http://hijiri.tamajiri.com       「日知り事典」 page352.html(未定稿)


     日知り事典       ミタ〜ミヨ

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 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ■▲◆★■■
ミタ・・・・・・
御田・・・・・・

●御魂・・・・・・神気。神霊。魂・霊魂。元気。
●御魂(ミタマ)抜き・・・・・・「動座」を参照。

御手洗(みたらし)・・・・・・・トイレではなくて、寺社の入り口付近にある手洗い。種類も多く大きさも大小があって、小
さな神社でも古い所には江戸時代の自然石で作った御手洗が残っている。石にはは円錐形の穴を開けてある例が多
いが、箱型・石棺型のものもある。要するに石に穴を空けて水を入れ、其の上にヒシャクなどを置いた物。

聖域に入る前に先ず心身を清める意味で、其の水で手や口を漱いでお参りすると言う、こうした慣わしは日本固有のも
の。ただ屋外に置いた水は冬に凍結する。凍結しても容器を破壊しない知恵から円錐形にしている。他にも理由が有
る。御手洗だけではなく、灯篭の基礎部分にも穴を開けているものが結構多い。

其れは雨垂れが石に穴を空けたものもあるが、人為的に空けたものもある。其処には雨水が溜まる。何故そんな事を
したのだろうか。つまり「お手洗い」は、実は元々は盥盤(タライバン)とも言った。古来、此処(ミタラシ)で水平の水準を
採って方角と暦を観測した。つまりタライも元はミタライでした。ミタライは水準器でした。

タライの水面(水平線)に糸おもりを落とせば垂直線が出る。「垂らす囲い」を縮めてタライと呼んだ。そしてミタラシの
「ミ」とは「見る」事。見るとは日光と水面を屈んで見る事であり、言わば水鏡です。水平面に対して垂直の糸を垂らせ
ば、日光の影が出来ます。その影は暦日や時刻で違ってきます。だから慎重に見ました。

この様な場は産土神とか安産祈願の場にあった。よって此処は伝統的に女性たちが先祖の命日を確かめ、やがて生
まれ出る子の産み月を占う場でもあった。ミタラシはつまり「日を見て垂らす」場であった。その場では錘(おもり)の付
いた糸を垂らして水面から日影の方位を測り、先祖が帰る日や出産予定日を指折り数えた。

今でも八丈島の漁村や泉州地域にはこうした石うがちの穴が見られる。そうした事から其の他の寺社の境内にも今な
お必ず御手洗があります。その場では左右の手を交互に洗って口を濯ぎ、最後に杓を立てて柄を洗うのが作法となっ
ている。此れは茶道でも同じです。御手洗は心身を清める意味もあった。

似たようなものに手水(ちょうず)鉢と言うのもある。此れは厠(川屋、トイレ)の入り口に置かれた。そうした風習からト
イレの事を今は御手洗(お手洗い)と表示する。だが昔は前記の通り別の意味があった。時代と共に意味が変わる一
例です。

▼ミツバチ・・・・・・・蜂を参照。

(みち)・・・・・・・「みち」の「ち」は「いのち」の「ち」に通じる。特に道の集まる「辻」は神と人との出会いの場であり、
即ち結び目でした。辻や峠は同時に道が分れる八街になった。八街(ヤチマタ)とは、八方を結んだ辻である。或いは
巷(ちまた)があり、やがて其処には市場や門前町が出来たり、途中には駅や宿場も出来た。

だが其れは近代に入ってからの事であって、古の市と言うのは今の市場ではなくて「午場」(馬場、御柱が立つ場)でし
た。つまり道は交通手段以前に精神的な意味のほうが強かった。因みに、古代シナでは老子が出て道教を残した。シ
ナでは道が「タオ」となり、タオとは「気の思想」とか、方術と言われるようになった。

従って漢の武帝の印璽の「行」の字も辻を示す「+」の字で印しています。道は通行するインフラである前に、方位の点
と点を結ぶ意味が強かった。また「みち」は「いのち」の「ち」に通じ、後述の「神の御幸」に重なるものであり、或いは次
の「密」にもリンクする言葉でした。

ですから現代人がこうした「道」をモノカネ主義の一面的認識から「みち」即ち「道路」と言う交通手段や流通手段、イン
フラと物質的な観念でのみ捉えては本来の「イノチ」としての意味も見えなくなるでしょう。

道には凡そ、神の道と人の道があったが、今は見分けが付き難くなっている。神の道には鳥居や太鼓橋などがあるの
で、人が其処を通る場合は昔は注意し、遠慮がちに端っこを通ったものです。其れに対して人の道にも必ず山坂があ
り、上り下りの別がある。

日本には地平線がないので至る所に山坂が有る訳ですが、それ以外にも大事な着眼点がある。山は本来、人の魂が
天に上る近道と見られ、其のため古来、墳墓や聖地(寺社)を谷ではなくて必ず高地に作った訳です。よって山に向かう
事や弔いの場に向かう事を「お山」、「入峯」、「上り」と言って来た。

其れに対して谷や平野部は人里であり、寺社も作られたが、そうした宮や神社は天から神が天下りする場なので、此
処へ向かうのは「下り」でした。所が奈良平安の頃には単に宮へ立ち入る事を昇殿と言うようになり、平地に置いた皇
居に向かう事でも「上り」と言うなど、混乱し始めた。仏教の影響で方位の意味が薄れたからです。

この為、皇居が京都に有った江戸時代までは、京都に向かう事まで「上り」と言い、其処から江戸を見下して関西を「上
方」と言った。今でも関西ではまだ地元を「上方」と自称しているのですが、皇居が東京に遷都したので、JRでは東京に
向かうダイヤを「上り」、それ以外は全て「下り」とした。

何れも時代によりこうした混乱も見られますが、道は命であり、方位に従えば神との出会いがあるラインと言えます
(「熊野」、「日本の道百選」を参照)。ただ「恋の道」とか「極道」については筆者の知る所ではない。いや、極道は任侠
道から外れ、恋の道は出会い系サイトに変わったかな?

