http://hijiri.tamajiri.com       「日知り事典」  page226.html(未定稿)


   日知り事典        セア〜セオ

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 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★

せあ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ■▲◆
●せ・・・・・・「せ」は瀬戸や背中のせ、山瀬や妹背の「せ」として使われる。

▼性・・・・・・セックスを参照。

・・・・・祭主は神の縁日、即ち例祭日を決定して関係者に知らせ、祭りの前の一定期間までに祭りに供えるニエ、
調(つき)、などの貢物を集めた。其れが暦法と税の根拠であり、其処から納税期限が発生した。また祭りの後には神
饌と言う形の「お下がり」を公平に再配分した。

この様に、祭り事の前提は正しく天文観測をした上で設定した暦の公布、及び正しい検地、つまり測量、そして道理の
通った祭りの継承者である事の証や保証がなければならない。とすれば如何に「政」を標榜しても、祭政分離政策を建
前とする政府には徴税権の根拠がない。

税とは神を戴く場合にのみ意味を持つ貢・御調であり、無資格者が集めるのは神からの横領であるか、或いは人民に
対しては既成事実をもって詐欺・搾取する行為である(税金を参照)。ともあれ神祭りにお供えするのは楽しいもので
す。沢山収穫できたらどっさりお供えしたいと思う。感謝の心が更に次の幸を呼びました。

次なる豊かさを祈って楽しみに祭りを待つ事が出来ました。其れに対して今はどうでしょうか。申告の決算期や納税時
期を楽しみに待つ人がいれば不思議です。今は神を祭らず祭政分離と言って公務員だけが威張って増税ばかり画策
するからです。公務員が主権者であるかのように振舞って国民を敵視し、国民を黴菌か罪人のように扱い、排除する。

神へのニエではなくて、役人に罰金を払うような納税なのだから楽しくない。せめて集めた税金が国民の為に公正に使
われるなら納得できる。国や国民の為に使われるならば譬え苦しくとも、泣き泣き働いても多額納税に心掛ける。

所が国家や国民ではなく、大半が「仕事は半人前で国民を食い物にするのが一人前」の状態の製糞器ロボットたちが
餌食として費すだけなのですからやってられない。

信賞必罰で国民が褒賞される事も有るなら我慢も出来るが、褒章・受賞は何時も公務員、逆に毎回罰せられるのは何
時も民間人であり、事件や事故が起きても責任を取らず、勲章を貰うのが彼ら製糞器の一味だけですから腹が立つ。
其の上、最近は小泉政権が教育基本法に「愛国心」を盛り込むと言うのだから呆れる外はない(愛国心を参照)。

こんな一方的なお役所の論理の税法なら機能しなくなって当然です(税金に続く)。


★青花・・・・・・・元の時代に中国で陶磁器用に使われたコバルト染料。

聖火・・・・・・・オリンピックの聖火は聖火ランナーが持って走りますが、本来の聖火は神に捧げる神聖な火の事でし
た。聖火の意味にも日月星・・・によって別の火が有り、日光、月光、星の光に対応したものとなる。日光に対応する火
は如何なる火でも「昼行灯」になるので光も意味もなく無用である。

月光に対しては蝋燭とか菜種油の行灯の灯や石炭・石油のランプの火が似合う。また星の光に対してはより強力な電
気や第三の火としての原子力の灯が似合う。けれども後者は公害の元凶である。従って聖火とはならず、寧ろ劣火
ある。其の点、日本では古来、火きりをして来た。

ヒノキ(火の木)とヒノキを擦り合わせて火を点けて、其のきりを聖火として来た。或いは火打石と鉄とを叩き合わせ
切り火として捧げました。そして火の火種を絶やさないように家の中心に置いて主婦が守って来ました。火は当然に
して煙を伴う。その煙が人の健康を守り、また家屋の浄化と防腐の作用をしていました。

所が現代人は火の素性を問わず、クリーンエネルギーと言われれば頭から信じて原子炉で出来た電気までクリーンと
思い込み、聖火を見れば拍手で迎え、其の逆にタバコとかCO2を何れも神経過敏に「嫌煙」として排斥して正義漢を装
う。此れは低質かつ異常心理ですね。

青果卸売市場・・・・・・・06/12/13日のNHK総合TV「クローズアップ」に拠れば、地方の青果市場が今どんどん倒産
し、縮小している。其の原因は農産物の輸入の増大であり、或は大型スーパーや農協と言った一元管理の組織体から
外れたからである。市場に農産物を持ち込む生産農家も減って来た。

価格重視で来た青果市場は競争に敗れて次々と倒産して行った。其れに対して山形などは独自の安全基準を徹底し
て独自性で対応して売上アップをしている。また金沢の市場は地場産品の開発を重視して対応している。此れから手
数料の自由化が進めば更に淘汰されるだろう。

ただ何れ円安などで、中国などからの輸入が止まれば青果市場がまたタチドコロに復活するだろう。其れまでは漁業
や山林と共に青果も苦難の時である。

生活保護・・・・・・・06/10/16朝日記事によれば、「最低生活費」として居住地、世帯人数、年齢などによって一定額
が決められ、厚労省によって毎年見直しがある。例えば06年度、大阪市に住む40代夫婦と10歳の子の3人世帯の場
合、家賃代5.4万円を含めて22.5万円程度が目安。

もし収入が10万円であれば保護費として12.5万円が支給される。実際には障害や介護の有無など細かな条件があり、
金額は世帯によって変わって来る。95〜04年の大阪は人口1000人当たり11〜23.2人に増えた。だが生活保護(別項参
照)を受けずに借金した人の4割が多重債務-->「自己破産」と言う結果になっていた。

弁護士会の調べでは借金は殆どサラ金からだった。「生活保護はどうも・・・」と言う素朴な遠慮からこうなるのだろう
か。因みに「2ちゃんねる」http://news17.2ch.net/test/read.cgi/news2/1097969198/で1 :朝まで名無しさん :04/10/
17 08:26:38 ID:Ebiznjbkは、60万人中43万人を無職認定で、日本人の22倍も生活保護受給率。

生活保護を受ける在日外国人の中で韓国・朝鮮人だけの数字です。このほかに参政権をよこせと言う。(現在国会で
審議中) ちなにみ、国会議員の60%は賛成で可決間近。と述べている。

政教分離政策・・・・・・・国の祭り事は言行一致が大切であり、其れは天体の動きと連動する暦法を制定する事であ
り、同時に大多数の国民の信ずる宗教や常識によるのが大前提であり基本である。其れを祭政一致と言う。所が多民
族国家では精々暦法の合意くらいしか出来ない。

多くの民族や多数の宗教を束ねるのは困難です。よって新参の政府が、多数の民族と宗教の上に君臨するための便
法として建前上は「政治と宗教とを別」とした例外規定として作ったものが祭政分離と政教分離の概念である。従って特
定の宗教を国教としたり優遇する事はなく、また特定の宗教に対して宗教弾圧もしない。

