http://hijiri.tamajiri.com       「日知り事典」  page252.html   (未定稿)


     日知り事典      ナ  

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・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
● ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・  ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 

●な・・・・・・・「な」は「名」であり、菜であり、数字の七である。古和語の「な」はまた動詞として否定形になり、ロシア語
ではニェット、英語ではノーと変化した。

▲名・・・・・・人の名字は地名から出た。また、「名は体を表す」とも言う。此れは人名以外にも及ぶが、学者は新星や
新種の物を発見するたび名前を付ける。医者も料金を取るため患者に一々結構な病名を付けてくれるが、次々病名を
増やすばかりで治せない。名ばかりではなくて名実共に有りたいものです。人名は別項参照。

(ナイ)・・・・・・・・アイヌ語ではペッとナイが川を意味する。北海道には岩内、歌志内、木古内、振内、静内、比
内、納内、幌加内、尻岸内、幌内、などがあり、稚内の北は樺太である。樺太にはナイ(内)の付く地名が特に多いが、
「内」だけを見ても例えば久春内(イリンスキー)、内幌(ゴルノサボロスク)などはロシア語に呼び変えられている。

外にも遠内、幌内、知内、泊内、妻内、河内、鉢子内、珍内、芳内、知古内、本内、内幌、利良志内、特内、江戸内、
沃内・・・・などがある。因みに北海道にも多い「幌」の意味は「多い、大きい」である。またカムイ(神)、カラ(造る)、プト
(河口)、アツイ(海)、ヤ・モシリ(丘・島)もアイヌ語であってロシア語ではない。

鹿児島には荘内、川内(センダイ)、西日本には瀬戸内海、大阪には河内があり、石川がある。苗字には小山内(おさ
ない)があるが、此れらもアイヌ語が語源かも知れない。因みに石川は石の川と書いているが、此れを不自然と思わな
いとすれば不思議である。石が流れる川はめったにないが、石がある川は何処にでもあるからです。

其処で石川をアイヌ語で読み替えれば「あの大きな川」となる。太古の河内は陸地よりもこの川が広く占めていたので
す。

ナイジェリア・・・・・・対立の国。アフリカの産油国であり、豊かな国になっている筈だが石油が発見されて以来、前
のアバチャ政権の腐敗と内戦で最貧国となった。ビアフラ内戦では石油資本が双方に武器を与えて戦わせ、200万人
が死んで、1〜3兆円の借金を抱えたため今ではアフリカ一の借金国家である。

石油利権には米国が必ず介入して内戦に仕向ける(スーダンを参照)。ナイジェリアでもアバチャ前大統領は、軍事政
権であったが巨額な不正蓄財をして海外に移していた事が分かった。日本も其れに1/4加担していた。そうした現在
でも権力者たちが汚職と利権に走っている。

でも今のオバサンジョ大統領は、「アフリカの手本になりたい」と頑張っていて、国営の石油会社は年間2兆円を稼いで
国家予算の80%を賄っている。其の半分以上が米国向けである。此処は中東よりも米国に近いと言う利点がある。中
東は不安定だが此処は比較的安全であると言う見方も出来るし、今後は海底油田の開発に期待している。

其れを狙っているのが米国のチェイニー戦略である。このため油まみれのブッシュが10回以上訪問している。米国は
今の浪費を維持するために今後、中国とインドの消費量の二倍の石油を確保しなければならないからだ。しかし国内
では政府の米国密着の利権体質に反発が高まっている(大部分を05/7/23のNHK総合TVより引用)。

▲内臓・・・・・・肉の塊。つまり月の精。「五臓六腑」を参照。

▲ナウマン象・・・・・・2〜3万年前の日本にいた象。ドイツのナウマン博士が命名したからナウマン象と呼ぶ。昭和47/4
/12日、東京原宿の地下鉄千代田線の工事で全身の化石を偶然発見して発掘された。アフリカ象に近い形で、牙の長
さだけで2mもあり、全身の高さが約3m。45〜50歳の象と分かった。此れは10万年前の象だった。

ナウマン象は30万年〜1.6万年前の北海道から九州に至る日本各地に棲息していた。10万年前には彼らが群れをなし
て原宿界隈を散歩していたのだろう(以上、07/4/12日の読売テレビ「今日は何の日」より引用)。温暖化から氷河期の
繰り返しから見ても、日本もやがて元の姿となって、色んな象が活躍する土地に戻るであろう。

▲直会(なおらひ)・・・・・・祭りの後で、神前にお供えしたものを撤下して、其れを神饌(お下がり、撤下品)として互いに
分け合い、神の前で神の気が入った品を人々が共に和気藹々と戴く食事、またはお神酒であり、此れを「神人共食」と
も言う。

ナーガ・・・・・・龍蛇を神とする種族で、古来、東南アジアの稲作地帯に広く分布した海洋民族。彼らの居住した地
方には今もナーガ(中、長、那珂、那賀)の字が付く。天皇家の素性は実はこのナーガ氏であり、天照・高木の神から
天孫降臨を命じられて二二ギ命が天下りした地方も出雲、即ち「葦原中津国」の高千穂でした。

出雲の中心地は今の奈良県であり、当時は淡水湖だったので、高千穂以前に既にニギハヤヒ命が山手の葛城の地へ
降臨していた。以後、神武の時に出雲の外港としての河内にはナガスネ彦がいて神武に刃向かった話が有名である。
出雲・葛城王朝の後に、其れに取って代わったのが神武(かんやまと)以来の倭(大和)王朝である。

彼らは足仲彦(仲哀天皇)、大仲姫、息長足姫(神功皇后)、中津姫、息長足日(舒明)、中大兄皇子(天智)、中臣鎌
足、中原沖真人(天武)、そして地名では長柄、長等山、貴族では長屋王、中原、中臣氏・・・・・等を出した。

以来、日本のリーダーは「ナガ」が代名詞となり、従って今も首長・町長・会長・社長・部長・課長・・・等、全て「長」の字
を付けるのが慣わしとなっている。またナガの関係先は今も那賀郡、中町、中島、長島、長野、中山、長崎、中野、中
原、那珂川・・・・・などの地名・山名・川名・姓を残している。

東南アジアに広がったナーガはラオスからタイ、ベトナム、カンボジア、へと流れる東洋一のメコン川流域、インドのガン
ジス川、シナの長江などを「母なる川」として、龍蛇を祭り、稲作で暮らして来た。この地のナーガは古来、月族の典型
的な種族だった。

例えばカンボジアにはナーガ(蛇)をシンボルとしたアンコール遺跡・王道・橋などがあるが、何れも12〜13cのアンコ
ール王朝の建設したものである。またバングラディシュやオーストラリアの先住民・アボリジニも蛇の精霊・コーダ(虹
蛇)を崇拝する。