▲道(みち)開け・・・・・・・葬式の葬礼で棺の前を先導する人(長男)、または死者が死後7日または100日以上経過した
時点で「道開け」と言って巫女を呼んで死者の口寄せ(降霊)をする事。

★みつ・・・・・・・

みつ(蜜・密)・・・・・・・蜂蜜の蜜。及び密教。弘法大師がゼロの観念を「無」ではなくて「蜜」と解釈した。ゼロは全くの
「無」ではなくて一杯詰まっている事を知って「蜜」と書いたのでしょう(素粒子を参照)。同時に密教では天文占いで七曜
日の日曜の事を「蜜」と言った。

但し密なるものは密教の事だけではなく、「満つ」、つまり種々の真理・色んな事実が一杯詰まっている状態の事であ
り、其れはただ「静かなるもの」である。だから普通の人には気づかれない。そうした隠れた真実を伝えるのが哲学者と
しての私の次の使命と思う(大要は04/4/5、NHKテレビで梅原猛氏)。

密教・・・・・・・天台宗と真言宗の中には顕教と密教とが有り、これ等を台蜜と真蜜とも言う。要するに顕と密とは公開
か非公開かである。後者は特定の弟子に秘伝・口伝とした。非公開としたのは要するに呪術の面であり、誰を何人呪
詛したかが知れれば困るからである(即身成仏を参照)。

★みて・・・・・・・
★ミト・・・・・・・

★ミトコンドリア・・・・・・・細胞内に数百から千数百個ある小器官で、人体の活動に必要なエネルギー、ATP(アデノシ
ン3リン酸)を作る。元々本体の細胞とは別の生物だったため、独自のDNA情報を持つのが特徴。DNAを構成する塩
基が16000対と少なく、全ての塩基配列が解読されている。

母系遺伝するとされ、女性同士の親子鑑定するのに最適。数が多いため、熱や細菌による変性を受けてもDNAが残
る確率が高く、犯罪捜査や人類学などの分野で活用される(「遺伝子」を参照)。

因みに北朝鮮が日本側に渡した「横田めぐみさんの遺骨」について04/12月、分析の上「別人」と鑑定したのはこの
ミトコンドリアによる方法と言われる(04/12/21の毎日記事から引用)。

御堂・・・・・・お寺にある小さなお堂の事。小さいけれども機能は高かった。昔は此処が宮や寺の基本でした。例え
ば今、大阪のシンボルとして「御堂筋」があるが、其の御堂とは一体どのような存在だったのか。今の御堂は巨大にな
っているが、本来の規模は皇居の御所を含めて方丈(10尺四方)と決まっていた。

真南に向けて建てれば四季を決定する事が出来る格式でした(アズマ屋を参照)。御堂は天文の定点観測場だったか
らです。此処に嵌め込まれた蔀戸は星座観測の座標版であり、伊達に格子戸の桟が組み込まれていたのではない。
歳星の回座を12年に一度とか、箒星の出現するのを四方×19=76年に一度、確認する暦盤でした。

此れがあった為にお寺の鐘が正しい時を告げたと言える。藤原道長は「御堂関白記」を残し、鴨長明は「方丈記」を残
した。彼らは聖の一人として御堂で一定の行をする為に籠った。この場合の「行」とは天体観測で暦日の確認をする作
業でした。その片手間に徒然なるまま記した日記が上記の文献として残った訳だ。

次に御堂の形式の特徴として反り返った屋根である。普通の屋根は基本的に直線的に斜めに下がっているのに対し
て、寺社建築の場合は軒が反り上がっている例が多い。其の理由について「其れは美感である」、と言ったような見当
違いの解説はある。しかし真実については誰も解説していない。

寺の字を「土に寸」と書くように本来の寺は正面に卒塔婆を立てて、其の日影を庭に印して命日点を印し、その後も
日々、日を刻んでコヨミとする所でした。寺で其の中心的な役割をしたのが御堂でした。御堂の南に卒塔婆や塔を立
て、南中する日影を御堂内に落として印した。

夜間の場合も、月や星座の巡りを「シトミ」と言う桟の目で数えて暦と時刻を確認したのです。つまり御堂は天文観測の
であり、従って視界を広げる必要性があった。だから「軒上げ」の構造にした訳です。軒を上げて堂内に入る光の量
(照度)、即ち採光、つまり天空率を上げるために屋根の軒先を迫り上げ、目線を上げる必要からでした。

この為、角柱の上の梁の地垂木の上に野垂木を載せ、更に羽根木(桔木)を詰めて梃子の原理で軒先に反りを作って
いた。或いは角柱の上にムクリ(起こり)紅梁を組み、其処から軒先に一手先目、二手先目、三手先目、尾垂木と斗(木
共)を突き出し、其の上に垂木を懸けて屋根の軒先を反り上げた。

そうする為に、堂塔の軒下がゴテゴテとデコレーションを付けて飾った形になる。無論、時代や宗派により色んな様式
が有るが、御堂の原点は、暦時の為に天を「見る堂」でした。其の天文観測の為に四方を等分にして格子戸を立て、其
れをシトミと呼んだ。御堂は此の為一定の規格で作られた。つまり建築様式が一定の格式で整合されていた。

例えば何故「方丈」と言うのか。此れは其の仕様である縦横高さ、つまり間口も奥行きも軒の高さも方丈、つまり10尺
立方としたものです。厳密には、周りの欄干部を除けば九尺四方となる。従って方丈の御堂の堂内(内陣)は四畳半
なり、天井格子も36枡に仕切った。

従ってその下の床は3×6尺の畳が敷き詰められ、中心の半畳部分に聖が座して観測した。其処で聖が四周に張り巡
らされた蔀格子によって天体の動きを定点観測出来たのです。蔀(シトミ)は、其の外の天空を一定の速度で移動する
日月星を方眼盤の目で確認する座標点でした。此れが格好の時刻版、暦版になったのです。

其の点、神社の本殿や拝殿建築の様式の場合は長方形が多いので内陣の形も御堂とは違って来ます。ですが矢張り
軒先には裏甲に交差して放射状に組み込まれた垂木列が見られ、また軒周りは四面に蔀格子を張り廻らせた事例も
多い。碁盤の目はこのシトミをミニチュア化したものである。

