http://hijiri.tamajiri.com       「日知り事典」 page202.html(未定稿)


   日知り事典    雇用〜魂魄

トップへ
トップへ
戻る
戻る

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
こよ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●■▲◆★▲◆★
雇用・・・・・・・

雇用保険・・・・・・・1948年に失業保険が出来て戦後の日本社会に大いに貢献した。1958年からは炭鉱離職者の
ために住宅を建てた。1961年からは雇用促進住宅を建て続けて140000戸にも達し、遂に9500億円も使ってしまった
が、其の住宅には役人が只で入っていた。のみならず保険料を使ってレクリェーション施設や技能訓練施設を作った。

1975年からは勤労者福祉施設と言う名のレジャー施設や温泉施設を造り、1990年代には専門学校や大学校を作っ
た。能力開発計画とか「私の仕事館」も造った。失業者のためではなくて自分たちの天下りの仕組みを作ったのです。

お役人は雇用保険の名の下に目的外のものに対して保険の資金を注ぎ込んで不要不急の箱物を造り、放漫経営・底
なしの無駄遣いをして保険料をアップして来た。スパウザ小田原を450億円を掛けて建てたが此れも失敗し、また1800
億円を掛けてアビリティと言う施設を建設したが、余り使わないとして06/3月末に廃止する。

スパウザ小田原などは結局、4416億円も掛けて126億円で投げ売り(叩き売り)した。民間で上と同じ事(預かり金の流
用)をしたら犯罪者である。だが失敗し続けても彼らは一度も謝った事がない。責任も取らずにチャント退職金を貰って
逃げて来た。此処は社会保険庁と共にインチキ官庁である。

失業保険や雇用保険は任意加入ではなくて問答無用の強制加入させられるものです。失業率が上がれば給付額を増
やす役目の保険です。アルバイト(天下り事業)に手を出さず原則に戻すべきだ(06/3/30MBSTVより引用)。「労災保
険」も参照。


(コヨミ)・・・・・・・文献史学では「日本には其れまで暦がなく、欽明天皇や持統天皇の時にシナの暦法を採用し
た」との解説を繰り返している。其れが学問としては正しい姿勢であるとも言えるが、果たして其れが事実かどうかを疑
って見る必要もある。と言うのは先ず、人が一定の社会生活をする場合は何らかの約束を交わす。

社会の中では祭りも行われて来た。また記紀には神武天皇が倭に皇居を造ったが、其の日付と干支を付けて書き残し
ている。其れに対して史記などは歴史文学的に色々書き綴っているが、年号が入っている箇所を散見する程度であ
り、聖書に至っては番号だけだ。此れでは帝記や聖書とは言っても日本の記紀より数段格が落ちる。

しかし其れでも学問的に日本では「当時まだ暦法がなかった」とすれば、他人との約束も、祭りの期日も、記紀の月日
も決められない。従って納税もなく、国も存在できなかった事になる。其のような「暦法不在」の論理の無理を承知で、
敢えて文献学から「なかった」と決め付けるのは如何かと思う。

そうした輩が其れを学問と思い込んでいても、其れは学問ではなくて、何らかのイデオロギーに洗脳され、もしくは汚染
された観念による原文化・事実抹殺行為に他ならない。ですから今の日本で暦と言えばカレンダー(別項参照)と思わ
れていて方位とは無関係だと定義されてしまう。

或いは暦法と言えば閏の採り方の違いを数字で云々するが何れも根本的な誤解である。暦の前提は第一に天文であ
り、暦も天文も其の前提は方位である。暦の第一は方位であって、数字はあってもなくても良いのです。其の数字だけ
を弄くって今のカオスにしています。


さてコヨミには「ヒヨミ、月読み、星ヨミ」の別があり、此れらを纏めて「コヨミ」と言った(西埜説)。
この内、月ヨミ星ヨミの「読み」とは夜間に星月を観測して暦を作った事から、そうした大陸の諸国を漢字では「黄泉の
国」としたため今の誤解を生んでいる。次に古の日暦は方位暦であり、決して今のような数表ではなかった。