尚、息長足姫(神功皇后)は新羅の王子・天日鉾の流れの「沖の長氏のタラシ姫」の意味であり、次項の「長息」とは無
関係。

長息・・・・・・長生きは「長く息をする」事であり、其れがまた長寿の秘訣でもあろう。其の点、現代人は肺呼吸しかし
ない。特に男子、中でもスポーツは肺呼吸によって短く早い呼吸を習慣づけてしまうが、それでは肉体(特に内臓)を痛
めて健康を損なう。

健康にも美容にも胆力にもエアロビクスやラジオ体操など、画一的・機械的なリズムで運動するより、固有の自分のリ
ズムで腹式呼吸によって長くゆっくりするのが良い。人間は十人十色であるのだから老若男女が一律機械的にやって
は体を壊す(「息」、及び「長寿の是非」を参照)。

長岡京(遷都の意味)・・・・・・・折角奈良から遷都したのに桓武はどうして10年間で長岡を見捨てたのかが謎とさ
れ、また今もって其の都の正確な場所が分からない。遷宮の動機についても通説では桓武の気まぐれで放棄したと
か、奈良(平城京)の水利が悪く、既に衛生上行き詰っていた。

其れが「ならの都が臭うが如く」と和歌にも表現された真の事情であるとか、従ってより交通の要衝である淀川縁に移
す必要性から長岡に着目した。或いは藤原氏や仏教勢力が強まったため、其処から脱出する方便だったとか、或いは
藤原種継が秦氏の財力を当てにして近づいたとも言われて来た。要するに何れも憶測ばかりで謎にしていた。

其処で此処に正解を述べる。長岡が784〜794年に都となったのは光明子が760年6/7に崩御して24年目であ
る。桓武天皇は聖務−孝謙−淳仁−(称徳)−光仁−桓武と続く皇統の内で先ず聖務皇后の光明子(藤原氏・聖務天
皇皇后)を弔い、次に恐らく23回忌を済ませた後の翌年に、彼女の御魂を迎える必要が有った。

其の祭り事の為に命日とは逆方位の今の向日市に長岡宮を造営・遷都した(歳時記の6/7を参照)。此れで藤原氏
の勢力を祭り事に同化させる事に成功した筈である。此れが当時の「大義名分」と言うものであるが、此処はしかし10
年で放棄して次は先代の光仁天皇の弔いのために平安京に遷都した(1/15を参照)。

其れが祭り事の大義と順序であった。因みに05/10/29には向日市の阪急・西向日駅の東で楼閣跡が確認され
た。此れを今の関係者は「長岡京の朝堂院南門遺跡」と推測している。だが長岡京はもっと西の向日神社側にあった
と推定すべきである。

何故なら先の話の論旨で見れば、そもそも桓武天皇が光明子の弔いの為に此処(向日市)に長岡京(内裏)を造って
後背部の彼女の陵(今の伝・桓武皇后・高畠陵は誤伝)を祭るためだった事が方位から明白であるからです。其れは
極めて政治色の強い藤原一族への「大義名分」だったかも知れないが、祭政一致の原理には適っていた。

西向日は光明子陵と平城宮のラインの軸にあり、また次の平安宮つまり光仁天皇の命日ラインと交差する位置付けに
当たる。具体的には今の「長岡宮跡」ではなくて、寧ろ向神社旅所・法華寺辺りであったろう。その意味で先の楼閣は
其の一部であろうが南門ではなくて寧ろ北門側になる。

●中子・・・・・・ナカゴ。物の中心。果実の肉。刀の刀身の柄(つか)に入れる部分で、銘が入れられる。矢尻の柄で竹
に入る部分。入れ子の中の部分、小さい方。重箱の中の下の部分。何れも父母(南北)の中心に子供を位置づけた観
念からの呼称である(ホツマを参照)。星の名では28宿の1つで心宿。さそり座の首星・アンタレスの心。

永世息吹・・・・・・古神道に伝わる調息法の1つ。気長足姫以来、神懸りと健康・長寿の法として伝わる。人体に太陽
の風を送って行なう清め祓いの1つ。

中島 敦・・・・・・・1909〜42小説家。若くして亡くなった為に、数は少ないが「李陵」など格調高い短編を残した。戦
時中に於いてケモノの本性などの話から自由と責任について突き詰めて語っている。例えば「山月記」では、役人から
転落して人食い虎に変わった男(李長)を描いた。役人に飽き足らず詩人になったが精神を患って悲惨な運命を辿る。

青年の時に才能が有り過ぎて傲慢で嫌味な自信家だった李長がある日、友人(袁さん)の前から消息を絶った。其の
友人がやがて山中で人食い虎に襲われた。しかし虎の方が旧友と知って藪に隠れて声だけで話をした。再会を共に喜
びあったものの、異常な出会いである。今は虎になっているが李長は旧友を見て懐かしく語り出した。

李長が人の心に戻って語る所によれば、除水の畔にいたある晩(夜半)に、「頼みがある」と言って我が名を呼ばれた。
其の声に招かれて外に走り出した。駆けて行く内、山林に入ると、力が漲り、左右の手で土を掴んで軽々と岩を飛び越
えて走っている自分に気が付いた。

谷川で自分の姿を写して見ると何時の間にか虎になっていた。夢かと思ったが、やがて恐ろしくなって呆然とした。何故
こうなったのか分からない。分からないが目の前を一匹のウサギが駆け過ぎた時にはウサギを襲っていた。虎になって
も一日のうち数時間は人の心が戻って来る。しかし後は残虐な行為をする自分が情けなくなる。

虎であればウサギを襲うのが本能であるから罪はない。理由も分からずに生きて行くのがケモノの宿命だが、人の心
が戻ったときには恐ろしく切なくなる。死のうとも思った。自殺がギリギリの自由である。だが目の前を兎が走り抜けた
時には飛び掛っている。

気が付けば口が血にまみれている。人の心に戻った時に、自分がやった事を思うと恐ろしい。「どうして虎になったの
か」と悩む。しかし虎であれば此れも当然の事であって浅ましい行為ではない。今は寧ろ、「どうして以前に人間だった
のか」と思う。強いられた宿命に耐えられず恐ろしくて悲しく切なく思っている。

いっその事、虎になりきってしまえば楽になるだろう。食欲は自由意志でするのではなく、虎の本能であり、自分にはど
うしようもない事だ、と言う。青年の時は凡人だった旧友(袁さん)が今や高官となり、沢山の部下を従えて来たが下で
待たせて彼(李長)の話を聞くと言うストーリイである。

