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  日知り事典    サ〜歳の神

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・・・・・・・古来、日本の方位の東・南・中・西・北をキツヲサネと呼んだ。例えば南を「さ」と呼んだ。南(サ)は子午線
の午(うま)であり、午を中心として一年の陽極を夏至とし、一日を正午で区切った。暦の南は夏ですから、初夏の梅雨
をサミダレ(五月雨)と言った。サツキ(旧暦5月)の中気(西暦の6/21頃)が夏至でした。

或いはこの南に立てる柱をサヲ(竿)と言ったり、物事の始めが「サ」、「先」であり、其処からミサキなどの言葉にも変化
した。「さ」が「南」とした場合、佐伯は「南役」、佐川は「南川」、は「南座」、ササは「南々」、ササキは「南先」になる。
また佐竹は「南建」、サミは「南見」、狭山は「南山」、沢は「南倭」、澤田は「南海」・・・と解釈できるかも知れない。

(ザ・クラ)・・・・・・日本では先祖の数を纏めて何柱等と柱の数で読んだ。また神社ではご祭神の数を何座で数え
ます。何故でしょうか。古来、柱は陰陽の別では陽極であり、其れに対しては複数の陰極の側になります。

つまりは祭りの場の中心に立つ見柱(御柱)に対して周りに並ぶ複数の蔵・倉・であり、言わばストーンサークルでし
た。此れ(座)はまた神社のより代として、境内の一部に岩石の塊として置かれている。この場合は注連縄を張っている
ケースがあるが、中には力石とか女石とも呼ばれる物に化けている事もある。

或いは各地の岩倉があった。此れも注連縄が掛けられていたケースがあるが、今はその現物が無くても岩倉・岩坂な
どの地名を残している。この場合の岩坂の岩は祝う場、そして坂は境目の事でした(賽の神)。同様に岩倉とは祝いの
座(クラ)であり、天の星座に対する地上の(三角点のような位置標識)を意味した。

となるのは岩よりも矛が多かった(「矛」を参照)が、其の矛の保管庫を「ホコラ=祠」と言った。ホコラは矛を納める
倉庫であり、神倉とも保倉とも言った。ホコラが今の神社建築の由来です。そうした神社に祭る特定の神の数を、「座」
として数えるものの、それらが実際の神ではなかった。

祭りのより代である石や鏡、或いは矛のような神器の数を纏めて「座」の数詞・単位で申し、また其のが意味する方
位を上座(別項参照)として来ました。

斎王・・・・・・・垂仁天皇時代の倭姫は幼女の時から中年まで独身のまま各地を遍歴した。伊勢を神宮と決定するま
で近畿各地の古宮を何十箇所も巡行したのである。そうした遺蹟を今は元伊勢と言う。各地を遍歴して伊勢に辿り着
いた頃には彼女もすっかり普通のオバさんになっていただろう。

彼女はオバサンではなくて「御杖代」と呼ばれたが、其の後の多くの斎女たちは天皇の行う祭りの代理者として幼女か
ら選ばれて斎王と呼ばれた。其れに対して京都・「葵祭り」で花形となるのは成人の「斎王代」である。

さて斎王は、旧暦の六月と十二月の月並祭、そして神嘗祭と言う伊勢の三大祭りに於いて、祭主として務めるべき天
皇の名代として、新天皇の即位と共に、皇族の中から占定され、伊勢神宮に仕えるために斎宮に派遣される未婚の子
女だった。

従って天皇の交代と共に斎王も交代する仕組みだったが、多くは幼女が選任されて奈良京都の都を離れた。そして一
たん斎王となれば、天皇が退位するまで都へ戻る事が出来なかったので、天武天皇の皇女の大来くのひめみこのよう
に悲劇のドラマとなった例も少なくない。

彼女たちが都を発つ場合、奈良時代は山また山の伊勢街道(奈良古道)から山越えで伊勢に向かった。そして都が京
都に遷宮した後は郊外の野々宮などで潔斎し、伊勢に向けて数百人で群行した。平安以後は五泊六日の旅で、勢多、
甲賀、垂見、壱志・・・の頓宮を巡り、鈴鹿峠では女性も牛車から降りて馬に乗り換えて山を越えると言う難行だった。

★災害・・・・・・・・・「ちゆるぎ」、または「津波」、及び「防災」を参照。

災害用・NTT伝言ダイヤルは171(「イナイ」と記憶する)・・・・・此れをダイヤルすれば、録音は「1」を押し、再生は
「2」を押す・・・・・とアナウンスがある。また暗証番号による録音再生は「3と4」を使う。其れに相手方の電話番号を入
れ、或いはメッセージを録音する。携帯からは駄目。

▼サイクロン-------日本の台風と同じであるが、インド洋ではサイクロン、アメリカではハリケーンと呼ばれる。08/5/2
日の夜から5/4日の朝に掛けて、ミャンマーではサイクロンが通過し、大洪水の為に2万人死亡、4万人不明となった。1
0万人に達するとも言われる。

続いて12日には四川省でM7.8の大地震。

▲在家・・・・・・仏門に帰依しても俗世間から出家せずに神仏寺院や出家者の面倒を見て生業を続ける信仰者の事
(「出家」を参照)。

歳月・・・・・・・物語にしても人の一生にしても、建物の歴史にしても、全ての物語の主役は歳月である。歳月は一時
も休まず流れて行く。年月の中で記憶にある日々を形に留め、後の世代に伝えようと力を尽くした(06/3/4朝日新聞の
記事より引用)。其れが日記や歴史です。