例えば家を軸として、四季に巡る日の出入りの位置を各方位に確認する装置が東屋(別項参照)であり其れを標した
のが暦でした。数字ではなくて道や岩や山を目印にした訳です。

また例えば古暦は、四季によって異なる太陽の位置を杉紋や御幣の形で立体的に示し、或いは平面上で方位を示す
円暦としてストーンサークル、或いは神鏡に、そして曼荼羅として各種の仏尊や紋様の形で示していた。その外、江戸
時代までは茶碗の周りに暦を描いた例もある。

そうした太陽の円暦に従って歳時・行事を綴ったのが「祭事記」であり、それに対して月読みの暦は月形を見て知る「農
事暦」でした。また星読みの暦は言わば「軍事暦・海族暦」でした。其の点、現代日本で採用しているカレンダーは、太
陽暦と称しているものの、方形の紙面に数字を並べたもの(夜見のカレンダー)です。

此れはカトリック式の「軍事暦」そのものですから太陽暦と言うのはインチキです。
    
御利益信心・・・・・寺社に詣でる善男善女の願い、所謂「御利益(ごりやく)信心」には家内安全、交通安全、大漁
祈願、雨乞い、豊作祈願、子授け祈願・・・・など色々無数に有ります。其れを叶えたい一心からお百度石を回るような
行為が絶えない。でも神仏は実は其れを嫌う。神仏ならその人の状況から想念までもお見通しです。

その事さえ信じられずに其の人が願掛けをする執念を神々は先ず嫌う。ですから「御利益信心」による祈願は寧ろ逆
効果となる。其れよりも、「家族安穏」など、日々の感謝報告の形で参拝するほうが無難です。また願い事があれば有
名観光寺社よりは寧ろ、自分の先祖にお願いするのが筋であり、効果も大きい。

個人にとっては有名社寺の一般的で限定的な神仏よりも個別の先祖の方が万能なのです(「円系図」を参照)。

五稜郭・・・・・函館・五稜郭。日本の城郭としては例外的に星型(ペンタグラムを参照)の城郭である。ペリー来航に
対して函館に造られた。其の設計に際してフランス人から西洋の星型の図面を手に入れた。カナダには既に砲撃に対
抗する城としてハリファックス城が出来ていた。

ただ幕府には資金が乏しく、星型の形の一部を削って安政4年に着工し、元治元(1864)年6/15に完成したもの。ただ
その間に慶応四年に幕府は崩壊していた。68年には其処へ海軍奉行だった榎本武揚が艦隊を率いて入って来て蝦夷
地に共和国を造ろうとした。

だが土方歳三が戦死、M2年には函館戦争となり、M2/5月に降伏し、奉行所も出来てから7年で取り壊された。其の跡
地に今はH22年に奉行所が再建された(以上の大要は06/6/15の読売テレビ「今日は何の日」より引用)。

五輪(オリンピック)・・・・・オリンピックについては「オリンピック」や「スポーツ」で記したので、此処では自分の体力を
競うだけで、余り社会的貢献度のないオリンピックではなく、例えばノーベル賞など、もっと知力を競う「省エネ」「環境」
「福祉」「ボランティア」などの貢献オリンピックを提案したい。体力だけを競うなどは人類として恥ずべきだ。

体力だけなら人間の選手よりも先ず馬や牛に金メダルを与えるべきではないか。尚、「省エネ」五輪のアイディアは毎
日新聞04/8/25(邦)記事から借用した。また04/7、アテネで45回目の「数学五輪」があり、85ヶ国から5000人
が参加した中で、日本は6人が参加して2人が金メダル、4人が銀メダルを獲得した(04/8/28毎日)。

