地がかつて奈良湖だ った事から山がヤマトになり、海をワダと呼んだ。また「大」は当時は「太陽の祭り」を意味したので、今の大きさの「大 小」とは無関係でしたが、何れにせよ後に「大和」の字が宛てられた。大和は古代出雲の中心地となっていた。 所が彼らの葛城・大和の朝廷が新参者に奪われて、特に崇神・垂仁天皇時代には更に弾圧がきつくなり、残ったサナ ギも次々取り上げられる所となった。此れに関しては、出雲神宝事件として知られている。また羽曳野市のミ゛グクル御 魂神社には其のときの経緯が伝承されている。だから大急ぎで各地に埋設したものが現在発掘されている。 尚、近年、島根県の加茂岩倉遺跡から39ヶもの大量の銅鐸が発見されて大きな話題になったが、これも大和で造ら れ、各地に隠匿されたものの一部(出雲を参照)であろう。銅鐸のほかに九州では筑紫(矢張り出雲の一部)の志賀島 の金印も埋められた。人も時代も同じで有る。 こうした事から銅鐸の場合は2000年前には既に意味不明のものとなっていた。鏡などにリサイクルされたり、鋳潰さ れて他の物に変えられていたからです。 銅鐸についての最古の記録は、元明天皇の和銅6(713)7月、大和で出土物(続日本紀・巻6)について、高さ3尺、 口径1尺とあり、次に平安時代の僧侶による「扶桑略記」が天智天皇の668/5月に大津市の祟福寺建立に際して、 地ならし中に5尺5寸の「宝鐸」を発見したが、この時点でもう謎のものとなっていた。 従って大化の改新の時代には、既にサナギについて知る人がないため「鐸」の字で記録された。でも其れは渡来史観 による誤訳である。確かにシナには長江上流の四川省三星堆遺跡から発見された殷王朝以前の銅鐸型のものがあ る。 此れは大国主命と共に国土開発した少彦名命の子孫がやがて神農となったように、日本からシナに出向いたからであ るが、殷がbc9cに滅びて商人としてシナに残り、或いは伊部として日本に戻った可能性がある。だから類似品は両国 にある。ただどうしてもシナ風の楽器としての用途で言いくるめようとすれば苦しい。 確かに「舌」と言う棒をぶら下げた信州の鉄鐸は風鈴のように爽やかな音が出るだろうが、其れは銅より硬い鉄であれ ばの話である。しかも年代が800年ほどズレる。また朝鮮式の馬鐸の類を引き合いに出して講釈するが、これもレア ケースであり問題外である。 確かに「鉄鐸」や「鐘」や西洋のカリヨンは叩いて音を出す種類のものであろうが、サナギは叩けば壊れるし、打っても 大した音響はないのです。 ■とうち ◆とうつ ■とうて ◆とうと ■とうな ◆とうに ★糖尿・・・・・・・・血糖値が上がる事。其れ自体は病気ではないが、此処から余病を併発するケースが多い。血糖値 を上げない為には甘い物やジュースを食べたり飲んだりしないほうが良い。其れが多い場合は血糖値を急に上げるの でインシュリンが出てしまう。そうしないためには抗酸化物質である野菜類の摂取に努めるのが良い。 また適度な運動も血糖値を下げるし、骨密度も維持出来る。ストレスも減らすと言うのが一般論である。其れに対して 06/3/30のNHKラジオ深夜便では「アンチ・エージング医学」(別項参照)として「水分補給」を提唱していた。 さて血糖値が高い患者への治療としては一般的に外部からインシュリンを補給する方法が採られる。 加齢と共に糖尿病など成人病、生活習慣病などが増えて来ます。西洋医学では此れらの原因の第一は「糖尿」と診た てる。血糖値が上がれば余病を併発する。そうすれば日本国内には1600万人の糖尿予備軍がいるとの計算もあり、 当分患者に困らない。 余病の併発として具体的には心筋梗塞が指摘されている。膵臓のインシュリン作りの能力が低下して糖尿となった糖 尿患者は現在700万人。