その代わりに軍事で管理する。其れを「近代政治」と言うが、要するに本音は偽物の政治であり、もしくは税金を払えば
皆「お客さん」と見るイカガワシクもフシダラな観念であるから旨く行かない。
世界の諸国の理想とする所は祭政一致(別項参照)の国体です。

事実、米英はじめイスラム圏など各国が政教一致を基本としています。日本も明治以来、戦前までは神道を国教として
政教一致を採っていました。また例えば聖武天皇は理想の仏国土として国を治めようとした。奈良の大仏が其のシン
ボルでした。所が敗戦によって日本はGHQによって解体され、政教分離が行なわれた。

結果として神道は軍国主義だとして日本人まで批難の的としました。その結果、日本人のモラルは低下の一途を辿り、
今のカオス社会にして、セックス、スポーツ、スクリーン、犯罪が溢れる社会としました。連合国は植民地を奪った日本
を許せない。だから原爆を落とし、政治と教育から宗教を奪って骨ナシにして、次は少子化に成功した。

こうして次々と日本絶滅計画を成就させています。其れに迎合して戦後のリーダーたちは悉く渡来のイデオロギー(異
教性)を吹聴して日本をミスリードして来ました。以上から、多くの問題を解決する決め手は天地の整合性、祭政一致、
言行一致の伝統的な宗教によるほかは無いと言えます。

税金(共犯関係)・・・・・・・役所は何処も犯罪者集団の悪人役場となっています。06/10/6の朝日は「人権金融公社
に府市が200年ローンで70〜100億円融資の便宜」と報じた。しかも無利子。世間の常識なら10年が限度だが69年から
以後200年のローンとした。破格の扱いである。財団は公益性を言うが部落開放にどれだけ寄与したのか。

実体は藪の中だ(同和系サラ金業者が使っている)。だから暴力金融に府も府警も甘くなり放任する。此の為、多重債
務者、破産宣告、自殺者増大の原因を作っている以上、破格の融資が「公益性」と言えるのか。苦しい中から無理して
納税しても、府市民は自動的に「社会悪」の共犯関係者にされている。

先に金融庁は一般企業を見捨てて銀行優遇の巨額公的資金を出した。銀行取引でも庶民を厳しく取り締まり出した。
しかし府市と同和のこうした巧妙なカラクリやマネーロンダリングを先ず何とかしなければ逆様であり逆差別ではないの
か。

税金(懲罰的)・・・・・・・上記の「税」の続き。ニエとか租庸調が貢物や税であり、其れは神への感謝でした。戦前の
税金でもまだ夢があった。多額納税者の特権として選挙権があったし、戦後でも高額所得番付に載せられる事になり、
名誉だったり多少は楽しみがあった。所が現代は怪しくなり、何時の間にか罰金刑と同じになった。

此れでは納税が楽しくない。高収益を上げる為に努力し、節約すれば累進性の高率所得税を掛けられる。車が如何に
社会貢献をしても「車を持つのは贅沢」と決め付けられて、しかも交通事故を起こすから「悪」として高額自動車税とか
不当なガソリン税を掛ける論理を蔓延させた。

そして娯楽は兎も角、生活全般の衣食住には消費税、そして高額タバコ税を払って煙草を吸う行為も嫌煙権の流行で
悪者にされる。そうすると其れに便乗してペナルティとして直ぐに新税と増税を云々する。ゴミが増えて来れば環境税を
画策する。もうこうなりますと感謝する所ではなくなる。

罪を増やして懲罰し、もしくは「有る所から毟り取れ」とする歪んだ正義感による山分け・再配分の利権社会の論理であ
る。神や他人への感謝もなく、こんな厭な世の中にしているのは吾々選挙民にも責任がある。人を裁いたり奪ったりす
る資格が政府や選挙民や公務員にあるとでも思うなら、其れは思い上りではないか。

元々、為政者は国を纏める者である。所が自ら対立の構図を作り、国と国民を対決させ、政府が常に懲罰する特権を
使う立場としたのであれば譬え一時支配しても、やがて国家を破壊する方向にする。

予算分捕りと山分け体質、更にお手盛り予算で「ザルに水」の慢性的な税収不足・借金体質にしている。こんな馬鹿な
盗賊・山賊・国賊たちを選んだ国民はもっと馬鹿だったと言えよう。次に徴税するには其の前提として何らかの目的を
掲げる。つまり目的によって配分するシステムである。

所が殆どの場合、独断と裁量で流用して来た。例えば酒、煙草税についても住民税や固定資産税についても目的と結
果について定期的に収支報告や使用明細の報告があっただろうか。一般に開示されているのはドンブリ勘定書きだ
け。徴税者と浪費者とは同じ役場内にいても別個の職場であるとして誰も責任を取らない。

歳費の転用・流用が日常茶飯事であり、殆どが思うがままの当然の権利のように彼らの裁量次第で裏金、お手盛り人
件費に浪費されてしまう。日本は戦後、日本帝国から脱皮して新憲法の下に法治国になったと言う看板を上げている
が、実態は勝手気ままな官僚主義による裁量行政である。

非合理な徴税を続けて増税する国である。もうお終いです(増税システムを参照)。

◆成句・・・・・・・

制空権・・・・・・・空間の支配権。雲雀が空を廻りながら鳴いているのは其の下が縄張りであると主張する為である。
其の下に巣があって我が子がいるからです。同様に一国の独立国ならば地上の領土の上空に制空権がある。従って
他国のミサイルや人工衛星が自由に飛ぶ事は出来ない筈である。

所がどうだ。日本の上空は米軍が支配し、実際に英語でなければ通用しない。しかも、日米安保とか日米同盟で米軍
が制空権まで支配している筈の上空を北朝鮮のミサイルが飛んでいた。何か変ですね。自民党はそんな空よりも、ゼ
ニカネにしか関心が無いのでしょうか。日本は半独立国だったんでしょうか。

清潔・・・・・・・日本民族は古来、世界一「清潔」な民族でした。此れは筆者の「お国自慢」ではなく、世界的な定評
である。今は多少低下したものの、まだレベルは高い。日本は四季折々変化し、火山噴火や地震、其の上、雨嵐が多
く、厳しい環境とは言えども豊かです。それは日本の国土が始終洗われ続けたので清潔さが守られて来たと言える。

でも其れは無暗に殺虫剤を散布したり、病的・神経質に除菌・抗菌・殺菌をする「潔癖さ」ではない。日本人が清潔なの
は神を迎える場を守る意識であり、其れは例えば水を汚さないように綺麗に使う心がけであり、其れがまた病気を少な
くして来ました。

此れは予防や殺菌が徹底していたからではなくて自然の清めを恵みとして受ける生活態度があったからだ。今は無医
村の人たちが「田舎だから遅れている」とか、頭痛の種と言う人が多いらしいが其れは誤解だ。医者が成り立たないく
らい病人の少ない所こそ自然であり、理想郷と認識すべきであろう。其れに対して大都会には大病院が乱立する。

しかし病院の数が豊かのバロメーターではなくて、寧ろ逆の「貧しさと不潔さ」の目安とも云えよう。不潔だからゴキブリ
や烏が増え、病人が多い訳である(「ケガレ」を参照)。心が綺麗ならば心がけも良くなり、病気になっても肉体を清める
力が大きいので回復が早い。それに対して、心が邪で濁っていれば肉体も濁ります。