(以上は06/5/11NHKラジオ深夜便から不確かながら要約し引用した)。人間であっても人生の意味や奇遇が分からな
いまま生きて死んで行く人もいるが、人間は自由意志によって責任が発生し、苦しむ。人間性とはこの自由意志によっ
て苦しむ所に意味があるのかも知れません(妖怪、進化論、死後を参照)。

泣き虫・・・・・・鶯は美声で囀り、雨蛙はあの小さな体を震わせて天にも届けとばかり大声を張り上げて元気一杯鳴
いて雨を催促します。ですから竜神たちもつい心を動かされて恵みの雨をアマガエルにもたらす。其れに対して油ゼミ
は暑苦しく、ヒグラシは物悲しく、ツクツクボウシやキリギリスや鈴虫は秋を告げるように寂しく鳴く。

虫ではないがカラスや犬も鳴いて暮らす。カラスは決まってカーッと鳴き、犬はワンッと鳴くだけで余り芸が有りません。
カラスも賢いが猫はもっと上手である。猫から見れば、カラスなんかはカーッとしか鳴けないバカロボットみたいなもので
す。ですから猫たちは余り大声を出さないが鼻を鳴らして擦り寄って見たり「猫なで声」を使って人を騙します。

ですから、賢い泣き虫女が見習うなら吼え面の犬や「泣いたカラスが笑う」のを演じるよりも猫に学ぶべきです。其れも
独り泣きした後に、「あれから泣いたわ」と彼に訴えても先ず何の効き目も期待出来ない。「涙の数だけ強くなれる」とは
言うものの、ただメソメソ泣くよりも、嬉しくも悲しくもない時でも時と場合によっては泣いて見せるのが大切です。

しかもどうせ泣くなら目の前で「ワッ!」と泣き崩れた方が良い。その場に誰か居合わせていれば尚更好都合だ。今は
ケイタイを下に置いただけでウーマンリブが睨みつける女尊男卑の御時世ですから、チョットだけお尻に触ろうとしただ
けでピシャリとやられ、或いは窓際に追いやられるセクハラ禁止の怖い社会です。

平等などは何処にもない「絵に描いた餅」の社会ですから、「女を泣かせた」となると只では済まない。そんな自慢噺は
昭和元禄で終わっているのです。今はもう「泣かせた」と言う噂だけでも抹殺される太平楽で過当競争の厳しい社会の
中ですから、寧ろ泣く事が女の武器になります。

さて、蟻は何処にでも見られますが皆、忙しそうに歩き回るだけで「泣き崩れる蟻」がいないのは忙しくて泣いてる暇も
ないのでしょうか。蜂やチョウチョたちも蝉の様に歌う事も泣く事もなく「働きバチ」の様に短い一生を黙々と終わりま
す。其れに比べると赤ちゃんが泣けば皆が「おーよしよし」と駆け寄って来ますから此の当時はどなたも幸せでした。

各地の農家も代々泣き暮らして来ました。日本人の特に苦難の20世紀を生き延びて来られた方々は、今は皆泣きた
がっています。ですからこうした時代のお坊さんもお経を読むと言うよりは寧ろ御詠歌を旨く歌うか泣くように歌います。
従って坊主とお百姓さんはカラオケ上手である。

泣き言を泣き声で唸れば歌謡曲になりますので、出来れば泣く時にはなるべく節をつけて発声すればきっと素敵な演
歌になるでしょうから努力してみよう。此れまでも実に泣かせる歌が多過ぎました。ただ商人(あきんど)たちは江戸時
代から「泣き泣き」、蔵を建て、今や全国にビルを乱立させてしまった。

ですから彼らにはもう驚く外ないが、此れも泣いた効果であろうか。其れは兎も角、昔は「泣き女」がいたし、今も朝鮮
の葬式には彼女たちが雇われて花を添える。

オトコが「泣き」を入れても絵にもならないし笑われるだけだが女が泣けば花になるから嬉しいですね。ですから今も
「泣きたい女」や「泣き虫女」が結構多いが、ピストルのようにオトコをブチ殺す武器としてではなく、出来ればワクワクさ
せる花のような演技で「泣き」を使いたい。

ただ可憐でも花の命は短い。男は泣くに鳴けない立場ですから泣く花に弱い。とすれば賞味期限のある方は是非一度
はお早めに「泣き」のお試しを。きっといい事あると思いますよ。

泣き女(め)・・・・・・葬儀や埋葬の場で豪泣する女として古来習俗として登場する。シナや朝鮮では此れを職業とす
る女を雇う風習(涕泣儀礼)があった。伊豆諸島や能登・輪島、更に福井の海岸部、其れに鹿児島の甑(こしき)島や沖
縄の八重山では今も泣き女の伝統を残すと言われる。

▲なく・・・・・・
▲なぐ・・・・・・・凪ぐ・和ぐ・薙ぐ。

▲なぐ宮・・・・・・南紀にはナチ(那智)があり、また和歌山には名草の地が有る。此処はかつて木乃国の奈久佐濱宮が
あった。また丹後には天女を祭る奈具社が、伊勢には奈具波志忍山宮があった(元伊勢を参照)。

▲凪ぎの木・・・・・・ナギノキ。普通の木の葉脈とは違って竹の笹のような縦筋の葉脈の葉を付ける常緑樹。春日大社
にもあるが南紀熊野の新宮などに育っている。ナギとは海が凪ぐ事であり、凪いだ浜を汀(なぎさ)と言う通り、このナギ
に通じる木である。

▲なけ・・・・・・
▲なこ・・・・・・

■夏(字義)・・・・・・夏祭りに人が踊る様を文字にしたものと誤解されている。だが正解は「天」の下の「目」及び「地冠」
(夊・夂)を参照。

夏越の祓い・・・・・・・・1年を二分して祓いの神事をする事(なごし)で、全国の神社では現在、六月末と年末とに
祓いを行う。其の六月の祓いを夏越しの祓いと言う。暦の上では夏の頂点が夏至であり、其の後に半夏生(04年は7/1
日、07年は7/2日)となる。

要するに一日を午前、正午、午後と分けるように、一年は昔から夏至点を陽のピークとし、逆の時期の冬至点を陰の
極と見て来た。よって此の夏の神事は旧暦・端午の節句とか、皐月(さつき)の梅雨(サミダレ)の中の夏至の宵宮に行
ったものと思われる。つまり寒い冬の祓いは火で行い、夏の暑い時には水で祓った。

だがその後、此れを、「水無月の晦日の祓い」とするようになった。其の起源は恐らく仏教の影響であり、例えば大阪市
の四天王寺別院・勝鬘院・愛染堂で愛染祭(ゆかた祭り)が今、6月30〜7月2日まで行われるが、其の由来は聖徳太
子である。勝鬘院は593年、聖徳太子によって建立された四天王寺四個院の1つ。