其の他に隠れ糖尿患者が300〜500万人に達すると見込んでいる。或は6人に1人が糖尿患者 であると言う。糖尿病は自覚症状がないが、日本人の場合は太ってるかどうかは関係なく罹ると言う。 運動量が不足すれば特に肉食が多い人の場合は肥満でなくても筋肉内に脂肪が溜まるために要注意であると言う。 だが結論としてインシュリンより運動であるが、無理な運動は出来ない。菊岡様によれば、一生インシュリンを打ち続け る必要があるとの事。また民間療法としては玉葱が知られている。 薄く切って酢に浸して食べていれば血糖値が低下して来るそうです。所で最近、筆者の前に糖尿に効くと言う植物をプ ランターで栽培している方が現れた。かなりの方が此れを自分で栽培して助かっているとの事。弁慶草の変種である。 また方位から言えば男性の場合の腎臓は母方の両親の持ち場です。従って此の先祖の墓参りが先ず大切。 ■とうぬ ◆とうの ■とうは ★倒幕・・・・・・・・作家の加治将一氏の推理では、坂本竜馬の黒幕だった英国人・トーマス・グラバーによるシナリオ で成功した。当時、幕府には西欧の各国が味方していた。所がグラバーは逆に、幕府に敵対する長州に武器を与えて 幕府と戦わせた。グラバー記念館が今も長崎にある。此処には伊藤博文も来ていた。 上海はアヘン戦争後に英国が管理していて、グラバーは其処で働いていた。その後に長崎に来て4年でグラバー邸を 建てている。25歳で此の洋館を建てたやり手だった。竜馬の「亀山社中」が出来る1年前である。竜馬は勝海舟と共に 此処を初訪問した。当時、長崎奉行がグラバーを危険人物としてマークしていた。 其処でグラバーは、自分は黒幕となって竜馬をダミーに使って動かしたものと推測出来る。今も此の洋館の天井には 隠し部屋がある。此処に伊藤博文、中岡慎太郎、五代友厚、桂小五郎らを匿っていた。しかも彼は、伊藤や井上馨ら5 人を産業革命後の英国に密航させ、其の結果として攘夷派の伊藤が開国派に転向した。 次に五代や寺島ら17人をイギリスに密航させた。竜馬はどうしていたのか。竜馬も空白の半年間があるので密航した に違いない。1864/10〜65/4月である。長州の福原が記録した「舊巨列伝」には、竜馬が上海に行ったと述べて いるが、生憎1867年の記事である。 また竜馬の手紙が残っているが、東京〜大阪間で1通当たり今の50万円も要する飛脚料を払って、土佐の姉に139 通も出しているのは仲間との連絡に姉を使ったものと見られる。ただ手紙の中にも武器商人・グラバーの名が一言もな いのは不自然であるが、グラバーから口止めされていたものと推理できる。 グラバーは各藩へも「信用貸し」で武器を売っていた。其の上、志士たちを扇動した。とすれば矛盾である。グラバーの 目的は何だったのか。グラバー邸の庭には今もコンパスとV字を上下に組み合わせたマークが残されている。此れは 「自由な石工」を意味するフリーメーソンの印である(フリーメーソンを参照)。 西欧の街は石で出来ている。其のノウハウを秘伝として伝える組織がFMであり、ロッジと言う集会所で秘密の儀式を 行い、月1回例会をしている秘密結社であるが、以来、カトリック教会から弾圧された科学者などの駆け込み寺ともなっ ていた。「フリーメーソンの喜び」を作曲したのも会員のモーツアルトだった。 外にも詩人のゲーテ、画家のシャガール、英国のチャーチル首相、日本の鳩山一郎、初代米国大統領ワシントン、映 画俳優のジョン・ウェイン、ケンタッキー・フライドチキンのサンダースおじさん、など400万人の会員が知られている。 但しメンバーの名は秘密であり、死後に初めて知られる。 日本には15のロッジがあり、「全能の目」をシンボルマークに掲げる。