五輪塔・・・・・・・オリンピックの塔ではなくて、多段式の塔型の墓石の事。先ず上から宝珠形の空輪、次は其れを
受ける形の風輪、その下に笠型で反りのある火輪、次は水玉を象った水輪、そして一番下の方形石を地輪と呼ぶ。こ
の一連の形は、平安時代、真言宗豊山派の覚鑁(バン)上人の教えで立て始めたと言われる。

其処に刻まれる梵字は、上から「キャ・カ・ラ・バ・ア」と読み、五行思想の五大、即ち「空・風・火・水・地」を意味すると同
時に、大日如来のマントラ「アビラウンケン・ソワカ」の逆さ読みにも通じる。

なので此れを日の下で唱和すれば、大日如来に祈るのではなくて、寧ろ、先祖がこの場に蘇える事も可能と見たもの、
つまり「大日の如く先祖の御霊が示現し給う場」である。そして此の場は、別項の「五行」が平面的な空間の摂理を説い
た理法であるのに対して、この五輪塔は立体的な空間を具象したものである。「多宝塔」を参照。

其の縦横の結びの場に先祖を結び、この世とあの世との接点として神仏一体の祈りの場としたもの。よって五輪塔が
立つ場は、人間界から仏界に近づいた先祖の拠所であり、其の目安として命日から五十年以上経った複数の先祖の
納骨の場とされている。因みに、古い墓地には江戸時代の一石五輪塔と言う墓石が多かった。

此れは、一本の角柱に卒塔婆のように刻みを入れたものである。単純な形なので壊れにくかったが、当時市販のもの
なので故人の俗名・戒名などは入っていない。

ゴルゴダの丘・・・・・・イエスが磔刑された場所。ゴルゴダとはヘブライ語で「頭蓋骨」を意味する。小高い丘の刑場
だったが今はギリシャ正教の聖堂として聖墳墓(マルテュリオン)教会がある。外にもカトリック教が管理するアナタシス
(復活聖堂)に分かれ、或いはエチオピア教会やコプト派などが管理する領域がある。

一方、プロテスタントのイエスの墓(園の墓)が別の場所にある。因みにイエスの墓なら日本にも青森県にある。

・・・・・・「これ」「の」「ゆく」「シ」と読む。之は「足跡の形」と解釈されているが誤解である。先ず亠(鍋蓋)は、地平線
に柱を立てて祭の場とした字(「五行」を参照)であり、其れを移動する意味の字である。従って「遷す」と「行く」、其れに
「道」「進む」の意味にもなる。

「之」はつまり「しんにゅう」の略字であり、「ひく」を意味する廴(えんにゅう)などに通じる字だった。前者では例えば辺込
辷迅辻迂迄近迎辿返述迫逆送退追逃迷迴逐通連逸週逎逍進逮逞逢運過逵遇遂達遅道遍遊遥
遠遣遡遭遜適遺遵選遼還遲遽邊・・・等が有る。何れも行動や範囲を示す漢字に組み込まれている。

転び・・・・・・鳥居は垂直に立ってはいない。必ず柱一本当たり2〜3°、天の中心に対して5〜6°(二本で)傾斜して
いる事をコロヒ゛と言う。言わば「五六比」である(「勾配」を参照)。コロビの外に「半転び」と言う場合がある。此れは、
柱頂(頭)から見下して柱元が半径だけズレた事を言う。

その外、「四方転び」と言う場合は、イスの四脚が四方に広がって下に向かう事である。

転ぶ・・・・・・「老化は足から」と言われる。転び易くなるので其の心配から「転ばぬ先の杖」を持ち歩く。転倒した結
果、ベットに寝込むようになり、原因は転倒事故だと人に言う。しかし転倒するほど弱っていた訳である。つまり転んだ
のが原因ではなくて、老化とか体力の衰弱が原因であろう。