何れにせよ格子状の部材の塊を参拝者は好むと好まざるとに関わらず拝む格好になります。其れより驚くべき点とし
ては先ずこうした格子が一本づつ違う角度で組み込まれている点であり、此れが匠の技のポイントだったろう。但し、伊
勢神宮など「神明造り」の場合は単純な直線的様式です。

また武州の竹寺・観音堂もこの神明造りに近い素朴な形です。先の御堂の原型の一例としては、群馬県小野上村・村
上の堀の内・地蔵尊の建物は「方形造り」の屋根で、軒周りの寸法が間口も奥行きも2850mmであり、内のり方九
尺、即ち内部が四畳半の格式を伝えている。

また香芝市の長谷本寺の御堂は春日社に東面して一面1丈(3085mm)の間口に対してシトミ戸の桟目が28(4枚×
7穴)の様式になっている(月読みの「シトミ」を参照)。此れは28宿に対応させる様式と推定出来る。因みに寸法がバ
ラバラなのは日月星の何れに重点を置いたかであり、次は各時代の度量衡の変遷を伝えているとも言える。

次に驚くべき点は御堂の数理ですが、その数式については別頁の「星読み」の所で詳説します。何れにせよ、こうした
御堂の格式が神輿の原型であり、また薬師・護摩・観音・弁天・地蔵・不動など諸堂の基本様式となった。他方、地蔵
堂の六角堂、或いは法隆寺・夢殿のような八角堂、そして興福寺の南北円堂のような形式もある。

天体は丸い天空を円形に巡る以上、其れを観測する御堂も方形よりは六角、八角が誤差が少ない。円形ならば尚正
確を期す事になる。其の点ではイスラム寺院が円塔であるのは理に適っている訳です。さて御堂の形式が室町時代か
茶室の様式にも採り入れられた。

だが今の茶道は心を売り物にする作法屋や道具屋となっていて本来の天文や五行の道を教えないし、また御堂は元
来が天文観測のために聖僧が居つく場だった。其れが今は聖の代わりに仏像を安置し、寺の賽銭回収箱と化してい
る。寺院関係者は無論の事、時報関係者や歴史家、或いは水利関係者でも御堂の意味には気付かない。

囲碁ファンもシトミの事には気付かないに違いない。ともあれ、文化を担うべきこうした場がこの有様では文化不毛とな
るのも至極当然かも知れない。


★ミトラ教・・・・・・・ペルシャの太陽神・ミトラを祭る宗教。ミトラは光と多産を恵む神である。

■緑の革命・・・・・・・月の暦を参照。

★みな・・・・・・

南方熊楠・・・・・・・明治政府は神仏分離と神社合祀を強力に進めたが、当時、合祀に反対したのは彼だけ、日本で
たった一人だった。

彼は明治から昭和の粘菌学者として、既に100年前にエコロギー(エコロジー)の概念を提唱して訴え、神社合祀と森
林伐採に反対して身体を張って立ち上がり、結果として大正七年、「合祀令」廃止に持ち込み、熊野・紀伊山地の破壊
を止めた。

▲港・湊・・・・・・・・みと。水門(みなと)。瀬戸。津。船着場。船舶が碇泊する場所。古来、日本は世界に開いた国だっ
た。今でも日本ほど港の多い国はない。列島全体が世界の湊である。船ではなくて、航空機の発着する所は空港と言
う。

みなまた・・・・・・・・チッソと言うドイツ系の化学会社が熊本県不知火湾に水俣湾から有機メチル水銀をコッソリ
流した事から当初「痛い痛い病」と言われたが原因が不明としてメーカー始め、国や県も対策を怠った結果、問題が広
がった。国は56年に公式確認していたにも拘わらず漁獲禁止も魚食禁止もせずに放置していた。

以来数十年、被害者は苦しみと長い裁判で二重の負担をして来た。国が工業立国とか経済優先のために65年まで企
業を保護して不知火湾の環境汚染を許して被害を拡大させ、被害者救済もしなかった。行政の不手際である。やっと
68年になって公害病と認定した。

関西訴訟では1956年の公式発見から48年を経た04/10/16、国と県の敗訴が確定した。だが06年現在、何が
どう解決したのか。

★ミナレット・・・・・・・イスラム建築の尖塔(その意味は「オベリスク」「御柱」を参照)。例えば500年前のチィムール帝
国の王妃・ゴーハル・シャドの墓の周りに25本も立てられていたが、今は次々倒壊しつつある。

★ミニ・・・・・・
★ミヌ・・・・・・・・
★ミネ・・・・・・・

★ミノ・・・・・・・

ミノワ文明・・・・・・・クレタ王のミノスに由来するとしてミノア文明とも言うが其れでは少し苦しい。要するにギリシャ
文明以前の、今から3500年前にエーゲ海で栄えた古代文明。モーゼがユダヤ人を連れてエジプトを脱出した時代で
ある。

ミノア遺跡のあるギリシャの対岸にはトルコのトロヤ遺跡があるが、何れもBC1400年頃の火山の爆発で埋没したも
のである。近くにエーゲ海のクレタ島がある。モーゼが日本に来ていた事は竹之内文書にも記録されているが、クレタ
は日本語の「呉・暮れた」に音が似ているように、ミノワ(ミノアとも呼ぶ)は三ノ輪にも似ています(下記の「三輪」を参
照)。

ユダヤ教やキリスト教が神をゴッドと呼ぶ以前のミノワ文明の時代は、この辺では神を「ミノワ」と呼んだかも知れない。
日本で三輪は三和、箕輪、神(ミワ)、宮・・・の字にも変化して各地の神社名や地名、或いは名字として広がっている。

其れに対してギリシャ神話のアテネ神はローマ神話でミネルバと呼ばれる「知恵の女神」であり、またミノスはゼウスの
子としてクレタ島の王になり、死後は冥界の裁判官になったとしている。其のミノス王妃は太陽神・ヘリオスの娘でした。
彼女は海神・ポセイドンから贈られた牛と婚姻して生んだ不義の子(牛頭人身の怪物)がミノタウロスである。