太子が僧侶に無病息災を祈念させた事が、「夏越しの祓え」と「愛染祭」のルーツと言われ、1000年以上続く「日本最古
の夏祭り」とも言われる。院内に様々な薬草が植えられ、「施薬院」としての機能を果たしていた。夕方から「夏越しの祓
えの大法要」がある。なのだが、今は商売繁盛と良縁成就の祭りとして有名(愛染祭は07/6/6朝日記事より引用)。

また文武天皇の701年、大宝律令で、正式な宮中の年中行事に定めたとも言われるが生憎現存しない。次に元正天皇
の養老五年秋七月四日に「始めて令す。六月十二月の晦日の大祓い」の処に文武百官に妻女姉妹を率いて会せよ」
とした。

ユリウスの時にして721/8/1己酉の日でした。此れが「大祓い」に関する文献の初見であり、言わば八朔の起源で
もあろう。1年を二分する時節の神事とすれば夏だけ論じては片手落ちとなるので、逆の時期は歳末か、もしくは初春
の何時ごろに同様の「大祓い」をして来たのだろうか。

何れにせよ此れは国家レベルの神道行事だったのが仏教的な穢れ思想に変化したものとも見える。人々が日々生活
していると、ホコリが着き汚れが溜まるように、心身にも穢(けが)れが溜まってゆくと考え、その穢れを祓い清めるの
が、大祓の目的となった。

その後、平安時代初期の法制書、「延喜式(えんぎしき)」にも載っています。ただ当時は個人個人のお祓い、という意
味ではなく、国全体の穢れを清めるという目的で、国事として都で大々的に行われていたようです。▲心身を新たに清
めるものとして、夏越しの大祓で最も有名なのが、「茅の輪(ちのわ)くぐり」です。

茅草で作られた大きな輪の中を、作法に従ってくぐり抜けることで、穢れが祓われるというものです。「水無月の夏越の
祓いをする人は 千歳の命 延ぶというなり」、とか「茅の輪くぐり」は疫病や罪穢を祓うと言われ、歌も伝わっています。
ですからこの茅の輪が、この時期になるとあちこちの神社で見かけられる。

他には、この後には例えば七夕流しがあり、或いは三月のひな祭りがありました。紙で作った人形(ひとがた)に穢れを
移し、川に流すという習慣でした。穢れを植物や人形に移すというものは、この時期に関わらず、古くから有りました。-
------▲以下についてはメルマガ「作務衣の専門館 伝統芸術を着る会」http://www.samue-e.com/より大半を引用。

ともあれ夏については現在6/30に全国各地の神社で行っているが、中には、明治改暦の行政力の産物として、此れ
(水無月の晦日の祓い)を七月末にスライドして行う所も有る。だが水無月とは六月であり、そのツゴモリなら6/30で
すから矛盾もある上、7/31にするのでは月日も季節感も一ヵ月以上もズレる。

また晦日(ツゴモリ)とあるのを夜空の新月とは無関係の西暦の7/31にしたのでは無意味だ。しかも7/31では旧
暦の七夕祭りや旧盆が其の後に前後してやって来る。と言う風に、此処でも仏教式行事とカトリック式の改暦とが混乱
と弊害を見せるのです。

ただ、遅れてする所は神仏習合時代の神宮寺の影響から旧暦の七夕祭りや旧盆を前に敢えて行っている所もある(し
なつの風を参照)。例えば、御所市の高鴨神社ではお盆に先祖の御霊を迎える前夜祭として、また京都市の八坂神社
の「夏越祭」の場合は、祇園祭のフィナーレとしての意味も有り、鳥居に大茅輪を設けて厄気を祓うとする。

因みに逆の時期の歳末・初春の西暦の1/31が八朔の裏正面に当たる。つまり師走の大祓いの日であるが、毎月2
9か晦日で終わる旧暦行事を改暦に際してそのまま数字だけスライドしたため何処の寺社でもこの日は何もしない。

大祓いは既に歳末に済ませているか、もしくは2/3の節分を兼ねて行い、此れに前後する旧正月に繋げているようで
ある(別紙の「月読み」のハッサクを参照)。「大祓い」「節分」も参照。

ナスカの地上絵・・・・・・・日本とは地球の反対側になる南米ペルーのナスカの地上絵は謎の遺跡として有名であ
る。ナスカとは現地では「辛く、過酷な土地」を意味する地名だ。つまり此処では旱魃が繰り返すので、其のたびに住民
たちは地上に大きな絵を描いて踊り、雨乞いをして来た。

どうして描いたのかと言えば、小さな絵を描いて、其れを各方位に延長する拡大法と言う方式を使ったと推定され、そ
の方法の正しさが実験でも確認された。つまり縮尺法とは逆の方法です。例えば水源地であるセロブブランコ山に向い
た三角形の絵が有ります。此れは雨乞いを祈った図形と思われる。

其の図の逆方位には穴ぼこが幾つも有るからです。穴ぼこは井戸でした。其の井戸は全て横穴式の地下水路と連結
していた。つまり地上絵は、天空にいる神々に見せるために捧げた絵でした。この地方には「コンドルが山から降りて
来れば雨が降って良い年になる」とか、「海のペリカンがナスカへ来ると雨になる」と言い伝えて来た。

此処では水が命です。此処は土地が広いが、雨が少なければ「不毛の大地」に過ぎない。このため此処には700〜8
00もの絵が残っているが其の目的は雨乞い以外は考えられない。だが尚不明のものもある。例えば近くには渦巻き
型や迷路の図もあり、またナスカ以外にもカラルには人の生首を描いたものもある。

またパルパには「陽気なおじさん」の絵もあるために色んな説がある。「気球を使って描いた」とか、天文カレンダーだっ
たとか、日本では山形大のサカイ教授の「天の川(雨乞い)説」等も知られている。それらとは別に現地の説があるので
此処ではその現地説を紹介した(05/3/31、NHK総合TVより引用)。

次に、「此の絵は時代により描きかえられた」と言う説もある。前は人物像だったが、此の絵は実は何度も消えてなくな
る状態になった。雨乞いの必要な時代に今の図になり、此の線の上を人々が雨乞いのために歩いて祈ったのだと言
う。ただ此れまでは現地人たちも其の貴重さに気付かなかった。

そうした中で此の絵がマリア・ライヘ女史によって長年調査された。貧しさの中、彼女が其の研究を発表した結果、世
界に知られるようになった。ハイウェイ計画の時も此処が寸断される危機にあい、また「地上絵は宇宙人が描いた」と
言う説で有名になると航空機が発着するようになって消された所もある。