また流れ行く歳月を見過ごさずに自分の周りに閉じ込めたのが円暦(別項参照)であり、或いは御堂など、建物の配置
の場合も、四方に四季を配した関係の庭園である。そして歳月に準じて祭りの準備と行事としたのが歳時記でした。と
すれば歳時記の主役も歳月であり、其の主役は実は神様である。

其れを人が辿れば歳月が流れ去る事がなく、自分の周りに四季が巡る。つまり、歳月を捉えれば人も神様と同じ立場
に立てるのです。ただ自分が頼んだ訳でもないのに全国的に機械的・自動的に歳月は勝手に通り過ぎて去ってしまい
ます。

其れに誰かが必死に抵抗しても誰彼差別せず一律平等に加算して年齢の烙印を押して行くものと見れば空しさだけが
残ります(年齢を参照)。

斎宮・・・・・・・伊勢・度会郡にあった上記の斎王が居着いた所。小規模な家ではなく、国衙程度の規模を持つ一つの
都市だったと推定されている。

最後の審判・・・・・・・キリスト教では最後の審判の時にはキリストが再臨し、救世主としてキリスト教徒を救うと言う
強い信仰(迷信と言っても良い)を持つ。ただこのテーマは中東やギリシャの原始宗教に由来する観念でした。

確かに人類はノアの洪水のときに「水の洗礼」を受けたので、ユダヤ民族が此れを借用して、この次は「火の洗礼だ」
の危機感を煽る事して、ユダヤ教とキリスト教急進派の世界観(終末思想)としたものである。

詳しくはバイブルを見て頂くのが一番だが(或いは別項の「ヨハネの黙示録」を参照)、この点に関してはヨハネのオリ
ジナルではなかった。キリスト教は過去に各地でこの手口を使って「免罪符」を売って人々を何度も騙して儲けて来た。

だが、これからの問題は神ではなくて人間である点です。例えば此れを神の計画であるとしてイスラエルを建国したよう
に、次なる危機、即ちハルマゲドン(世界最終戦争)の実行を自ら計画して神の国を自作自演しようとする点である。つ
まり問題は有色人種のような人間は幾らでもいると言う視点からの白人の発想である(未来カレンダーを参照)。

実際、世界の人口は爆発的に増えているが、ユダヤ・白人系は相対的に減っている事に彼らが危機感を感じているた
めに、彼ら以外の人間は殆ど「いなくて良い」とする考えからだ。

具体的には、彼らが絵に描いた地上天国を神が中々造ってくれないので、其の前に彼ら自身の手と人力で作り上げよ
うと画策し、そのためハルマゲドンを計画したものである。例えばイスラエルでは着々とその準備が進んでいる。けれど
も「火」は実は「日」であり、日は霊である。

この意味から言えば彼らの計画は失敗し、それを救うのは先祖祭りの日本文化であると賢者たち(例えば「神様のお言
葉」岐阜市・神の郷・矢井清勝著など)が此れまで説いた。何れにせよ「最後の審判」と云うような終末思想は日本の平
安時代にも浄土思想や末法思想として広がり、また鎌倉時代以来、日蓮宗系も盛んに煽り立てて来た。

今の新興宗教も殆どが此れを見習い、個別の形で彩って宣伝する組織である。或いは「地球温暖化」を叫ぶ環境ファ
ッショ(同項を参照)も同類である。其れに対して本書は全く別の霊的観点から円系図による先祖を知る方法を説いて
いる(「円系図」を参照)。此れが神の経綸と思うからです。

また本項では、やや別の角度から論じたソロンアサミ氏の予言を一部噛み砕いて紹介する。・・・其れは、この大自然
を造った神により、自然の法則で裁かれる事である。人類が人工的に自然を変える事は殆ど出来ない以上、自然の法
則に従って生きている人だけがサバイバル出来る。

小さな地球に60余億以上の人口を必要とする時期はそんなに長くない。つまり次の世代は人類よりも動物の世紀とな
る。今の人達の殆どの来世は人ではなくて虫や獣です。再び人間として復活出来るのは、生前の有り方です。今の生
き様が種(原因)になり、来世の芽となります。

この世の終わりはないが、「人の世の終わり」となるのが「最後の審判」です。其れが今から約75年間で終わる。他人
から奪うばかりで他に施しをしなかった者が失業し、食べられなくなります。そして人間として信仰しなかった人が先ず
消えて、次々と人の死が増える代わりに動物が急増して行きます(以上要約、05/3/14)。下記も参照。

最後の審判(金の洗礼)・・・・・・・・・上記のソロンアサミ氏は平成三年の「ソロンの予言書U」で先ず「神様はお金を
以って裁きを始め、世の建て替えをする」と発表した。実際、平成七年には阪神大震災となって、被災者たちは最後の
審判のような地獄を見た筈であるが、日本は何も変わらなかった。

けれどもバブルが崩壊してから人々の意識は確かに変わって来た。例えば米国も今は世界最強の軍事国家であり、ま
た浪費天国であるが、其れは日本からの輸血で支えられているので、原油高とドル暴落となれば最後の審判を自ら演
じる事となろう。

最後の審判(日の洗礼)・・・・・・・・・日本人が「の病い」と言う場合は、日数に従って「放って置けば治る」と言う
喩えであり、問題があった場合でも「が解決する」と言ったりします。此の場合の「」は、西洋的な「火」の観念とは違
って、汚れがあっても「日に晒せ」、そうすれば元気を取り戻せると言う日和見の経験則があったからです。