さて、竜馬は当時、グラバーの船(オテントサマ 号)を与えられていたが、横浜には今もFMの「オテントサマ・ロッジ」が有る。上海は当時、植民地支配の英国の拠点 だった。商売に大切なのはネットワーク・コネクションである。 他方、幕府は1864/10/20にオランダへ多数の留学生を出している。中でも西あまね(周助)は3年間、ライデン大 学で学んだ。帰国後に38歳で将軍・徳川慶喜の側近に召抱えられた。 当時、薩長は険悪だった。特に長州は薩摩を憎み、仇と狙っていた。そうした中で、グラバーが薩長の仲を取り持つ中 間地点の長崎にいて、其のシナリオを書き、志士たちを動かし、竜馬を使って長州藩に武器を与えて薩長同盟を成立 させて明治維新を成し遂げた。つまり立役者である。 1861年に薩長同盟が成立したが、竜馬が朱で裏書をしている。イギリス大使はパークス。1867/10/14には慶 喜から大政奉還した。此れで700年続いた武士の世が終わった。67/11/15、竜馬(33歳)と慎太郎が京都で暗 殺された。グラバー(29歳)が英国(郷里のスコットランド)に里帰りしていた時である。 グラバーは、「明治維新は日本人自身の問題であり、日本人による革命でなければならない」と考えていたのか、彼の 名を記録に残さなかった。しかし彼のグラバー商会は「大名貸し」が祟って(維新のため取立て不能となって)倒産した。 その後は岩崎弥太郎と手を結んで三菱と麒麟麦酒の元を作った。 彼は日本人女性との間に2子を儲けてやがて12/16(72歳)で死去。その子、倉場富三郎は大東亜戦争の時に敵 国人としてスパイ容疑を掛けられ、長崎原爆投下の11日後に自殺した(以上、06/2/26MBSTより引用)。因みに 竜馬が巨額な金額で長州に売った銃は南北戦争が終わった米国のスクラップ(粗悪品)だったと言われる。 つまり明治維新は外圧利用と此の渡来品で成し得た。 ◆とうひ ▲闘病・・・・・人が病気と闘おうとする事。だが言うに易く行うに無理がある言葉である。人が病気になるのは自然の摂 理であるから、医学などの「人の論理」で大自然の摂理と闘うと言う無理があるため、どうしても間違った方向に向かう からである(「病気」「やまい」を参照)。 つまりこの言葉は永い人類の英知や伝統的な考え方とは違う特殊な現代文明、もしくは傲慢な物質主義(肉体主義) 社会の観念として出て来た一過性の造語であり、言葉は有っても錯覚である。 ■とうふ ◆とうへ ■とうほ ◆とうま ■とうみ ◆とうむ ●ドーム建築・・・・・・・アーチ(弧)。ドーム。半円形の橋や建造物である。日本では昔から古墳の石室として作られて 来たが、西洋では古くはエトルリアからローマに伝わった。 ●ドームの造り方・・・・・・・今日本で活躍する西洋建築家は直線的なビルや建物しか作らないのでドーム作りは苦手 である。でもこの造り方が簡単である上に強度が大きいので古来世界各地で作られたが、特にイスラム寺院がこのド ーム型を特徴とする。日本では地震国のために古代のものはないが太鼓橋や窯として現存する。 だが西洋建築しか知らない今の建築家たちは此の造り方を苦手として避けているので一応説明して置く。アーチ(太 鼓)橋の場合は先ず両端をしっかり固定する。此れをインポースト(せり元)と言う。せり元から楔形のブロック(せり石) を孤形に積み上げて行く。そして天窓のように開いた頂点に要(かなめ)石を載せれば出来上がる。 或いは多少傾斜のある土手状の所に穴を掘ってムロを作る。石を並べて壁を作るだけで青空のムロ(室)にする。其 処に竹や材木や薪を積み上げて、其の上に石(レンガやブロック)などを並べます。こうして並べ終わったら、下の材木 などを引き抜いて行く。そうすれば上の石材が譬え不整形でもガッシリと組み合って行きます。 