ですから其の場合は如何に健康に心がけて薬を飲んでも、或いは早期診断や治療に務めようとも必ず病気にかかる
し中々治らない。其れは体に清潔さがなくなったため、汚れて自己治癒力が低下するからだ。こうなると感染症に罹る
と回復しない。さて神社や人に神が降臨、または憑依する場合、その要件は清潔さや血筋である。

其れを欠く場合は如何に規模が立派であろうと、或いは多額の寄付とか信仰心があろうとも、或いは人気が出て巨大
宗教組織になったとしても日本神界の神々を招来出来ない。或いは観光地やホテル、其れにレストランでも清潔さが一
番である。

ホテルなどがお客の住まいよりも不潔な場合は、如何にコケオドシの箱物を造り、如何に商策を練ろうとも客は遠ざか
るだろう。そして日本人は外国人より風呂好きであるが、其れは水こりで「禊ぎ祓い」をする風習が有ったからだ。神仏
に何かを捧げる時や、食事の前とトイレの後では必ず手を洗う習慣も「祓い」の観念から作られた美風である。

だから外人たちのように他人と握手したり、気軽に接吻したりはしなかった。日本には単にこのような衛生上の「清潔
さ」のみならず、精神的な「清潔さ」や品位、其れに簡素さを尊ぶ美意識があった。其処から、心身や生き方の汚れを
嫌い、其れらを犯したり、放置する事を恥と心得るイサギヨサも育まれていたのではないか。

因みに神社は清浄に務める。でなければ神が降臨出来ないと知っているからであるが、お寺の場合は清浄さは問わ
れない。寺は穢れた死人の墓場と共に存在した通り、寺「院」は病「院」と同様、キンピカ、荘厳であるほうが良い。つま
り寺側は宿命的に穢れを鎮めたり溜める役割の場である。

生産者・・・・・・・農家やメーカーを世間は生産者(製造元)と言うが、此れは用語として正しいのだろうか。用語として
仮に正しいとしても事実とは違う。違うのに其のように決めて掛かっているとすれば傲慢である。実際の生産は日月と
大地が行っている。具体的には山(別項参照)が雲を止めて雨に変えて恵みを齎している。

人はただ其れを横取りしているに過ぎない。と言えば、そんな事は言うまでも無い。分かっているが我々は土地建物と
か設備や原材料、肥料に多大なコストを掛け、労務を注いでいると言うだろう。でも其れなら加工業者の端くれであって
無から有とする生産とは全く違う。

其れでも彼らがまだ「生産者」として胸を張るならば、子供を産み育てる母親はもっと威張って良い。毎日卵を産む雌鳥
などは「飼育」小屋などからもう飛び出ても良い。

生死・・・・・・・人は当たり前の様に生きているが、諺にも「一寸先は闇」と言うように、予期しない事に遭遇する事もあ
る。遭遇しても気付かず見過ごしている場合だって多々あるのです。だが中には、予想も出来ない事件や事故に遭っ
て助かった時に、「生死は自分の意思ではどうしようもない」と分かる人もある。

誰だって死よりは生を選びたい。しかし選べない現実を知ったり、其のショックが大きかった場合に、何者かによって
「生かされている」と言う事実を悟って感謝する事を知る。人の生死は偶然ではなくて必然であるとも悟る。悟らされるよ
うな事のないほうが仕合せかも知れないが・・・・

政治・・・・・・・本来の政治は天地の関係式、つまり約束事の基本としての暦法を守る事(祭り事)であったが、今の日
本で政治と言えば、特定の人が入れ替わり立ち代り米国の傘(外圧)に入る事である。しかも戦後・歴代の方々はバチ
カンの意向に従うクリスチャンでした。


聖獣・・・・・・・神の使いとされる獣。例えば12干支や12星座は12種の獣たちが各々方位と時間の目安して位置づ
けられている。中でも12干支の牛は2月と丑(北北東)の方角、また12天宮の金牛宮は六月と南東にあり、其れに対
して星宿は移動するので12星座の牡牛座が西洋占星術の誕生日占いでは4/21〜5/20とされている。

だが今は略南天の目安となる。さて聖獣について、日本で牛は天神様・菅公の使いとされているので天満宮の境内に
置かれている。インドでも聖獣として牛肉とはしない(食べない)。古代エジプトでも同じだった。聖牛はアピスとしてヒエ
ログリフ(エジプト象形文字)にも描かれて来ました。農耕民族にとっての牛は耕作力となっていた為でもあった。

だが遊牧民族にとっての牛は単なる食肉だった。だからペルシャ王がエジプトを征服したとき、神殿を次々破壊し、エジ
プト人たちが神として崇拝して来たアピスを平気で食べたために反感を買ったと言われる。此処で聖獣の誤解が見ら
れる。聖獣とは龍座とか山羊座と言っても、現実の生物のケモノではなくて、ヒジリの目星となる架空の動物です。

だから龍は兎も角として、他の牛でも馬でも現実の動物や家畜は食肉としても良いのです。

聖書・・・・・・・聖書(バイブル)はキリスト教の正典(カノン)であり、人類の文化遺産であると共に、年間3000万部
も発行される世界一のベストセラーです。此れにも旧と新との二書があり、ユダヤ教では旧約を律法とし、キリスト教は
旧約と新約を使う。

ただ、「聖書」と書いていても「ヒジリ書き」つまり「日知り」ではなくて伝道書や預言(福音)書や手紙であり、「太陽」に関
する記述はない。神と人との契約書と言われたり、人の行動を教条的に規範する律法やユダヤの歴史書でも有るが其
処に書かれた事物は日本の記紀のように一々実証する事が出来ない。

つまり何度も書き換えられ、編集して付け加えられた部分が有るため宗派や時代によって内容が違う。本来はヘブライ
語でパピルスに記されていた。それをギリシャ語に書き換え、ラテン語や英語に書き換えた物を更にコピーして日本語
に翻訳したのが現在手にする聖書である。

取り分け「新約」は格調高い文章で綴られて、ナザレのイエスが見事に神格化されているが、歴史上最大の人物である
キリスト一人の伝承さえ暦日も場所も推測の域を出ないので、様々な解釈が行われる。

しかも書かれた時期も筆者も、正典化された時期も複雑ですから、著者を特定する事が出来ないと言う点では文献とし
ては致命的な欠陥を持つ外、多くの外典(偽典)がある(ニセ書とされている)。ですから極論すれば宗教団体の伝道パ
ンフレット集と同じなのです。

因みに日本で現存する聖書は坂本龍馬が生まれた頃の、天保8(1837)年版で、此れは中国で印刷された。其れに
対して日本の記紀は、神武天皇の凡そ2500年前からの国の文献であり、人物、暦日、地名との関係が伝承と地理、
時系列と方位で結び付くので何人でも実証できる。此の点で、彼我の差は明白である(「神々の歳時記」を参照)。