ミノタウロスは牛頭大王として振る舞ったと云うから其の姿は日本の午頭天王と似ています。しかも彼は、餌食としてア
テネに毎年7人の少年と7人の少女を送る様にクレタへ要求した。其処でやがて英雄テセウスが行ってこの怪物を退
治したと言う。この点も何処かスサノヲノミコトのヤマタノオロチ退治にあい通じます。

奈良の三輪山には素佐乃男命が祭られ、また海神の娘・豊玉姫を娶った豊玉彦、即ち「山幸彦」の遺跡が九州はじ
め、各地の海岸部に今も祭られているのと符合するが、竹之内文書によれば、この頃ペルシャやローマから盛んに来
日していた。其の伝承が残されているのかも知れない。

其れにトルコ側の、ペルシャには太陽神・ミトラが祭られ、今も近くにはサン(太陽)の名の付く島や地名が多い。日神
信仰は以後ヨーロッパ各地に広がった。クノッソス宮殿は、堂々とした重厚長大な石積みであるが、其の建築は計算し
尽くした設計であり、石敷きの道路や下水溝が造られていた。此れは古代ローマの1000年前の建築物である。

エーゲ海の中心にはクレタ島があり、其の建築物には両刃の斧の形の彫刻が各所に見られる。その意味がやがて不
明となり、迷宮を意味する「ラブリュス」の語源となった。此処には巫女(神官)が居つき、BC6c頃には巡礼者が集ま
り、アテネを豊かにしていた。デルフォイの丘にはアポロン神殿が建てられた。

クレイステネスが自分の名声を高めるために600mの急な崖の上に大理石で飾った神殿を建てたと言われる。確か
に彼は其れを成功させて高い地位に就いた。だが以後は巫女に代わって男性の神官が支配し、巫女たちは其の下に
組み込まれ、怪しげな神託を下すようになった。

デルフォイの丘の下から現在、エチレン(有毒)ガスを発する地層が発見されたので、彼女たちが幻覚作用によってご
託宣を下したと見られる。其の権威は後1000年間もギリシャを支配した。

さて、ミワ(三輪)の神はウマ酒の神とも言われるが、此処ではゼウスの子・ディオニソスと呼ばれ、豊穣の神・劇場の
神と讃えられ、酒が捧げられたとも推測できる。

其処はエピダウロスの丘に造られた劇場であり、お碗の形の地形を生かしてトユクレイトスがBC360年に設計した約
14000人の観客を収容する半球劇場であり、今も音響効果が良く、マイクの要らない野外劇場として使用されてい
る。スパルタ地方からも信奉者が集まっていた。

この頃の記事として後に哲学者・アリストテレスが病人の為に温泉や音楽を使った治療施設について書き残した。また
プラトンはこの近くにアトランチス大陸があったと書き残した。今から3500年前に火山が噴火してサントリニ島の一部
が沈んだ。近くにはオリンポス山(2918m)、アトス山(2033m)、エトナ山(3263m)などがある。

エトナなどの火山は三つあり、エトナが3500年前に大爆発してミノワ文明を潰し、トロヤ遺跡を残した(「クレタ島」を参
照)。

火山灰が5m降り積もり、今も其の痕跡が厚さ3mの地層になっている。当時は同心円状の町が作られていて、2〜3F
建の建物も現れ、美しい工芸品も出土している。アテネのパルテノン神殿(34×70m)はBC5cに女神・アテナに奉げ
て大理石で建てられた。

此れはアクロポリスがペルシャと戦って勝った結果、同盟国の軍事拠出金を流用して建てたので以後スキャンダルとな
った。ペリクレスが計画し、ヘービアスが設計した。幾何学的で芸術性の高い装飾の付いた建築物であり、内部は大量
の金で覆われた(04/11/14、NHK教育テレビより一部引用)。

其れに、カトリック教のバチカン・サンピエトロ広場もバアル神(太陽神)を祭っている(以下・・・・工事中)。


★ミハ・・・・・・・

御柱(みはしら)・・・・・・近年、三内丸山の縄文遺跡から六本の柱列が出土した。また今でも諏訪地方では定例的
御柱(おんばしら)の祭りをしています。これらは何れも古の太陽観測の祭りの名残りを伝えるものでしょう。所が頭
の固い考古学者はこの柱の上に屋根をつけて「望楼だった」と解説しているのですから困ります。

其れでは意味が違うからです。柱の字は「主の木」と書く通り、此れは神ノ木(主柱)でした。主柱、つまり見柱は天地の
間に立ってあの世とこの世を繋ぐ「依り代」であり、一定の日に先祖がこの世に蘇える所でした。またこうした主柱・「宮
柱」とも言われる柱は複数の柱ではなくて基本は一本の主柱、つまり大黒柱を言った(ヒモロギを参照)。

其れが譬え白木の柱であっても日影から見れば黒く見える。つまり家の中から見る場合には「大黒柱」とも呼ばれた。
さて柱は「喬・高橋・高梁」と書いて何れも「たかはし」と読んだ。箸は2本バシであり、柱を横に倒せば「橋」になるから
話がややこしくなりますが見柱は高く立てられたので一本の棒であり、喬・高木とも呼ばれた。

「大」の字や「口」に木を付けて、祭の場と高い柱を示したのです。何れにせよ、其の主柱の下に居つき、侍るヒジリを
天子、または斎(いつ木)姫と言った。その場は決まって「朝の庭」だったので帝(見門)の元を朝廷と書いた。

其のアシスタントが太政大臣であり、此れを「大木おとど」と呼び、其のアシスタントとして神祇伯(かみつかさのかみ)が
あったのです。更に関連する文字も述べるなら、「王」の字は、天人地を縦に繋ぐと言う文字であり、また「工」の字は天
地を繋ぐ行為を示したものです。大王に対して大工の言葉があるように、大工もヒジリの仲間でした。