火は人間が作る事も出来るが、は人ではなくて神の所掌するものですから人為的に操作出来ません。人の生死も殆
ど「火」ではなくて(月日)によるものであって、「火」によって左右されるのは限られた場合です。火はゴミを燃やすよう
に色んな物をたちまち焼き滅ぼして消して精算する事もあるが、霊的問題は水や火では解決出来ません。

従って上記のような「火の洗礼」では一部の清算しか出来ませんので、「最後の審判」は火の洗礼ではなく、「日」、即ち
「霊的審判」であり、決算であると分かります。

釈迦も末法思想や弥勒下生を説きましたが、其れは56億7000万年と言う期間ではなくて、寧ろこの数は当時では凡
夫には信じられない「人口数だった」と見れば(「ミロク・弥勒」を参照)、既に「時は今」かも知れない。人類は確かに増
え過ぎた。

今の人口爆発と言う現象が今後益々地球全体を人類で覆い尽くす予兆ではなくて、此の数字はもうピークを過ぎれて
漸減する予兆を意味する。此れが人類の最後のあだ花であって死に花を咲かせて見せている。人それぞれが思うが
ままヒシメキあって暮らして楽しかったかどうか。

一生を終えて、「人として生きて良かった」と神に感謝して死んで行ける人がどれだけいるだろうか。多くは病死や事故
死で死の苦しみに遭い、或いは後悔して死にます。或いは恨んだり悲しんで死にます。だから例えば・・・・・そうした魂
は「人の世は辛く悲しかった」と言う思い出を持つ。

◆こうしたケースが多いほど、神様は其れを嘆いて苦しみますので、其の魂を次は人類ではなく、牛馬や植物の世界
に案内してくれるでしょう。65億の内の50億人くらいがケモノなどから人間にして貰った人達です。今は人間の皮を被
ってはいるが、本性はケモノや虫である。

つまりこうした範囲で見る限り、ダーウィンの進化論の通り「サルから進化した人達」も多い事になる。彼らは今回限り
神様から認められて人間にして貰った人達です。でも今は其の恩を忘れて、自分の自由意志で生きていると思ってい
る恩知らずですが、今は最後の人生を謳歌し、或いは「死に惜しみ」して「死に花」を他人に見せています。

ですからもう再び人類として生まれ変わる必要もない。と言えば今の人たちは反発するだろうが、反発をしたって其の
方がこの地球を作ったのではありません。そうした人間が科学で神を否定しようとも神は存在します。しかも神様は人
間の想像を絶する(人間では想像する事さえ出来ない)存在です。人は何一つ自分では創れない。

神様に感謝する事くらいしか出来ません。神々の地球創世に人類が手を貸したのではないのですから人間は不平不
満を言ってはならない。不満を解決するためとして対策とか改造とか開発を言うのは欺瞞です。

ダーウィンが「種の起源」で地球の創世をサルや人類が手伝ったと言っている訳でもないし、或いは今の進化論式唯物
科学者が「人からケモノへの化生」を否定したとしても何の役にも立ちません。

実際の死後はどうなるかと言えば、嘘をつき、他人を騙して財物を横取りした人は今は酒を飲んで楽な暮らしをしてい
ても、口先ばかりで世渡りした人として口だけで手足のない蛇になる。特に公務員は全滅である。

或いは他人を恨み、或いは嫉妬や邪推をして他に災いを及ぼしたり、或いは他人の財物を盗んだ者も蛇になるので生
きている間に捕まって罪を償ったほうが良い。人から牛馬になった実話は意外に多いのです。其れを信じない唯物主
義者が多いでしょうが、この大宇宙や大自然を創った神ですから、特定の人をケモノや鳥に変えるのは簡単なのです。

特に怠け者や自棄(やけ)酒は良くない。今はより多くの給料を取る為に働く時代です。世のため人の為に働くとか、神
様のために仕えるのではなく、自分が食うため、楽をするため、自分の為に自己本位で働いている人達が殆どですか
ら、譬え「一生懸命働いた」としても神様には何の貢献もしていません。

それでは神様にとって無用な存在ですから、人間が無用なものや汚れたものをゴミとして捨てるのと同様に今度は捨て
られる。神様がこの世を作った目的は大調和であり、人に其れを託したにも拘わらず、其れに背いて人が他人や他の
生物を苦しめるようになった以上、人間を作った神は「メーカー責任」として神罰を下す事になります。

其れが最後の裁き・審判です◆(・・・・以上の◆から◆の部分はソロン・アサミ氏の著述から一部引用)。

さて、人は死後に何処へ行くのか。何処へも行かず「死んだら終わり」としか思わないのが唯物的・一般常識です。でも
「死後がある」と信じている人達も世界中には少なくない。しかも其れは、近代科学迷信に毒されなかった以前の何万
年もの間、固く信じられて来た実績が日本などに残っています。

それに対して進化論など、今の科学イデオロギーは百年か数百年と言う極く短期間に作られた仮説でしか有りません。
ともあれ人は死後、肉体を失うので精神だけの存在になります。そうすると心が更に先鋭化し、増幅する。愛はより強
い愛情に、喜びは歓喜に、憎しみはより大きな憎悪にと膨らみます。

生前の観念や行為によって、霊主体従の理(同項参照)に従って自分の想念に同調・共鳴出来る世界に進みます。こ
れが想念に対する自己責任、つまり選択性であり、公平の理です。死後、一定期間は子孫の肉体に一部の魂が留まり
ます(「円系図」を参照)が、その後は中幽界に進んで分かり合える仲間と安心出来る暮らしをします。