そうならないように何とか予防できないかと人は考える。でも老人が家の中にいれば一日300歩くらいしか歩かない。
この様に運動不足では弱って来る。或いは数種もの薬を飲み続けている場合は転倒事故が多いと言うデータがある。
副作用で転ばせるのです。

でも老人たちは転ぶまいと無理に頑張る。しかし無理せず、寧ろ上手に楽しく転んだほうが怪我しないものです。其れ
には柔道や拳法の受身を習うが良い。此れは実に簡単なので一日一回づつでも楽しみながら転げると良いでしょう。

コロボックル・・・・・・・「蕗の下の人」と言う意味のアイヌの伝説の一つ。アイヌが北海道に住み着く以前の、石器時
代から北海道に土着していた人種である。北海道のフキは大きくて、高さが1m以上になるが、それにしてもその下ほ
どの背丈であれば体長が80cm〜1mとなる。

確かに真空管よりトランジスターの方が性能が良いように、人の能力も小型ほど高性能である。とすれば「サルがより
大きな人類に進化した」と言う進化論とは別の真実が有った事になる。他に「土蜘蛛」、「フロレス島人」を参照。

コロンビア人は従兄弟・・・・・コロンビア西部、チョコ州に暮らす先住民族に「エムベラ」がある。エムベラとは「考え
る人」と言う意味だ。そして彼らは、「日本人は我々のいとこだ」と言い伝えて来た。先祖が東アジアから太平洋の島を
経てこの地に来た。そしてエムベラなど五部族は16c初め10万人居た。

だがスペイン人がこの地に来て、キリスト教を押し付けたのに耐え続けたので「石の人々」と呼ばれる部族もいた。調査
に来る白人に彼らは彼らの言語や文化を教えず、改宗ではなく集団自殺や殺される道を選んだ結果、今は5万人に減
ってしまった(バルタサル・メチャ氏)。

コロンブスの航海・・・・・・ポルトガルを拠点に航海を重ねていたコロンブスは、トスカネリの地球・球体説を信じ、
西回りでのアジア(インド、中国)到達を計画。スペインのイサベル女王が支援に応じた。3隻、約100人の第一回航海
は1492年夏から93年春。現サンサルバドル島に到達後、キューバ、エスパニョラ島を経て栄光の帰国。

同島には約40人が残留したが、原住民との衝突や疫病のため全滅した。93年秋からの第二回は植民を目的に17隻、
1500人の大船団。3年近くエスパニョラ島を開拓し、キューバ南岸からジャマイカへ。98年春からの第3回は南寄り航路
でオリノコ河口(現ベネズエラ)に上陸。

1502年春からの第四回では中米(現ホンジェラス-パナマ)を回り、難破しながらも帰国。本人は死ぬまで、西回りでア
ジアに4往復したと信じていた。因みに「コロンブス」は英語表記を日本風に発音したもので、イタリアではコロンボ、スペ
インではコロン、バルセロナ周辺ではクロムになる(06/3/30朝日記事から全文を引用)。

また、現地には昔から現地人がいたのだから彼が新大陸を「発見」したのではない。そんな間違った西洋史観を植えつ
けた戦後日本の教育も間違いだった(「磁北」「コンパス」「鄭和」を参照)。

・・・・・・・昔は縦に┻口、今は二二口と縦に並べて言として形声文字としている為に、此の意味をトンマナ解説に
終始して正しく説明できていない。原因は┻を鍋蓋(別項参照)とした為である。鍋蓋の下の鍋の中で口が聞けるの
か。鍋に口穴を開ければ言葉が生まれるのか。説明に窮してしまうからである。

欣求(ゴング)浄土・・・・・・心から喜んで浄土に往生する事を願い求める事。真心から菩提を求める事。欣求浄土と
対をなす熟語に厭離(オンリ)穢土がある。ただ欣求浄土と西方浄土(別項参照)とはやや違う。