例えばキリスト(ナザレのイエス)も大工の息子でした。原始キリスト教にグノーシス派が有ったが、彼らは大工の正統派
として、太陽観測で暦を作った筈です(「バアル」、「グノーシス」、「ノーモン」、「ネ」を参照)。「大工」イコール今の建築
屋ではないが、何れにせよこうした方々が居つく場は、御柱が立って、その場を「馬場」、即ち「午の場」とした。

「午」とは動物の馬ではなくて方位の南を指す午、即ち正午を示す「杵」の事でした。この字もハッキリと「午の木」と書く
文字で教えています。祭りには市が立つ。市とはマーケットではなくて見柱を立てた所です。この祭りの庭の中心にこう
した柱を立てて太陽の日影を見計り、暦と方位とを確認して先祖祭祀を行うのが日本の先人たちの心得でした。

従って御柱は天や日影を見る「見柱」だったし、其の祭りを高木の神として来た。高木は喬木とも書くが、その御柱の原
点は「墓標」でした。所が現代人は主柱の意味役割を知らず、馬場と言えば競馬場と誤解する。今でも寒村に行けば
古の葬法を踏襲して、白木の檜材の「先を尖らせた」檜の一本角柱を立てて、其の周りに鳥居を付けた。

鳥居に一尺四方の井垣を設えた墓壇を見かける事が有ります。この場合の井垣は方位を見る座標であり、本来は
ではなくて普通は一間四方を一単位の霊地(今の一霊地は1/4坪の広さ)とした。何れにせよ此れは神道で言う
モロギと酷似していた。

所が今の神道では御柱が「見る柱」だった事を知らず、また下記の「宮柱」と言う詞を祝詞で読み上げながら、其の実
体を知らない。因みに「先を尖らせた一本角柱」を文字にしたのが「鬼」の古字です(「鬼」を参照)。
かつて帝国軍人が墓地に祭られる場合の墓石は必ず角柱になりました。其れが我が国の伝統なのです。

因みにシナでは此れを「表・圭」と言い、その場を「壇」または封と書いたが、黄土高原のかつて匈奴がいた地域でさえ
「神木」の地名があります。また朝鮮では位牌を「神主」と言い、御柱を牌、または堂木(タンモク)と言い、その木がある
村を「木村」と言った(「封建」を参照)。

序ながら、Xmasツリーやエジプトのオベリスク(串)、其れにカナダ・インディアンのトーテム・ポールも御柱と同様、太
陽観測の見柱だった(「ノーモンを」参照)。ノーモンとは聖杖であって、老人の「転ばぬ先の杖」ではない。仙人やキン
グ(王)が必ず玉杖を持って描かれるのは、彼が老人であったと言うよりもヒジリであった事を示したものである。

杖は天体観測と共に、英語では度量衡を決するノーマル(基準)の語源です。そしてギリシャ数字でも1から10までをT
UVWXYZ[\]と書くが、Tは御柱、Xは其の柱の作る影の角度、そして]は10であると同時に四方を結ぶ中
心点を示したものと解釈できる(ギリシャ文字を参照)。

此れも天文観測、つまり五行思想(「五行」を参照)から出た方位文字からの数字だったろう。また古代エジプトでは魂
の復活再生が前提にあり、魂をバーと呼んだ。因みに英語のバーは棒の事であり、即ち「御柱」に通じる。

また12/24~5のXmasはキリストの生誕ではなく、本来は北欧で冬至明けを祝う太陽神・ミトラの祭り(玉串祭)だった
(「ノーモン」、「オベリスク」を参照)。Xmasイブのサンタクロース(Santa Claus)にしても赤い服がシンボルであり、此
れは太陽を意味していた。

所が其の点について立教系の春木君は、「あれは近代になってコカコーラが赤と白のイメージとして作り上げて宣伝し
て広めたイメージだ」と意外な事を言い、続いてツリーについても彼は、「長野の御柱の祭りもモミの木であり、神の数
を一柱二柱と数える」と話してくれた。

何れにせよサンタ(Santa)と言う言葉も太陽(Sun)に近い響きであるし、クロースにしてもクロス(cros十字架)とか、
クロノス(Khronos時の神)に通じる。其れが4c頃にいた聖ニコラウスにとって代わったのは、オランダ語では彼の名
をサンタクロースと読むからであり、しかも彼の祝日が12/6であり、クリスマスに近い日だった事による。

因みに英語で木曜日をThursdayと言うのは太陽の見柱ではなくて星であり、北欧で木星を暦の目安とした七曜から
の呼称である。何れにせよ古くから太陽は御柱によって各地で各様に祭られて来たのです(「御堂」を参照)。

★ミヒ・・・・・・・
★ミフ・・・・・・

★ミヘ・・・・・・・
★ミホ・・・・・・

▲みま・・・・・・・・
▲ミミ・・・・・・・・

ミミ・・・・・・・・オシホ耳とか三島ミゾクヒ耳など、古代日本の王の名にある。彼らは神の声と民の声を聞く立場であっ
たのだろう。

・・・・・・・・顔の左右にあって音を聞く器官。ただ耳は単なる音波受信器ではなくて更に栄養過剰のガス抜きにも
なっている。人が栄養過剰になれば例えば肥満や糖尿病になり、ボケにもなり易いが、人は加齢と共に運動量が減っ
て行くのに習慣的に惰性で従来と同量を食べ続けてしまう。

栄養摂取量に見合う労働活動をしなければ蓄積される一方なので異常を来たして当然です。入院してベッドに寝ている
場合も髪の毛や爪が必要以上に伸びるのは栄養過多によるものでしょう。中でも耳や鼻は肉体の奥の方にまで入って
いて、内部情報を外部に伝える器官になっているので、耳などのセンサーが働いて耳鳴りや高血圧の症状を示す。

更に其れを解消するために耳カスや鼻汁となって一部を排出する。言わばオーバーフロー(溢れ口)の仕組み(自然の
生理作用)になっている。とすれば耳鳴りなどに対症するため血圧降下剤を入れても解決しない。水虫などもタンクのド
レーン・コックと同様、排水口の働きです。