いったんこうして出来たアーチならば、其の上を譬え人馬や車が通ろうとも崩れる事は無い。次にドーム屋根を作る場 合は敷地の周りを固定し、材木や枯葉を山のように積み上げる。其の表面に板などを敷き詰めて、更に石材もしくは 土を被せて置く。無論焚口と煙出し(煙突)の部分は空けて置く。こうして下から火を点ければ燃えて空洞が出来ます。 其れが炭焼き窯や陶器窯であり、ドームである。或いはベニヤ板でも造れる。空き箱を利用して円形の形に補強し、其 の上にベニヤ板を張り、ブロック状のものを並べて行けば良い。其れを燃やせば出来上がるが、燃やさず撤去しても 良い。土が焼かれれば壁全体が須恵器またはガラス質の陶器のようになる。 此のため、石材の接着剤にもなり、防水効果もあります。尚、窓を付けたい場合は其の部分をいったん石材で塞いで 置いて、後で取り外せるようにして置けば良い。 ■とうめ ◆とうも ■とうや ■とうゆ ◆とうよ ◆とうら ■とうり ●道理・・・・・・・道のことわり、つまり筋の通った理(法則)。例えば家の中から周囲を見る場合も、太陽の動きに合わ せて東から南へ西へと物事を見て行く。暦も此の理法で作られた。或いは法則的に動く天地の動きや四季の変化する 事実をもって物事を説く事。 或いは個人的な観念や創作で新学説を立てるのではなくて、本書の「玉串の祭り」のように、日影の移動に従って暦を 作る手順とか、別紙の「神々の歳時記」のように、円暦の定理によって方位を示し、其処に並ぶ一連の古の遺跡を示し て古式遷宮の事実との整合性から地名や神社の意味来歴を解き明かすなどの方法・方式論。 ■とうる ◆とうれ ■とうろ ◆灯篭・・・・・・・昔は神仏の前に篭を置いて薪を焚いて篝火とした。其の献火する篭の代りに石灯籠としたもの。笠と 竿と縁石からなるワンセットが石灯籠である。此れは五行(別項参照)と五大を黙示した形であり、また縁石の八弁の形 は言うまでもなく法華(別項を参照)、つまり八方の先祖(「円系図」を参照)を明示した形です。 また笠石の下の火袋は日月の形を刳り貫いている。此れは本殿に対して東西(阿吽・陰陽)関係を明示している。寺社 は暦法のメーカー側であったからです。 所で古い灯篭や宝篋キョウ印塔には端が欠けているのがあるが、此れは博打打が負け続けた時に神仏の「御蔭」を貰お うとして石を割って其の欠片(オカケ)を懐に入れて、傷を残して行ったものであるが、迷信であるから真似てはならな い。 ■とうわ ■童話・・・・・・・ ■道話・・・・・・・人の道を説く話。 ■同和・・・・・・・お役所が正義の御旗として掲げる標語であり、或いはお寺が、「結婚身元調査お断り」と門前に表示 する理由である。だが理由はあっても架空の概念であるから実態がない。本当は被差別部落の事であり、主として昔 から家畜の屠殺や解体に従事し関係して来た地域の人たちの人権問題だった。 其処には差別を解消しようとした部落解放運動があり、水平社などの地道な活動があった。その物語の経緯には涙ぐ ましいものが有る。本来人には区別があっても差別はなかったが、律令社会の支配者や仏教の触穢(浄土)思想によ って排他的にされた人々が出来た。士農工商以前から歴史的にも制度的にも作られた経緯があった。 「部落はない」と明言する市町村でも「同和対策室」がある所は、部落が存在しすると言う事を示しているし、其の同和 の利権を守るために存在します。此処は一般市民を不当に逆差別する公営の利権の巣である。市民と税金を餌にす る「対策室」です。 嘘だと思ったら年間どれだけの予算がどのように使われているか情報公開を請求したらハッキリするが公開しない筈 です。公開できないのだ。 