其処から更に神界・仏界・人界・動物界・虫類・植物界・・・・・など気の合う仲間の所へ進み分化する。

そうとも知らずに生きている間の人々は死後について「あの人は天国に行った」とか、「巨星堕つ」とか、「あの星へ
旅立った」などとロマンチックに想う場合もあります。でも実際は人間社会の身近な所に死霊が留まっているのです。
そして再び死霊が人として再生するかどうかは保証がない。生前の行い次第で自ら行く場所が決まって行くからです。

誰でも神界に行くのが幸せかと言えば、そうではないのです。例えば、子供は「早く大人になりたい」と思います。でもも
し大人社会で子供が肩を並べて仕事をする境遇になったら、其れは不幸です。或いは、猫は猫の世界で暮らすのが一
番幸福であり、其の猫が譬え進化して、サルの世界に入ったら幸せと言えるでしょうか。

其処に入ってもアウトローですから楽しくありません。或いはサルが譬え人間臭くなったとしても、彼がもし人間社会に
生きれば苦痛でしかないのです。ですから人間の場合も全員が天国や神の世界に入ったり、再び人間に再生するより
は、サル臭くなった人はサルの世界に同調して暮らす方がずっと楽であり幸せと言える。

従って大多数の人は最後の審判で人として再生する事がなくなり、動物界や虫類に化生する。しかも其れさえ叶わず、
永く中幽界に死霊が迷うケースが今や大量に増えてしまった結果として色んな災厄を起こして問題山積しているため
に、こうした霊的な最後の決算がある。

最後の審判はこれから行われるのですが、其れとは別のパレスチナで展開する戦いは神の神罰ではなくて、一握りの
階層による人類の完全支配を目論む演出である(「未来カレンダー」を参照)。

西国三十三観音霊場・・・・・・・神亀4(727)年、聖武天皇の勅を奉じて徳道上人が長谷寺の東の岡に十一面観音
を祭って33観音の根本霊場とした。その後、花山法皇が再興したが、この時は熊野が観音信仰の発信地となり、補陀
落渡海(別項参照)の青岸渡寺が第一番となった。

以下一巡して近江の観音正寺で終わっていたが、今は岐阜の谷汲山・華厳寺まで入れて33番とし、しかも番外が三ヶ
寺もある。さて、「何故33の数なのか」と言う点について、誰も明確な回答をしていないので此処で断を下す。其れは八
方の神・先祖を祭る事(「ヤタ」、「円系図」を参照)からでした。

或いは「菊」や「法華」の所で述べたように、法相は32までで終わるのでプラス1は原点(自分)に戻るのであるから、そ
れ以上は蛇足になる。ただ各時代に祭る人が代わったので、原点が増えた事により番外が出来たのだろう。宝塚市の
中山観音も今は24番であるが仲哀天皇皇后以来、8/9の縁日には全国の神々が集うと言う名刹である。

尚、桜井市の長谷寺は今は第八番札所であり、ご本尊は身の丈三丈三尺六寸(10m余り)で木像としては最大級であ
り、姉妹像として坂東33観音の第四番・鎌倉の長谷寺があって、其処のご本尊となっている。別項の「三十三度講」を
参照。

財産・・・・・・有形無形の資産や収入は天からの授かり物であり、此れを「縦取り」と言う。この場合、子供のときは
無一文で当たり前だが、親や先生たちから色んな事を教わる事が出来るので、此れが先人たちの知恵や知識を受け
継ぐ資格となる。やがて年を重ねる度に、収入や財産も引き継ぐ。

従ってそれらを守る立場になると同時に次の世代に文化と財産を伝える立場となる。こうした「縦取り」ならば其の財産
や収入は正当であり、従って平穏に守られる。いや、財産以前に先天性の病気なども引き継ぐ。其れに対して、財産な
どを受け取らなければ貧乏でも健康で過ごせる。

しかし学びもせず、努力もせず、他人に逆らって来た場合はこれから外れる。従ってロクな能力もないので焦りやエゴ
で他人の財物を当てにしたり、或いは邪よこしまな心で騙し取ったりする行為を「横取り」と言う。

この場合は幾ら努力しても徒労となり、譬え商機・商才が有って商(ヨコシ)であるから一時、巨万の富を築く事があって
も、企業生命たかだか数十年が平均値である。

今は官公庁のお役人から主婦や子供まで日本人総商売人化の嘆かわしい時代であるが、例え一時の利益を得ても
「悪銭身につかず」となり、財産や収入を維持する事さえ難しく、大抵は火災・盗難・事故・詐欺被害・争い・病気・・・・・
等で悲しみと苦労を味わい、保険で食うか倍にして返す側に立つ。

財産についてソロン・アサミ氏はその著書で凡そ次のように述べている。・・・・・有形の物はあの世に持って行けない
が、其れを人に施すなど無形の徳として積めばそっくり持って行ける。しかも其れは減る事もなく、また次に生まれ変わ
った時も役に立つものです。

だが殆どの人は他人に迷惑を掛けてまで欲張り、贅沢な暮らしをするが、此れを最後の「死に花」人生と言う。最後と
言うのは死去後に魂が獣化して再び人間としては生まれ変われないからです。迷惑を掛けた者は次の世では牛や馬
になってただ働き、或いは身を捧げて、しかも人に食われる立場です。

祭式・・・・・・・現界と霊界とを繋ぐ行為、つまり見えないものに対して見える形で行う方式・形式と行為である。この
世は物質界と現象界であり、それに対して「あの世」は豊かな精神の世界です。浮世では色々実体験できる代わり、ど
うしても物金主義に頼るので神仏や人の心が見えない。

従って目の前にいない相手と何かを話したい場合には、手紙や携帯電話が必要となりますが、それではあの世には届
きません。外人と話すには外国語が必要なように、異次元世界と通信出来るのは一定の祭式が要件となります。其れ
は例えば血筋と暦・方位でなければ通じない。