重金属は耳からよりも足の裏などに出て水虫となり、其れを食べてくれるのが水虫菌なのですから、水虫菌を悪玉犯
人と誤認して薬品などで殺しても医学の力では一向に完治しない訳です(祓いを参照)。

次に、耳について見える部分の肉体面から霊的な意味を言えば、顔の真ん中にある一つ鼻とは対称的に、耳は左右
の端に二つある。鼻が父とすれば其の下の口は母の意味と役割である。其れに対して耳は祖父母である。鼻と口が方
位の南北、つまり父母とすれば、耳は東西の位置付けです。人が南に正対した場合は左目で日の出を見る。

次に日没は右目で見る事になる。其処で古来、左右の目は日月関係と見たのです。従って、其の両眼の端にある耳は
東西を意味(「円系図」「遺伝子」「みそふ神」を参照)した。其処で例えば難聴の場合の病理を説けば、人は誰でも4人
の祖父母がある。ご本人の幼少時に一番可愛がって下さった方々です。

其れを今のご本人がすっかり忘れていたとすればどうなるか。祖父母たちが位置して守っているのが耳なのです。お互
いの接点(コンタクト)も交信も途絶えていますと耳の奥に老廃物が溜まって中耳炎となる。其れによって体外に出れば
治るのですが、中耳炎にもならない場合は徐々に難聴になると思われます。

ただこう言う筆者は医者ではない。従って臨床結果はない。ないけれども方位による病理として解説しました。序に言え
ば今の西洋医学は歴史が浅い。でも「科学的だから」とか誤解されて信頼されているが、何も科学的では有りません。
対症療法を色々試行錯誤して料金を取るシステムが進んできただけの代物です。

だから耳が痛いと言えば鎮痛剤で誤魔化す。よって治療とは言えない。補聴器なども進歩したが、此れは電磁気技術
の進歩で有って医学の進歩ではないのです。補聴器を使うのは、医学では難聴をも根本治癒できないから、補助器具
を使うと言う状態な訳です。西洋医学は歴史が浅い。其れに対して東洋医学は4000年の歴史があります。

漢方以前は和方でした。つまり我が国には世界一古くから正しい医学(薬師を参照)が有った。

ミミズ・・・・・・・・蚯蚓と書いてあればミミズの事なので、「岡っ引き虫」と解釈しては誤解となります。岡っ引きは丘で
はなくて人を引っ張るだけですが、ミミズは自分を引っ張る生き物です。しかもミミズは人から餌も与えられずにひたす
ら「砂を噛むように」土を噛み砕き、或いは腐ったものを分解する働き者です。

しかも糞に変えて、植物にとってより良い土壌に改良する暮し方を続けています。こうしてミミズは密閉した土に穴を掘
り、耕す事で酸欠の土中に酸素を入れ、他の生物や植物の成長活動を支えている「縁の下の力持ち」です。

このように見れば彼らは他の生物にとっても貢献度大であるのですから小便を掛けたりしないで下さい(ミミズバレに腫
上がります)。其の上、農薬で殺さないで頂きたい。彼らは人類の弾圧と迫害の下で生きながら他の多くの生物たちか
ら狙われて何時も餌食となる悲しい生き物なので時々泣きますし泣き崩れて干からびてる姿を目にする事がある。

何も悪い事をしていないのに年中、鳥やモグラの餌食になり、其の上、人間からも魚釣りの好餌にされる外、蚯蚓と言
う漢方薬にされるのですから堪らない。でもミミズは他の生物を取って食べたり共食いするなどは決してしない。ミミズ
同士が争う事もない。

実に平和的な生き方を続けているために一方的に何時だって被害者側に置かれているので、今度見掛けたら一言ご
挨拶して見てはどうですか。

▲ミム・・・・・・・・
▲ミメ・・・・・・・・
▲ミモ・・・・・・・・

▲ミヤ・・・・・・・・
・・・・・・

・・・・・・・「みやこ」は天皇の居ます宮、つまり皇居のある町を言った。従って東京に都電が有ったが、全く同じ電車
を地方の市街地を走らせても都電とは言わない。

また京都や奈良で古都・南都(奈良 )等の言葉が使われるのは当然だが、天皇が居ないのに商都・水都大阪としたり、
石炭の産地(大牟田)を「炭都」としたり、或いは地方の市を「地方都市」とか、其の地の市役所の詰まらない計画まで
「都市計画」と言って何もしないのに都市計画税をフンダクルのは用語の誤解・濫用・悪用です。

●宮柱・・・・・・・祝詞に「宮柱太知り立て」とあるのを見て現代人は決まって支柱、即ち建築用として複数で使われる
「棟持ち柱」と同類のものと勘違いした観念で見て分かったつもりでいる。だが、柱とは言わば今も立てられる墓標のよ
うな主(一本)柱であり、其処が誰かの魂の依り代となるが故に柱、つまり「主の木」と書くのです。

一本の主柱が宮柱であり、こうした柱を祭りの場の中心に立てて太陽の日影をはかり、暦と方位とを確認して先祖祭
祀を行った。従って宮柱は御柱、オンバシラは実は「見柱」だったのです(上記の「御柱」、または「鬼」を参照)。

▲ミヤマ・・・・・・・・
▲ミヤマシジミ・・・・・・・・蟻に育てられる蝶。

▲海山・・・・・・・・
▲深山・・・・・・・・

▲ミユ・・・・・・・・

御幸(古式)・・・・・・・日本では古来、京都の時代祭りや賀茂の葵祭りの様に大行列の祭りを続けて来た。「時代祭
り」の起源は新しいが其れでも行列が2キロに及ぶ長さになる。これ等は何れも遷宮や御幸の様式を後世に伝えるも
のである。

何故古臭い衣装を着けるのか、と言えば、先祖が帰ってきても、今の人が皆、洋服で行列したら、今浦島の神や先祖
には其れが自分の祭りである事が分からず、行き過ぎてしまうからです。さてシナの周王も春には文武百官を伴って東
に向って進み、神を祀った(泰山を参照)。