つまり問題の理由は人種差別ではなくて作られた職制・職業による職業的な偏見があった事だ。偏見による不当な差 別を受けた場所はタブーとして公開されないが、同和関連のスキャンダルとして今は度々ニュースに出るので公然と知 られているし、各地に其の開放会館が有る為に地元では周知の事である。 今はそうした職業による貴賎の差別もなくなった以上、部落の実体もなくなった。だが実体がないのに此れを強調して 問題視するのは一般国民ではなくて実は朝鮮人か暴力団など人権偽装利権屋である。此れにまで役所が部落問題に 対して不当に譲歩し、一般よりも不当に逆差別して厚遇し助成して来た。 つまりお役所の旧来の同和アレルギーまたはこの種の恐怖症によって味噌もクソも一緒くたにして逆差別する事となっ た。よって其の甘い汁に集る集団を助けて来た事になる。だから其の不手際も含めてお役所はまたタブーを作って市 民から逃げるように同和問題関連として棚上げし、一切非公開として来た。 非公開として拒絶する役所にはつまり同和問題があると言う事になる。また他方ではお役所とマスコミが同和問題を義 務的に一定水準で取り上げて差別をなくするようにキャンペーンを行って来た。人権啓発キャンペーンと言うのもお為 ゴカシのものが多い(人権を参照)。本音と建前とが違うのである。 また法務大臣の下に人権擁護委員会と言うのがあるが此れも形だけ。被差別部落問題がなくなったのに今も深刻であ るかのように装っている地域は、実は同和人権偽装の圧力があるのを隠す為である。 要するに同和問題をやればやるほど部落の存在を知らしめる結果となって寧ろ逆効果ともなっていた。つまり部落や 同和のためではなくて其れを掲げて予算を使う利権となっていた。同和の名を借りた別の利権が発生し、権力化してい るのだ。例えば公共工事は必ずこの種の業者が優先的に落札すると言う仕組みが慣例化している。 だが其の業者の実態が同和と言えるだろうか。被差別部落が制度的に作られた差別だったように、食肉業者も土建業 者もサラ金業者も人為的に後から作った組織である。特に今は同じ「差別」を口実にして、何も知らない企業や一般人 を在日朝鮮韓国人や暴力団が同和の名で脅して政治的、或いは行政に圧力をかけて餌食にするものとなった。 つまりお役所が自分の恥部を晒したくない、隠したいと言う態度が同時に同和キャンペーンをして火のない所に煙を上 げて同和利権を覆い隠そうとして来たお為ゴカシを重ねて逆に傷を広げて来た事になる。また一般には知られていな いが、同和組織にも共産党系と社会党系、其れに右翼暴力団系もあり、多種多様である。 役所のワタリ職員は無責任にも彼らの実態には目を瞑り、或いは「同和」と言う葵の御紋の印籠を見せられると全員尻 込みするか土下座するしかない。転勤までの無責任さで先延ばしした。よって一般人とは別の法制度(超法規的)で手 厚い環境で貴族的な生活を同和の関係者と名乗る者共に保障して来た。 だがその特権的な事実を一切公表も報道もせず、一般市民をカヤの外に置いていた。従って真面目に働き、おとなしく 暮らしている一般住民に犠牲を強いる「逆差別」の有様となっていた。よって、「聞くと見るのとでは大違い」と言うのが 巷間の常識となった。 05年には羽曳野の食肉業者の浅田一味が逮捕され、06/5/10には大阪の飛鳥会・小西理事長が逮捕され、巨額助成 の実態と公金横領や脱税が暴露した。何れも同和の名を騙る利権屋だった。同日、国連が新設した人権理・理事国に 日本が当選した。だが今の政府のやって来た人権や同和行政は臭いものに蓋か、バラマキだった。 国連でも日本政府の聖断ではなく、寧ろ此の無様な実態や豊富な資金力が期待されたのだろうか。06/8/25の朝日記 事には「大阪市に続いて京都市も逮捕者続出」「不祥事続きで泥沼」「京都市は犯罪者を税金で雇っているようなもの」 と有った。