よって古来、浮世から霊界の亡者に対して、彼の命日に彼のためになる、良い想念を送るため、一定の方式によって
その想念の代物として供物という物質を奉げて弔って来た。或いは逆の暦と方位に対して生なま物を清めた上で奉り、
魂の蘇りの「迎え」の祭りとして来た。

此のような行為を祭りや行事、もしくは祭式と言い、祭式の違いから葬法(別項参照)・宗教の違いとなります(「現界と
霊界」、及び祭日、祭神を参照)。

祭日・・・・・・・祭りの日。常日頃、毎日神様が働いて人間の暮らしを助けてくれている。よってこの日だけは人間が
神様を祭って唄い慰めたり踊って奉仕しようとするのが祭日でした。つまり祭日は、人間が仕事の休みを取って昼寝や
バカンスに励む日ではなかった。

少なくとも祭日は神霊の誕生日や命日を弔い、或いは祝う事であり、或いは新たなエネルギーを戴く日の事である。従
って暦・方位には厳格である必要が有った。だからもし改暦があった場合は、元の日を確認できるようにリセット(置き
直し)しなければ抹殺した事と同じです。其処で改暦の弊害を避ける手段として鳥居や参道の方位で暦を示して来た。

例えば明治政府は神社を合祀の上、行政指導で新旧暦を一ヶ月ズラし、或いは方位を確認せずに数字だけスライドさ
せてしまった。更に現代では人間側の都合で神仏の縁日を勝手に変更する無礼が目立つので問題である。本物の祭
りをニセ祭りにしては人々の心を白けさせるなど深刻な問題を残します。

其処で参道や鳥居の方角から元の祭日を確定する必要がある。しかし今は其れを知らない人が殆どであり、しかも更
に主神のない、偽の祝祭日やイベントを乱発して銭祭りをするので此れも実に迷惑です。また無意味な祝祭日を増や
し続ける国会は迷惑な存在ですが、戦いの日を増やした訳ではないので、一応は「平和ボケ日本」で済んでいる。

さて祭日とは神々の命日、もしくは天地の交流日であり、例えば雨乞いの祭りでは天から雨などのエネルギーを得る祝
いの縁日でした。だから其れを土日等の曜日でやっても意味はない。方位無視で天文とミス・マッチした数字式のカレ
ンダーでやっても無意味である。其の点で昔から祭日は方位に裏打ちされた和暦の当日・吉日に行って来た。

其の方位を暦に重ね、鳥居や参道に重ねて古来示して来ました。だから其の位置を今の人が勝手に変更してはなら
ず、祭日もまた勝手に変えては無意味であるのみならず神々に対して無礼となる。尤も今は大多数の人が祭日は仕事
の休日と心得ているため国会でも祭日休日を粗製乱造して得票稼ぎをして来た。

また、国民の側も休日はレジャーかバカンスに出歩くのが当たり前と勘違いしている以上、これ以上言っても無駄であ
ろうが、祭日は聖日であり、其れは祭りに参加して参道を其の日の方位に往来する事(行事)であった。

祭神・・・・・・・神社に祭られている神。何れも特定の神名で示されているが、多くは記紀などに登場する神々である。
祭りの要件は此のご祭神と祭日(命日、または逆の時期)、及び縁の場(神社の位置)と依り代である。此の4点が曖
昧では如何に盛大な祭りをしても意味はないのだが、最近は例祭を土日に変更する所が多くなった。

此れは人の都合にご祭神を従わせると言う逆さ事である。

祭政一致・・・・・・・古の日本では戦争ではなくて祭り事を国の基本とし、このため祭り事を政と書いた。政は「父を
正す」と書く。つまり父祖の血筋を正しく捉え、しかも正確な暦日を測定して祭る事でした。因みに家とはと同類の字
であり、塚の上に子孫が住んで先祖を祭る目的の場でした。

従って先祖祭りは系譜に則って資格を正し、また先祖と同じ所に住んで定住し、其処から定点観測により、太陽の日影
を観測して神の縁日の暦を正す事が前提でした。従って祭主は、そうした天人地の関係法則、即ち道理を多数の人に
も示す事になった。こうした一貫した政治を祭政一致と言う。

此の為、日本の祭り事において天皇家は世界に比類ない歴史を刻み、2000年と言う不滅の皇統を築いた。これは人
類が誇るべき文化遺産である。また同類の言葉に政教一致と言うのがある。此れは世界各国が今も国の理想としてい
る政策であるが、ただ其れは先祖祭りではなくて、特定の宗教を国教としたものです。

具体的な先祖ではなくて抽象的な神を拵えて一神教的独裁的な政策を推し進めるものとなった。従って其の反動として
逆の祭政分離、政教分離と言う方式も出た。此れは、多民族の国で多宗教を纏める妥協の便法として採られる方策で
あり、日本のような所で採用したのは欺瞞でした。

特に和国と古代シナでは、古来天子が「正しい暦を分かち」、それで祭り事をして来た。「分かつ」とは公布する事とも理
解できるが、其の前に「天地を等しく分割する」事であった。所が渡来人が増えて以後の日本では、正しい日暦を排除
して寧ろ外来の闇の方式(仏教など)を優れたものと誤認して神や先祖を否定・排除した。

よって日本では地理・風土に不一致の不正な暦法が蔓延し、しかも政教分離とした結果として天も人民をも公平に分か
つ事もなく、曖昧かつ不公平にしたり、道理のない矛盾と不正な政治が横行して社会を混乱させ、暗くしているのです
(次項参照)。