聖職者・・・・・・・キリスト教会の宣教師などが聖職者と呼ばれる。修道院には其れに該当する方々が今でもいるか
も知れないが、日本にはいない。出家して無収入の中、過酷な修行を積み、妻帯せずに隠棲・遁世してひたすら勤行
する人は日本にはなくなった。単に職業として聖職(神職・僧職)の看板を立てているに過ぎない。

其処から寺社関係者や、時には教師に対しても「聖職者」の名が使われる。でも彼らが其れを自覚し、或いは気取って
いるかどうかではなく、寧ろ第三者が彼らを批判する場合に使うレッテルである。レッテルで論われるのは、神様に近
いと言う独占的な権威を持つ立場に対する第三者の反発でもある。

漢字の意味から言えばヒジリの職とは太陽を知る職掌である。或いは神通力が有るとか、頼まれれば雨でも降らせる
力が無ければならない。しかしそんな事は宣教師や教師はしない。従って神様がいないと同様、聖職者の言葉はあっ
ても、俗世間には存在しないと見るべきです。

今の社会にヒジリが存在しないのに、神前に奉仕する人たちが神様を独占しているかのような錯覚をして、他人にご託
宣を垂れる人たちは多い。こうした偽聖職者と、制度的、ビジネス上の聖職者が大勢存在する点が実は問題です。

精神・・・・・・・精神は心、つまり魂の働きである。また自然の中の神や人の愛も精神の一つである。精神とは、其の
字の如く「神の精」である。人の心は神から下った先祖に起因するので「神の精と見て良い(別項の「円系図」、及び
「魂」を参照)。ただ、愛とか神と言う存在は人の目に見えない。最も大切な存在は大抵は見えないものです。

けれども、誰でも心が体を支配しているのを自覚出来ています。其れがなければ肉体のコントロールが利かなくなり、
人間性まで失います。よって哲学でも精神を形而上とし、それ以外を形而下と考えた。だが哲学や心理学で魂を分析し
ても分からなかった。医学でも心は分からない。肉体を解剖しても心は何処にも見つからないからだ。

進化論的・物質科学で分類しようとしても、当然ながら魂は見えない。其処に、物質科学や渡来の学問の限界がある
訳です。古人は精神を一つではなくて魂魄と見た。普通は此れを血と骨とも見るが、医学的に言えば自覚し考えて理性
でコントロールする中枢神経系と、自意識がなくても自律神経で内臓を動かすような本能的な神経です。

でも精神とか魂、或いは心と言うものは神経系に閉じ込められた回路に有るのではなくて、肉体を包み込むような大き
さである。つまり有限性を越えた存在です。さて、明治までの日本には「和魂洋才」の気風があったが、今は「一億総商
魂」時代となり、或いは「米魂米才」の世となった。

しかも、現代社会は欧米風の唯物史観に染まって物質文明となったため、全ての価値基準が「数の論理」となり、或い
は、目に見えない存在を全く否定して、目に見えた事物だけを真実とする物証主義によって全てを認否するようになっ
た。此れを肉体主義とは言わないが物体主義とは言えよう。何れにせよ実に嘆かわしい事です。

またスポーツでは、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と逆理を教える。此れこそ精神性を第二として軽視する肉
体主義の観念(逆理)なのです(霊主体従の理を参照)。 
       
精神性・・・・・・目に見えない世界や大自然の仕組みに気づき、其れに感謝して生きる心を言う。人類は木も石も、
米や牛乳も作れない以上、他の生物に何も与えられない存在です。寧ろ、全ての面で、彼らから与えられて生かされて
いるのです。其れに気づけば万物に感謝できる。食事の時にも「戴きます」と言えます。

特に現代人はこうした面では十分恵まれています。けれども感謝する事が出来ずに、不平不満を言い、常にイライラし
てストレスを高めて、ハングリー精神で他者と戦おうとするのです。此処には精神性があるとは言えない。

でも、「足るを知る」ようになれば、精神性を取り戻せるでしょう(この項の大部分は道内で酪農を営む三友盛行氏の談
話、NHKラジオから引用した)。また別の視点から精神性を言えば、豊かな社会とは物質面で豊かな経済大国のよう
な社会である前に精神性の豊かな文化社会を言う。

それは例えば幽霊の存在を物質科学の論理で否定する社会ではない。色々な人がいて色んな観念がある事を認める
事が豊かな精神性である。

精神障害・・・・・・・人は正常な時と、そうではない時とが有ります。昔は其れを憑き物と見た(憑依を参照)。つまり
気違いが有れば気を戻せば治るのですから難なく解決した。しかし今は其の原因を究明しようとする科学や学問に頼
る。しかし実は此れ(精神面)は唯物学問の最も苦手とする領域です。

よって学問より宗教に頼るほうが良い訳だが、大多数が政教分離の宗教排除で学問や医術に答えを求める為、問題
が何も解決しない。従って何ら有効な対策も処置も出来ずに、問題を増やす結果となる。例えば病院へ行けば結構な
病名を付けてくれるが、其れは症状に付けた名ですから病因ではない。

病因が不明でも病名が付けられれば社会的に一人歩きできる。でも精神障害は治せない。其処に錯覚、つまり本質の
取り違えが有る。精神病の対症療法としては薬剤投与しかない。うつ病(別項参照)と同じ麻酔薬であり、効果よりも副
作用が続く。或いは次項で述べるように監禁である。

次に、以下引用すれば、何か犯罪があって被疑者が捕まれば、専門家と言われる人たちが出て来て「精神鑑定」を行
うのが常となった。そして大抵は「心神喪失」とか「心神耗弱」と言う鑑定が下って減刑になる。そうしなければ「人権無
視」と指弾されるらしい。

けれども、刑法の例外として、処罰されるべき犯罪が処罰されずに、一ヶ月程度の入院で退院し、社会復帰する事にな
れば問題である。この二つが乱発されて、無罪放免が増えるのでは意味がない訳だ。元々、問題を解決するのが学問
であり、犯罪を防止するのが刑法の目的だろうが、例外が甘くては犯罪増加に繋がり、社会問題です。

また甘い鑑定の結果、犯人が一ヶ月で減刑とか無罪放免となった場合、其れに対して、被害者側は命が帰って来ない
し、或いは一生苦しむ、と言うのでは理不尽かつ不公平である。とすれば、専門家の「思考停止」による迎合的な「精神
鑑定」などは有害・無益であり、即刻停止すべきであろう(毎日2004/2/8から一部引用)。

精神障害者への対応・・・・・・・精神病院も今は「精神医療センター」などに名称変更しているが、中身は昔と変わら
ない所か入所者の待遇は悪化している。医療施設の多くが密室であるが、特に此処は治外法権の密室であるから、犯
罪者でもないのに鎮痛剤を濫用されて密室に投げ込まれ、文句を言えば暴力を振るわれる。

外にも色んな薬を試飲させられ、動物並みの扱いかモルモットにされる。副作用で病状が固定化して行き、食事さえ危
険な状態に落ちて行く。歯は全部抜かれ、話す言葉も他人には分からなくされる。こうした人権無視の虐待を放置して
いるのが都道府県や国の施設の実態である。