テレビでは市長が、「同和を優先的に雇ったのが失敗だった」と述懐して反感を買った。 役所は何処も犯罪者集団の悪人役場となっています。06/10/6の朝日は「人権金融公社に府市が200年ローンで70〜 100億円融資の便宜」と報じた。しかも無利子。世間の常識なら10年が限度だが69年から以後200年のローンとした。 破格の扱いである。財団は公益性を言うが部落開放にどれだけ寄与したのか。 実体は藪の中だ(同和系サラ金業者が使っている)。だから暴力金融に府も府警も甘くなり放任する。此の為、多重債 務者、破産宣告、自殺者増大の原因を作っている以上、破格の融資が「公益性」と言えるのか。苦しい中から無理して 納税しても、府市民は自動的に「社会悪」の共犯関係者にされている。 先に金融庁は一般企業を見捨てて銀行優遇の巨額公的資金を出した。銀行取引でも庶民を厳しく取り締まり出した。 しかし府市と同和のこうした巧妙なカラクリやマネーロンダリングを先ず何とかしなければ逆様であり逆差別ではないの か。また07/6/7日には大和都市管財訴訟判決が出た。 此処は金融庁認可の抵当証券販売で1112億円を集めて01年に破綻した。金融庁(近畿財務局長)は同和団体の名前 を出されて更新登録を認めてしまった。其の尻拭いとして国は責任を認め、無責任な財務局長に代わって国民の税金 から6.7億円の損害賠償をすると言う判決。だが墳埼と言う当時の財務局長は今は天下り先に座ってノーコメント。 次に06/10/16のNHK総合TV「クローズアップ」では1969年から国が始めた同和対策事業だが、此の30年間で大阪市 では同和事業に1.2兆円を費やした。大阪市の部落はかつてスラムだったが、よって今は宮殿の貴族社会になった。 小西支部長は元は暴力団組員だったが、「同和のほうが儲かる」と仲間に話し、30年間の間に私腹を肥やした。 一般市民より同和が逆差別で優遇された上に利権とする中で、市の施設の138ヶ所に「不適切な建物」が建ってしまっ ていた。市側の前例踏襲と「事なかれ主義」が同和の不当な要求を次々と呑んでしまった為に此処まで杜撰になったと して、此れを見直し始めた。 全国に4000ヶ所の同和地域がある中で、大阪の小西元支部長の問題を契機に役所にタカル体質の見直しが始まって いる。同和と言っても其の実態は朝鮮人や暴力団が何割も占める。其れを隠蔽しながら彼等が此処までやりたい放題 だった以上、今更反省しても遅いし、「差別は不当」とは言えなくなったのではないか。 彼ら自身のこうした前科が明日また「同和は怖い」と世間に言わす事になり、また次の時代にも「差別されて当たり前」 とするであろう。以上、「同和」を恐れて一般の辞書にも「同和」の項目がないので、敢えて一言した。 ■とお ■遠い・・・・・・・ ■十日・・・・・・・ ★童謡・・・・・・・・童謡として歌われる「結んで開いて手を打って結んで」の小学唱歌の場合も、ジャンジャックルソーが 賛美歌として作曲した軍歌だった。其れが日本に入って日清日露で使われた。スイスは周りを5ヶ国にとり囲まれた国 なので、子供の頃から国の防備を心掛ける。「七つの子」にしても、何故カラスなのか。 7つの卵か、可愛い7羽の子がいるのか。野口雨情の創った「シャボン玉の歌」にしても実は悲しい歌である。彼の子が 生まれて1週間で死んだ。此の実体験による(一部は07/2/7のTV大阪で合田氏の話から引用)。 とか● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 以下、次ページへ■▲◆★ 次は または パテント・著作権は本会に属します。 「鬼の会」 |