其のためマリアが危機を政府に訴えて救われた。1994年に世界遺産登録。其の4年後に彼女が没した(06/4/22のM
BSTV「世界不思議発見」より引用)。

▲七草(七種)・・・・・・・春の七草と秋の七草があり、春は旧暦正月七日に七草粥の節句をする。前者は芹、ナズナ、
御形、ハコベラ、仏の座、スズナ、スズシロ、後者は葛、オバナ、萩、撫子(ナデシコ)、女郎花(オミナエシ)、藤袴に桔
梗です。

何れも邪気を祓うとされる旧暦節供の行事であるから西暦の月日に探しても自然界には揃っていない(スーパー店頭
にしかない)。

なのあがた・・・・・・「いと国」を参照。

鍋ぶた「亠」・・・・・・・「亠」と書いて「鍋蓋」と言うが、この呼び方は古事・祭事に無頓着な俗学によるものである。
何故なら第一に鍋や鍋蓋もなかった時代に此の字を作る意味があったのかどうか疑わしい事。次は鍋と蓋の文字が
一対関係にあれば兎も角、鍋とも釜とも対応していない文字であるからです。

次に第三として例えば「亠」を付けた漢字の「上亡亢亦亥交京亶市・・・・」などについてどれ一つとっても「ふた」では的
を射た説明が出来ない。従って完全に間違いであると言える。其処で異説を述べれば、「亠」は地平線「一」に見柱を立
てた形で、物事の原点を示した。

或いは鏡(別項を参照)に水を満たして吊り下げて垂直と水準とを計った祭りの場を示した。つまり「亠」は、実は何れも
太陽観測の定点(「玉串」を参照)を示したものだ。昔は民衆の日々の生活よりも公の神ごと、つまり祭事が物事の原
点でした。だから「一」(いち、地平線)から上下、そして丁、止、正、・・・・・等の文字となっています。

従って「亠」の付いた先の六、七、市、亡亢亦亥交京亶・・・は定点の手前で行われた事柄を示した。「亠」は実は「山」
の字と同類(「山」を参照)である。古来、観測や祭りは小高い山で行われた。その場は垣で囲いを仕切った中に見柱
を立てたので、其の祭りを象ったのが山の字となった。

要するに「亠」は鍋蓋ではなくて上記の故事来歴から見ても鏡冠か、祭冠と名付けるべきでした。其れを誤解したため
例えば「亢」は、人の頭部と動脈を象った象形文字と誤解するようになった。だが「亢」は、定点の前で観測作業の人た
ちが走り回った事を表すために「亠」に「儿」(ひとあし)を付けたものでした。従って象形文字でもない。

この「儿」(ひとあし)から兀允元兇光充先兆克児兌兎免党・・・などの文字となったと見れば大きな間違いとはならない
(「京」、「円」を参照)。因みに最近08/3/24日に「ヤフー知恵袋」に回答したものを書き添える。----「亠」は大変古い文
字です。此れは地平線に見柱を立てた形で、祭りの場の原点を示した。

原点の平面図として「+」で書かれ、立面図では「亠」になります。古代の祭りは宗教のみならず天文観測と京域の測量
の場でしたから、其処からの指事文字として例えば甲骨・金文・古文・大てんでは、「上・下・立」にも変化した。また其れ
に「一」を引いて「工・土」とし、或いは「二」を加えて「王」とした文字です。

其れよりも前の我が国古来の神代文字の児屋根文字では縦長の「亠」を「お」と読み、またアヒル文字では縦にして
「ト」と書いている。其れが今のカタカナの「ト」になり、「卜」をボクと読み、甲骨や漢字とされる「占」に変化している。ま
た、出雲文字では「亠」を「も」と読み、「百」を意味し、「王」を「ろ」と読み「万」を意味した。

その他、「六・方」もあった。以来、漢字の基本的なパーツとして「亠」が多用されて、例えば漢京の印字に「京・亭・高」
などに変化発展して残されています(此処までが回答文)。

■奈良市・・・・・・日本の古都として貴重な歴史を綴り、或は無数の文化財を抱える美しい街。だが近年は同和(別項参
照)を特別優遇する市。同和の看板を下げた人物なら出勤しなくても勤務しなくても仕事をしなくても特別待遇で18人も
雇うと言う豊かな町。実際にない差別を独自の思想信条をもって逆差別する無分別で無法な町。

06/12/13日のニュースで其れがハッキリした。

奈良の遺跡・・・・・・奈良に都があった当時は祭政一致の祭り事をした時代です。例えば聖武天皇は奈良の都を佛
都としました。人力ではなくてブッタの教えで国内を纏めようとしました。また其れまでは言わば神式でした。此れは建
物ではなくて墳墓の祭りでした。天皇は先ず即位と共に先帝の弔いをしました。

公共工事として山のような墳墓を造る祭りでした。そうして次は、先帝の命日ラインに進んで、遷宮して新都を造りまし
た。こうして1代1宮の制により、都が転々と遷りました。こうした国事により新たな国風を作り、経済を活性化したとも見
られます。

要するに奈良の都の特色は古墳とその前後に一定の方位で一連で繋がる寺社にあります。

奈良の大仏・・・・・・盧遮那(ビルシャナ)佛。其の高さ凡そ15mで金銅仏としては世界最大を誇る。約1200年
前、当時の聖武天皇が、月を追うように平城京から恭仁宮に、続いて紫香楽宮へと遷宮した。仏教は月の教えである
が、月、即ち仏の力を借りてこの国を平安に治めようとして紫香楽宮で失敗し、平城京で完成した仏像である。

当初は信楽(紫香楽宮)に作ろうとしたが妨害による火事で失敗したので奈良に変更した。皆の力を平城京に結集し
て、この世を佛国土にしようとの願いから、延べ200万人が凡そ10年掛けてタタラ製法によって鋳造し、東北から出た
とされる砂金を丹生(水銀)に溶かして金メッキしたもの(を参照)。

大仏以前の729年には長屋王の変がおき、733年には災害異変が発生し、天皇は「責めは予ひとりにあり、兆民にあず
かるにあらず」の詔を出し、737年には天然痘が大流行して、後援者であった藤原4兄弟が相次いで死亡する。「まこと
に朕が不徳によりて、この災殃を致たせり」の詔を出している。聖武天皇は悩める支配者であった。

祖父祖母の天武・持統天皇、父の文武天皇からこの国を受け継いだが、どのような国家を作るべきか、どのような支
配者であるべきか、どのような原理で国を統治すればよいのかを迷った。都を山城の恭仁京、ついで近江の紫香楽宮
に移して見たり、難波京を作ってみたりしたが、都を変えることでは解決できなかった。