そうは言っても全国に1700ヶ所の精神病院は200万人の患者を抱えている。其の内の入院は140万人であり、入り
たくても入れないのが現実である(05/12/25民放テレビより)。

次にまた上の数字とは違う記事を引用すれば、・・・日本の精神科病棟には今や世界一多い約32万人が収容されてい
る。障害者自立支援法と言う仕組みはあるものの其のうち少なくとも7万人ほどが退院できない。其の為として厚労省
は06年に「退院支援施設」を提案したが、患者や支援者を驚かせ、反対の声が上がった。

此れとは別に北海道の帯広・十勝地区では此の10年ほどの間に精神科の入院ベットが970床から540床に減った。其
れは退院希望の患者の為に病院が住宅街に建てた一棟の賄い付き共同住宅が始まりだった。初めは反対もあったが
病院と周辺の住民達が見守る中で理解が広まり、補助金も付いた。

今では15棟以上の共同住宅やグループ・ホームが広がり、患者は野菜や花を育て、或いは地元のスーパーなどで働
いている。新たな患者の早期治療にも繋がっていると言う(06/9/5朝日記事)。次に06/11/10のNHKTVクローズアッ
プでは、病院から患者を家に戻して、元の暮らしを回復させる工夫をしているケースを紹介していた。

人手は掛かるが素晴らしい効果を出しているようです。

成人式・・・・・昔は皇家・武家は元服(加冠)し、幼名から元服名に改めた。庶民は十三参り(別項参照)をした。十三
参りは北関東(会津)や京都で盛んで、後者は広隆寺の虚空蔵へ参った。エトは12であり、13は2順目に当る。女子は
此の頃から体質も変化する。

よって旧3/13日には数え13歳になった少年少女が近くの寺院に参拝して厄除・開運を祈った。また虚空蔵(別項参照)
求聞持法を修すれば仏智開発・記憶力増進があると言う信仰があった。同時に虚空蔵は、十三仏信仰として先祖の追
善供養33回忌の「弔い上げ」の御本尊でした。

従って成人式は、此れまでの成長を先祖に感謝し、祝うと同時に大人としてスタートする独り立ちのケジメの儀式である
から、何処かの町が07/1/8にした様にディズニーランドで騒ぐようではケジメにならない。体だけ大人になっても精神が
幼く未熟にしたのは、実は大人たちの問題である(団塊の世代を参照)。

今、国会では成人の年齢を20歳から18歳に引き下げる民法改正案が練られている。世間では此れを「喫煙・飲酒」の
問題と絡めたり、責任感を植えつけて「モラルの低下を止める」とか、経済的な自立と言う観点から賛否両論あるが、
議員は得票の為、政府の真の狙いは防衛省への格上げの次の憲法改正と徴兵制の準備であろう。

聖地・・・・・・エルサレムはユダヤ教・キリスト教・イスラム教と言う三大宗教の聖地とされて来た。彼らにとっての
聖地とは神に一番近い所である筈だが、現実は戦乱の坩堝となっている。と言う事は「これら一神教は全て間違った宗
教である」、と見られても仕方がないのである。聖地は魔界である筈がない。

さて日本の聖地は墓地であり、或いは万葉集には「甘南備の三諸の山」とある。これについて学者の通説は、「日本人
の自然崇拝」と決め付けてしまうので、其れでは凡そ、何の解説にもならない。其処が仮に三輪山とすれば、この山は
御神体であるとして、其処には本殿を建てないと言う、日本最古の神社様式を伝える所としている。

この様に、聖地には墓地(墓域)と宮との二つがあり、其処に祭られた神霊の役目は人の死後を見守り、ひいては子孫
の心身を守る存在でした。人が一生を終えて其の遺骸を埋めた地点が墓地であり、その死人の魂が飛び交い、交差
する地点を設けて其れを見守る所が宮でした。

言うまでもなく、墓はこの世からの出口であり、あの世にとっては入り口であるから、一方通行であり、従って霊が出入
りする場所ではない(但し幽霊は関係先に出入り出来る)。其の点、宮はこの世への入り口です。昔の、広い意味での
宮には神社の外に神宮寺もあったが、此れは元々同質であり、寺社一如・両者一体で霊界との接点となる所でした。

両者の違いはこの世から霊界への出口(山門・玄関口)が墓地と寺であり、逆に霊界からこの世に迎える場(鳥居)が
宮・神社でした。この為、寺には引導を渡す力のある男が僧として居つき、代々女人禁制で法灯を守って来たのに対し
て、宮事を務める神社には男子禁制の大奥のように巫女や舞姫が侍り、迎え女の役割をして来た。

従って時代が近代化したとは言え、神仏分離したり、独立法人化してしまっては相互間の意味が不明となり、合理化や
進歩ではなく退廃でしかなかったのです。しかし其れが進んだ結果、歴史文化や宗教(霊界)も同時に破壊した。よって
祭り事を無意味化し、此れも破壊した。

だから今の世間には無宗教の輩を増やし、種々の問題を起こし、しかも科学では全く太刀打ちできないため深刻化さ
せているのです。

●聖地の規模・・・・・・墓地・聖地の一定の規模・広さを示す単位として「1聖地」とか、1霊地などと言います。大昔は
恐らく、生きていた時の身長に等しい長さが地上に出るように棒を立てた。またその長さで円を描いた広さ、もしくは方
形ならば一坪(縦横一間)の広さだったと推定出来ます。無論、其の長さの範囲は天地(地上と地下)に及んだ。

だがその後、口分田法、薄葬令、身分制、律令制、封建制などの時代を経て、現在では一坪の約1/4を単位とし、また
は90cmか1メートル四方の借地とし、しかも永代使用料を払っていても、外に管理料がいるから、此の支払いが途中
で途切れれば整理されてしまう、と言う世知辛い時代にしています。

成長の限界・・・・・・・・・以下、メルマガ「30秒で読む環境情報!」より転載。__デニス・メドウス氏講演会「成長
の限界 人類の選択」。http://www.japanfs.org/eco-network/index.html 「成長の限界 人類の成長」「地球のなおし
方」(ともにダイヤモンド社)−−−1972年、世界中に大きな衝撃を与えた、ローマクラブの「成長の限界」。

30年以上が経過して、どんな変化があったか?人口、産業活動、資源の消費量・・・増加率には「全く変化が無い」。
何の政策転換も行われていない。エコロジカル・フットプリント(今の生活で地球が何個必要か?)の指標では1972年
には0.8個。現在1.2個。既に限界を超えている。このままの未来をシミュレーションすると、崩壊のシナリオとなる。

持続可能な社会を実現するためには、影響を地球に負荷を与えない範囲に抑制する社会システムが必要。成長する
ことが良いことだ・・・といった成長思考からの転換が必要。「スローダウン」では間に合わない。いかに影響を与えない
社会に戻るか?影響は次式で表すことができる「人口 × 生活レベル × 物資・エネルギー」。

「新文化(生活レベルを変える)」と「新技術(資源使用の効率化)」が重要。技術開発は難しくない。重要なのは政策・
文化での方向付け。(戦争では技術が飛躍的に進歩する、人を殺す技術が ← 方向づけが重要 拓也)