祭政分離・・・・・・・宗教は目に見えない世界に人が相対する行為なので凡人には「理解の外」であり難しくて分か
らない。よって見えるものから仕切るのが権力者にとって一番手っ取り早い。其れが祭政分離政策である。要するに無
知な権力者が此れ(天上)の事を除外して、天下の「目に見える物」だけを支配する目的で使う道具である。

具体的には多数決の原理とか民主化と言うが、要するに今のドブ板式の選挙活動が祭政分離である。諸外国のような
多民族国家には色んな人種と宗教が混在する。其れでは手っ取り早く支配出来ないために先ず民主化とグローバル
化などの言葉を使って1つに纏めようとするが、其の為には天よりも天下だけを問題にする手法を採る。

従って合議制と言っても衆愚政治となる。衆愚となるのを避けるためには宗教関係については天上の事として支配も
関与も徴税もせず治外法権とすれば良い。だが日本では祭政分離と言いながら、税金も票も宗教関係から取ろうとす
るし、宗教に立ち入って支配を強めようとしているのが現状なので祭政分離と言っても実際上は嘘である。

次に、祭政分離を「政教分離」とも言うが、日本では此れが先進国の仲間入りの要件であると刷り込まれたまま思考停
止している人が多いので弊害が強い。誤解しているのは、「祭り事」と言う言葉はあっても、多くの人が祭りの本質を知
らないからであり、それでは神を知らない人が神を捕まえられないように、問題がなくならない。

或いは古来、祭りから離れた政治が自滅して来た歴史さえ知らないのでは話にならない。古今東西、祭政一致が国の
基本もしくは理想でした。こうした歴史の事実さえ知らずに否定しては、譬えどんなに立派な理念・ビジョンを唱えても何
にもならないのだ。

特に難儀な点は、日本の政事家やインテリたちが「祭政分離は進歩した政治理念」と観念的に美化し信奉してあらゆる
場で宣伝活動をして来た事である。確かに、日本が戦前まで皇国史観によって強大な軍事国家を仕立て上げた事は
問題だった。

其れに脅威を感じたGHQが戦後日本解体の基本政策として神社を解体して「政教分離」を押し付け、また日本人自身
も戦前・戦中の精神主義の反動として自由とか権利を夢見て求めた。その結果として極端なモノカネ主義にもなった
為、外国からはエコノミックアニマルとかセックスアニマルと蔑視されている。

何れにせよ自由と権利と物質的な豊かさは手に入れたものの当初の夢が錯覚であり幻想であった事は、今になって判
明した。米国では日本に対する戦後処理の成功(政教分離)例を今またイラクにまで適用しようとしている。だから当然
反発を買い失敗した。

米流の民主主義を「正義」として押し付ける当の米国自身、大統領の就任時には国民に対してではなく、今でも聖書に
宣誓するのだから「政教分離」はマヤカシの論理と分かろう。つまり民主主義とはデモクラシーと言う愚者の宗教であ
る。もしくはブッシュ程度の支配者の使う道具である。

だが戦後のインテリや大多数の日本人は「宗教は悪だ」、と刷り込まれたまま、これを受け入れ、或いは「宗教は妥協
を許さないものであるから、妥協の産物である政治とは元々相容れない」と見てしまった。特に宗教団体である筈の創
価学会までが政治の世界に進出して、日本一の圧力団体として君臨した。

従って神社祭祀や靖国参拝に反対の総本家なのですから自己矛盾である。こうした道理のない屁理屈が学理や常識
として横行すれば、政治も国民の常識も混乱するだけとなる。誤解の弊害については、戦後日本の今を見れば此処で
述べるまでもなかろうが、例えば国会中継を子供に見せられるだろうか。

見せられないとすれば「政教分離」が良いとは言えない。政教分離を美化する輩は神ではなくて金力・人力・武力をバッ
クに物を言う。其れを駆使した自民党は支持率実質2割の力となった。野党は微力すぎて数字も出ない。神を外した政
治では当然こうなります。だから米国のブッシュ程度の大統領でも宣誓では聖書に誓った筈である。

武力をバックにパレスチナ支配を強めたイスラエルはパレスチナのみならず世界中を敵に回した。だからイスラエルは
21世紀中に滅亡するだろう。武力で「世界の嫌われ者」となった米国も、何れは「人も世界も武力では統治できない」事
を身に凍みて味わう立場である。

日本の政党政治も終わりである。国民不在で党利党略に明け暮れ、何ら立派なビジョンや計画も示せず単に彼ら自身
の汚点や失敗を暴露しあって罵声と怒号の飛び交うシーンを見せる。或いは叩き合いの醜態を毎日演じる劇場であ
り、そんな国会なら国民にとって祭政分離(政教分離)の政治は無用ではないか(「政教分離」を参照)。

祭壇・・・・・・・祭りの壇。本来は太陽観測の場から始まるが、これについては古字の字義や「玉串の祭り」で述べ
る。要するに丸い天に対して地には方形の場を設えて遥か彼方から飛来する天体や神霊を迎える場とした。このため
今も水を使う。水は水平儀として水準線を示すために方位採りの基本となる。

或いは三宝と言う方形の白木の盆にミケミキ(御食・神酒)と言う供物を載せて捧げる。ミケミキの容器は何れも丸い天
を表したカワラケ(土器)を使う(天円地方の理)。

祭壇の供物(ニエ)は山海の珍味など生物を供える(この場合は木の葉に載せても良い)。山の幸、野の幸、海の幸を
盛り物として供え、冷酒と生水を添えます。祭りの祭壇とは対照的な位置づけにある鎮魂の仏壇の場合の供物は全く
逆に、生物ではなくてお年寄りが好むような熟撰(煮物)を主としてお茶を添えます。これが黄泉の食べ物である。