行幸の動機は僧・道鏡の里、柏原市に国分寺を建てようとして河内・知識寺を訪れた事による。今から1300余年前、
此処には知識寺、山下寺、大里寺、三宅寺、家原寺(行基の家)、鳥坂寺などの河内六寺が甍を連ねていた。此処に
聖武天皇、孝謙(称徳)天皇等が行幸して、知識寺の南には「行宮」が造られ、やがて西ノ京となった。

740年、天皇は光明皇后とともに河内国の6寺を訪れて六寺に礼拝、礼仏されたが、中でも知識寺には大きな盧舎那
仏があり、それを見た聖武天皇は、その立派さに感動し、「朕も造り奉らむ」と思うのである。知識とは、仏教を信仰し、
寺や仏像を造ることに協力した人のことであり、知識寺は、これら知識によって立てられた大規模な寺院でした。

知識寺は東西に二塔を配する薬師寺式の伽藍配置であったと推定され、東塔跡の一部が過去に調査されています。
出土した瓦から、千三百年以上前の飛鳥時代末頃に創建され、室町時代頃に廃絶したようです。近くの石神社の境内
には、東塔に使用されていた塔心礎をはじめとする礎石が移されている(一部は柏原市教育委員会のHPより引用)。

残念ながら今は「知識寺」と言う寺はなく、柏原市では太平寺廃寺とも呼んでいる。
▲また、天皇の願い・奈良の大仏を建立するため743年、宇佐から紫色の輦輿(れんよ)によって八幡神を迎えた。そ
して材料となる銅は、紀和町から運んだ。

紀和町鉱山資料館のパンフレットによると、紀和町には奈良時代(8世紀)のころから鉱山が営まれており、銅をはじめ
金・銀が採掘されていた。また、同鉱山の古い坑道の壁に、「延元二」と刻まれた岩壁文字が発見されており、この鉱
山は14世紀前半の南北朝時代には、既に活発な採掘が行われていたとある。

奈良の大仏の建立のため、鋳造に使った銅の殆どは、この鉱山から運ばれたという。資料館では、古い時代の採掘の
方法から近代的な採掘までの歴史を解り易く展示説明している。

また山口・美東町・大仏さまのふる里(1)伝承の地名(2006年01月31日)によれば、「その昔、奈良の大仏の銅を献上し
たとされる銅山跡で、奈良登(ならのぼり)がなまって長登(なが・のぼり)になった」。古い銅山跡が残る美東町の長登
には、大仏に使われた銅が採れた場所と言う、こんな地名伝承がある。

72年の調査で奈良時代の須恵器が発見され、さらに88年、東大寺から出土した青銅の塊が専門家の分析で長登産
の銅の成分と一致。大仏建造に使われた可能性が高まった。古代の精錬炉跡なども見つかり、03年には国指定史跡
になった。案内所には、出土した土器や鉱石などを展示(以上、一部は吉野伸英氏の記事から引用) 。
 
何れにせよ東大寺・盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)・通称奈良の大仏は聖武天皇の発願で745年(天平17年)に制作
が開始され、開眼供養会(かいげんくようえ)が行われたのは752年(天平勝宝4年)4月9日。だが1180年の源平時代の
戦火で焼け落ち、源頼朝により再建されるが戦国時代の1567年には松永久秀の軍勢により再び焼き払われた。

よって現存する“奈良の大仏”は 1692年に造られたもので唯一奈良時代のもので現存するものは台座のごく一部分
のみとか。何れにせよ、この地に鎮座すること1000年以上。「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定され
ている。さて此れを今の鋳造技術で再現できるかと言えば無理である。

今の技術でも多段に組んで湯(銅)を流し込む事は出来るが、そうすれば継ぎ目が出来てしまう。所が此の大仏には継
ぎ目がないのである(此の話は大和高田の清水氏の談話)。

さて月の祭りのために「正月を正す」修法としての修二会が東大寺の「お水取り」として今尚続けられて観光行事になっ
ている。其れを今は毎年3/12(歳時記の3/12を参照)に固定して行っているが、月の動きは例年違うものです。です
から固定しては残念ながら「正月を正す」修法にはならない。

このため東大寺は四方八方に方位で印していた。若狭との関係も、二月堂や南大門も此のための配置である。

▲楢山節孝・・・・・・06/5月に故人となった今村昌平監督の映画で、「姥捨て山」をモチーフとした名作。親孝行を参照。

成りモノ・・・・・・鳴り物は雷の事だが、「生り物」は其の雷の働きによって生育する果物の事である。果物の外にも
雷と稲との「稲つる火」、即ち雷鳴・雷光によって身を孕む稲などが有る。作物はこのように肥料でのみ生育するもので
はない。第一には種(別項参照)によって個別に因果となり、次は母、つまり畑や月の働きで成育する。

また作物の栽培は特に月の力による。例えば新月に種を蒔いて満月に刈り取る。其の原則に沿って栽培すれば滋味
豊かで美味な生り物を収穫出来る。但し、「月夜の蟹」は身が少ない。つまり地下のもの、水中のものは新月の時に膨
らむ。大根など、根菜類も新月の収穫が良い筈である。

其れに対して近代科学は箱物を造って大量生産・大量ゴミを作ったり、金肥(化学肥料)によって農業をして此れを進
歩発展と自画自賛して来たが、神の理は魂を入れて内部から膨らませると言う素晴らしいシステムを完成していた訳で
す。其の点で、今の科学は「生り物」が出来ず、「仏造って魂入れず」の幼稚でお粗末なものである。

▲成り木責め・・・・・・小正月に果物の成る木を粥(かゆ)杖で叩いて責める事。「今年も不作なら切ってしまうぞ!」と
脅す人と、木に代わって「成ります、成ります」と答える人とが行う。小正月にはまた粥杖で妊婦となる若い女性のお尻
を打って多産と安産を予祝するのを俗信として伝える地方も有る。

▲なれ・・・・・・慣れ、熟れと「馴れ・狎れ」とは違う。字が違うのは意味が違うからだ。仕事や運転に慣れるのは人間の
行為であるが、馬やケモノ偏が付くのは人間性を失ってケモノのように「馴れ合い」する事である。

馴れ合い・・・・・・悪を許す事。例えば官公庁に行けば見られる、お役所の隠蔽・糊塗・「内部処理」の事。さて聖徳
太子が推古12(601)年の17条憲法の第一に「和を以て貴しと為し、さかうる事なきを旨とせよ」として第一に「和」を
掲げ、以下の条文にも民主的な政治運営の理念の幾つかを掲げた。