権現・・・・・・・比叡山の日枝山王権現や日光の東照大権現として知られる。一般には、佛が、やがて祭りの場に神
としてごく一瞬だけ顕現する事と認識されている。だが実は故人となった先祖が神となって顕現する事である。

つまり日本の荒神様だったが、仏教渡来によって其れまでの神々も神仏習合時代となったために寺の言葉(機能・位
置づけ)として唐風式称号として権現が使われた。だがこうした称号は明治に禁止された(「アラ玉」、または「本地垂迹
説」、及び「明神」を参照)。

序でながら「権」の意味について言えば、此れは絶対的なものではなくて仮の姿を意味する。つまり顕現するのは短時
間であって、絶対的・恒常的な権威や権力と言う存在も有り得ない。権限の外に権利や権勢と言う場合も同様である。
絶対的な存在ではないものにまで今はこうした熟語が濫用されているので誤解の元となっている。

例えば裸の王様に対して実際には存在しない衣装を纏わせ、或いは、さも煌びやかで有るかのように装ったり、表現し
たり形容する場合に「権」の字を多用すれば実態をごまかし、真実を装う言葉となるので要注意である。

コンクリート・・・・・・・昔は半永久だと言われていたが、今は神話となった。阪神大震災で瓦礫の山となったからだ。
だいたい日本の気候風土にコンクリートは馴染まない。寒さで水分が凍結してコンクリート表面を序々に割って行くし、
酸性土壌であ上、今は更に酸性雨のためにヨダレと言う現象が出て劣化が進む。

其の上、海砂の利用が一般的となり、しんもシャブコンが多くなった。だから10年で表面が荒れて来て、20年では破損
して来る。以下、「GaiaMail06-v54」から引用する。従来のコンクリートは60年の耐久性をもつと言われて来た。しかし
近年、空気の汚染により酸性雨の影響が騒がれています。

20年前には10年で1mm侵食されると言われて来ましたが、10年で2〜3mmの侵食があるのが現状です。コンクリート
の劣化防止には、中性化させない事が大切です。コンクリートは圧縮には強いのですが、引張力に弱いと言う面が有り
ます。其れを補う為に鉄筋を入れる。

そうすれば両者の熱による膨張率もほぼ同じなので、強度も寿命も長くなる。所が中性化が進むとコンクリートは重く、
緻密になります。コンクリートは強アルカリ性ですから、鉄筋のサビを防いでいるが、此れが中和され、中性化すれば
錆びてしまう。錆びた鉄筋は膨張してコンクリートを爆裂させて行く。

其処に水が浸み込んで行って凍結して更に破壊(クラック)する。其れを防止するためコンクリートの厚みを大きくする
事を「カブリ厚」としたり、表面を防水処理するのですが、其の防水工事をしても、保証期間は数年から10年程度です。
例えば鉄筋コンクリートは此れまで永久構造物としていて、造ったら最後、ほったらかしだった。

メンテナンスなし。その結果、米国のサンフランシスコ大地震では破損箇所が70万件に上った。コンクリートは「永久構
造物」ではなかった。なので今、忍び寄る老朽化の危機に直面して全国の自治体は頭を痛めている(「都市インフラの
老朽化」を参照)。

金剛組・・・・・・・・・宮大工。寺社建築専門の建築会社。以下、08/1/28のNHK教育TVなどから引用する。1400年
の歴史を持つ世界一の長寿企業。伝統を守る価値観もまた世界に誇れるものである。この会社は今は堺市にあって
今も会社には聖徳太子を祭っている。

四天王寺は此れまでに四度焼失した。南大門を建て替えるだけで延べ8600人の大工を必要とした事が金剛組の古記
録に残っている。しかし明治以後苦難の歴史だった。38世よしえは初代女棟梁となって復興した。また39世は婿養子と
なった。難波には「婿は選べるが息子は選べない」とする婿養子の伝統がある。