其れを漆器など塗り物の容器に入れて供えた。

▲さいち・・・・・・・
▲さいつ・・・・・・・
▲さいて・・・・・・・

祭天・・・・・・・・・天を祭る事。具体的には天文観測作業である。だが其れならば一定の期日に行なう必要があり、定
点からの測天・測地の観測作業をする行為であり、言わば暦法作定の公務であり、其れならば古今東西何れも天子だ
けが行なうものだった。所が以下06/11/11のNHK総合TV「世界遺産」から引用する。

シナのトンパ族は例外的に唯一祭天の祭りを今も続けていると言う。トンパ族がある日に雲南省の麗江山に登った。
空が晴れて良い日和になり、「目出度い、目出度い」と言いながら登る。トンパ族は昔からトンパ文字(別項参照)を使
う。儀式も祭文も此の文字で伝えられて来た。やがて中腹に辿り着いて豚を捧げ祭った。

そしてトンパ族の歴史(由来)から語る長い祭文を約5時間掛けて読み上げた。その後に豚を焼いて食べた(引用以
上)。ただ其れならば「祭天」と言えるものではなくて単に豚を捧げて焼いて共食するハイキングとバーベーキュー大会
であり、もしくは山岳農民の一般的な村祭りのセレモニーに見えた。

▲サイト・・・・・・
▲さいなら・・・・・・・
▲さいに・・・・・・・

▲在日・・・・・・・日本に住む異邦人。苦労した方々もあるが今は優雅な暮らしが保証されている。例えば「2ちゃんねる」
http://news17.2ch.net/test/read.cgi/news2/1097969198/で1 :朝まで名無しさん :04/10/17 08:26:38 ID:Ebiznjbkは、
60万人中43万人を無職認定で、日本人の22倍も生活保護受給率。

生活保護を受ける在日外国人の中で韓国・朝鮮人だけの数字です。このほかに参政権をよこせと言う。(現在国会で
審議中) ちなにみ、国会議員の60%は賛成で可決間近。 と述べている。

▲細胞・・・・・・・人は60兆個の細胞が有ると言われる。そんなにひしめいていては窒息してしまうので、膨大な細胞同
士を繋ぐのが血流である。例えば血のヘモグロビンによって酸素を供給する。其のエネルギーによって細胞の一つ一
つが言わば「一人は皆のために、皆は一人のため」に相互関係で活動しています。

サイボーグ・・・・・・・サイボーグとは石森章太郎氏の漫画から知られた言葉で「人間工学+生物」からとった造語
で「改造人間」を意味する。其の漫画が今や現実化している。人体に電極を入れて脳波を見る事は既に行われて来た
が、最新の脳科学では更に発展してロボット工学と結んだ。

人は脳波の操作で新たな広がりをバーチャル体験できる。脳コンピューター・インターフェースの場合、2000億の脳細
胞とコンピューターとを直結させて、手足を使わず機械操作をしようとするもの。また電極を人体に入れずにヘルメット
を被るだけで脳波をモニターする方法も5年後に実現予定。

此れにより言葉を使わずコミュニケーションをとる事も可能となる。また逆に、脳感覚に向けて、ロボットから送り込む
研究もある。そうなれば人間のコミュニケーションに革命を齎すと言うのですが・・・脳の側も其の刺激で多少変質して
行く心配もある。これ等は医学の拡大化なのか。病人を気持ちよくして殺すのです。

病気を治せない医学が、病人の気持をサイボーグで変える事よにって気持ちよく死なせる。此れが医学の行き着く所
です。でなければ医学の権益を福祉分野に拡大化するものなのか。或いは家電製品の限界点の中で、電子工業が医
学や福祉の分野に進出して福祉面のロボット化により人件費をカバーする目的であるのか。

目的は兎も角、今のロボットは三歳児にも遠く及ばない。せいぜいの所、障害者の歩行を助ける程度である。もしくは
災害復旧工事現場でロボットを使う程度である。だが其れよりも軍事面で先に利用される危険性がある。例えばロボラ
ットの場合は、リモコン通りにネズミが走る。米軍はサルや人に兵器を付けて戦場に出す研究に力を入れている。

或いはX45戦闘機は無人ロボット操縦であり、或いはロボットで地雷除去し、或いはロボット戦車も開発されている。
さて、記憶は海馬でつくられるとして、人工海馬をつくった。脳天にアイシーチップを埋め込めば、ある種の機能が活発
化すると言う。軍事関係は勝ち負けしかない単純な世界です。だから怖い。

此れについて河合隼雄氏は「確かに可能性が広がるが、人類の幸福になるとは思えない」と言う(大要はNHK総合T
V、06/4/24より引用)。「医療サイボーグ」を参照。

また例えば既にテレビでは人間工学によるサブリミナル効果が実用化されているが、此の手口で世論誘導により操作
が出来る。例えば米国は各国に軍事基地を作り、日本にも司令部を置く計画である。とすれば司令部が攻撃を受けて
も米国本国は安全である。従って今後も安心して戦争を起こす事が出来る。

各国の世論を誘導操作し、次は軍隊をサイボーグ化して一箇所に集めて戦わせる。其れがハルマゲドン(世界最終戦
争)であり黙示録の言う最後の審判である(06/8月の西埜先生の談話を一部引用した)。