これはロックやルソーが西洋民主主義を唱導してフランス革命に導く1100年以上も前の理念であり、当時から既に日
本人は「和」の理念の民主化を実現していた事になる。ただ「和」とか仲良き事は良い事だが、其れも時と場合で違う。
例えば泥棒や強盗に出遭った場合でも「和の精神」で争わず、素直に身包み剥いで与えるのが良いのかどうか。

善悪二元論では善悪がハッキリと対立する概念となるが、現実はそんなに単純ではない。このため多くの場合に多くの
人が悪事を見過ごして許す事になる。自分の保身やエゴの為に一時の和を口実に、目前の悪を見て見ない振りをした
り見逃しては、他人の悪事に加担したのと同罪である。

また例えば05/4/25のJR尼崎の事故の時に、JR職員が和を第一にしたのか180余名が救助に向わずボーリン
グ大会やゴルフコンペに出ていて批判された。こうした行動をしていた者が譬え後から身内で陰口を叩いても其のツミ
は許されない。だから日本には「和して同ぜず」と言う諺も有った。「血に交われば赤くなる」と言う諺もあった。

善でも和でも民主化でも言うは易いが継続するには「なれあい」を避ける厳しい覚悟が必要であり、官公庁に行けば見
られる、お役所の「寝る・食う・帰る」の高給ロボットによる「内部処理」などは公務にある者として厳に慎むべき事である
(「大阪」、「悪」、「和」を参照)。

南海地震・・・・・・南海地震、東南海地震が心配されている。最近は関係者が此れに輪をかけるように、従来の
「東海地震」をリンクさせて警戒と対策を叫び始めた。其れは従来、「東海地震」を騒ぎ立てて、此れまで何も起こらな
かった為に、其の逃げ口上に思いついた「歴史性」と「地殻の連動説」かとの穿った見方も出来る。

しかしだからと言って軽視してはならない。確かに安政と其の前、そして何度も連動して起こっている前科があるから
だ。また阪神大震災では津波がなかったし原子炉事故もなかったが、この南海地震ではこの種の災害を想定しなけれ
ばならない。

其の上、この太平洋ベルト地帯は、別紙の「歳時記」でも述べた通り、2月〜8月の時期・方位に帰省ラッシュで人が動
くか地殻が連動する事になっているからです(「神々の歳時記の2月〜8月」、または「地揺るぎ2」の東南海地震を参
照)。

06/5/27、新聞各社は「四国沖で繰り返してきた南海地震は、平均で500年程度に1回、巨大タイプとして発生した可
能性が高いことが、高知大の岡村真教授らの調査でわかった」と報じた。震源域が隣り合う東南海地震と ...云々。


南極・・・・・・・今は氷の大陸ですが太古の南極は温暖でした。例えば2億年前の南極は緑に覆われ、大型の植物
食恐竜を肉食恐竜が追いかけていた。大陸が数億年から数千万のサイクルで大規模な衝突と分裂を繰り返す過程で
南極大陸は赤道と極点を移動した。事実、近年にはクリオロフォサウルスの頭骨も発見された。

さてウェゲナーは200年前に南米とアフリカ大陸とがピッタリ合致する事に気づいた。南極も其の一部だったと確信し
て地質学なども研究し、更に今の五大陸が3億年前のパンゲア大陸に収斂する事を想定した。一つの大陸が3億年の
間に分裂して今のような姿になったと推測して大陸移動説を発表した。

だが当時は「何故大陸が移動するのか」と言う事を理論付けできなかったので社会から否定された。以来、雪原の大
陸として100年前までは未知の大陸と変わった。

其処でイギリスのロバートスコット、探検家のアムンゼンや白瀬大尉(アイヌたちと樺太犬)が相次いで挑んだ。アムン
センが1911年に極点に到達したがスコットたちは全滅した。南極の冬は暗黒(極夜)であり、ブリザード(猛吹雪)が吹
き荒れる。其れに対して夏は白夜である。だが夏は短く、11月から2月頃までの期間である。

この期間の太陽は、地平線上を転がるだけで沈まない(其れを白夜と言う)。所が海底火山などの海中探査が進んだ1
960年代から此の大陸移動説が実証され始め、今のプレート・テクトニクス理論(別項を参照)となった。

また近年にハマー教授が南極大陸から1.9億年前の恐竜の化石を発見した。当時の南極は温暖だった事になる(以
上、05/7/29のNHK教育テレビより引用した)。因みに南極点に棒を立てると毎年10mズレる。でも此れは地軸
がズレている訳ではなくて、表面の氷が移動するからである(NHKテレビより一部引用)。

南宋・・・・・・シナの国名。北宋が金国に滅ぼされた時、最後の皇帝・欽宗の弟・高宗が即位して江南に走り、臨安
に都して建てた国。建炎元(1127)年から始まり祥興2(1279)年、衛宗のとき蒙古に滅ぼされるまでの9世、152年
続いた(広辞苑より)。杭州の臨安は仮の都として行在(アンザイ)とも呼んだ。

金国への対処策では和平派と主戦派で対立した。金は北方民族と対峙していたので南宋が金と和平した後も金に対し
て「臣下の礼」をとり、金に対して莫大な貢物を続けた。それ以上に宋は南宋貿易で繁栄したからである。臨安は人口
150万人。泉州港が栄え、造船所が活躍した。

当時銅銭による貨幣経済を採り、其れを南宋会子と言う紙幣に切り替えた。当時の日本が、この際、不要になった銅
銭を金銀を払って大量輸入したのが「宋銭」である。当時の船は南宋船と言われ、近年になって海中から長さ34m、1
00人乗りの大型船が引き上げられた。船底は13枚の板で仕切られ、沈没しない工夫をしてあった。

其れには胡椒や香木が積まれていた。因みにマルコポーロは当時、此処を「世界一」と讃えた。だが13cになると北方
民族が金と南宋に迫ったのである(05/11/29のNHK教育TVより引用)。

南天主義・・・・・・・南を物事の基準とする事。現代社会はその逆に地図でも磁石でも北天主義である。其の点、江
戸時代以前の特に奈良時代以前には太陽に面して事を決めた。方位・空間については、東から南を日のタタシ、南か
ら西を日のヨコシと言い、西から北は振り返るので影面と言い、そして北から東を占める空間を外そとと言った。

地名では倭の裏を山背と言い、其れを後に山城としたのが宇治や京都である。この逆が今の北天主義である。神を日
月星の何れとするかで三大暦法となったように、神の位置によって方位の採り方も違って来る。神を太陽とした場合は
「天子南面」の原則から南天主義を採った。

其れに対して、神が夜空の不動の星、つまり北極星であるとしたのが黄泉の北天主義であり、此れは結果として赤道
中心主義、地軸主義でした。獣もまた夜行性であり、従って砂漠の遊牧民はケモノを連れ回す関係上、夜間行動を主
として来たし、海洋民も夜行・早朝性があり、夜空の星の位置を手がかりに航行した。軍隊や武士も同様だった。