日本各地の祭りはシナより更に古くから神幸を繰り返して来ました。四季により夏は南に秋は西に迎えに出ました。本
宮からお旅所に神輿を往来する形式を「神幸」と呼び、シナでは絶えたが日本は今でもその祭りを全国各地で行ってい
る。何れにも共通する事は宮から宮へと一定の方角に対して、神を担いで行列を組んで行き来した事である。

狭い日本で有りながら、相互の宮の行程・里程が実に100kmを超える例も多く、その間を徒歩の大行列が長旅を続け
た事になる。其れこそ正に「苦行」と見る人もあるかも知れないが、他方、金砂郷神社の大祭礼のように一ヶ月間繰り
返し行列を繰り出す例も残っている。

此れは苦行と言うより組織的な年一回の大旅行・大慰安会であり、踊りを神に奉納する発表会であり、或いは若人た
ちは歌垣に集って相手を探す出会いの場として、各々実に楽しいレジャーだったと推測出来ます。或いは江戸時代の
参勤交代では「下にー下に」と言う声が聞こえなくなるまで庶民は土下座していた。

此れは江戸時代以前から、御幸の際には土下座して神を迎えて来た風習があったのを幕府が利用し、大名を「お上」
としてとすり替え、その行列を御幸(みゆき)と同列のものと刷り込んだものに違いない。何れにせよ、こうした伝統行
事も今では、何でも簡略化が「合理的・改善」であると誤解し易い。

浅ましくも小賢しく「だから日本は遅れている」と批判し、或いはスピードを競う都会人が増えた結果として、「ユックリズ
ム」の伝統を守り通すのを益々困難にしている。

御幸(現在)・・・・・・・天皇が単に旅行する場合でも今では「御幸」と言うが、今の其れは本来の御幸とは全く無関係
である。御幸とは一定の暦・方位に則ってヒジリが神を迎えてお供をする行為であり、従ってその験として其の地に瑞
雲が出るなど気候も変わった。つまり、豊作豊漁の瑞兆が現われたものでした。

或いは御幸によって人々の心が変わり、世間が和む。地には新たなエネルギーが降り注ぐので人々は元気付くし、作
物の生育も良くなり、魚も集まってくる。全てが副作用のない良い効果となって現われるものである事を日本人は過去
何度も経験して来た。だからヒジリが「見て行く」事を「み幸」として有り難く思った。

そうした事から今も神輿の渡御を地元は喜んで歓迎する。此れも御幸(神幸)信仰の名残りである。其処で今でも天皇
の行幸前には地域住民にも直ぐ見える形で決まって道路整備がなされ、「行幸」の有り難味を示すと言う伝統的な手法
が採られる。

▲ミヨ・・・・・・・・

妙見・・・・・・・・北斗妙見信仰である。海洋民族にとっては夜の航海案内の神。妙見菩薩は天台宗の菩薩。漁師が
信仰し、日蓮宗草創期を支えた。その他、南大阪には妙見山感応寺・妙見堂】(上神谷ニワダニ妙見)がある。以下、
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/sonota-myouken.htmlから引用する。堺市南区富蔵にある。本尊は妙見大菩薩。

此処の縁起によれば、『妙見信仰が盛んだった江戸中期には、能勢・星田妙見とともに大阪三大妙見といわれ、大阪
や堺だけでなく遠く和歌山などからも多くの信者が集まった』という著名な妙見堂だが、交通の便が悪いためか衰微し、
今は地元の人にも忘れられた霊場と化している。

案内書きによれば、『妙見山感応寺と称し日蓮宗に属する。九星(生まれ歳の星)の守り神で、北極星を神格化した妙
見大菩薩を祀る。寺伝によれば、大化元年(645)唐の聖僧・法道仙人が、当地で大乗法華経を誦していたとき、北極
星が童子に化して顕れた。

その姿を一刀三礼の儀をもって浄刻し、祠を建てて祀ったのが当寺の起源』とあり、続けて『妙見堂は江戸初期の万治
元年(1658)に、泉州堺・妙国寺の大檀那である錺屋籐左衛門が妙国寺の世応院・日俊上人を導師として開山した。
云々』とあり、境内には、籐左衛門の顕彰碑がある。

道端に立つ鳥居をくぐり直進すると妙見堂があり、その前にも瓦葺きの鳥居が立っている。妙見堂は唐風破風をもつ
堂舎でだいぶ荒れている。堂内の格天井(ゴウテンジョウ)にはいろんな紋所が描かれている。昔は美しかったであろ
う。

その奥、本堂上部には"お題目"を記した日蓮宗独特の額が掛かっているが、仕切り扉が閉まっているため、本尊・妙
見像の形姿は不明。境内の何処にも人気がなく、詳しいことはわからない。ちなみに上神谷と書いて"ニワダニ"と読
む。

伝承では、伊勢の能褒野で亡くなったヤマトタケルの魂が、白鳥となって大和へ飛び来たったとき、まず鉢ヶ峰に降り、
次いで富蔵山の上を飛んで鳳に降り立った。神が降り立った処から"上神郷"(カミツ・ミワノサト)と呼ばれ、それがミワ
ノサト→ミワダニ→ニワダニと訛ったものという。

その他として、兵庫県篠山市・西脇市の西光寺山、そして更に兵庫県丹波市市島町白毫寺、和田寺、そして安海寺
(多可町):高野山真言宗。本尊は阿弥陀如来。法道仙人の開基。 日本最初の渡来僧「恵便法師」ゆかりの寺。など
がある。

ミ・ヨ・イ・・・・・・・・ミヨイとは三角形の一辺の長さが3:4:5、の比率で「見良い」、即ち見て美しい形の事である。
例えばピタゴラスの定理と言われる形が「三平方の定理」です。だが、此の形は大和三山の位置関係など、日本では
太古から存在した形です。また周時代の度量衡では大尺と小尺とがあり、大は22.5cm、小は18cmでした。

此れは単に、大の80%が小と理解されて来たが、実は三平方の定理を確認する優れた度法でした。此れは先ず22.
5cmの棒を基尺として円を描き、その80%の地点、即ち18cmの地点で四角形を描きます。次に18cmの棒で円を
描けば113cmの円周になる。其れを四等分すれば、四方に18cmの直線、つまり十文字が描ける。