歳の神・・・・・・歳の神の「歳」を「賽・才・塞」と書く場もあり、また境神として村外れに祭っている場合もあるが、何れ
が正しく何れが間違いかを即断するのは無用である。普通は石があり、祭りの際には其の石の回りに小さな石を円陣
に並べて行く。とすればストーンサークル(別項を参照)の形であり、極めて起源が古い。

ストーンサークルは太陽暦の原理であり、仏教では薬師と12神将、ヒンズー教ではシバ神へと変化している。東北には
シバのつく地名が多いが、其処には布津主命、即ち香取の神が祭られている。また歳の神を信州辺りでは道祖神とし
て祀っているが、この場合は並び地蔵の形、もしくは四面・六面もしくは男女一対のものになる。

また鎮守の杜とか無名の古社寺には卵のような石が転がっていて、此れを庭石にしたり力石と呼ぶものもあるが、こ
れも実は陽石(男根石)であったと思われる。陽石はストーンサークルの中心に据える立石である。其の回りに女石を幾
つも並べたのがストーンサークルでした。

其れを昔は岩倉とか菊座と言い、インドではヒンズー教がシバ神と言い、破壊の神とか悪魔とも言い、或いはインドラ
大王と呼んだ。此れは先の薬師と12神将(別項参照)の中のインド側の神であり、インドでは地元の神である。しかし新
興宗教は決まって旧くからの在来神を否定するものである。

新たな神を設定して信仰させる為には古い神を悪魔として否定し排除しなければならないのです。しかし否定せずに守
って来たのが「歳の神」として残った。歳とは年であり、暦時を司る歳神である。よって正月にはこの神を祭る為に村外
れまで迎えに行ったり門松を立てた。村境からは盗賊や疫病も入って来ます。其れを歳の神が塞いでくれた。

よって古来、塞の神とか境の神として祭って来た(「岩倉」、「クラ」、「薬師と12神将」を参照)。特に境の意味は古い。此
れは領地の境と言う現世利益の意味の外に、霊界と現界(この世)との接点に於ける送りと迎えと言う境界儀礼があっ
た場であるとも見られる。

また古くからの神の元には街からも村からも山からでも川からでも、何処からでも人々が参集した。従って特定の領主
が支配する中心部に門前町を取り込んだケースもあるが、其れ以外はどの村にも属さず、辻として残った所とか山の
頂上として残った。中でも賽の神は村外れの辻に残ったケースである。

西方浄土・・・・・・・・西方極楽とか「浄土は西にある」と言う信仰。従って其のような観念で見るならば、「東方は汚れ
た世界」と解釈できる。厭離穢土、欣求(ゴング)浄土を参照。釈迦は極楽世界について「自分の後ろにある」と答えた
のであって、実際の西の方角としたモノではなかった。

釈迦が東面していれば「後ろ」は西であるが、釈迦は西だと言った訳ではない。自分の後ろとは自分の過去であり先祖
である。其れを西から日本に流れ着いた渡来人たちは自分たちの故郷を懐かしんで西方を拝み、阿弥陀仏の住む極
楽世界とし、西方十万億土とし、西天とするようになった。

彼らにとっては其れで良いのだが、其れを日本人まで真似るのは良くない。その様な論理で見れば、東方の日本は穢
れた世界と見下す事になる。其れが果たして正しいのだろうか。日本に対する西方に何があろう。釈迦の説いた西方
はアフリカ大陸である。

日本へ帰化した渡来人たちの故郷は日本の西であるが、其の先には砂漠やアフガニスタンやイランがあるだけだ。此
処は戦乱の地であり、此の世の地獄であって、決して極楽とは言えないだろう。言葉や文字があっても、現実には存在
しないものが多い。世界平和や平等と言った観念も西方浄土と同様、眉唾の概念である。

●さう

サウジアラビア・・・・・・・・月のエネルギーである石油大国であるため豊かでゆったり暮らせる国。サウジ王(今はア
ブドラ国王)の国。首都はリヤド。イスラム教の聖地・メッカのある国。祭政一致の政治を大切に守る国。中東一の面積
を持つ国。此の国では石油を「神の恵み」と呼ぶ。ただ裕福だけではなくて、反面には戦う役割も有る。

此処には世界の原油の埋蔵量の1/4が眠っている。石油の販売代金は全て国庫に入るので、原油高騰のお陰で国民
は無税の上、教育、医療、住宅も無料である。国王は国民に金を与えるだけであり、他の諸国の様に国民から税金を
取るような事はしない。

ただ今の悩みは若者たちが働かない事である。人口の60%が20代の若者なので、今後人口増加となれば譬えもっと
原油が高くなっても人口増に追いつけず、国庫金では足らなくなると心配される。石油の採掘量に限界も有ります。だ
が国内で働いているのは公務員と会社の役員だけであり、其れ以外は外国人労働者である。

彼らはサウジ国民の1/5の給料で働いている。其れに対して同国の若者は働かず遊んでいるかゲリラに走る。その結
果、例えば9.11NY同時多発事件の容疑者・オサマ・ビンラディンなど、イスラム・ゲリラ(アルカイーダなど)の半数以上
をサウジアラビアから輩出して来た。其処でコーランの一節の例えばジハード(聖戦)の解釈について悩み始めた。

しかし其の国を守ろうとするのは何処の国でも正義であり、自衛の聖戦である。其れに対して、米国であろうとイスラエ
ルであろうと、侵略して来る国があれば、如何に「民主化」の看板を掛けて来ても敵であるからジハードで戦う外はない
(07/1/9のNHK総合TV「クローズアップ」より大半を引用)。

●さえ
●さお

●さか・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 以下次ページへ  ■▲◆★








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坂〜沢
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