道楽息子が会社を潰す教訓からである。だが鉄筋コンクリート建築やマンション建設など、多角化が祟って2006/9月に
40億円の負債を抱えて破産し、以後、経営陣を入れ替えて再建した。

次は、http://www.kongogumi.co.jp/enkaku.html「金剛組」から引用。578聖徳太子の命を受けて、百済の国から三人の
工匠が日本に招かれた。三人の工匠は仏への帰依の心をこめ、そのもてる技(わざ)のすべてをもって、四天王像をま
つる寺院創建のために尽くしました。

593(推古元年)の創建時、四天王寺は当初計画にあった廻廊と講堂の建築を残していました。これらの完成をみたの
が八世紀の初め、創建時から百数十年を経た奈良時代前期のことでした。その時すでに初代金剛重光はこの世には
なく、その技術と心は二代目から三代目へと代を重ね、後世に受け継がれた。

今日まで連綿と続く「手斧始式」の出仕装束や烏帽子に、はるか奈良・飛鳥をみるのみです(歳時記の1/11を参照)。
607(推古15年)、四天王寺に遅れること14年。同じく聖徳太子の命により創建された法隆寺もまた、我が国が世界に
誇る木造建築の最高峰の一つ。

これは、金剛重光とともに百済より渡来した二名の工匠たち(うち一名は山城の国に赴任)の手によるものと言われて
います。四天王寺と法隆寺。日本建築を代表する二大歴史遺産を築いた工法は、今もなお金剛組の<組み上げ工法
>の中に脈々と生きています。
 
1576年、織田信長の手によって伽藍が全焼。1614年には大阪冬の陣で再び焼け土と化す。また茨城県水戸市にある
偕楽園は、金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三大公園の一つ。1842年(天保十三年)、水戸藩主徳川斉昭 
が造園したこの園の一郭に、往時の文人墨客が遊んだ<好文亭>がありました。

数奇屋造の端正な美しさを誇ったこの重要文化財は、昭和の戦火を浴びて焼失。昭和33年復元後、再び火災にあい、
同47年、再度復元されました。金剛組は、宮大工としての優れた技術をかわれこの二度にわたる復元工事に参画して
います。 
 
1868年、江戸時代までは、金剛家は官寺・四天王寺のお抱えの宮大工であり、毎年、定まった禄にあずかっていまし
た。すなわち仕事の有無にかかわらず、お家は安泰だったわけです。しかし明治に入ってこの関係は一変します。 明
治の文明開化が、太平の眠りにあった金剛組に大きな揺さぶりをかけたのです。

まず、1868年(明治元年)に廃仏毀釈の令が出され、後年その余波を受けて四天王寺は寺領を失い、以後、寺運は
衰退の途をたどります。この間めだった工事といえば1903年(明治36年)大鐘楼の建立があった程度。金剛組にとって
もまさに試練の時代でありました。
 
昭和に入っても、金剛組の苦難の道は続きます。まず社の屋台骨を揺さぶる最初の危機は昭和の始め。第37代金剛
治一は、無類の職人気質。今でいうところの営業活動などさらさら念頭になく、金剛組は極度に困窮。第37代はこれを
祖先に詫びて非業の死をとげたのです。

しかし、妻よしえが歴代初の女棟梁として第38代を継ぎ、東西に奔走して難をのがれました。そして折りも折り、昭和9
年、室戸台風のため四天王寺五重の塔が倒壊。金剛組に再建の命が下っています。戦時中は、護国神社や軍神の
造営などの神社関係の仕事はあったものの、寺関係の仕事はぷっつりとたえてしまいました。

そればかりか政府による会社統廃合策で、他社に併合される危機にも見舞われました。このような景況のもと、金剛組
は軍事用の木箱を製造するなどして、辛うじて社の命脈をたもったのです。そして昭和30年、株式会社 金剛組が誕
生。前社長・第39代 金剛利隆は経営の近代化を図り、以後金剛組は広く一般建築をもてがけることとなりました。