よって「天子南面」に対して、臣下は北面した。鎌倉時代、天皇に仕えた武士を「北面の武士」と言ったのは其の職制の
特色と分限を示した言葉である。其の点、古代シナの星座図は黄道の心を中官とし、北から南を見上げた黄道中心の
図であり、「天子南面」の南天主義に従っていた。

だが今の日本の天文学や星座盤は一見してそれらと同様に見えるものの、その中心点を北極星座にしているので黄
泉の北天主義(赤道主義)である。
        
南都七大寺・・・・・・・奈良は南都七大寺など仏教の先進地であった。今も東大寺(華厳宗)、興福寺(法相宗)、元
興寺(華厳宗)、大安寺(真言宗)、薬師寺(法相宗)、西大寺(真言律宗)、法隆寺(もと法相宗)などが健在であるが、
此の七大寺の総称。奈良は大伽藍の古刹が多いが、天皇が平安京に遷ってしまった。

以来、京都と叡山(天台宗)が栄えて奈良は衰退した。其処で京都を北、奈良が南に位置するため南都とも呼んだ。
南都七大寺には、南都六宗が有った。六宗とは三輪、成美、法相、倶舎、律、華厳の仏教宗派である。

其の奈良仏教は衰退したが、例えば興福寺(法相宗)が春日大社などが現代の神道の主流として残った部分が多い
(神道と仏教を参照)。

■なんは・・・・・・
★南蛮寺・・・・・・日本の信長時代のキリスト教(イエズス会)寺院。今のキリスト教会。

■なんひ・・・・・・

■なんふ・・・・・・

★南部馬・・・・・・・青森、岩手、秋田、十和田湖周辺で飼われている馬で、本来の和馬。サラブレッドより小柄だが体が
確りしていて強健。おとなしくて力持ち。農家の中で家族と暮す、言わば人馬一体で飼われて来た。農耕馬、運搬、軍
馬として活躍した。仕事の後はご褒美として大好きな人参を与える(06/10/17のNHK総合TVより引用)。


■南部釜・・・・・・京都の釜師・小泉仁左衛門清行が延宝中、盛岡に住して黒木山の鉄と北上川の砂鉄で鋳造した釜。
南部鉄瓶は古来最良の名品として伝統がある。


■なんへ・・・・・・

南米・・・・・・・・北からベネズエラボリバル、ガイアナ、スリナム、コロンビア、エクアドル、ペルー、ブラジル連邦、ボリ
ビア、パラグアイ、ウルグアイ、チリ、アルゼンチン、の12ヶ国。内半数の6ヶ国が最近では中米のキューバを見習って
反米政権が次々誕生している。其の原因は自由化の名の下で所得格差が拡大した事に対する反発である。

例えばベネズエラのチャベス大統領が独自の自由貿易圏をスローガンに打ち出し、またボリビアでは先住民族出身の
モラーレフ大統領が反米色を強めて天然ガスの国家管理を目差している。ペルーも次の選挙で反米政権が誕生する
ものと見られている。06/9/17にはハバナに非同盟諸国が集まって反米で結束の声を上げた。



■なんほ・・・・・・

南北問題・・・・・・地球を東西で見た場合には東側と西側とに分別できる。東側には日本を筆頭として其の衛星国
として月のシナやインドがあり、其処から中東に至り、此処が西欧諸国との接点に有って、東南アジアをガードしてくれ
ていた。だが近代化により、東は旧ソ連(社会主義)圏と西側(資本主義)諸国とで対立する冷戦構造となった。

其の後、冷戦構造は消滅したが、南北問題が表面化した。其れは地球の南北の経済格差である。先進国と発展途上
国との経済格差の原因は西欧諸国がかつてアフリカや南米大陸を分捕り合戦して勝手に分断し、植民地として収奪し
た結果において出来た問題だった。

其の後に日本が白人社会から辛くも東南アジアを開放したが、他の南半球に位置したAA諸国はその後もヨーロッパ
の収奪に遭って貧困が続いていた。こうした諸国は其の後に共産圏に組み込まれた所が多かった。人類社会にとって
は神か富の何れかが必要である。共産・社会主義は当時は確かに理想社会に見えた。

だが唯物史観によって神を排除した以上は、富と言う目標がなくては誰も努力しないから、社会を動かすエネルギーと
して貧富の差が必要悪と思われた。例えばタンザニアは西洋の植民地としてカシューナッツのプランテーションが広が
っていた。

しかしこうしたモノ・カルチャー(単作農法)は商品作物であり、暴落があれば先進国による犠牲となり、更にマラリアで
も大きな被害を受けた。また例えば南アの隣のジンバブエは今も失業率70%である。その外、フィリピン・バナナやチ
ョコレートなどもこうした後進地域の犠牲で市場に出ている。

バナナの場合、生産者の収入となる金額は売値の8%に過ぎない。米国の下でも貧困化したのです(NHK教育テレ
ビ、2004/2/16から一部引用した)。

また今の肉牛は人間の8倍の穀物を与えて飼育している。其れが世界の穀物市場の相場を形成して南北問題、つまり
南北格差を拡大し、先進国は肥満、後進地域は飢餓と言う構図を益々強くしている。例えばエチオピアの場合、慢性
的な飢餓である。

此れは家畜用として4億トンを輸出してしまうので、人間は残りの2億トンを奪い合うからである。世界の穀物生産は約
20億トンあり、此れは人類140億人分である。だが米国はこの内、世界の食料の8倍を餌にしている。相場はシカゴ穀
物取引所で決まる(06/5/25NHK教育TVより)。「肉食の問題」を参照。


■なんま・・・・・・
■なんみ・・・・・・

難民条約・・・・・・・・1951年、政治や宗教によって迫害された難民を救おうとして締結された。難民の数は1995年
には2000万人、04年には1500万人がいる。だが此の条約は外国(欧米)が対処する方法であって国内の場合は
想定外だった。

例えば現在、スーダンのガルフール地区ではアラブ系とアフリカ系が内戦をしていて、国内難民がさ迷っている。此の
場合に外国が干渉する事は出来ない。でも放置すれば民族浄化と言う殺戮が繰り返される。敵対する勢力を一掃しよ
うとする集団虐殺である。

次に難民の問題点として国内に及ぼす悪影響がある。イギリスの場合は諸外国を苦しめて来た前科があるので、此れ
まで難民を積極的に受け入れて来た。フランスもそうだった。だが何れも不法入国者が増加した。フランスでは05年、
パリで暴動となって各地に広がった。

■なんも・・・・・・
■なんや・・・・・・
■なんら・・・・・・




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