其の一辺の底辺から13.5cmの長さの水平線を引いた所に、今度は中心軸から斜線を引いて結べば其れは長さ2
2.5cmとなり、即ち大尺の長さになる。そしてこの三者、13.5cm、18cm、22.5cmの比は、3:4:5、即ち「三平
方の定理」を示すものとなり、しかも此れが美しく整った形なので我が国では「ミ・ヨ・イ」と呼んだと思える。

此れは太陽観測の場や条里制の測量にとって前後左右の位置関係を整合させて再確認するためのスケールの大き
な法則でした。其の点、ピタゴラスは此れを数字化して矮小化し、ノートに書いて計算出来るようにした数学者の一人に
過ぎなかった。

苗字・名字・・・・・・・姓。出自、つまり其の人の氏素性。日本は世界一、苗字が桁違いに多い国であるが、この名字
の多さは歴史の深さの一つのバロメーターである。因みにシナは一口に「中国4000年の歴史」等と言うし、人口も世
界一多い国だが苗字は少ない。

と言う事は歴史が実はそれほど古くはないし、しかも度々分断された事を示している。またビルマには名字がない。
以下、「今日は何の日」から引用する。今から136年前の明治3年9/19に太政官布告で「苗字許可令」が出された。日本
には現在約12万種の苗字があるが、其の中の多くが明治になって出来た。

苗字は元々名字と言い、姓氏とも言う。姓は古代の身分や役職であり、氏は地方の豪族を表した。嵯峨天皇の815年
の「新撰姓氏録」には126種(1182氏)が記録されている。以後土地の開発が広がり、其処に固有の名を付けたのが名
田であり、其処の開発・耕作者とした。其の名田を人の名に被せて名字とした。名字が江戸時代に苗字に変化した。

しかし徳川家斉が武士・医師など限られた人だけに苗字を許して「農民・町人の苗字を禁止」とした。当時の人口3500
万人の1割の350万人だけに苗字を許した。所が明治になり、士農工商の身分制を廃止したが、国民皆兵と徴税の必
要から改めて苗字の必要性が高まった。其れで苗字を許可したのだが国民は中々付け様とはしなかった。

此の為、明治8年に苗字を義務付けとした。因みに幕末の苗字は約3万、今は12万種である(06/9/19の読売テレビ)。
確かに百姓や小作人に庄屋やお坊さんが新しく苗字を付けてやったと言うエピソードが各地にある。しかし其れは明治
新政府の言わば手柄話であり、頭から信用する事はない。

田舎の古くからの墓地に行けば、今でも古い石碑がある。江戸時代のものもある。其の中の多くが既に苗字を刻んで
いた事実を確認できよう。百姓町人でもちゃんと苗字が有りました。其れを公式の場で使用すればお咎めがあった。だ
から遠慮して村の名や屋号で通名として来たのです。

天皇以外、苗字は昔から誰にも有った(勘籍を参照)。しかし明治新政府は身分差別解消の代りに徴兵化を進め、富
国強兵を狙った。其の目的の為に苗字を義務付けた。此れは与えたのではなくて変更許可と表示義務化である。

例えば今までの苗字に不満や支障がある者は、希望すれば例えば徳川の苗字にでも藤原氏にでも変更できたと言う
程度である。


明神・・・・・・・各地には稲荷大明神とか豊国大明神などがあるが、此れはお灯明を上げて明るくする神社を言ったも
のなのか。明神を「アキツ」神とも読むが其れを秋津と考えると余計分からない。アキツとは実は日と月とを明らかに示
す神、即ち天文を観測して暦を作る神でした。

明神には春日、住吉、稲荷大明神などがあり、それに対して日枝・山王権現、東照大権現などの権現社があった。何
れも神仏習合時代の称号であるが、明治になってこうした称号が禁止され、寺か神社かに明白に分離させられました。
だが神仏一体が日本古来の宗教の本質だったので神仏分離では意味を破壊し、文化破壊となり色々問題を残した。

▲ミラ・・・・・・・・
▲未来カレンダー・・・・・・・・別紙を参照。

未来志向・・・・・・・・多くの若い人たちは今の不満を「まだ未熟で未完だから」として未来に夢を持つ。未来を語り
其処にロマンを重ねます。其れを周りの人たちも「前向きで良い」と評価します。けれども其れで失敗しないように敢え
て反論をして見る。誰かが言わなければ死ぬまで気付かず迷惑を撒き散らす詐欺師のような老人も多いからです。

さて物事の順序や道理から言えば過去は完全なるが故に成立した。其れに対して未来は未定であり未完なのですから
まだ何の実績も無く完全に到達出来るかどうかさえ不明です。だが若い内は夢を語る人を前向きで素晴らしい人と見
間違えてしまう。其れが虚構であるとお互いが気が付かないため錯覚と勘違いから空回りして失敗する。

なので、同じ努力をするなら勘違いをしない事である。其のため必要な事は進化論式の未来学よりも物事の道理を知
るべきである。今は不完全だがやがて完成すると言うようないい加減な夢を追うより、今、足元にある事実を踏まえて、
目の前にある問題解決を一つ一つ積み上げる事である。

例えば赤字会社なら此れまでの失敗を認めて反省する事が必要であって、赤字から脱出するために更に同じ手法で
頑張ってはハタ迷惑となる。失敗には原因があるのですから、其処を改めなければどんなに大きな夢や計画を作って
も同じ失敗を重ねて破綻し、他人に更なる迷惑を掛けます。

ですから夢を持つよりも、迷惑を掛けた相手に詫びて意見を聞き、失敗の原因をお互いが認識して先ず自分のほうか
ら改善する事が第一。次に損失を掛けた分は償う必要が有るので、直ぐに精算出来ない場合は其の後の返済計画を
提示する事である。

そうした手順を怠り、或いは前科を隠して別の相手を探したり、前向きに未来志向で其れ行けドンドンと夢を追うのは
本人のみならず社会悪になりますよ。


● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 以下は次ページへ ・・・ ・・・ ・・・ ■▲◆★■■

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