第二次世界大戦の戦火、あるいは台風、地震、火災など、昭和に入っても全国各地の社寺は度重なる戦火・火災に見
舞われました。そして戦後これらを復興するにあたり、防火・防災・経済性にすぐれる鉄筋コンクリート工法が脚光をあ
びました。

このような時代の要請をうけて、1955年、弊社はいち早く同工法による社寺建築に着手したのです(右の画像-顕孝
庵本堂)。そして金剛組は鉄筋コンクリート工法でも、日本建築本来の優美さや、木のあたたかみなどを損なわない独
自の工法を開発(社寺建築において最初の鉄筋コンクリート造は1954年・昭和29年の四天王寺鯨鐘楼)。

着々と実績をあげながら、1400年にわたる伝統技術の上に新しい技術を獲得し、大きく成長を遂げました。伝統技術
にだけ固執するのではなく、近代工法も積極的に取り入れました。そしてこの近代工法の導入は金剛組の建築表現の
幅を大きく広げることになりました。

すなわち鉄筋コンクリートや鉄骨の強度と耐久性が、巨大なアーチやのびやかな吹き抜け空間、あるいは シンプルな
直線美や複雑な幾何学模様などの、斬新なデザインと画期的な建築構造を可能にしたのです。現在、金剛組が常時
擁する宮大工の数は約110余名。

最近ではこの伝統技術の奥儀を知りつくした力に加えて、近代建築と伝統工法の融合を図り、いつまでも歴史に残る
社寺仏閣をつくりたいという願う若い力が大きく育っています。これらの人材は、なにものにもかえがたい当社の強味。

金剛組はこれを原動力として、社寺建築はもちろんのこと近代建築においても、''さすが宮大工の建築だ''との評価が
いただけるよう、日本建築の持つ独持の優雅さや格調を尊び、また伝統技術を磨き近代技術を究めながら、新しい日
本建築の歴史を築いてまいる所存です。
 
2006年、GWAの一員として、新生「金剛組」として再出発致しました(以上引用)。
 
▲金剛山(クムガン山を参照)。

★金剛石・・・・・・・金剛砥石などの硬質の原料が金剛石かと言えばそうではなくてダイヤモンドの事。

金剛杖・・・・・・・一間(六尺)、または半間の長さの角棒である。古来日知りが杖を持ち、禰宜は各位のシャク(笏、
コツ、度量衡の定規)、諸侯が爵を持つと言う風に、は山伏が持ち、六尺棒は測量する時に(よぼろ)が持ち歩く定
規でした。

ただ金剛杖の場合は握りの部分を五行の理(キャ・カ・ラ・バ・ア)、即ち「空・風・火・水・地」、つまり卒塔婆の形に刻んだ
杖になっていた。キャ・カ・ラ・バ・アの梵字は五輪塔にも書かれているが、此れを逆に読めば「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」ソ
ワカ、つまり「大日如来」の真言(マントラ)となる。

従って、この杖によって「お遍路」すれば「新しく生まれ変わる」と信じられ、或いはお大師様との「同行二人」になると信
じられて来たもの。

金剛力士(仁王)像・・・・・・・金剛山に住む力士(相撲取り)とか金造物の事ではなくて、無論、寺院の門前に立って
いる木像である。本来は執金剛神(Vajradhara)・仁王と言った。彼らを二天とも言うが、決まって阿吽(アウンを参照)
の形、あ形とウン形の二体で一対の形で山門に置かれる。東大寺の運慶作の像が迫力があるので一番有名である。

運慶は末法思想が流布した鎌倉時代の仏師。仏教に危機が迫った時代に其の復興を賭けて見事な像に仕立てた。其
れまでの一木造りではなく約3000点のパーツを組み上げて一体の巨像とした。此れを寄木造と言う。