最後に9つのActionを挙げていましたが、ポイントピックアップすると・・・・新しい理解、新しい行動・長期的視点を持つ・
新しい指標(従来の経済成長の指標からの転換)・協同、ネットワーク・システムの複雑性への理解>以上、http://
plaza.rakuten.co.jp/eco30/ 登録解除 :http://www.mag2.com/m/0000125755.htm

政党政治の終わり・・・・・・・近代政治の特徴は政教分離と政党政治であり、特に前の20世紀は政党支配が絶
頂期となったが、同時に20世紀を戦争の世紀とした。とすれば、「宗教が戦争の原因である」とした此れまでの政治史
観が間違っていた事になる。宗教よりも、寧ろ政党政治の方こそ暴力的かつ闘争的だったとも言えるからだ。

例えばヒットラーや原爆を開発したルーズベルトも初めから独裁者ではなくてデモクラシーの選挙で選ばれたのである。
それなら寧ろ、法王制度とか絶対君主制の方がマシではなかったか。このほうが少なくとも分かり易い政治である。

独裁者は自分が責任者である事をハッキリ自覚するからだが、其れに対して、議会制は「連帯責任を負う」ように見え
て、「会議」とは「小田原評定」であり、問題を先延ばしするか、責任の所在を曖昧にするカラクリである。

或いはズルズルと強い側、大きな声のほうに引きづられて行くものであり、その結果は大失敗となっても、大勢いるか
ら一人くらい辞める人が有っても、何ら責任を取りきれない。一部が起こしてしまった事にさえ誰も責任を取って来なか
ったのです。

どの政党も大した理念やビジョンも能力もないのに、単に党利党略によって時流に流されて次の政権支配を企み、飯
にありつこうとする浅ましいヤカラだった。よって、何れ劣らず無力と無能、でなければ非力なのか、国民に犠牲を課す
事しか出来なかった。戦前は政党政治で戦争をやり遂げた。

日本では政治家が軍部のせいにしているが、世界的には政党政治が戦争を計画して実行したのである。また戦後の
日本は戦後60年掛けてデモクラシーとか民主政治にどれだけエネルギーを投じただろう。それほど力を入れても国民
の問題解決を何も出来なかったではないか。

国民を選挙に動員し、厭な事は先伸ばして税金を全部食い潰し、更に赤字国債1000兆円を残したのだ。此れでも政
党とか政治家と言うなら恥ずべきだ。此れは何れも公僕ではなくて、藪医者と同じ金食い虫であり、国賊である事の何
よりの証明である。であれば「百年河清を待って」も無駄。

05/8月には衆院解散を告げた小泉政権の人気が尚も高まったが、例えば兵庫選出の小池百合子議員を東京で公
認した。此れは東京の選挙区を公認されていた小林議員が郵政民営化に異議を唱えた事への見せしめとして落選さ
せようとしたもの(刺客)である。

こんな見え透いたイヤガラセを最大与党がし始めた事に国民は人気よりも危機感を持つべきだ。やくざの世界だって
仁義を建前とする以上、こんな汚い手は見せない。自民は最早マフィアの世界である。美人の小池百合子議員は環境
大臣であるが、今のアスベストの問題処理さえ満足に出来ていない。

そんな中で卑劣な自民のお膳立てに乗っかって「やる気を見せた」が既に顔相が醜くく変わっていた。こんな利権的・政
党政治にはもう見切りをつけて、選挙を棄権しよう。政党政治よりも一人の聖政を採った古の日本を見直すべきではな
いのか(「選挙戦」、「日本政府」を参照)。

06/9/20、小泉に代わる総裁選として安倍、麻生、谷垣が各々メニューを出して茶番劇の結果、長州長門の安倍が選
出され、お化け内閣が成立した。

青銅器・・・・・・青銅器を日本では古来「唐金」と言った。日本には元々火色金(ひひいろがね)、黄金(こがね)、白
金(しろがね、プラチナ、)、(赤がね)、クロガネ(カンナ、鉄、悪がね)、・・・等があったが、中でもクロガネは盛ん
にカンナ流しで作られた。日本には良質の砂鉄が幾らでもあったので世界一の産鉄国だった。

所が日本は何処も酸性土壌の上、湿気が多く、このため直ぐに錆びるので「悪がね」として鉄器を敬遠して来た。火山
国である日本は古来、冶金と鋳物技術が進んでいたが、鉄器については錆防止のため鍛造技術を発展させた。しかし
強度が増しても劣化が早いために決して神器には使わず、3250年前頃のヨーロッパのヒッタイトに伝わった。

他方、シナでも夏王朝(殷以前の3000〜4000年前の王朝)時代の古くから矢張り鉄器を嫌った。其処で神器は専ら
硬玉が使い、或いは唐金(青銅器)の製造が進んだので此れを重用した。其の一例が近年四川省で発掘された龍山
文化、三星堆遺跡の仮面・三足青銅器である。

日本にも出雲元は奈良)の銅鐸や銅剣、そして漢鏡が多量に発掘されているが、これ等も言わば唐金である。従って
こうした製品は渡来の銅剣や舶載鏡とされている。確かに材料や製品は渡来したものもあるが、本来の鏡や銅鐸の文
化そのものは日本独自のものであり、しかも多くが火色金(ひひいろがね)で造られていた。

其れを「悪貨が良貨を駆逐する」ように火色金は金に、その金は銅に、銅は唐金などにすり替えられたり、権力で没収
されて鋳潰され、或いは他のニセモノに鋳直されて行ったものと推定する。

政府・・・・・・・祭り事を主催する所、つまり政所である。政府は臨時に一時だけ存在し機能させれば良いので常時
ランニングコストを掛ける場や組織である必要は少しも無かった。だから江戸時代は幕府と言った。テント張りの所で
良いからです。それでも「お上に盾突いたら殺す」と言うくらい強大な権力を持った。

ですからテント張りから一転して堅固な城郭やビルを建てるようになったら滅びる。この点で西洋でも「政府は小さくて
良い」とする夜警国家の思想が昔から有った。それに対して今の日本は統一国家論が幅を利かしている。此れは洋式
の巨物化信仰に染まった錯覚的近代学理である。

其れによって庁舎だけは何処も立派になったが、其れに比例して人々は幸福になっただろうか。何れが愚で何れが良
いかは其の時代の人々の選択肢にかかっている。前者は警備だけして後は口出ししないと言う誠に安上がりの軍事警
察国家の政府である。それに対して後者は「何でもします。

其のために必要ならば値上げ・増税もします」と言う言わば商売人国家です。こうして軍事、農政、経済、殖産興業、外
交、郵政、教育、福祉、・・・と次々手を伸ばした。頼まれもしないのに「戦争でもする」と言う言わば多角経営国家になっ
た。

其れが全部出来れば問題ない訳だが、やる事なす事すべて半人前なのに、増税ばかりして結局1000兆円の財政赤
字を積み上げたのが今の日本政府である。こんな道楽息子に更なる期待をかけるよりは、座敷牢に閉じ込めるように
淡路島にでも閉じ込める方が良い。