人がもし邪心をもって山門を通ろうとすると、必ず一対の仁王が両側から睨みつけて其の心を見破り、上から一喝する
ような形で仕組んで配置した寺院の演出でした。

・・・・・・・・

金胎曼荼羅・・・・・・・・密教で使う曼荼羅で二種一対のもの。金剛界と胎蔵曼荼羅との一対を云う。本来の曼荼羅
は水平面に敷物のように広げて暦盤・方位図として中心部から周囲を見る形のものだったが、今は仏尊が横並びの図
で垂れ下げられたり、吊り式のものに変化した、云わば絵解き・変相図となっている。

ともあれ金剛界は方形で地と方四方を示し、それに対する胎蔵は円形で天、即ち八方の時空を意味し、この二つで両
界曼荼羅と言う。但し方位を無視した上、ぶら下げている事に加えて、今は更に解釈が天地(陽・陰)、即ち円と方形の
意味を逆にとって金剛が精神性、胎蔵は肉体、つまり物質性であるとの逆の理解で「絵解き」している。

だから問題(「天円地方の理」を参照)である。曼荼羅を知るなら解説本を読んでは駄目だ。嘘ばかり解説しているから
です。其れよりも京都の東寺や紀州・根来寺の多宝塔の立体曼荼羅を一見すれば良い(クムガン山を参照)。

★渾転(天)・・・・・・古代の天文観測機。シナから渡来して以来、日本でも千年以上使われて来た。今、京都の円光
寺の庭に、石の台が有り、十字の刻みと四つの穴がある。其処に朝廷の陰陽師が来てこの渾転儀を載せて観測した。
今でも保存会がこの当時の事を再現する祭りをしている。つまり、この種の天文学は京都で守られて来た事にもなる。

因みに幕末に伊能忠敬が完成した日本地図は京都が中心となっていて赤く中線(基準線)が入っている。其れは当時
の都が京都であり、先の円光寺で天文観測をしていたからである。

▼昆虫・・・・・・・節足動物。卵生のものが多く、蛹(サナギ)から変態して六足動物となる。主として陸上生物。地球上の
生き物で最も多いのが此の昆虫類である(全動物の3/4)。


魂魄・・・・・・・人は死後、魂が分解してマカルタマとなって魂と魄(ハク)とに分かれる。男性は橙色、女性は白色の
薄い色をした光体として、或いは火の玉として人の目に映る事もある。中でも魂は心であり、天空に向かうが、肉体は
魄となって地下に向かい、または子孫の肉体に留まる。

ただ無分別の間は幽界にさ迷うので、他に災いを及ぼすことも有る。そのため死後の49日までの法要や命日の身内
による弔いが他に霊的障害を及ぼすのを防ぐ事になります。他に「円系図」「滝行」「座禅」「瞑想」「死霊」などを参照。

▼コンパス・・・・・・・昔は指事文字として「V」と書き、此れがローマ字に残った。或いは漢字では虫と書いた。特にコン
パスのある蟲とか羽蟲には虫(別項参照)の字を付けた。

★コンピューター・・・・・・ロゴスとはギリシャ語で言葉・理性・思想・論理を言う。スパイは異教徒のロゴを読み取り、或
いは其の使って通信をする。通信は暗号に変換して使うが、此れは膨大な作業になる。しかし単純な一定の約束事に
従ってする事なら機械が適している。

其の点でコンピューターは電気仕掛でロゴを並べたり並べ替える機械である。よってコンピューターやインターネットは
ロゴ変換・暗号解読器であり、要するに軍事技術である(「星読み」の同項、またはヒジリの「IT関連」、または「電算機」
を参照)。

★コンプライアンス・・・・・・法令順守。

◆こんろ・・・・・






・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 以下、次ページへ ・・・ ・・・ ・・・ ●■▲◆★▲◆★
次は・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
または
トップへ
トップへ
戻る
戻る

パテント・著作権は本会に属します。        「鬼の会」