政府や自民党は税金の催促や選挙の都度、自分の手柄として色々並べ立てるが、其れなら例えば貴方はどうでしょ
う。貴方が此れまでに良い事が有ったとすれば、其れは貴方が運が良かったか努力したからであり、政府や自民党の
お陰ではない。しかし今までに貴方が苦労をしたり不当な扱いを受けたとすれば、其れは政府や自民党の責任です。

何故なら政府や自民党が国民の生命財産を守る為とか福祉や介護を理由に徴税し、選挙に駆り立てて来た張本人な
のですから。彼らは国民を餌として食って来ただけに過ぎない。国民を餌として、食うだけであった。彼らだけが太って
義務をほったらかしにして来た為に今があると言える。

しかも彼らは何れも日本古来の伝統ではなくて洋式の手法で国を操った。国民がそんな彼らに更に期待したり、西洋
諸国に見習うよりも江戸時代に見習うべきだ。

幕末までは天皇などは御所に閉じ込めた。天皇とは祭り事に居つく立場であるから出歩く理由は元々無いのである。
従って行幸などは年一回くらいに制限した。こうした前時代の幕政に習って、天皇陛下を京都御所か皇居に閉じ込めて
置く方が賢明であった。所が明治維新以後、天皇を頂点に戴いてしまった事が不幸の連鎖となった。

今も色んな口実で天皇を政治的に利用し、更に国際親善と持ち上げて外務大臣の代わりに出歩かせるが、此れでは
国内外共に迷惑である。立憲君主制を取った戦前の政府・天皇は何の責任を取ったか。同じ政治形態だったドイツは
ユダヤ人を600万人もホロコーストしたとしてヒットラー1人を悪魔に仕立てて国民が助かる道を選んだ。

それに対して日本は天皇の為にと駆り出し、「天皇陛下万歳」と叫んで死んで行った。少なくとも300万人が犠牲者とな
った。此れは外人ではなく国民を死なせた数字である。でも天皇は国民に対して何ら責任を取ったとは言えない。です
からもし読者が賢民として改憲論議をするならば、その前に先ずハッキリ国民の意思を表明して置くべきだろう。

先のような事実を踏まえた上で天皇親政とするか、或いは今の愚将政府を継続するかを選択する道も有るが、改憲で
は政府の膨張を縛るように、小さな政府にするのが無難である。天皇や政府に過大な期待をして其れに頼ろうとする
のは間違っている。国家や政府とは人民の上に君臨して徴税した上、裁判して人民を裁く資格など元々無かった。

裁くのは神であり、裁かれるべきは先ず政府や役職者である。其の観点から見れば、特に近代政府は正統性に欠け
ており、架空契約のサギ商法に等しい存在である。普通選挙が民主化のバロメーターと思うのも誤解と錯覚であり、無
責任な衆愚政治にしかしないのです。

優秀な議員や官僚が五万といる筈の日本でありながら、その後の結果は、国の借金を1000兆円にまで至らしめ、デ
フレスパイラルで無数の人民を苦しめ、企業倒産に追い込んだのです。政府は規制緩和を言いながら逆に締め付けを
きつくし、預金封鎖や増税を画策し、其の金円で米国に輸血し続けたのですから日本がおかしくなって当然です。

そうした社会の中で企業はリストラをしたし、一般人はイライラのハケ口を求めて例えば偽善者的な「禁煙」強化を叫ぶ
ようになった。隣人を愛せず、咎めあう社会にしました。日本には何でも有るが希望がなくなった。政府は縦割り行政で
無責任な国となり、一方的な命令と服従の関係で納税、選挙を続けて「希望のない国」にしたのです。

政府が国を滅ぼす・・・・・・・政府が国民の上に君臨して愛国心を教育しても、其の政府が今のように国民を無
視した愚策を続けていれば国を傾ける。例えば厚労省がアスベスト公害やエイズ新薬を放置し、其の責任を負わず、
或いは国民の税金で責任を果たすと言うのでは愛国心を言う資格がない。のみならず国を崩壊させる事。

因みに昔の政府を朝廷と言った。此処は「朝の庭」であり、お上がいて午前中に主務である祭事を終わる役所だった。
其れに対して今の政府(中央行政機関)も祭り事の執行を標榜して「お上」と言うが、昼下がりしか機能しない場であり、
肝心な祭り事(宗教)も拒否(分離)しているので意味をなさない。

特に戦後の日本政府は憲法で政教分離を謳っているので先ず政府としての資格がない。そんな政府なら始めから要ら
ないのだが、其れを隠すために天皇制や憲法など、色んな装飾を付けたり手段を講じて「日本政府」と称して来た。だ
が実体は米国の傀儡政権か属国としての出先の徴税事務機関に過ぎない。

であるから此れまで米国に貢ぎ続け、今や膨大な債務を溜め込んでしまった。現政府は、「君臨すれども統治せず」、
つまり税金を取るだけで国民に還元しない、責任も取らないと言う低劣な政府である。組織はあっても烏合の衆であ
り、実体も実権も希薄なためにお上としての責任を誰も負わない。

規制は多いが国の威信もかなぐり捨てて道理も法理もなく、税金だけはなり振り構わず増税し、抜け目なく国民から巻
上げるが、其の反対給付としての、生命財産を守るなどの行政の義務を怠り、しかも国民への還元・履行がなっていな
い。すべき事を出来ずに責任も取らない。

こんな政府と分かって来たら、国民は裏切られた思いで早晩、背を向ける事となろう(下記の「戦争責任」と「増税」を参
照)。

日本は戦後60年、デモクラシー(多数決の)と言う夢の政治に期待して巨大なエネルギーと巨費を費やして来た。けれ
ども何が出来たのか。やるべき事は何もせず先送りしながら赤字を出したのです。政治には金が掛かるが問題解決能
力がないと判明したのであるから選挙権の棄権者増大も当然の事です。政府は医学と同様、金食い虫だった。

こうなったのは、明治以降の政府が祭るべき神を否定し、お天道様や親(国民)にも背を向け続ける道楽息子であり、
そんな息子とも知らずに江戸を継がせた親の負けだ。

恩あるシナや世界を敵に回して派手な喧嘩(大東亜)はするし、海外援助と呼ぶ夜遊びで巨費を浪費し、更に、その気
もないのに親孝行(年金・福祉・介護)を餌に度々親のスネカジリの増税を重ねた。にも拘わらず700兆円の借財を重
ね、更に自分たちの今の権力維持の為に1400兆円の親の資産を巻き上げて米国に上納する手筈にした。

こうして先人たちが2000年間掛けて培った我が国の文化(この点は別記する)も財産も政府(道楽息子)も、新円切り
替えと預金封鎖で自滅させようとしている事になります(「日本政府」、及び下記「政党政治の終わり」を参照)。

▲生物界・・・・・・・生物界には名前が分かっているものが凡そ150万種あって、名前も分からないものを含めれば10
00万種あると言われる。だから自然界の事は分からないものの方が多いのです。医者や生物学者たちは名前を付け
るのが仕事と思っているが、名前なんか実はどうでも良いのである。

例えば医者は患者の病名を付けても病気を治せないし、生物学者が同じ轍を踏んでも無意味です。何がどんな働きを
しているのかも今の物質科学では解けない。其処で先ず自然界の実態の把握、特に相互関係の謎の解明が命題であ
ろう。さて生物の中でも一番多いのが昆虫類で75万種、鳥類が9000種、次は爬虫類がある。

脊椎動物は3%であり、其の一部が人類である(06/1/18のNHK教育TVより引用)。何れにせよ生物を支えてい
るのは植物であるが、其れを支えているのは適当な気温と風雨であり、其れを齎すのは地球と日月の働きです。

『 生物の絶滅速度 』−−−生態系の破壊の結果、種の絶滅速度が自然の1000倍に。・・・・・・国連による世界初の
地球規模の生態系評価報告書案に記されています。人間の活動により、次のような世界規模の環境破壊が進んでい
ます。

1950年からの40年間で、森林や草地の14%が消失、過去20年間に沿岸のマングローブ林の約35%が破壊・二十世紀
後半の数十年間では世界のサンゴ礁の四分の一に、また、漁業や水資源のために重要な淡水域の生態系破壊も激
しく、現在残る湿地は一九〇〇年ごろの半分となり、世界中の主要な五百の河川の半分以上が、深刻な水質汚染や
水不足に見舞われています。

こうした環境破壊の結果、過去100年間に約百種類の鳥や哺乳(ほにゅう)類、両生類が絶滅しています。この速度
は、自然に起こる絶滅の1000倍以上。評価は「ミレニアム生態系アセスメント」と呼ばれ、日本など95カ国、1300人以上
の科学者が四年がかりでまとめたものです。

50年後の生態系のコンピューター予測から、「2050年までに、残された草地や森林の20%が破壊される」とし、現在の
ような自然資源の利用を続けると、人間の生活自体が立ち行かなくなると警告しています。http://news.livedoor.com/
webapp/journal/cid__976158/detail−1970年のローマクラブの「成長の限界」(古い?)もショッキングな内容でした。

だがこの報告書案もインパクトがあります。つらい現実ですが、目を背けずに見つめる必要があります。http://plaza.
rakuten.co.jp/eco30/ 編集発行 : 日本コパック(株) 石井正彦 info@copack.co.jp

▲せいへ・・・・・・・
▲せいほ・・・・・・・
▲せいま・・・・・・・

▲せいみ・・・・・・・
▲せいむ・・・・・・・
▲せいめ・・・・・・・

▲生命・・・・・・・

生命の木・・・・・・・アダムとイブがエデンの園を追われたのは蛇に唆されたイブが生命の木の禁断の木の実をアダ
ムと共に食べたからでした。ではその木はどんな木だったのか。リンゴと思われているが筆者は稲作の米であろうと思
う。ただ、カナダではレッドウッドが生命の木と呼ばれて来た。


▲せいも・・・・・・・
▲せいや・・・・・・・

▲せいゆ・・・・・・・
▲せいよ・・・・・・・

★西洋医学・・・・・・・病理不明のまま医術に頼る学問。外科的手法と薬物で感染防止に素早く対処する救急治療、ま
たは対症療法として有益であるが、健康管理とは無縁の軍医による、軍事医学であるから、真の医学とは云えないし、
事実、近代医学となっても病気を増やして銭を取る事しか出来ない存在のため病気を減らせず病人を増大させた。

よって大病院を林立させたので、「医は算術」と陰口を叩かれる。

西洋建築・・・・・・・主としてキリスト教建築を言う。建物とは人工物であるから不自然になるのは当然では有るが、
西洋建築の場合は特にビルに象徴される通り直線的である。日本の建築は寺社・鎮守の森などが何れも自然に溶け
込むように土地に密着しているが、西洋建築は自然を制圧するような威圧的なものが多い。

天を突くように圧倒的な高さの聖堂の塔がそそり立って、ひたすら天を目差す西洋建築(カトリック司祭・井上洋治氏)。
自然界にはない直線的なものを人工的に作り出し、其れを進歩とし、其れを基本的な美として湛える風土が西洋にあ
る。よって例えば10c前後のヨーロッパは文字通りローマ風のロマネスク様式の建造物が流行った。

だがロマネスクにせよゴシック建築にせよ何れも幾何学的で取り分け直線的な建物である。中でもゴシック建築は中世
のフランスから起こった。此れはキリスト教が「神は光なり」(光の化身)としたからである。其れはグノーシス派の反動
かも知れないが、何れにせよ大きな窓やステンドグラスを嵌めた窓の多い教会建築が多くなった。

各地にはゴシック様式の大聖堂が増えて行き、やがて19にはドイツ・ケルン大聖堂も其の流れで数百年後に完成した
ものであり、何れも国王やキリスト教の権威と統合のシンボルでした。其の流れが今も見られる各地の摩天楼である。

其れに対して17cに全ヨーロッパを風靡したバロック様式があるが、此れはイスラム風の聖堂を模した物であり、其れ
にゴテゴテと装飾を施した物である。此れは彼らがイスラム教に改宗した意味ではなくて、大航海時代を経てイスラム
教にキリスト教が勝った事を誇示する意味で流行ったように推測できる。

直線と直線で組み上げたビルなども其の類です。

西洋文明・・・・・・・厳しい自然に対抗するように、自然とは異質な、不自然なものを人工的に造って自然に対決しよ
うとした試みの文明。

西暦・・・・・・・暦と言うのは天体の動きと連動していなければならない。太陽暦や太陰太陽暦は連動している。所が
ユダヤやイスラム教など一神教圏では伝統的に1年を360日とする数字式の抽象的な暦法を採用してきた。ただユリウ
ス暦は365日を数える恒星暦だった。其れをカトリック教の教皇グレゴリオ13世が改訂して1582年に制定した。

要するに西暦には色々あった。日本はグレゴリオ暦を明治5(1872)年に採用して、西暦、即ち太陽暦と称しているに過
ぎない(イスラーム暦を参照)。

正論・・・・・・・正しい論理。または正しい議論。と此れを定義するのは簡単である。だがそうすれば其れに反論する
論理は間違った論理と言う格好になる。よって人は他人より先に自己の論理を「正論」として展開するほうが都合が良
い。しかしそうすると各方面で色んな正論が多出して判断に困るかも知れない。

社会を困らせるとすれば「正論は社会的弊害である」と言う、変な論理にもなりかねない。其処で「正論」をどう扱うべき
かを再検討したほうが良いのだろうか。其れとも、人の考え方には十人十色あり、時代によっても条件が変わって来ま
すので、正論、反論、異論、逆説・・・・などが多種多様ある事のほうが社会の公益と見るべきなのか(論理を参照)。

▲セイロン・・・・・・スリランカに譲る。


★せう
★ゼウス・・・・・・・デウス。キリシタンの神。天主を参照。
●せえ
●・・・・・


■せお
▲◆




次は
セカ〜刹那
セカ〜刹那
または・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
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